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2018年4月

2018/04/24

2009年世界の旅【87】イギリス(6) ロンドンの夜三態

 これまでの経過は ⇒こちら。


 ロンドンでは3泊滞在したのだが、それぞれに趣のある夜を過ごした。色系の話はないので念のため。


Pb064120  ロンドンへ着いた最初の夜、非常ベル騒ぎをなんとか収束させて入浴し、さっぱりした後ホテルを出て近隣の散策に向かった。散策というよりは夕食の物色が目的である。
 地下鉄駅のあるオックスフォード・ストリートは、気の早いことに、すでにクリスマスの飾りつけが始まっている。片側1車線の狭い道路だが、その両脇に幅の広い歩道が設置されていて開放感がある。その狭い車道上を、ロンドン名物、のっぽの赤い2階建てバスや黒塗りのロンドンタクシーが頻繁に行き交う。


 その光景を見ているうちに、何か妙に居心地の悪さを感じた。その理由をしばらく考えていて、それが「左側通行」のせいだと気がついた。
 アメリカからベルギーまで約40日の間、車はすべて道路の右側を通行していた。最初の頃は多少どころかかなりの違和感があったはずだが、時間の経過とともにそれが当たり前になり、車に乗せてもらう際にも抵抗なく右側に乗るようになった。その結果、40日ぶりに左側通行の現場に遭遇して戸惑うことになったのである。日本への帰国まであと1週間、間に再び右側通行のフランスを挟むものの、ある意味いいリハビリになるかもしれない。


 ブランドショップから大きな百貨店までさまざまな店が軒を連ねる通りには、「ユニクロ」の姿もある。アルファベットが氾濫するロンドンの街中で見るカタカナは、どことなくユーモラスである。隣には「H&M」も並んで立っている。
 結局私は、ボンド・ストリート駅に併設されているショッピングモールのマクドナルドでハンバーガーとドリンクを買った。ついでに隣の売店で煙草を購入すると、4.4ポンド、約660円である。1年前は1箱800円程度で買った記憶があるが、当時のレートが1ポンド約180円、現在は151円。1年の間に2割近い円高が進行している。


Pb064118  2日目の夜は、量販店視察の後に訪問した取引先の日本人担当の方と夕食をご一緒させていただいた。会社の前から黒塗りのロンドンタクシーに乗り、揺られること10分ほど、中心部からは少し離れたイタリアンレストランへ案内された。土地勘がないからどの辺りなのかはよくわからない。ただ、1時間半ほどの食事を終えた後、チューブの駅まで向かう街並みはとても静かで趣があった。すっかり夜が更けて暗くなった道に、ところどころに立つ街灯の暖かみのある光が落ちている。交通量はそれほど多くなく、静かな街に遠慮するかのように車もゆっくりと行き交っている。


Pb064124  チューブに乗ってオックスフォード・サーカスまで戻り、ホテルまで地上をブラブラと散歩した。ホテルまでのちょうど中間あたりの小路の入口に人だかりができている。覗いてみると、黒人の男性が数個のバケツや洗面器を前にして座っており、ほどなくドラムのスティックを取り出して激しく叩き始めた。見事なドラムスの演奏である。これならば本物のドラムなど必要でないのではないかと思うほど、バケツが表情豊かにさまざまな音を立てる。50人以上も集まった観衆は、みな一様に彼の演奏に釘付けである。10分ほども続いた彼の演奏が終わると、観衆から盛大な拍手が巻き起こった。


 最後の夜、後輩とのウィンザーでの再会の後列車を乗り継いでパディントン駅に舞い戻った。自力で夕食を探さなければならないが、特段当てがあるわけではない。何となく舌が濃い味を求めており、名物の「フィッシュ・アンド・チップス」は論外な気分である。
 そこで私はチューブ・メトロポリタン線に乗って、ピカデリー・サーカスに向かった。前年の体験から、エネルギッシュな繁華街であるピカデリー・サーカスに行けば、たいていのタイプの料理は揃っていることがわかっている。


 1年ぶりに訪れた夜のピカデリー・サーカスは、霧雨模様だというのにバーやレストランはどこもたくさんの客で賑わっていて、陽気な笑い声や音楽が至るところから響いてくる。東京の人ごみがあまり好きではないが、海外という気分の違いもあるのか、このどこかおおらかな雑踏はお気に入りの風景のひとつになっている。
 「濃い味」を求めてしばらく歩き、中華料理にしよう、と決めた。中華料理なら東洋人を含むそこそこの人数の客がいる店ならば、どこでも外れを引かずにすむ気がする。実際これまでに、中華料理で口がひん曲がるほどまずい店に当たった経験はない。


Pb074189 F1000064 
 探しているうちに、8.9ポンドでバイキング食べ放題、という、貧乏性の私にうってつけの店が見つかった。これだけ聞けば怪しげだが、窓越しに店の中を覗いてみると、10組近い客の中に、東洋人風の客の姿を見つけた。私は迷わず「CHINA BUFFET」と書かれたその店に入った。
 この選択は間違っていなかった。飛び抜けてうまいわけではないが、もともとロンドンでの食事に味を求めているわけではない。値段の割には十分な味だし、メニューの数もなかなか豊富である。私はこの旅の中で一番満腹になったのではないかと思うほど大量の料理を平らげ、大満足でピカデリー・サーカスを後にした。


延々と、続く。


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2018/04/16

JR北海道「維持困難線区」は何処へ【4】根室本線(滝川-富良野-新得)

Furano
 石勝線の千歳空港(現在の南千歳)-追分、新夕張-新得が開業したのは1981年10月のことである。このとき、追分-夕張の夕張線のうち、それまで紅葉山と名乗っていた新夕張までの区間が石勝線に編入されて、札幌と帯広・釧路を結ぶ幹線の一部となった。


 根室本線・滝川-新得の凋落はここから始まった。石勝線の開業前、札幌と帯広・釧路を結ぶ特急・急行のメインルートは滝川・富良野経由だった。石勝線開業を機に、特急「おおぞら」の全3往復と、急行「狩勝」4往復のうち2往復が石勝線経由となった。2往復がかろうじて残った滝川経由の「狩勝」も徐々に縮小されて1990年に廃止、快速列車に格下げとなって、この区間から優等列車が消えた。


1991046  それでも、富良野という道内有数の観光地を抱えていたこの区間では、JR発足後、行楽シーズンを中心に「フラノエクスプレス」などの観光列車を運行するなど旅客獲得に向けた努力も続けられている。
 しかし残念ながら営業成績は精彩を欠いている。石勝線開業直前の1980年度、4,944人/km/日だった輸送密度は、石勝線開業後の1985年度には729人となり、2016年度には滝川-富良野が432人、富良野-新得は154人となっている。


 沿線の自治体のうち、赤平市・芦別市は空知総合振興局に属し、岩見沢・札幌への志向性が高い。富良野市と南富良野町は上川総合振興局管内で、旭川との流動が大きいが、観光客も含めて札幌方面への一定の流動もある。ただし、4市町とも人口は減少傾向にあり、特にかつての産炭地である赤平市・芦別市はここ30年で半減している。


 とはいえ、富良野は、富良野線沿線にある美瑛町と合わせて、雄大な北海道の自然を楽しめる観光地として人気が高い。昨今では中国などからの、いわゆるインバウンド客も増加している。私は仕事で富良野・美瑛周辺を行き来することが多かったが、ドライブインやj観光名所、列車内も含め、時期を問わずどうかすると日本人より中国人の方が多いのではないか、と感じることもしばしばだった。


 インバウンド客は「ジャパン・レール・パス」など割引率の高い外国人専用パスを利用する人が多く、JR北海道の収益への効果は微々たるものかもしれないが、滝川-富良野間の根室本線は、札幌・千歳を基点とした旭川方面への周遊ルートに組み込み、観光列車やフィーダーバスなどと組み合わせたニーズの取り込みは図れるのではないかと思う。
 また、札幌-富良野間には高速バスも1日10往復が運転されており、地元住民も含めて一定の流動があることを示している。JR北海道の示すとおり、地域における負担等も含め、鉄道を残していくための協議は進められてしかるべきだと思う。


Dscn1060  一方、富良野-新得間の状況は厳しい。南富良野町の人口は2,500人あまりしかなく、そのほとんどが富良野を指向している。新得は十勝総合振興局管内に属しており、富良野エリアとの日常的な行き来は限定的である。

 2012年9月、私はこの区間を、当時日本最長時間を走る普通列車だった2429Dで走破したことがある。滝川始発時点から1両きりのディーゼルカーの車内を埋め尽くした内外からの観光客は大挙して富良野で下車。その先は十数人の乗客が残るだけになり、しかもその半数は、最長鈍行列車そのものを目的にやって来た「その筋の人」であった。

 ⇒参考記事 滝川発釧路行き・2429Dの旅(2) 富良野→新得


 加えて、2016年秋の台風被害により、東鹿越-新得(厳密には上落合信号場まで)間は線路がいたるところで損壊して不通になっている。復旧には10億5,000万円を要することから、JRは復旧に消極的で、代替も含めた効率的な交通体系が必要だとしている。
 災害が経営の厳しい鉄道の命脈を断つのは今に始まった話ではないが、行き着くところは金の話である。国も道もその素振りは全く見せない。自治体にしたところで、新得町が関心を示すとは思えず、富良野市と南富良野町だけで負担する力はないだろう。


Img_1528  南富良野町の中心にある幾寅駅。高倉健が主演しヒット作となった映画「鉄道員(ぽっぽや)」の舞台になった駅である。
 駅前にロケで使用されたディーゼルカーのカットモデルが鎮座しているが、現在、本物の列車は発着していない。この駅に再びディーゼルカーのエンジン音が響く日が来る可能性は限りなく低い。


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2018/04/12

2009年世界の旅【86】イギリス(5) ウィンザーで旧友との再会

 これまでの経過は ⇒こちら。


 ウィンザー&イートン中央駅の入口で、高校時代の後輩、Kさんが待っていた。高校卒業以来ほぼ完全に没交渉だったのだが、SNSで別の後輩を介してイギリスに住んでいることを知った。これもネット社会の効能である。
 実に18年半ぶりの再会だが、昔の面影をよく残しているので、駅頭で会った時すぐにわかった。イギリス人男性と結婚し、2人の娘の母となった彼女は、まだ1歳にならない下の娘を連れていた。上の子は預けてきたらしい。彼女の案内で、ややすっきりしない曇り空の下をウィンザー城へと向かう。


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 今も週末に国王が保養に訪れるウィンザー城は、まさに駅の目の前。白い石造りの城壁がめぐらされている。観光客に交じって、城壁の門から中へ入ると、芝の敷き詰められた前庭が、アスファルトの道路を伴って緩やかな丘のように広がり、その向こうに丸い塔の姿が見える。城壁に沿って道路を歩きながら下界の町を見下ろすと、黄色や茶色の石でつくられた家や店が雑然と並んでおり、さながら箱庭のようである。


Pb074179  塔の向こう側は城の建物に囲まれた広場になっており、冬が近いというのに青々とした芝生が整然と刈り込まれて広がっている。夏場の好天時だったら寝ころんで昼寝をしたい気分になっただろうと思う。銃剣を捧げ持った衛兵が、グレーのコートを身にまとい、背筋を伸ばして周辺を往復していた。


Pb074185  Kさんのおごりで建物の中に入場し、内部をさらりと見物した後、駅の方へ戻り、「CROOKED HOUSE」と書かれたカフェに入った。白壁を基本に、コーナーや屋根などに施された緑色のアクセントがよく似合っている。よく眺めると、建物がどうやら傾いているようで、マッチの外箱を机の上に置いて、少しだけ指で押したような平行四辺形になっている。床や屋根は道路に対して平行なのだが、入口のある壁が垂直ではなく、奥に向かってほんの少しだけ傾いた、風変わりな構造である。


 カフェでケーキなど食べながら、イギリス流のゆったりとしたティータイムを楽しむ。18年ぶりのKさんと話すネタはいくらでもある。こういう形で時空を超えて久し振りの仲間と会うと、人間の笑顔と声は意外と変わらないものなのだな、ということに気付かされ、時間がゆっくりと逆回転するような気分になった。


 ふと我に返ると、Kさんの隣では、見慣れぬ珍客に驚いたのか、いかにもハーフらしい大きな目を見開いて娘が興奮している。異国で母親として奮闘しているKさんの姿は、高校時代の彼女からは全く想像もつかないが、彼女にしても、おそらくもはや記憶の片隅の程度の印象しか残っていないであろう先輩と、遥か異国の地で、しかも子連れで茶を飲むことになろうとは想像もしていなかったに違いない。



 延々と、続く。


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2018/04/09

JR北海道「維持困難線区」は何処へ【3】札沼線末端区間

 札沼線は、札幌駅の隣、桑園から石狩当別を経て新十津川までを結ぶ路線である。もともとは新十津川から先、留萌本線の石狩沼田までを結んでいたが、1960年代後半からのいわゆる「赤字83線」のひとつとして、1972年に新十津川-石狩沼田間が廃止された。
 私の手元にある「時刻表」1964年8月号を見ると、桑園-石狩沼田を直通する列車が6往復、他に札幌-浦臼2往復、札幌-石狩当別2.5往復、浦臼-石狩沼田1往復が運転されているだけの純然たるローカル路線であった。


 現在の札沼線は、石狩当別の1つ先に新設された北海道医療大学と桑園の間が電化され、札幌口では日中でも20分間隔で電車が発着する都市型路線に変貌した。
 一方、北海道医療大学以遠は非電化で本数も激減し、石狩月形までが7.5往復、浦臼までが6往復。浦臼-新十津川間は2年前から1日わずか1往復の運転となっている。北海道医療大学-新十津川間の輸送密度は66人/km/日(2016年度)。1975年度から40年あまりでおよそ9分の1に減っている。桑園-石狩当別間が同じ期間で3倍以上に増えたのと対照的である。


 以上の状況から、JR北海道が維持困難線区として札沼線の末端区間を指定するのは必然であった。先日公表されたフォローアップ会議の報告書の中でも、この区間は12線区で唯一、「バス転換も視野に」と結論付けられている。
 これより前、2016年秋にはJR北海道から沿線自治体に対してバス転換の打診がすでに行われており、沿線自治体も鉄道存続を模索しつつも厳しい情勢にあることを認識している様子である。


 かつて岩見沢に勤務していた頃、私はこの沿線を営業でよく走り回った。石狩当別-新十津川の沿線は、水田を中心に野菜や果実を組み合わせた純然たる農業地帯で、沿線人口が非常に少ない。このエリアはほぼ平坦な地形で、全区間で並行する国道275号線の整備状況はよく、線形も悪くない。線路と国道は、月形町内と新十津川町内で500mほど離れるところがあるほかは、ほぼ「併設」に近い状態である。

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 空知総合振興局(昔の空知支庁)に属する月形・浦臼・新十津川の沿線3町の旅客流動は、振興局所在地である岩見沢と道内最大都市である札幌に向いている。
 この沿線から札幌方面へ向かう客は、バスや車で、石狩川をはさんだ東側を走る函館本線の駅へ出る方が利便性が圧倒的に高い。石狩月形からは岩見沢まで20km弱の道のりだが、北へ行くにしたがって2つの路線は接近し、新十津川から滝川へはわずか4kmほどである。一番近いところでは2kmほどしか離れていない。
 函館本線には30分ないし1時間おきに特急電車が走っている。札幌につながっているとはいえ、途中まで1日1往復ないし7.5往復の札沼線ではまったく勝負にならない。


 2018年2月16日にJR北海道から沿線自治体による「札沼線沿線まちづくり検討会議」に対して提案された新たな交通体系の案では、石狩当別(北海道医療大学)-石狩月形、石狩月形-浦臼、浦臼-新十津川の3ブロックに分けてバス路線を整備し、浦臼-奈井江、新十津川-滝川に運転されている既存バス路線と函館本線の連携による利便性確保も見据えている。一気通貫の代替路線が整備されないのは珍しいパターンだが、沿線自治体相互間の利用が極めて少ないこの路線の性格をよくあらわしているとも言える。


 ⇒JR北海道によるプレスリリースはこちら。


 「地域の皆様との協議をお願い申し上げたいと考えております」とプレスリリースは結ばれているものの、かなり突っ込んだ内容になっていることを見ると、沿線自治体との間では代替交通機関の整備に向けて水面下での打ち合わせがかなり進んでいるのではないかと思う。石勝線夕張支線と異なり、利害関係のある自治体が複数あることから、すんなりと話が進むとは思えないが、提案に沿ってブロックごとに自治体が個別交渉をおこなっていけば、案外早く結論がまとまる可能性もある。


Photo
 新十津川駅は現在、「日本一最終列車が早い駅」として話題になっており、コアな鉄道ファンの姿も散見されるようだが、JR北海道による特定日調査の結果は、5年間平均で1日の乗客数は4.2人。北海道医療大学より北の駅では、石狩月形(79人)、浦臼(14人)の他はすべて平均10人以下で、浦臼-新十津川間の中間駅は4駅とも1人以下という惨憺たるありさまである。
 もはや地域が鉄道という存在をほとんど当てにしていないことが如実に示されているが、一方でわずか1往復という列車の設定からは、JR北海道も地域住民の利用をまったく当てにしていないことがありありと窺える。実に気の毒な路線だというよりほかない。



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2018/04/05

2009年世界の旅【85】イギリス(4) パディントン発13時50分

 これまでの経過は ⇒こちら。


Pb064170_2  旧コヴェント・ガーデンを視察に訪れた日の午後、私はロンドン・パディントン駅にいた。ロンドンとイギリス国内の各都市を結ぶ鉄道のターミナル駅のひとつであり、アガサ・クリスティの小説のタイトルにもなった由緒ある駅である。
 駅の周囲は道路と建物群にすっかり取り囲まれて、駅舎の姿は見えない。どうかすると手前に建つ立派なヒルトンホテルを駅と勘違いしてしまいそうである。交差点に立って駅方面を見ると、細い道路の向こうに駅のコンコースとホームを覆う大きな半円形のドームを見ることができる。


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 今日はこれから、ロンドン西郊に住む高校時代の後輩に会う約束になっている。待ち合わせる街、ウィンザー(Windsor)への列車はこの駅から出る。オフの時間にはまだ少し早いが、昨日来早朝から精力的に視察を重ねているので目をつぶってもらうことにする。
 パディントン駅は、コンコースの中へ入ると、なぜか回転寿司のカウンターがあり、10数人の客がカウンターの前に座って皿の品定めをしている。階下にあるプラットホームはドーム型の大きな屋根に覆われており、ミラノ中央駅を思わせる開放的な雰囲気である。


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 オックスフォード(Oxford)行きの列車に乗る。両端の機関車の間にはさまった6両の客車の、ピンクに塗られたドアから車内に入ると、二人掛けシートが車内中央に向かってずらりと並んでいる。日本なら間違いなく特急料金を払わなければならない列車だが、往復9ポンドの運賃のみで乗車できる。残念ながら乗客は少なく、1等車も含めて6両ほどつないでいる列車は持て余し気味である。


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 およそ20分の乗車で到着したスラウ駅で乗り換え。駅に着いたのにドアが開かないからどうしたことかと思ったが、手動ドアなのである。後から来た客が、当たり前のようにドアの窓から手を出して外のドアノブをつかみ、ドアを開けて下車した。あわてて私も続く。2両編成のローカル列車に乗り換えて10数分で、ウィンザー&イートン中央駅(Windsor & Eton riverside)に到着した。行き止まり式の小さな駅が、彼女との待ち合わせの場所である。



 延々と、続く。


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2018/04/03

日高晤郎ショーの思い出

 日高晤郎、と言っても、北海道民以外には馴染みが薄いのではないかと思うが、北海道民でこの人を知らないとモグリと言われるレベルの有名人である。市川雷蔵、勝新太郎に師事した俳優として、よりも、北海道で35年にわたって土曜日のラジオの顔であり続けたパーソナリティーとして名高い。その日高晤郎氏が今日、悪性腫瘍のため亡くなった。74歳。


 大阪出身だが40年ほど前からSTVラジオへの出演機会が増え、1983年4月からスタートし、当初3時間の生放送だった「ウィークエンドバラエティ・日高晤郎ショー」は、翌年から8時間、1987年からは9時間の生放送となった。歯に衣着せぬ物言いでいわゆる「アンチ」も多かったようだが、ラジオの聴取率は常に高位安定していたという。


 私が北海道に来たのが1991年で、車の運転をするようになったのが翌年の事である。当時は車にCDとかDVDとかTVなどついていない時代で、FMの電波も入りにくい地方へドライブに行けばAMラジオだけが耳慰めであったから、「日高晤郎ショー」や日曜日夜の「日高塾」などよく聴いた。やんちゃ坊主が大人になり、厳しいが節を曲げない頑固親爺になったような、そんな印象の人だった。


 この日高晤郎氏と私はたった一度だけ、接点を持ったことがある。
 最初の旭川勤務の時だからもう20年近く前の話になるが、当時よく通っていたサンロク街のスナックに晤郎ショーの収録が来ることになった。「SUNカラオケ訪問」というコーナーで、晤郎氏が道内各地のスナックのママと電話でトークをしながら、その店で事前収録されたお客のカラオケを流して採点する、というものであった。1回あたり5人ほどの客が歌い、高評価を受けるとスポンサーの焼酎をプレゼントされることになっていた。私はママに頼まれてそのうちの1人に加わり、「燃えよドラゴンズ!」を熱唱した


 放送日が近くなった頃、私の上司が、
「なあ、日高晤郎は巨人ファンだろう。放っておいたらお前の歌った部分はカットされるんでないか」
と言い始めた。それはもったいないですね、どうしましょう、と話すうちに、この際当日の公開放送に乗り込もう、という話になった。晤郎ショーはSTVのスタジオからの放送だったが、数十人が入れる客席を設けてスタジオ観覧を実施していた。


 当日、コーナーの放送時間の少し前をめがけて上司とSTVへ行き、首尾よくスタジオに入れることになった。偶然なことに、番組の電話受けをしているアルバイトの女の子の一人が私の大学時代の塾の教え子で、スタジオの手前で声を掛けられて話をしているところへ、ちょうどCM中でトイレから帰って来た晤郎氏と鉢合わせになった。


 「Tちゃん(教え子の名前)、そのお客さん、お知り合い?」
と晤郎氏に声を掛けられた彼女が私を紹介し、スタジオ観覧に来た理由を説明すると、晤郎氏は台本を確認しながら、
「ああ、『燃えよドラゴンズ!』の? 俺巨人ファンだよ。気に入らないからカットしようと思ってたんだよ。」と言った。切って捨てるような言葉だったが、目は笑っていた。


 そう言われながらも結局そのコーナーの中で私の歌は放送され、晤郎氏から鐘の連打と、
「下手に歌ってくれりゃあこっちも突っ込みようがあったのに、応援歌をこんなに明るく爽やかに歌いやがって、嫌な野郎だなお前よお」
という最上級の誉め言葉を頂戴した。同行してくれた私の上司は照り焼きハンバーグみたいな顔と評されてややご立腹だったが、プレゼントされた焼酎6本は、後日上司も含めて皆で美味しくいただいた。


 最近は「日高晤郎ショー」を聴く機会もめっきり少なくなっていたのだが、今日、訃報に触れて、私は久々に当時の音源を探し出して聴いてみた。私の張りのある歌声も相当若かったが、畳みかけるような歯切れのよい晤郎氏の喋り口調も若く、私の中での晤郎氏の印象そのままだった。


 晤郎氏が35年近く一度も欠席しなかった生放送を初めて休んだのが今年の2月。手術を経て、1週休んだだけで復帰した後も、自らの体験を笑いに変えていたという。


 ネット上に、3月24日放送の晤郎ショーのエンディング部分がアップされていた。晤郎氏の語り口調は、私の印象とはまったくかけ離れたものだった。声はしわがれて言葉も弱々しく、言葉に詰まって嗚咽を漏らすシーンさえ見られた。
 「来週は35年間より上の晤郎ショー、それをやります」
 自身の病気のことに触れた後でそんな言葉を絞り出したご自身の中には、ひょっとすると何らかの予感というか、覚悟があったのかもしれない。結果的にはこの放送が晤郎氏の最後の声となった。


 北海道を愛し、北海道民に広く愛され、北海道を代表するパーソナリティとして長年君臨した日高晤郎氏。賛否両論はあったかもしれないが、その実績は確かなものである。74歳は今のご時世あまりにも早すぎる。


 謹んでご冥福をお祈りします。



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JR北海道「維持困難線区」は何処へ【2】石勝線[夕張支線]

Dscn1193  JR北海道が公表した維持困難線区10路線13区間の中で、いち早く廃線に舵を切ったのが石勝線の通称「夕張支線」、新夕張-夕張である。北海道の鉄道の中では比較的長い歴史を持つ部類に入るこの路線は、来年3月末限りで127年の歴史に幕を下ろすことが、先日地元自治体とJRの間で合意された。


Yuubari  夕張支線は、1892年に採炭を開始した夕張炭鉱の石炭を室蘭・小樽などの港を介して本州へ輸送するため、炭鉱の開発元である北海道炭礦鉄道(「北炭」。現在の北海道炭礦汽船)によって同年に開業された。
 夕張周辺ではその後も北炭及び三菱鉱業(のちの三菱石炭鉱業)により炭鉱の開発が進んだが、高度成長期以降のエネルギー政策転換や良質な海外炭の輸入増加、さらには頻発したガス爆発事故により、夕張炭は競争力を失っていく。1960年代からは炭鉱の閉山が相次ぎ、1990年の三菱南大夕張炭鉱を最後にすべての炭鉱が閉山し、小規模な採掘が細々とおこなわれるだけになっている。


 石炭産業が斜陽化する中、夕張市は採炭施設を買い取って観光施設化するなど、観光都市への脱皮を目指したがことごとく失敗。2006年に夕張市は財政再建団体となり事実上破綻した。人口の流出にも歯止めがかからず、1960年に116,908人に達した夕張市の人口は、2018年2月の段階では8,300人余りまで減少している。
 夕張支線は1990年の南大夕張炭鉱閉山で貨物輸送を廃止して旅客専用となり、炭鉱近くにあった夕張駅も二度の移転で市街地の手前、リゾートホテルに面する立地となった。だが沿線人口減少による旅客減は止まらず、2016年度の輸送密度はわずか80人/km/日となり、1日5往復の普通列車が走るだけとなっている。


 こうした状況を背景に、JRが維持困難線区を打ち出した際の夕張市の対応は素早かった。夕張支線の廃止は不可避と判断した夕張市は、具体的な線区の公表に先駆けて2016年8月から鉄道廃止を前提とした代替交通網の構築についてJRから派遣された社員を含めて協議を進めてきた。最終的には南清水沢地区に整備中の拠点複合施設の用地確保と7億5,000万円の拠出金を勝ち取って、夕張支線の廃線問題は決着を見ることになった。


 廃止区間にはこれまで並行する路線バスはなかったが、鉄道廃止後は夕張鉄道バスにより「南北軸路線バス」として、現在の鉄道の倍、10往復が運転される。沿線から外れた集落へは、デマンド交通やタクシー利用への補助などを活用したフィーダーサービスをおこない、最大限の利便性を確保する予定になっている。
 JRからの拠出金は、南北軸路線バスの初期整備と運行補助に充てられ、およそ20年間の運行を維持できるとしている。この条件は先に廃止になった江差線末端区間よりも好条件で、厚遇過ぎるとの批判もないわけではないが、JRにしても赤字解消の見込みのない路線についていち早く廃止に同意した所に対し、最大限の条件を提示するのは当たり前のことだと思う。夕張支線の赤字額は年間約1億6,000万円。廃止の時期が遅れればそれだけJRの台所事情も厳しさを増していく。


 夕張支線は、赤字解消が喫緊の課題であったJR北海道と、財政再建の途上にあって街自体をコンパクトにまとめていく必要性があった夕張市との利害が一致し、全区間が夕張市内に存在するため近隣自治体との調整や協議が必要なかったこともあって、迅速にこの問題に対応することができた。
 この勇気ある決断が夕張市の将来にとってどうだったのかは今後の展開を見ないと判断できないが、現時点を見る限り、少なくとも利便性向上の見通しもない鉄道にすがってズルズルと問題を引き延ばすよりはよほど良い決断なのではないか、と思える。


【参考】夕張市長による記者会見内容(30年2月20日・夕張市HP)



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