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2015/01/19

20年前の記憶~阪神・淡路大震災

 1月17日、阪神・淡路大震災から20年が経過した。

 当時私は大学4年生。札幌に住み、1週間後から始まる、30日間の日本一周旅行を心待ちにしていた。
 その朝、前日の夜更かしのせいで寝坊していた私は、朝9時過ぎ、同じバイト先の友人からの電話で目を覚ました。母親が怪我をしたので実家のある宝塚に帰る、ついてはバイトの代打を頼めないか、と言う。あいにく別件が入っており受けられないと答えたうえで、怪我の原因を尋ねた。私はそこではじめて、大阪・神戸が大変になっているという状況を知った。

 テレビが刻々と伝える悲惨な状況を見ながら、私は、自分がぼんやりと旅に出ていてよいものか、真剣に悩んだ。行程では出発から3週間ほど、2月の中旬には関西に到達することになっている。真剣に悩んだ末、私はおそらく人生最後になるであろう長旅を簡単には捨てきれず、予定どおり1月25日に旅に出た。神戸付近を迂回して行程を進めるつもりだった。

 2月15日、私は姫路にいた。ここで1泊し、翌日、福知山方面へ大回りして京都、名古屋へ向かう予定だった。けれども、姫路だけでなく、明石や加古川、龍野に至るまで宿泊施設は満員である。震災復興のために神戸に入った人々が、宿泊施設を求めて周辺に分散しているらしい。
 やむなく私は、阪急神戸線の石橋駅近くに住む高校時代の友人を頼ることにした。彼は快くOKしてくれたが、道路事情が判然としないから、車で迎えに行くことはできないという。

 私はJR山陽本線の電車に乗り、終点の神戸で降りた。この先の東海道本線は、住吉までの間不通となっている。方向不案内の私は、間違ってたどり着いた新開地駅付近で空車のタクシーを拾い、死んだように静かな道を住吉駅へ向かった。JR大阪駅から阪急梅田駅へ大きな荷物を抱えてダッシュし、宝塚線の最終1本前の電車に転がり込んで、友人の待つ石橋駅へたどり着いた。

 翌日、被災地を歩くことになった。私は、物見遊山のように思えて不謹慎だと断ったのだが、「今の神戸をおまえ自身の目で見て勉強してくるべきだ」という友人の強い言葉に、小さなリュックひとつだけを持って電車に乗った。カメラはもちろん、煙草も持たなかった。
 石橋から宝塚へ、そして西宮北口行きの阪急今津線電車に乗る。途中の仁川あたりから、屋根上に青いシートをかけた住宅や、大きく傾いた建物が目立ち始めた。

Photo  大阪と神戸を結ぶ鉄道路線は、いずれも中間が寸断されている。一番西まで向かうのは阪神電車だが、それも御影までである。西宮北口で今津行きの電車に乗り換え、さらに阪神電車に乗って御影駅に降り立った。

 駅前には腕章を巻いた係員が何人も立って、三宮方面への代行バス乗り場への案内をおこなっている。大きな通りに面したバス乗り場には、行列が100m近く伸びているが、全国各地から応援にかけつけたバスが次々と発着し、ものの5分ほどで乗ることができた。関東ナンバーの帝産バスである。

 ほんの半月前には、不慣れな案内と道路の渋滞で大混乱の中にあった代行バスの運転は、時間を経てかなり体制が整ってきている。バスが走る国道43号線は、上を走っていた阪神高速道路の一部が高架橋の根元から倒壊しており、撤去作業の最中であった。そのためかなり渋滞しているが、1車線がバス専用に確保されており、バスの運行はスムースである。およそ20分弱で三宮駅前に到着した。

 三宮駅付近の人の流れは多かったが、この時点で動いている鉄道は地下鉄線と阪神線の元町までの区間だけである。駅前に立つと、途中の階が崩壊してシートで覆われているビルの姿が見えた。テレビで何度も見た風景である。明らかに観光客と思われる男が、ハンディーカメラを回しているのが見えた。

 列車の走らないJR三宮駅を抜けて北側へ出ると、ビルの中へ線路が吸い込まれていく姿が印象的だった阪急三宮駅ビルは、駅部分を残して解体されている。周辺の商店は、大部分の店が休業を余儀なくされているが、損壊をまぬかれた建物や軒先を利用して営業している店もわずかにある。みな価格を引き下げ、「がんばろう!」といった貼り紙を出している。

 中通りへ入ってみると、一見被害のなさそうな住宅に「倒壊の危険性がありますので立入を禁止します」という貼り紙が張られている。無人のはずの住宅の中で、人の影が動くのが見える。おそらく家人なのだろうが、混乱に乗じて空き巣を図る不届きものもあったと聞く。

 三宮駅周辺をくるりと回って国道2号線へ出る。道路上の瓦礫はほぼ撤去され、車道も歩道も完全に確保されている。大きな荷物を抱えて行き来する人の数が多い。完全に焼け落ちてしまった家、大きく崩れた家の姿がしばしば見られ、そのたびに胸が痛む。併走するJR東海道本線の線路上には、身動きの取れなくなった列車が止まったままになっている。

 阪神御影駅近く、避難所になっている国道沿いの公園の前を通ると、若者たちがギターをかき鳴らしながら歌っているのが聞こえた。倒壊した自宅に帰れない住民がまだたくさん避難生活を送る中、復興を願い、自らを奮い立たせるような歌声が、妙に印象に残った。

 あの日、震災から1か月になる神戸を歩いたことについては、未だに、被災地で苦しむ人々に失礼だったのではないか、という気持ちになることがある。逆の立場だったらきっと嫌な気分になったに違いない。
 けれども一方で、この経験は私にとっては貴重なものになった。自然の脅威に対する人工物の脆さ、命の尊さ、前を向く人々の力強さ。わずか半日の風景がいろいろなことを教えてくれた。

 テレビでは、20年を過ぎて、震災から復興した街の姿とともに、震災が歪めてしまったもの、今なお復興の途上にあるものの存在が伝えられた。東日本大震災の被災地の姿を重ね合わせるとき、人や街が元の姿を取り戻すことの難しさはよりいっそう強まって感じられる。

 阪神・淡路大震災から17年後の2012年4月、初めて六甲・摩耶掬星台から神戸の夜景を眺めた。1995年に灯りを失った神戸は、それから17年を経て明るく輝いていた。その光を取り戻すために尽くした人々の努力と、光の影になお潜む暗闇を、私たちは忘れてはいけないのではないかと思う。


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コメント

凄い経験をしたんですね。
今 日本中地震の被害が起こっています。
関東大震災みたいな地震が起こると言われて
久しいです。
明日は我が身・・・と用心しなくては。
災害に会うと人生観が変わると言われていますが、
なるべく来ないで欲しい物です。

投稿: マーチャン | 2015/01/20 11:48

>マーチャンさん
お返事が遅くなりまして申し訳ありません。

災害に遭わないに越したことはありませんが、いつ、どこででも起こる可能性があるということを常に覚えておく必要はあると思います。
東日本大震災もそうですし、今、太平洋側の地域では、30年以内に震度6以上の地震が発生する確率は軒並み7割を超えています。地震の発生を食い止めることはできませんが、被害を最小限に食い止めることはできるかもしれません。かつての被害から学び取れるものはたくさんあるように思います。

投稿: いかさま | 2015/01/24 02:44

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