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2019/04/10

いかさまさんの平成史 平成9~10年

 今年予定されている大きな出来事と言えば、新天皇陛下即位ももちろんだが、10月の消費税率引き上げがある。前回、5%から8%に引き上げられた際も、会社では仕入・売上・費用支出をめぐって何かと面倒くさい状況になったのだが、今回は軽減税率やポイント還元など、前回に輪をかけて複雑な状況になっており、すでに社内でもその対応がバタバタになっている。
 平成元年4月1日に3%でスタートした消費税は、まさに平成を象徴する税制と言っても過言ではないと思うが、その税率が最初に引き上げられたのは平成9年(1997年)であった。行政改革を急務とする橋本龍太郎内閣によるこの施策は、山一證券北海道拓殖銀行をはじめとする大手金融の経営破綻などに向かう経済状況を見誤ったともいえるタイミングでの実施となり、不景気の長期化をもたらすことになる。


 世相的にも神戸連続児童殺傷事件(いわゆる「酒鬼薔薇事件」)、東電OL殺人事件など陰湿かつ凄惨な事件が続いたが、一方では、大阪ドーム・ナゴヤドームの完成、サッカーワールドカップへの日本代表初出場決定など、明るい話題もあった。フランス大会の本戦は翌1998年。長野冬季オリンピックもその年の2月である。


 私はと言えば就職3~4年目、仕事も覚えて少しずつ脂がのっていく時期にあたるはずだが、一向に上昇気流に乗る気配はなかった。飲み会の席で上司と一触即発の状況になり、先輩の制止で大事には至らなかったが、それがなければおそらく私は会社から完全にフェイドアウトしていたであろうと思われる。扱いづらいどころかもはや危険分子レベル、「凡人・軍人・変人」の三要素を備えた要注意人物となった。「入社後3年で君たちの将来は決まる」という、採用当時の教育担当課長の言葉を借りれば、底辺まっしぐらの会社人生は決定したも同然であった。
 それでも会社を辞めなかった理由は単なるプライドだったろう。そもそも就職氷河期にあってこの手の人間を雇ってくれるようなまっとうな企業などないことは、今になってみればよくわかる。そういう意味ではこのくだらないプライドが結果的に私を救ったと言えなくもない。


 ともかく、すべてに対して意欲を喪失していた私は、鉄道に対する熱意も冷え切っていた。秋田新幹線、北越急行ほくほく線、北陸新幹線(長野行新幹線)などの開業、キハ283系「スーパーおおぞら」・秋田新幹線E3系「こまち」・JR西日本500系「のぞみ」、「サンライズエクスプレス」のデビューなど、明るい大きな出来事が目白押しだった1997年から1998年だったが、悶々とした状況下にありながらいっこうに乗り歩き熱が上がることもなかった。


 秋田新幹線・ほくほく線開業と「スーパーおおぞら」「こまち」「500系のぞみ」のデビューは1997年3月22日の出来事だったが、そんな一大イベントの日に私は何をしていたかというと、当時気になっていた女性をスキーに誘い、その夜お付き合いを申し込んでいた。これだけでもこの当時私の鉄道に対する熱の低さがお分かりいただけると思う。
 低空飛行期にそっちだけは熱心だったのか、などと言われるかもしれないが、地獄に垂らされた蜘蛛の糸にすがらない手はない。私はこの時糸を垂らしてきた相手と、今なお生活を共にしている


※平成 9年の鉄道新規乗車実績  60.2km(通算 18,470.2km)
※平成10年の鉄道新規乗車実績  64.1km(通算 18,534.3km)


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コメント

平成9年は仕事にも慣れてきた頃で、日野市の寮から八王子のカサフェリスという怪しい名前のアパートに引っ越し。家賃が6万くらいでしたが半額補助が出てました。電化された八高線の北八王子駅から通勤してましたが、実は歩いて会社まで通った方が早く着きますけどね。平成10年になると、設計部署から営業技術部という部署に変わり、お金の計算とか打ち合わせが多くなりました。それでも毎週秋葉原に通い、リバティーという店でレーザーディスクを買いまくっていましたね。このころは女性のことは全く頭にありませんでした。

投稿: かわうそくん | 2019/04/10 21:12

 かわうそくんさん、いつもありがとうございます。
 「レーザーディスク」の響きに懐かしさを感じました(笑)。スナックのカラオケなんかでレーザーディスクを使っていたのもこの頃まででしょうか。この辺からぽつらぽつらと通信式に移行していったように記憶しています。
 当時は私も独身寮に住んでいましたので住居費がかからず、その代わりに車を買ったり飲みに行ったりと遊び惚けていました。ま、仕事がこんな調子だったものですから(笑)

投稿: いかさま | 2019/04/13 00:04

プロ野球・大阪近鉄バファローズの本拠地移転が、結果的に球団の首を絞める結果になろうとは夢にも思いませんでした。それまでの本拠地は藤井寺球場で、近鉄南大阪線の藤井寺駅から徒歩数分の距離にありました。ところが、大阪ドームの最寄り駅は阪神なんば線のドーム前駅と、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)長堀鶴見緑地線のドーム前千代崎駅で、近鉄の沿線からは離れた位置にあり、当時は近鉄の阪神なんば線への直通も行われていなかったため、親会社の近鉄は鉄道による球場アクセスによる収入が得られなくなりました。

さらに選手の年俸高騰に加え、大阪ドームの使用料も近鉄興業(近鉄の子会社)が保有していた藤井寺球場よりも大幅に上がり、1998年以降は観客動員数も思うように増えなかったことなどから球団の年間赤字が徐々に膨れ上がり、親会社の近鉄自体がバブル期の積極投資が裏目に出て経営不振に陥ったことも相まって、2004年のオリックス・ブルーウェーブとの合併に繋がっていきます。

また、福岡ダイエーホークスは1999年から南海ホークス時代から続いた低迷期をようやく脱し、パ・リーグの常勝チームとして君臨しますが、やはり親会社のダイエーが阪神・淡路大震災による本店被災や、バブル期以降の経営不振に悩まされ、最終的には球団の保有を断念し、ソフトバンクに事業譲渡せざるを得なくなります。

投稿: 龍 | 2019/04/14 00:31

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