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2019年2月

2019/02/25

ひさびさに…

 2月21日木曜日、夜9時20分過ぎ。久々にスマートフォンの緊急アラームが鳴った。「地震です。地震です」の直後、建物がぐらりぐらりと大きく揺れた。大きく、といっても、体感的には震度3から4くらいの揺れだったろう。ただ、アラームが鳴るということは、どこかで大きな揺れを観測しているということである。


 私はその時、少々酔って会社近くのカラオケボックスにいたのだが、まず反射的に会社の防災センターへ電話した。夜勤の警備員の方が、これから館内を巡回するが、揺れの感じから言ってもそれほどではなく、特に大きな被害はないと思う、と話してくれた。私は、何かあったら連絡をくれるように、と伝えて、そのままそこでしばらく時間をつぶした。今回は停電することもなく、時間は平穏に流れた。


 そのうちに何人かから心配の電話やらメールが入り始めた。その中に「お前、帰れるの?」というものがいくつかあり、しまいには嫁からも「帰って来れるの?」と電話が入る。カラオケボックスの中というのはどうやら外界の情報から隔離された空間らしく、私たちはそこに至るまで、札幌市営地下鉄が全線で運転を終日見合わせることになったことに気付いていなかった。


 外に出ると、いつもと同じようにビル街の電気はこうこうと灯っており、道路には何事もなかったかのように車が行き交っている。バスターミナルからは定期的にバスが吐き出されてくる。ただし、タクシー乗り場にはすでに数十メートルに及ぶ列が伸びていた。
Img_3631  遠目に見える会社のビルを確認し、最悪の場合は会社に戻って仮眠すればよいと腹をくくってバスターミナルへ行くと、国道230号線を南へ下る最終バスは通常運行。私はそのバスに乗り、途中の停留所で別のバスに乗り継いで、無事に帰宅できた。ただ、乗り継いだバスは、地下鉄が運休して人っ子ひとりいない真駒内駅始発で、普段なら立ち客も出る車内には乗客ゼロ。停留所にしてわずか3つの区間、バスは私だけのために走った。


 地下鉄が終日運休となり、帰宅困難者が想定されたことから、札幌市は札幌駅~大通駅間の「地下歩行空間」と、昨年秋にオープンしたばかりの市民交流プラザを終夜開放し、数十人が夜を明かしたという。一時、1時間半待ちと報じられたタクシーの列も、日付が変わるころには徐々に短くなったようである。


 こうした対応は、半年前の地震発生時を教訓として迅速におこなわれており、それはそれで評価すべきなのだが、一方で地下鉄の終日運休には疑問の声も上がった。例えば南北線の場合、震度5弱を記録した北区方面は別として、震度3以下だった豊平区、南区方面へは当日中に運行を再開できたのではないかとの不満もあった。


 万一の線路損壊に備えて慎重のうえにも慎重に検査せざるを得なかったということもあるのだろうし、JRなどは札幌市内の各バス会社に代替輸送を依頼したが、各社とも路線バスの運行を優先しており、代替輸送に割ける運転手の余裕がなかったようである。どの業界も人手不足の中でかなり対応に苦慮した様子が窺え、災害対応の難しさをあらためて感じているところである。


 かくいう私も、カラオケボックスでのんびり様子見しているのではなく、比較的近くにいたのだから会社に急行して状況を確認すべきだったのではないか、とのちになって反省している。喉元過ぎれば熱さ忘れる、ではないが、緊張感が緩んできたころが一番危ない

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2019/02/21

いかさまさんの平成史 平成7年

 1995年、平成7年の思い出を書こうとして、私はパソコンの前でこれまでになくブルーな気分に陥っていた。紆余曲折を経てなんとか就職戦線を乗り切り、社会人生活をスタートさせた記念すべき年なのだが、この年の出来事を思い出すと私は切ない気分がとまらなくなる


 その理由のひとつは、この年が普通の人々の普通の生活を奪い去る、大きな出来事が続けて起きた年だったことにある。
 1月17日5時46分、明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の地震が、兵庫県を中心に甚大な被害をもたらした。阪神・淡路大震災である。
 早朝の大災害に、遠く離れた北海道の私は全く気づいておらず、宝塚出身のバイト仲間からの代講依頼の電話で知ることになった。初めて見る大都市直撃の災害映像に言葉を失ったのは私だけではないと思う。のちに発生した東日本大震災の時もそうだったが、時を追うごとに死者の数が増えていく一方で、行方不明者の数も同じように増えていったのも衝撃的だった。 最終的に6,434人の命が奪われている。


 その約2か月後、3月20日には、ラッシュアワーの東京都心を走る地下鉄車内で神経ガスのサリンが撒かれ、13人が死亡、6,000人以上が被害を受ける地下鉄サリン事件が発生した。事件はのちにオウム真理教によるものと断定され、教祖はじめ首謀者と実行犯計10人が死刑判決を受け、昨年7月に2回に分けて執行されたのは記憶に新しい。一般市民が多数犠牲となった災害や事件の発生は、バブル崩壊後の出口の見えない低迷期の日本にひときわ暗い影を落とした。


 もうひとつは私自身の出来事である。
 すったもんだがあってしばらく会えなかった彼女とは、おおっぴらにはできないものの、前の年の暮れから再び、人目を忍びながら会うようになっていた。就職後の勤務地は確定しておらず、お互い遠距離恋愛も覚悟していたのであるが、入社後2か月の研修を経て命じられた勤務地は札幌だった。それを一番喜んでくれたのは、ほかならぬ彼女である。


 だが、社会人となった私と学生である彼女との関係は、札幌での勤務が始まった頃から少しずつ歯車が狂い始めた。結果的に燃えるような恋はちょうど2年経ったところで公衆電話の受話器越しに散り、彼女が残したDreams Come Trueのカセットを擦り切れるほど聴き返しながら、沈没船のモンキーボーイのような生活をその後ながらく送ることになる。
 就職後も北海道に残ることを望んだ理由のひとつを失い、すっかりやさぐれた私は、「ああ言えば上祐」と揶揄された減らず口も手伝い、会社でも面倒な新人扱いとなった。


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 切ない思い出が多い中で、数少ない心安らぐ思い出は、大学卒業を目前にして出掛けた「卒業旅行」である。
 小樽からのフェリーで新潟へ、寄り道をしながら日本海側をたどって九州へ入り1週間ほど滞在、別府からフェリーで初めての四国に渡ってここでも1週間を過ごした。岡山から広島、内陸を通って姫路へ抜け、阪大生の友人の勧めもあって、震災から1か月で傷痕が生々しく残る神戸の情景を目に焼き付けた。岐阜の実家から長野、東京、山形、秋田を経て北海道へ戻る、30日間の長い旅だった。


 久々に燃え上がった鉄道熱は、乗車距離を一気に押し上げ、進捗率は一気に半分を超え、60%も突破した。新たに乗車した鉄道の距離が過去31年の中で最も長い年となったが、この年以後、就職で時間的制約が増えたこともあり、鉄道熱は一気に覚めて低体温期に突入する。


 1995年、良くも悪くも大きな節目の年であったことだけは間違いない。  



※平成7年の鉄道新規乗車実績 4,609.4km(通算18,341.5km)

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2019/02/18

いかさまさんの平成史 平成6年

 このところの人手不足で、大学新卒生の就職活動は完全売り手市場が続いている。大手企業は早い段階から学生を囲い込み、優秀な人材の確保に余念がないようである。
 実際に今の就活を体験していないからわからないが、バブル絶頂期の就職活動もたいがいひどかった。私たちの2~3期先輩は、内定とともに露骨な囲い込みを受け、温泉でドンチャン騒ぎをしたとか海外旅行に連れていかれたなどといった話も聞いた。内定辞退などと告げようものならコーヒーを引っかけられた、という嘘か本当か分からないような話もあった。


 バブル崩壊とともに就職戦線は一転買い手市場となり、私たちは厳しい就活を迫られた。まだインターネットやスマートフォンなど影も形もない時代、私たちは次々と届く就職情報誌をもとにひたすら資料請求はがきを書いて送った。1993年の暮れから1994年の初めにかけてはこういう状況だった。
 こちらは必死なのだが相手にはそれは伝わっておらず、学校名や居住地域で振り落とされることなどザラであったようである。現に具体的な会社名は言わないが、大阪より西のJR某社など、何度ハガキを送ってもなしのつぶてであった。


 この状況であちらこちらの会社を受験することもかなわず、交通費も無駄にはできなかったから、いきおい就職活動は北海道と名古屋に軸足を置くことになった。これまた具体的な会社名は伏せるが、札幌とか名古屋とかのJR某社がひそかに私の第一志望だったものの、あえなく撃沈となった。ようやく内定付近までたどり着いた会社は、現在私が勤める会社と、北海道に本拠を持つ都市銀行だけであった。
 この銀行がバブル期の融資姿勢を原因として経営破綻するのは、このわずか4年後の話である。すんでのところで命拾いしたともいえるわけだが、その後この会社から何人かが私の会社に移ってきて一緒に働き、その優秀さに舌を巻くことになる。


 その就職活動中、数回にわたって私は名古屋へ飛んだのだが、当時の名古屋空港に着陸する際、いつも滑走路の右端に黒く焦げた鉄の塊を見て胸が痛んだ。
 1994年4月26日、名古屋空港で台湾からの中華航空140便が着陸に失敗して墜落、264人が死亡し、生存者わずか7名という事故が起こった。日本国内では、1985年の日航123便事故に次ぐ犠牲者を出した事故である。ちなみにこの5日後、前回書いたアイルトン・セナが事故死している。


 就職活動のせいもあって、この年は比較的鉄道に乗る機会が多く、東京や仙台などへも列車で出掛けたりしたため、久々に新規の乗車距離は増えた。一方で、北海道内では、国鉄再建法の廃止対象から漏れたローカル線の廃止が始まり、函館本線の名無し支線、通称「上砂川線」(砂川-上砂川、7.3km)が消えた。線路の付け替えなどを別にすると、私が乗車済みの路線の中で初めて廃止となった路線である。


 寝台特急の整理はさらに進み、12月のダイヤ改正で「みずほ」が廃止、ブルートレインの始祖である東京-博多間「あさかぜ」(1・4号)が臨時列車に格下げされた。
 航空機は別格としても、新幹線「のぞみ」が5時間あまりで結ぶ東京-博多間に、15時間以上を要する寝台特急のビジネス需要はほとんどなく、オフシーズンの平日はどの列車も閑散としていたという。定期列車としての「あさかぜ」は、東京-下関間の旧2・3号に残ったが、昭和後期の国鉄を代表する列車だった博多「あさかぜ」の終焉は、オールドファンに少なからずショックを与えた。


 こうして七転八倒しながらなんとか就職活動を乗り越え、ちょうど内定通知の前後の時期に至り、すったもんだがあって彼女に数か月間会えない時期があった。恋愛には何かとトラブルがつきものではあるが、今思い返してもこれはなかなかヘビーな状況であった。詳細は差し控えるが、私の浮気とかそういう類ではない。そんな甲斐性があれば10代後半から20代初頭にかけてこれほどまでに干からびた青春など送ってはいない。



※平成6年の鉄道乗車実績 664.8km(通算13,732.1km)


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2019/02/15

いかさまさんの平成史 平成5年

 先頃、今年4月の北海道知事選挙に、石川知裕元衆議院議員が立候補を表明した。この人が、小沢一郎議員の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反に関して有罪判決を受けていたことが物議をかもしているが、こうした疑惑の渦中にありながら隠然とした影響力を持ち続けた政治家の代表格が田中角栄である。
 ロッキード事件で逮捕され、有罪判決を受けた後も、キングメーカーとして中曽根内閣まですべての内閣に睨みを利かせた。1986年に脳梗塞で倒れた後は、田中派生である竹下登がこれを受け継ぎ、2001年に小泉内閣が登場するまですべての内閣に深くかかわってきた。


 この田中角栄直系が敵味方に分かれて激しい権力闘争を演じた結果、自民党が分裂、衆議院選挙で過半数割れして下野し、いわゆる「55年体制」が崩壊したのが1993年、平成5年である。この時首相に就任した細川護熙、幹事長として辣腕を振るう小沢一郎、いずれも田中直系である。細川内閣の成立を見届けるようにこの年の年末、田中角栄は亡くなるが、のちに細川・小沢いずれも「カネ」の問題でつまずき、自民党は社会党との連立という奇策を弄してわずか1年で与党に復帰することになる。


 5月に天皇に即位される現皇太子殿下がご成婚され、全国的な凶作でコメ不足が深刻化し、行きつけの食堂のご飯大盛りが廃止となり、時にタイ米が混ざるようになった1993年。この年の秋、大学3年生の私は両親の知人のつてでF-1日本グランプリのチケットを入手し、予選から決勝まで鈴鹿サーキットで観戦した。アイルトン・セナが優勝したのだが、結果的にこれが日本でのラストランとなった。翌年、セナはイモラでのサンマリノGPにおいて壮絶な激突死を遂げる。


 同じ秋、私はやや3年間干上がっていた状況を脱し、新たな青春を見つけて久々に舞い上がった日々を送ることになる。おっとりとした彼女は私にとって癒しの存在であり、付き合っている間、一度も大きな声を出して喧嘩した記憶がない。
 中古で買った赤いファミリアで彼女を家の前まで送り、ブレーキランプを5回点滅させようとして車をエンストさせたり、森田童子の「ぼくたちの失敗」を聴きながら自分は失敗しないぞと言い聞かせたりしながら、別の世界に来たかのように充実した日々を送っていた。新加勢大周ならぬ新いかさまの誕生であった。


 一方、鉄道の世界はというと、前年デビューした東海道新幹線「のぞみ」が大増発されて博多に乗り入れる一方、東京-九州間の寝台特急の食堂車が営業を中止し、暮れには特急「ゆうづる」、急行「八甲田」「津軽」といった伝統の列車が廃止、あるいは臨時列車化されて表舞台から姿を消した。
 国鉄分割民営化の際、JRグループ一体となって守るとしていた長距離列車の運転は、押し寄せる不況の波と輸送構造の変化の前に、安楽死の序章が始まりつつあった。私たちが馴染み、憧れてきた列車のこうした状況を横目に見ながら、私の興味が鉄道よりも恋愛に向かうのは、至極あたりまえのことであった。


※平成4年の鉄道新規乗車実績 16.9km(通算13,067.3km)

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2019/02/06

嵐・嵐・大嵐

 こんなタイトルを書いたところで、「ゲームセンターあらし」のエンディングテーマなど覚えている人はごく一握りなのではないかと思うが、もちろん、今回の「あらし話」はその「あらし」ではない。


 このところ札幌は体感気温がきわめて低い日が続いている。気象庁のデータを見る限り、最低気温はマイナス7度から8度程度と、平年かやや低い程度なのだが、なにしろ風が強い。日中時折窓の外を舞う雪は、風にあおられて上へ横へと走る。家や会社から一歩外へ出れば、存分に冷気を含んだ風が容赦なく体に刺さる。わずか5分、バスを待つだけで全身が氷漬けになったように感じられる。
 これから週末にかけて、北海道はいっそう気温が下がっていき、週末には札幌でもマイナス15度前後まで下がるという。暦の上では立春だが、北海道ではまだまだ冬の嵐が続きそうである。


 嵐と言えば、10日ほど前の日曜日、全国を駆け巡ったニュースがあった。私の奥さんの活力源であるアイドルグループ「嵐」の活動休止である。私はこのニュースを、下の坊主とふたりでラウンドワンで遊んでいる最中に、スマホで目にした。嫁はたまたまその時別の場所で時間を潰していたのだが、スマホのニュースではなく、友人から矢継ぎ早に飛び込んでくるメールで知ったらしい。ショックに打ちひしがれて私たちの食事も出てこない状態になるのでないかと危惧するほど、いっとき腑抜けた雰囲気になっていたのだが、敵もさるもの、最近ではその友人たちとしきりに電話でなにやら密談を繰り返している様子である。


 嵐にさっぱり興味のない私は知らなかったのだが、例年11月頃に1度おこなわれる嵐のコンサートは、今年は二度あるのだとか。1回目は5月のようである。目下のところ嫁からこれに関するコメントは出ていないが、おそらくすでに臨戦態勢に入っているのだろう。
 これについて否定するつもりは、私には全くない。なにしろ他に趣味らしい趣味のない人のことである。率直に言うともう少し私にも興味を持ってほしいのであるが、無駄なことは言わない主義である。なんにせよ、これだけは気持ちよく行かせてやることに決めている。


 そうなると今年は私にも2回乗り鉄に出掛ける権利があるのかな、と、一瞬考えてはみたものの、よくよく考えればすでに私は昨年、フライング気味にその権利を行使済みであったことに気付く。百歩譲って承認が得られたとしても、権利の過剰行使によって私の懐具合もそれに耐えられない状況下にある。
 それよりも気にかかるのは、2020年に嵐が活動を休止した後のことである。嫁の唯一の楽しみがなくなったことで、「あなたも乗り鉄活動休止したら」と言われるのではないか。私はただその一点を警戒して、この先数年間を過ごしていくことになる。


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2019/02/03

いかさまさんの平成史 平成4年

 国鉄→JRにおける空港連絡の嚆矢は、1980年に設置された千歳空港駅である。空港ターミナルビルから駅に向かって約250mの連絡橋が伸びており、たもとには荷物を運ぶカートが置かれていた。1991年2月に初めて北海道へ来た私は、カートに荷物を載せて長い通路を歩き、特急なのに補助席のついた781系電車の特急「ライラック」で札幌へと運ばれた。
 ここに新しい空港ターミナルが完成して、その地下に千歳線の支線が乗り入れたのが、平成4年7月のことである。千歳空港駅は南千歳駅と名を改め、新千歳空港へは快速「エアポート」を主体とする、現在に通じる輸送体制が出来上がった。


 東海道新幹線にデビューした「のぞみ」の名古屋飛ばしが話題となり、尾崎豊が亡くなり、風船おじさんが消息を絶った平成4年。私にとって大学の試験のさなかに高熱に苦しむところから幕を開けた。熱の上がり方から、今思えばインフルエンザだったのではないかと思われるが、病院で普通に風邪薬を処方され、テスト勉強もままならぬ状態で私は英語の試験に臨んだ。
 講師が「テストは1年後期、2年前期の2回で、計120点取れば単位をあげます。取れなければ留年確定です」と宣言したその1回目のテストで、私は21点というスコアを叩き出し、夏休み前の2度目のテストに当たっては、大学受験の再来かと思うほどの勉強を強いられることになった。俎板の鯉状態で受け取った成績表の英語の欄には「」の文字があった。99点を取れたかどうかは定かではない。


 そんな感じで学問にはいまひとつ身が入っていなかったが、生活は充実していた。学習塾でのバイトが軌道に乗り、講習会期間には馬車馬の働きで手にしたお金で自動車とバイクの運転免許を取り、実家から古びた軽自動車を持ってきて乗り回した。カーステレオから流れる、槇原敬之の「北風」「もう恋なんてしない」あたりを繰り返し聴きながら、急激に広がった行動半径を楽しんだ。残念ながら助手席に乗ってくれる奇特な女性は現れず、そちら方面は相変わらずの干からび具合であった。


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 車という移動手段を手に入れたこの辺りから、鉄道の乗り歩き意欲はやや低迷期を迎えた。実家に車を引き取りに行った夏の帰省の際、急行「はまなす」から特急「白鳥」、快速「やひこ」そして急行「ちくま」と、今となっては懐かしい列車を乗り継いで帰ったのがこの年唯一の乗り鉄である。鉄道乗りつぶしに対する熱は、このように冷めたり熱くなったりを繰り返しながら、結果的に高熱にうなされるようになっていくのである。



※平成4年の鉄道乗車実績 202.0km(通算13,050.4km)



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