2019/08/22

47歳になりました。

 一昨日の夜、会社でせこせこと片付け仕事をしていると、一つ上のフロアにある経理部門の後輩、M君が現れて、
お誕生日おめでとうございます
と声をかけてくれた。


 旭川、そして札幌と、部門は違えど長い付き合いになるM君は、1年前の8月19日、私の鉄道全線完乗を祝いに、日曜だというのにすすきのまで来てくれた愛すべき後輩である。しかも彼はあの貸切電車に乗っていない。厳密に言うと乗り遅れたのである。誰もいなくて寂しかったら困るでしょうから、と完乗列車への立会を約してくれた彼は、当日所用のために集合場所のすすきの電停へ来るのがほんの少し遅れ、それでも電停近辺でやや1時間以上を潰して、最後の瞬間に立ち会ってくれたのである。


 その後、有志で飲みに行きましょう、という呼びかけにも応えてくれた彼は、結局、私の岐阜時代の鉄道仲間である先輩、私の大学の同級生、それに私と彼という、横には何のつながりもないメンバーで酒を飲むことになった。私としては非常にうれしく、また楽しい時間であったのだが、見ず知らずの面々と過ごす彼らがどう思っていたかは私の知るところではない。


 ともあれ、あれから1年が経過し、私は47歳になった。
 これはなかなか長い道のりを来てしまったぞ、と思う。6年前に他界した私の祖父は、47歳でおじいちゃんになった。今の時代の感覚で言うと相当早いが、当時はそのくらいの年齢のジジババはたくさんいた。だから、というわけでもないだろうが、当時の写真などを見返してみると、今の私達よりも数段老け込んだ印象を受ける。


 昨今は50代・60代になっても30代かと見まがうほどピンシャンした人が多い。漫才のWヤングの平川さんが実は今年で78歳だと聞いた時、私は背骨が折れるほどのけぞった記憶がある。それほどではないにせよ、私の周囲の同級生を見回しても、ああ、40代後半だなあ、と実感させてくれる風貌の人はそれほど多くない。晩婚化が進んでレアケースにはなったが、何人かはすでに孫に恵まれている同級生もいる。だが誰もみんな若々しい。おまけに孫に「じいちゃん」とか「ばあちゃん」などと呼ばせたりもしていない。


 そういう意味では多少実感は薄れるのだが、やはり自分の祖父の姿を思い返してみると、ずいぶん長いこと歩いてきたなあ、と言う感慨はある。けれどもこの先もまた長い。祖父は47で爺さんだったし、親父が47の時には私は就職してようやく親の脛から卒業した。だが、私のところは子供がこれから金のかかる世代に突入していく。解放されるまでには早くてもまだ10年ほどかかる


 その10年後、私がどんなおっさんになっているのか興味は尽きないが、スレンダーでロマンスグレーの似合うダンディーなおっさんになっていることを祈念しつつ、まずは目先の1年を過ごしていくことにする。
 目先と言えば鉄道の方も現段階で11.2kmが未乗のままになっている。なるべく早く機会を作ってこれを片付けておかなければならない。どうにもこじつけがましいが、初志貫徹、目先の課題の整理がダンディーなおっさんへの一歩であると勝手に理解している。


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2019/08/14

熊出没注意 リターンズ


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 世はあげてお盆休みである。遠くへ行ったお子さん一家が久々に戻ってきて、一緒にお墓参り、という光景もあちこちで見られる時期である。しかるに今、札幌では先日、そのお墓参りをなるべく控えるように、という、珍しいお達しが市から出されていた。
 その舞台は私の住む南区である。札幌市中心部から定山渓方面へ向かって車で40分ほどの藤野・簾舞地区で、ここ1週間ほど、ヒグマの目撃情報が相次いでいる。


 札幌市におけるヒグマの目撃および痕跡の発見情報は、そのおよそ9割が南区に集中している。札幌市がまとめた出没情報件数(目撃情報と痕跡発見情報の合計)は、2011年の254件をピークとして減少傾向にあったが、2017年度頃から再び増加傾向にある。2018年度の出没情報件数は137件で、うち南区が123件となっていた。


 ところが今年は8月12日現在ですでに158件(うち南区148件)を数え、しかもそのうちの30件は8月に入ってからのものである。特にここ1週間はクマも人間慣れしたのか、ついにお日様の下堂々と民家の庭先に出没するという事態に至った。夏休み中とはいえ付近には高校もある。また、近くには墓地も複数箇所ある。
 このため、札幌市は藤野地区の墓地への墓参りを自粛するよう異例の呼びかけをおこなった。それでも墓参する人の中には、「いざというとき(逃げるとき)のために」スニーカーを履いてきた、などという、冗談にもならないコメントまで飛び出している。


 藤野地区の住宅街に毎日のように出没していたクマは同一の個体とみられており、警察などが警戒を強める一方、市では箱罠を設置したり、地元猟友会によるパトロールなどもおこなわれていた。つい先日は、家の勝手口から外の様子を窺うおばあさんの姿と、そのわずか数メートル横の家の陰をうろつくヒグマ、そして「家の中に入って!鍵を閉めて!」と促す警察の姿がニュースで流れた。
 14日の早朝、このヒグマは藤野地区の山中で猟友会によって射殺された


 そのこと自体の是非をここで問うても仕方がない。動物愛護団体からは抗議もあるだろう。実際、クマが出没している一帯や、あるいは私が住んでいるところも含めて、ここ30~40年ほどの間に宅地開発が進んだところである。そういう意味ではもともとクマをはじめとする自然界の動物たちの住居であったところに人間が侵食していった結果であり、一方的にそれを排除する人間の身勝手に対する批判はわからないでもない。


 だがそれは外野の意見であって、当事者の意見ではない。
 私だって無辜のヒグマの命を奪うようなことはない方がいいに決まっていると思っているのだが、自分の生活圏の目と鼻の先にヒグマが現れる環境下で、そのような悠長な綺麗事を述べる自信は、少なくとも私にはない。なにしろ我が家の近く、半径数kmでも、ここ数年クマの目撃情報は何度かもたらされている。角々に保護者が立ち、集団登校で粛々と学校へ通う子供たちの姿を見ると、実に申し訳ないのだが、早く駆除してくれないか、という気持ちになる。


 時々、ばったり出くわしたクマを投げ飛ばした剛の者がニュースになることがあるが、そのほとんどは本州での出来事で、相手はツキノワグマである。北海道のヒグマはそれよりもひとまわり以上体が大きく、足柄山の金太郎をもってしても勝利を収めるのは至難の業である。山中深く分け入っているのならばともかく、日々の生活圏の中で絶えず生存競争に巻き込まれて戦々恐々とするのは、客観的に見れば自然界の摂理だが、当事者にとってみればシャレの範疇を遥かに超える


 箱罠で捕えて山に返すのも一案ではあるが、ひとたび人里を訪れることを覚えたクマがまた同じ挙に出ないとは限らない。行き過ぎた保護が個体数の増加につながれば、このところただでさえ不足気味と言われている木の実などクマの食糧が争奪戦となり、人里へ降りてくるクマは間違いなく増える。基本はおとなしいとされるヒグマだが、ひとたび暴れた時の凶暴性は、過去の三毛別ヒグマ事件福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件などが示している。


Image3  未明の射殺により、藤野墓地の墓参り自粛は解かれたが、付近の山中に生息するヒグマはこの1頭だけではない。出没エリアも、今回は国道230号線から南側の山麓だったが、またいつ何時我が家の近くに現れるかわからない。
 クマった話だなあ、などと思いながらテレビを観ていると、今度は台風のニュースである。九州・四国・本州を直撃する大型の台風10号は、日本海に抜けた後、大きく東にカーブし、札幌を直撃する進路予想になっている。全盛期の岩瀬のスライダーを彷彿とさせる軌道だなあ、などとのんきなことを言っている場合ではない。大きな被害にならないことを祈るばかりである。


 ※参考までに過去記事⇒「シャレにならない」

 

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2019/08/04

いかさま音楽堂【4】さだまさしの世界との出会い

 10年間続けた音楽から足を洗った後も、私の音楽への興味が喪失したわけではない。ただ、向かう方向性がもう少し一般的なジャンルへと行っただけのことである。


 私の中学生時代はアイドル全盛期の末期に当たる。1985年のオリコンTOP10にはチェッカーズと中森明菜が3曲ずつランクインしている。TOP10には入っていないものの、この年デビューして一世を風靡したのがおニャン子クラブであった。今振り返るとわずか2年半の活動期間だったらしいのだが、集団販売戦略や秋元康による楽曲提供など、現在のAKBグループに通じるものがある。初期メンバーは記憶にあるものの、メンバーの入れ替わりに連れて誰が誰だかわからなくなるところも私にとっては共通項である。
 1987年になると光GENJIがデビュー。こちらも同世代の女の子たちには爆発的に人気があった。


 さらに私が高校に入学する頃にはバンドブームが到来する。学校祭のバンドでは、BOOWY、TMネットワークあたりのまがいものが入れ代わり立ち代わり登場し、下級生の女の子たちを熱狂させていた。時代が昭和から平成に代わると、土曜の深夜、「平成名物TV」の1コーナーとして、いかすバンド天国、通称「イカ天」の放送が始まり、JITTERIN'JINN、BEGIN、たまなどがここから旅立った。


Photo_20190804233901  世間一般の中高生がこうした人々に黄色い声援を送る中、私はひとり、さだまさしの世界に浸っていた。
 きっかけは当時TVで放送されていた「花王名人劇場」という日曜夜の番組ではなかったかと思う。週替わりでさまざまな企画を放送し、1980年代初頭には漫才ブームの火付け役ともなったこの番組の企画のひとつが「さだまさしとゆかいな仲間」である。1時間の番組中、歌が数曲、ゲストの演芸が15分ほどで、残りの時間はさだまさしのトークであった。このトークの面白さ、絶妙な間とテンポが、私がこの人に興味を抱いた主たる要因である。


 もっとも、私がその先でさだまさしに強く惹かれた理由はそこではない。
 いまでこそテレビの露出が増え、トークに象徴される愉快な一面はよく知られるようになったが、当時「さだまさし」と言えば暗い歌手の象徴のように言われていた。これはグレープ時代の「精霊流し」「無縁坂」、ソロ初期の「防人の詩」などの印象が強いせいもあるだろう。だが何百曲とある中でそういう曲はひと握りに過ぎない。明るい曲もおちゃらけた曲もある。


 それらも含めて、この人の織り成す詩がとても美しく、またどうしようもなく優しいところが、さだまさしの魅力なのである。その感覚が分からない人に「さだまさし好きのお前は暗い」と言われるのなら、私は一生暗い人間でも構わないと思っている。


 この感性は当時の同じ世代の中ではきわめて異質である。周囲が当たり前のようにエレキギターやベースの習得に勤しむ中、私はフォークギターを握りしめてアルペジオの練習に没頭した。音楽の場面においても世の中の流れに乗り切れなかったことが、高校3年生で手に入れた恋を蒸発させる要因のひとつにもなったのであるが、今思えばこれは自分の世界を尊重しすぎた私に責任がある。好きな彼女が「レベッカが好き。PSY'Sが好き」と話してくれているのに「はあ?何それ?やっぱさだまさしでしょ」などと突っぱねていれば呆れられるのも道理である。


 こうして恋を散らしたことで、ようやく私はそれ以外の世界にも少しずつ足を踏み込んでいくようになる。だがそういう結果を招いた後でいかにレベッカやPSY'Sの良さを感じたところで、失くしたものが戻ってくるわけではない。私は逃げるように北海道へと去り、彼女はほどなくロックでもフォークでもない、全く別のジャンルの音楽と出会い、今に至るまで音楽の道を歩いていくことになるのだが、それはまた別の機会に。

 

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2019/07/29

帰省百態【1】名古屋・札幌 空の玄関の28年

 変わったルートでの帰省の話の前に、まずは飛行機での単純往復の話を。


 飛行機での北海道と岐阜を往来する単純往復は、体験した回数も多く、ルートも毎回同じなので面白味に欠けるが、それでも実際には28年も経てばいろいろな変化があり、今思い出すと感慨深い。


 1991年当時、中部国際空港はまだなく、岐阜の実家の最寄り空港は名古屋空港(小牧空港)だった。鉄道系の交通アクセスとは無縁な空港で、実家がある土岐市からだと、JR中央本線で勝川下車、そこから路線バスに乗って15分ほどを要した。むしろ車ならば、国道19号線を走って1時間足らずで行くことができたから、当時は両親が車で送り迎えをしてくれた。


 1階が到着ロビーと発券カウンター、2階が出発ロビーと売店、レストランというシンプルな名古屋空港だったが、全国各地へ飛行機が賑やかに飛び立ち、ターミナル内は旅客の活気であふれていた。2階にあった喫茶店は、どの時間帯でも混雑していた。
 2005年の中部国際空港開港で、大半の路線は新空港発着となった。「県営名古屋空港」と呼称が変わった現在の空港からは、FDAが8都市へ片道24便が送り出されるばかりとなっている。現在の名古屋空港がどう変わっているか気になるが、中部開港以来行っていない。往時の賑わいを知っている身としては、行かない方がいいような気も多少しないではない。


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 空港が実家からかなり離れてしまったため、車での送り迎えはなくなり、中部国際空港へは名鉄電車とJR中央本線を乗り継いで行き来することになった。中部国際空港の開港当時は、今は亡き名鉄パノラマカーも急行電車として乗り入れており、快速特急「ミュースカイ」に乗れば金山まで30分足らずのところ、わざわざ40分以上かけてパノラマカーに揺られることもあった。


 空港が新しくなったのは、北海道側も同じである。1991年当時、新千歳空港はまだ滑走路だけが供用開始されており、ターミナルは千歳空港だった。新千歳空港ターミナルビルの開業は翌1992年のことである。
 旧千歳空港ターミナルに降り立つと、ターミナルビル2階とつながる長い跨線橋を渡って国道36号線を跨ぎ、千歳空港駅まで歩いた。1980年に開業した、空港連絡駅の嚆矢である。徒歩5分ほどかかる跨線橋には、大きな荷物を運搬するための台車も用意されていた。


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 千歳線の本線上にあった千歳空港駅は、石勝線の分岐駅でもあり、函館方面からの「北斗」、帯広・釧路方面からの特急「おおぞら」「とかち」すべてが停車した。この他に室蘭方面からのL特急「ライラック」と普通列車が空港アクセス列車として利用されていた。普通乗車券より200円ほど高い「エアポートシャトルきっぷ」を買えば、特急列車の自由席も利用できた。


 専用列車でない分混雑はひどく、座れないことも多かった。当時の「ライラック」781系電車には、長距離バスのような補助席を取り付けた車両もあった。この話をすると「特急に補助席?まさか」と一笑に付されることが多いのだが、「MY FAVORITE THINGS」というホームページの中に当時の写真があったので、妄想ではなかったようである。


 1992年の新千歳空港ターミナル開業に合わせて、千歳線の支線が千歳空港駅から分岐して空港直下へ乗り入れた。千歳空港駅は南千歳駅と改称されて各方面への乗り継ぎ駅となった。特急列車は利用できなくなったが、1時間4往復の快速「エアポート」が運転されて利便性は格段に向上した。ホームには常時1本の列車が待機しており、とにかくホームに降りれば列車に乗れるというサービスであった。この体系は現在に至るまで変わっていない。各列車に1両の半分設けられていた指定席はのちに「uシート」に発展し、1両に拡大される。


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 快速「エアポート」は、毎時4本のうち、転換クロスシートの721系電車6両編成が2本、特急型の781系4両編成が2本運転されていた。781系の列車のうち1本は、札幌からL特急「ライラック」となって旭川まで足を伸ばしていた。のちに乗り入れ列車は785系・789系電車の「スーパーカムイ」となり、岩見沢に住んでいた頃は頻繁に利用した。しかし、短編成と乗降口の少なさから特に快速区間での混雑が目立つようになったことと、ダイヤの乱れの影響を小さくするため、2016年に直通運転は終了となる。また、私も札幌市南区に居を構えたため、空港アクセスにJRよりも真駒内方面へのバスを利用する機会が増えた。南区民にとってはバスの方が運賃も安く、所要時間も短い。


 最後に飛行機本体。当時の名古屋~千歳便は、数便のJAL・JAS(これも懐かしい)の他は大半がANA便で、2+3+2列の座席配置を持つ中型機のボーイング767型機が主流だった。機内の後ろ半分が喫煙席になっていたのも懐かしい思い出である。もっとも、当時の私からすれば喫煙席などはなはだ迷惑な存在でしかなく、座席はなるべく最前部に近い席を選んでいた。私が諸般の事情から煙草に手を出したあたりから飛行機をはじめ公共交通機関から喫煙席が減っていったのは皮肉である。



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2019/07/22

参議院選挙と高田渡「値上げ」

 参議院選挙の通常選挙がおこなわれ、現在着々と開票作業が進んでいる。
 今回もここしばらくの選挙の傾向を大きく踏み外すことなく、連立与党が改選過半数を余裕で獲得し、焦点は維新を含めたいわゆる「改憲勢力」が3分の2を確保するかどうかという点になっている。現状では各局ともやや微妙との見方となっており、そもそも公明党が「改憲勢力」に相当するかどうかも疑わしいと内心では私は思っているのだが、ともかく、選挙に前後していろいろな問題が浮上しながら、結果「いつもどおり」の状況になりそうである。
 

 選挙が行われるたびに、私が思い出す曲がある。それは高田渡の「値上げ」という曲である。


 ⇒高田渡「値上げ」

 高田渡は1960年代後半から70年代に活躍したフォークシンガーである。世相を鋭く切りつつ、それをどこか揶揄するような曲を多く残した。「値上げ」はその中の1曲である。値上げを明確に否定するスタンスが、次第に表現を変えて弱くなっていき、最後には値上げに踏み切ることになる。そのニュアンスの緩やかな変化が非常に面白い。政治家の答弁そのものである。


 前回の選挙の時に挙げた政権公約が実際に実現されたのか、そのような経過をたどったのか、それは選挙のたびに私が気になっているところである。今回、「池上無双」でおなじみの池上彰氏がそこに切り込んでいた。ターゲットとなっていた公約はTPPである。
 確かに6年前、今回改選となった議員が選ばれた参院選では、自民党もTPPに反対していた。しかし結果としてTPPはアメリカを除いた形で批准され、今回の参院選後にはそのアメリカとの貿易交渉も控えている。


 某議員が池上氏の質問に答え、「聖域なき関税撤廃を前提とした交渉には反対だと言っていた。アメリカが抜け、その前提がなくなったのだから問題ない。われわれは一度も全面反対だと言ったことはない。」と公言していたが、果たしてそうだったか。選挙公報にはそう書かれていたかもしれないが、少なくとも議員の口からそのような発言はなかったと記憶している。



 もちろん、TPP批准に至る経過には、最大限の国益を実現するためという目的があったはずである。私はどちらかというとTPP批准で大きく影響を受ける業界に近いところで働いているが、全体としてそれが最大の国益に通じるというのならば仕方がないとは思う。だがそれならばその過程を丁寧に説明すればよい。現実にはうやむやのうちに政策は転換され、「値上げ」の曲と同じ展開をたどった。それだけならばまだしも、「反対」をなかったかのように扱うその姿勢に、政治家としての誠実さは見られない。


 説明と言えば、闇営業をめぐる一件で、吉本興業所属の芸人2名が土曜日に記者会見をおこなった。真相が明らかになったかどうかは定かではなく、また会社側の説明も現時点でも受けていないので、それが正しいのかどうかは判断しがたい。けれども会見の中で、記者の質問に真摯に応えようという姿勢は少なくとも見られたし、2時間半という長い時間、質問が出尽くすまで記者たちと向き合った誠実なスタンスは評価されてよいと思う。


 そのことから考えると、今の政治家に信頼や期待を置く人が少なくなるのもやむを得ないのかなと感じる。今回の投票率は50%を割り込むとみられており、少なくとも半分の人が投票に足を運ばなかったということがそれを如実に表している。
 質問に対してそれを遮ったり、質問に沿わない自説だけを自慢げに語ったり、敵対する野党を揶揄するような発言を繰り返す党首に「真摯」という姿勢を感じることはできない。6年半前の謙虚さはどこへ行ってしまったのかと思う反面、政治空白に等しい3年あまりを生んだ挙句に四分五裂し、存在感を示すことのできない野党に期待することもできない。


 国民の権利である「選挙権」を行使しないことに対して批判することはそれはそれで正しいのだろうが、消去法で投票先を決めようとしたらみんな消去されてしまった、という有権者がおそらく相当数に上るに違いない。
 私は今の与党の政策を全否定するつもりは毛頭ないが、全有権者数のわずか4分の1程度の投票によって過半を超える議席を得ているという事実を肝に銘じ、より真摯に国民や政治と向き合ってほしい、と切に感じている。


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2019/07/15

帰省百態【0】岐阜・札幌間の小さな旅

 私が岐阜県の出身で、大学時代以来北海道に住み続けている、ということは、これまでも折に触れて書いた。大学入試の時まで足も踏み入れたこともない北海道が私の生活の拠点になることなど全く予想もしていなかったが、現実には北海道民になってまもなく30年になる。


 岐阜と北海道と言えば軽々しく移動できる距離ではなく、帰省と言っても年に1回から2回くらいがせいぜいであるが、それでもこれまでに何十回もこの間を移動している。普通ならば札幌から新千歳空港までJRまたはリムジンバス、そこから飛行機で中部国際空港へ飛び、名鉄電車とJR中央線を金山で乗り継いで多治見ないし土岐市まで、というルートになる。乗り継ぎ時間にもよるが、自宅から実家までの最速所要時間は5時間半程度といったところである。


Img_3801_20190715221901  今でこそLCCの登場により、新千歳-中部で1万円を切るような航空券も比較的入手しやすくなったが、私が北海道へ渡った当初は、名古屋(中部ではない)-千歳は正規運賃で約3万円。事前予約ができない「スカイメイト」でも35%引で2万円弱を要した。
 かたやで鉄道だとどうかというと、当時東北新幹線はまだ盛岡止まりで、東海道新幹線の「のぞみ」も誕生前。札幌から函館、盛岡、東京、名古屋と乗り継いで、札幌-土岐市が15時間程度と、時間的には全く勝負にならない。運賃は当時は学割が使えたので2割引、新幹線などの特急料金も含めて25,000円程度と、飛行機の正規運賃よりも安かった。


 特に大学時代は、金はないが時間はあった。加えて、せっかく1,000kmを超える移動を、単に飛行機でブーンと飛ぶだけではつまらない。よって私は、「帰省」という機会を存分に利用して、飛行機はもちろん、鉄道だけにこだわらず、さまざまな手段、ルートで北海道と岐阜の間を往復してきた。過去を思い出しながら整理してみると、飛行機による王道の往復を別としても、

1.鉄道・バスのみ
2.飛行機+鉄道・バス
3.鉄道・バス+フェリー
4.自家用車+フェリー
 
といった感じの手段がある。それぞれに多様なルートがあるので、ネタ切れの当節、これだけでも十分ブログのネタにはなりそうである。

 

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2019/06/30

いかさま音楽堂【3】80年代ポプコン曲と「イヤーワーム」

 頭の中である特定の音楽がループして離れなくなる、という話を前回書いた。
 これは「イヤーワーム」という、ちゃんと名前の付けられた現象で、精神分析学者や神経科学者などの間で研究も進められているのだという。一説にはすべての人の98%が何らかの形でこれを体験しており、感受性によっては不快に感じたり、ある種の鬱をもたらすこともあるという。


 イヤーワームの原因や対処法についてはまだ明確な研究成果は出ておらず、いろいろと調べれば調べるほど様々な学説がある。どのような曲がイヤーワームを起こしやすいか、などという調査もあり、掘り下げれば大変面白そうだが、今の私にそこまで学術的な世界に没頭している暇はない。


 私の場合はどうかというと、どこかで聞いたことがあるがその曲が何なのか、どこで聴いたものなのかがわからず、ある日何かの拍子に正体が判明した場合など、しばらくの間その曲が頭の中を駆け巡ることが多い。ことにその曲が旋律的に大きなインパクトを持っていたり、私のツボにはまるようなコード進行を持っていたりすると、長期にわたって私の脳内を支配することになる。

 

 最近の私の頭の中を駆け巡る曲のひとつが、磨香の「冬の華である。

 ⇒磨香「冬の華」

 先日来、ポプコンの入賞曲を渡り歩いた中でたどり着いた。これは出だしの部分の特徴的な声やメロディーと、シンプルなピアノの伴奏が印象的で、長い間全体像が分からずに頭の片隅に残っていた。曲の正体がわかってあらためて通しで聴いてみたが、深い。「いつまでたっても枯れないで 毎日涙をあげるから」というフレーズなど、ぞわぞわっとくる感覚がある。
 磨香さんはこの当時高校生だったという話だが、10代後半にしてあまりにも深く暗い、悲しげな詩や曲を生み出す才能というか、ある種の屈折した感情は凄絶ですらある。磨香さんは第25回ポプコンでグランプリを獲得したこの曲だけをリリースして表舞台から姿を消した。そんな経過を知ったことも、今の私のこの曲への興味を深めた理由のようである。


 もうひとつ、私の頭の中を駆け巡る曲が、明日香の「花ぬすびとという曲である。

 ⇒明日香「花ぬすびと」

 こちらもたどり着いた経過は同じである。おそらく子供の頃にラジオか何かで聴いたのだろうが、「二度咲き、夢咲き、狂い咲き」というフレーズが頭のどこかにこびりついていたようである。
 この曲は第23回ポピュラーソングコンテスト本選で優秀曲賞に選ばれている。明日香さんはその後も歌手として活躍された。これは東海地区の我々と同年輩以上限定ではあるが、犬山市にある某製菓会社の経営する観光施設「お菓子の城」のCMソングは、「花ぬすびと」の物悲しい世界とは全くマッチせず、声のトーンも全く別人のような印象を受けるが、これも明日香さんの曲である。残念なことに、明日香さんは2013年、49歳の若さで亡くなられたそうである。

 ⇒「お菓子の城」


 「花ぬすびと」が優秀曲賞を獲得した第23回ポプコンでグランプリに輝いたのが、あみんの「待つわである。こちらはイヤーワームではなく、当時から鮮烈なインパクトをもって私の心に住み着いている。ソロになってからの岡村孝子さんの曲も悪くはないが、あみんのファーストアルバムに収録されている薄暗い感じの曲の方が私は好みである。ちなみにあみんのセカンドアルバム「メモリアル」は、大半がポプコンで入賞した曲のカバーで構成されており、こちらも味わい深い。そう言えば岡村孝子さんも今、大変な病と闘われている。時間はかかるだろうが快癒をお祈りしたい。


 この時代のこういった曲は、音楽的にも歌詞の内容的にも私をとらえて離さない。頭の中から去らないから、何度も聴き直すことになる。ある種の中毒のような感じになっている。
 といった話を先日、会社の若手女性とした。実際に「冬の華」を聴かせてみたところ、「暗いです。あといろんな要素を詰め込み過ぎです。私はもう少しキャッチーな曲の方が印象に残りますね」という反応だった。
 今の時代においてはよほどこちらの方がキャッチーな気もするが、婉曲的なメタファーを盛り込んだこの時代の曲よりも、もう少しストレートに訴えてくる曲の方がすんなりと入ってくるのだろう。これは年の差か、と一瞬考えたが、むしろ「暗いです。」という部分の方が的を射ているかもしれない。私の本質は実のところ、そちら側なのである


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2019/06/23

いかさま音楽堂【2】 音楽との42年

 そもそも私と音楽の付き合いは非常に古い。幼稚園に入園した4歳の春からだから、もう42年の付き合いである。これは私にとっては鉄道歴よりも長い
 幼少の頃から外で泥だらけになって遊ぶよりも芸術や文章に触れることを好むお上品な子供であった私は、幼稚園入園とともに、幼稚園内の音楽室で開講されていたヤマハの幼児科教室へ通い始める。これを卒園までの2年間続け、小学校入学以降はアンサンブルコースへ1年、それからジュニア科へ4年と、7年間のグループレッスンのほか、小2からは幼児科時代の先生の自宅へ個人レッスンに通っていた。


 普通に小学校に通っていれば半径2kmから外へ出ることのない幼少期に、バスに乗って隣町の駅前まで通える、という不純な動機もあったことは否定しない。ともあれ、小2から小3にかけての私は、この他に週3回の習字と週2回の剣道少年団にも通っており、月:習字、火:音楽(グループレッスン)→剣道、水:習字、金→習字+剣道、土→ピアノ(個人レッスン)と、習い事のない平日は木曜日だけ、という、今の私に勝るとも劣らない忙しさであった。


 だがこうした状況は、幅広く技術を習得することができる半面、すべてにおいて中途半端な子供を創り出す。まず習字。初段への昇段試験に3回滑り、小3の途中で断念する。その後大学時代のバイトや社会人になってからの資料作成で、「字が読みやすい」という評価を受けるが、「字が美しい」と言われたことはない


 次にヤマハのグループレッスンだが、そもそも練習嫌い、という私の性格もあるのだが、もうひとつ、とある先輩との出会いが岐路になっている。
 ヒデさんという私の小・中学校の2つ上の先輩で、今は世界を股にかけて音楽でピアノを演奏されている。とにかく発表会や、ジュニアオリジナルコンサート~ヤマハが開催する小中学生の自作曲のコンクール~で奏でる曲は、2歳の年の差を遥かに超え、センス、テクニック、すべてにおいて私とはイチロー対リトルリーグほどの差があった。


 人格的にもたいへん優れたヒデさんと出会ったことで、自分にも音楽的な才能があるのではないか、という淡い自信は見事に打ち砕かれ、私はお決まりのようにおふざけに走った。今思えば真面目にレッスンを受けていた同じクラスのメンバーには大変迷惑をかけたと思う。
 結局ジュニア科4年の満了後、私はヤマハでさらに高みを目指すことをあきらめ、個人レッスン一本に絞るのだが、こちらもピアノを上達したいというよりは、帰り道の甘味屋で1本50円の五平餅を買って食べるのが楽しみだというありさまであった。


 こうして、もはや音楽は私にとって「手に職」ではなく、単なる趣味の延長上にしかなくなり、中学3年生の春、受験を翌年に控えた私は、10年間学び続けた音楽から一時距離を置くことになる。
 だが不思議なもので、レッスンとか練習という重荷を下ろした私は、練習嫌いの私の部屋でいつもホコリをかぶっていたアップライトのピアノの前に座る機会が増えた。今私の家には安物のキーボードしかないが、何かの拍子にふと無性に弾きたくなり、時々押し入れから引っ張り出しては戯れている。


 そういうわけで今でも私はピアノの前に座れば、多少指の動きがぎこちなくなるのは別として、ラジオ体操第一・第二くらいは演奏できる。小さい頃から蓄積したある種の「音楽脳」は今も健在で、音楽を聴くことも好きだし、周囲がウエーと言うくらいカラオケも好きである。
 ただ多少困ったことは、中学、高校くらいから音楽の趣味が少々周囲と比べて脱線し始めたことと、インパクトのある曲に出会うとしばらくの間、その歌が頭の中を駆け巡り、仕事中だろうが食事中だろうが耳から離れてくれなくなることである。最近もとある曲にストーカーのように付きまとわれているのだが、その話はまた、いずれ。

 

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2019/06/18

ブログを書く気力が減退しているここしばらくの私

 最近、とある友人から「最近のあんたのブログは面白くなくなった」と言われた。


 私の場合、ブログは文章を書くための鍛錬だと思っているので、必ずしも周囲の人々を面白がらせようと思って書いているわけではないのだが、直球勝負で何のひねりもなく言われるとさすがに少々へこむ。けれども、このところの文章を自分で読み返してみると、確かに一時期のようなキレがない。このところPCに向かっていても気乗りのしていないことが多い自覚症状もある。


 旭川から札幌へ転勤してきて1年半近くなるが、仕事の方が少なからず多忙になっている。もともと経験のない業務で、1年半が経過しても知らないこと、未経験のことが多く、無知がゆえに振り回される時間は多い。決断までの所要時間も長くなる。
 これに加えて通勤時間が伸びている。行き帰りでおよそ2時間が費やされている。そのうち半分から7割の時間、バスや地下鉄に揺られているのだが、スマホで文章を書くのが得意ではない私にとっては専ら寝るか音楽を聴くか本を読むかの時間である。
 こんな調子で帰宅時間も遅く、PCに向かう時間もままならなくなっている。心身ともに疲労が蓄積しているのか、平日も休日もPCの前に座りはするものの、文章を書く気力が乗ってこない。


 思い返してみると、「文章を書くのは好き」と公言しながら、そもそも私は日記を綴るのが大変苦手だった。その日あった出来事を即席で文章に落とすと、悲しいほど平べったい表現になる。自分が読んでも面白くないから続かない。たいがい1か月も持たずに尻切れトンボとなる。唯一の例外は小学校時代に好きだった女の子とやった交換日記くらいで、どうやら明確な目的意識、悪く言えば下心がなければ続かないことになっているようである。私がブログで滅多にその日の出来事を日記的に書かないのは、このあたりに理由がある。


 そういうわけで、私がブログを書く時には、さまざまな出来事をメモや写真から掘り起こし、熟考しながら文章に起こすことが多い。綴っていて断然楽しいのはもちろん鉄道の話である。けれども、これも昨夏にひと区切りを付けてしまってからはあまりパッとしない。3月以降、大阪や横浜で新しい路線の開業もあるが、訪問のめどはたっていない。過去ネタであれば、四半世紀あまり前の大物が2件ほど、まだ料理されずに残っているが、これはできればもう少し先の楽しみに取っておきたい。そうなると、さて、どうしようか、ということになり、結局最近の私はPCの前でYoutubeを開いてぼんやりと音楽を聴いている。


 このところよく聴くのが、かつてヤマハが主催していた「ポピュラーソングコンテスト」、略して「ポプコン」の曲である。昭和50年代の音楽シーンに燦然と輝くポプコンは、1969年から1986年までの17年間、延べ32回で、あまたの名曲とアーティストを輩出してきた。全般にフォークあるいはニューミュージック系統の曲が多いのだが、この時代の曲にはある種の中毒的なところがあって、一度耳にすると容易に離れてくれない。細かな曲の話は後日に回すとして、ここ数日も私の頭の中で2曲ほどが交互に駆け巡っている。


 ポプコンの聖地と言えば静岡県のつま恋だが、開始当初は三重県の合歓の郷が本選会場だった。この2施設はいずれも当時ヤマハが運営していたリゾート施設である。私もかつて通っていたヤマハ音楽教室の合宿(と称した旅行)と家族旅行で二度、合歓の郷へ行ったことがある。コンサートはもちろん、音楽合宿でもよく利用されていて、ポプコンでグランプリを獲得する前のあみんなんかもここで合宿したと当時の著作に書いてあった。園内ではBGMとしてポプコンから生まれた曲や、ポプコンに縁のある歌手の歌がスピーカーから繰り返し流れており、これも私の脳内にその曲を強く刻み付けた。


 そんなこともあって、私はYoutubeを観ながら、当時音楽少年だった時代の自分を思い出している。そう言えば、7年以上もブログを続けてきて、「音楽の旅人」などというカテゴリーまで用意しながら、そのカテゴリーにはたった1本の記事しかない。講釈を垂れるほど音楽に造詣が深いわけではないけれど、好きな音楽の話や音楽との交わりの話ならそれなりにネタもある。試しにそんな話を書いてみようかな、などと考えているところへ、新潟県で震度6強というニュースが入って来た。1年前の今日は大阪府北部地震が発生した日である。その間には北海道胆振東部地震もあり、大きな地震がどこかで続いている。
 まだ現地の情報は細かくは入ってこないが、一部では停電も発生しているようである。大事に至らないことを祈るばかりである。


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2019/06/02

「白い巨塔」~3人の財前五郎

 5月の末に放送されたテレビ朝日系のドラマ「白い巨塔」。都合が重なってリアルタイムで観られなかったが、録画しておいたものをようやく全編観ることができた。

【注】以下ネタバレありますので注意。


Img_3756  大学病院をめぐるあくなき権力闘争と、医療に向き合う人の姿勢を主題に据えた「白い巨塔」は、私の好きな作家のひとりである山崎豊子の長編小説である。1963年から68年にかけて雑誌連載され、1966年から断続的に映像化されている。とくに有名なものは、主人公のひとり、財前五郎田宮二郎が演じた1978年版、唐沢寿明が演じた2003年版だろう。前者は全31話、後者は全21話と、長い連続ドラマになっている。


 岡田准一が財前五郎を演じた今回は84分×3、130分×2の計5話である。過去2度の連続ドラマと比べると短く、限られた時間の中でエピソードが盛り込まれたこともあり、内容的にはかなり絞り込まれたものになっていた。原作と比較すると、1978年版、2003年版のドラマでも細微のエピソードがカットされているが、今回はさらにカットされ、ストーリーの本筋にかかわる部分の一部にまで及んでいた。それが本筋の展開に少々無理を生じていた点が気になっており、医療と向き合う医師のあり方が描き足りないように感じたのは残念だった。


 原作や過去のドラマと見比べてみるときに興味深いのは、主人公、財前五郎のキャラクターである。
 貧しい境遇に育ち、篤志家の支援で医学の道に進んだ財前は、その才能を見出されて財前又一というスポンサーを得て、最上級の技量を持つ外科医にして、強い上昇志向を持つ野心家となる。同級生の内科医・里見脩二とは、互いにその能力を尊敬しあいつつも、医療や患者との向き合い方を巡り対立する場面が増えていく。
 登場人物の中では一見、最もわかりやすい性格の持ち主のように見えて、実はその台本、キャストによって受ける印象が最も異なる人物でもある。


 1978年版で田宮二郎が演じた財前は、時に策士になり切れない脇の甘さを見せる場面がある。里見や愛人の花森ケイ子の鋭い指摘にひるむ場面も多い。尊敬とある種の畏敬の念が混じり合い、里見に対しては苦手意識、ケイ子に対しては甘えの表情となって現れる。部下である医局員たちに対しても、威圧的で絶対権力者でありながら、少なくとも鉄壁の強さを持った人間ではない。控訴審に敗れ、死の床についた財前は、医療や患者と向かい合う姿勢の中に過ちがあったことを認め、反省の念を強くしていく。
 このドラマの収録直後に田宮二郎本人は猟銃自殺を遂げる。末期になればなるほど演技に凄絶さが増していくのはこのためかもしれない。


 2003年版、唐沢寿明の演じた財前は、前作と比べると落ち着いた印象を受ける。いかなる状況においても表情を動かすことが少なく、きわめて冷静に行動している。その冷静さと自信は、誰かに甘えたいという弱さや、随所で襲ってくる不安を、必死で押し殺しているようにも見えた。それは死期が近付いても変わらず、里見とともに自分の病状を確認しあった後も、医師としての誇りを失わなかった。夜の病院で里見と向き合った際の「僕に不安はないよ。ただ…、ただ、…無念だ」という、短く、抑えたセリフに胸を打たれたのは私だけではないと思う。


 これに対して、今回、岡田准一が演じた財前五郎は、自らの技量と野心に寸分の隙も見せない強固さが貫かれていた。だがその側面が強調されるあまり、医局員の柳原にカルテの改ざんを求める(このシーン自体が2019年版のオリジナルだが)シーンでの表情など、鼠を袋小路に追い詰めたかのような冷酷さ、残忍さを感じた。敗訴と末期癌という事実に直面した際、財前五郎は財前五郎でなくなったかのように取り乱す。そこに最後の安定を与えたのは外ならぬ里見の存在ではあったが、全編を通して今回の財前五郎には自信を通り越した「狂気」の印象を受けた。


 原作の中の財前五郎は、死を迎えるに際し、「自ら癌治療の第一線にある者が、早期発見出来ず、手術不能の癌で死すことを恥じる」という言葉とともに、自らの病状に関する所見を述べた手紙を大河内教授に託した。ドラマではこの手紙は、いずれも里見宛に変更されており、田宮二郎の財前五郎は自らの来し方に対する反省の弁と里見への感謝を綴り、唐沢寿明の財前五郎は医師としての矜持を里見に託し、岡田准一の財前五郎は里見への感謝の言葉こそあったものの大学の名誉を傷つけたことへの謝罪を残した。


 三者三様の財前五郎に対する評価は人それぞれだろうと思うし、好みもまたそれぞれだろうと思う。以下は私の私見であるが、全体を通した印象として原作のイメージに最も近いのは唐沢版、山崎豊子が描く財前五郎像に近いのは田宮二郎、という感想を抱いた。
 今回のドラマがつまらなかったわけではなく、これはこれでよくできた作品だとは思ったが、いかんせん放送回数の関係でディテールが弱いことと、なによりこのふたつの作品がいずれも強烈な印象と高視聴率を残したゆえに、田宮版から40年、唐沢版から15年以上を経ても比較で見られてしまうことは大変不幸であるように思う。もう一度じっくり見返す機会があれば、また印象は変わってくるのかな、とも思う。



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