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2019/04/12

いかさまさんの平成史 平成11年~平成12年

 先日、2024年に紙幣のデザインが一新されることが発表された。渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎とはまた渋い人選だなあ、などと思っているのだが、そうした中で唯一蚊帳の外に置かれたのが二千円紙幣である。沖縄で積極的に流通している以外はめっきり見かけなくなり、流通量もさることながら傷みも少ないとして、今回刷新が見送られた。
 この二千円紙幣登場の年が、「ミレニアム」と呼ばれた2000年、平成12年である。九州・沖縄サミットの開催とともに、小渕恵三首相の肝煎りで登場したものだが、ご当人はその年の春、小沢一郎率いる自由党の連立離脱騒動のさなか脳梗塞に倒れ、サミットも二千円紙幣も見ることなくこの世を去った。


 小渕首相の緊急事態に登板したのが、森喜朗首相である。どちらかと言うと筋肉で物を考えるタイプらしいこの方は、就任早々から失言を連発、後継指名の不透明さもあって支持率をじわじわと落とす。これを見て反旗を翻したのが、加藤紘一、山崎拓らである。小泉純一郎を含めて「YKKトリオ」と呼ばれた彼らは、野党を巻き込んで森首相に三行半を突きつけようと画策するが、戦い下手の公家集団と揶揄された加藤率いる宏池会は政権側に切り崩された。頼みの綱の小泉は森に殉じて動かず、「加藤の乱」と呼ばれたクーデターは失敗、YKKは壊れたファスナーとなる。派閥の分裂を招いた加藤は自民党内で急速に力を失い、加勢しなかった小泉は翌年、首相の座を射止める。加藤を泣きながら制止した谷垣禎一は、10年後、自民党下野というまさかの事態下で総裁となるが首相にはなれず、自転車で転倒して政界引退を余儀なくされる。まさに政界一寸先は闇である。


 私は、11月20日に起こったこの一部始終を、クアラルンプールのホテルのテレビで観ていた
 墜落寸前の低空飛行に追い込まれていた私に転機が訪れたのは、平成11年の2月である。この年の定期異動で私は札幌を離れ、旭川で勤務することになった。時を同じくして札幌から旭川に異動になった上司が引っ張ってくれたらしい。「お前の異動はバクチだ。化けるかボケるかどっちかだ」と部長に言われて腐り気味だった私に「俺は化けると思ったんで連れて来た」とその上司は言ってくれた。
 人間現金なもので、そう言われて発奮しないわけにいかない。自由に自分を動かして背後からフォローしてくれる上司の下で、私はのびのびと仕事に取り組んだ。年末には2年半付き合った彼女との結婚も決まり、翌年、その新婚旅行先がマレーシアそしてシンガポールだった。加藤の乱の数日後、私たちはシンガポールのホテルでいかさまの乱ならぬ大喧嘩をかますことになるのだが、まあよくある話である。


 下降の一途をたどっていた私の人生のバイオリズムは、20世紀の終わりを目前にようやく上昇カーブを描きはじめた。しかし、氷点下目前まで迫っていた鉄道への熱が上昇するにはもう少し時間がかかる。上野-札幌間に新型寝台特急「カシオペア」がデビューしたのは1999年7月。その一方で九州方面への寝台特急は、同じ年に走り始めた700系「のぞみ」の影響もあってますます縮小が進む。1999年12月のダイヤ改正で「さくら」と「はやぶさ」が東京-鳥栖間併結運転となり、翌年には関西・九州間の寝台特急も大分行き「彗星」と長崎行き「あかつき」が併結運転となった。子供の頃憧れの対象だったブルートレインの退潮も、アチチアチチと燃えていた私には思いを巡らせる余裕もなかった。平成12年に私が新たに乗車した鉄道路線は0km。昭和62年からの32年間で唯一この年だけである。


※平成11年の鉄道新規乗車実績  78.4km(通算 18,612.7km)
※平成12年の鉄道新規乗車実績       0km(通算 18,612.7km)


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コメント

こんにちは!
う~ん、良い上司に恵まれて良かったですね。
私は正反対、パワハラで心を壊し、回復した今でも低空飛行ですよ。
もっとも、今は飛行機に乗る仕事が与えられて、実入りはけっこう多くなりましたが・・・。
成層圏も飛べますしね(笑)。
まぁ、塞翁が馬、牛尾よりも現金の方が良いかなってところです。
牛尾まで昇進した私の同期生の親友は、この3月末で辞めました。
一本気な彼は、馬鹿な上司と合わなかったのだそうな。
「辞めてやる!」って啖呵を切った彼が羨ましいですよ。
私は家のローン、女房の病気・・・とても啖呵は切れませんから・・・。
人生、色々ですねぇ。

投稿: FUJIKAZE | 2019/04/13 10:24

平成11年(1999)は自分も転機を迎えた年です。東京で仕事をしてきましたが友人が外資系企業で働きすぎによりダウン。自分もいろいろ考えました。自己啓発セミナーという少し怪しいところで、合宿して何だか自分は教員をやりたいのが本音なんだろうなあとぼんやり思い、玉川大学の通信教育部に申し込んで入学はあっさり完了。平成12年には、地元の愛知に戻り、名古屋の支社に通いながら毎月レポートを出す日々。通信教育といってもスクーリングになれば、一緒に顔を合わせて若い女性と勉強。なんて楽しい日々なんだ。と思いましたが、問題は教育実習。それは次の年の話です。

投稿: かわうそくん | 2019/04/13 18:00

 FUJIKAZEさん、ありがとうございます。
 仕事の悩みの9割は人間関係から来るものと思っていますが、その部分であまり苦労をしなくて済む時期があったというのは私にとって幸運だったと思います。
 あの時代パワハラの下敷きになって来た私たちは、今逆の立場になって、モンスター部下に対して声を張り上げることもできず悶々としています。それが時代というものなのだと言われればそれまでですが、釈然としませんね。
 「辞めてやる!」の啖呵は一度どこかで使用したいと思ってはいるのですが、24年間、そのチャンスと勇気がありません。

投稿: いかさま | 2019/04/17 00:21

 かわうそくんさん、ありがとうございます。
 私の場合は人生の転機を迎えたことで、逆にそこに居続けることを選択することになるわけですが、かわうそくんさんはそこで、別の居場所を求めることを選択されたわけですね。あの時代に、手に入れた仕事を手放し、別の道を歩もうとすることは相当にハードルが高いと考えていました。熟考された上のことと思いますが、その決断は率直にすごいなあ、と思います。会社に通いながらの勉強も大変だったろうなあ、とお察しします。

投稿: いかさま | 2019/04/17 00:25

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