2020/03/22

令和最初のひとり旅【支線6】那覇駅の転車台と牧志公設市場

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】 
  【支線1】 【支線2】 【支線3】 【支線4】 【支線5】


Dscn2091 Photo_20191223004301   
 奥武山公園の散歩ののち、国場川を挟んだ対岸の壷川駅からてだこ浦西行きのモノレールに乗る。列車は国場川から分かれて右にカーブし、支流の久茂地川に沿って走る。久茂地川の左岸にある旭橋駅は、那覇市の都心に近く、周囲を商業ビルに取り囲まれて、これまでの各駅とはかなり変わった雰囲気を持っている。これでゆいレール全19駅に足を記したことになった。


Dscn2097 Dscn2096   
 駅を出て久茂地川を渡ると、那覇バスターミナル。那覇市内や近郊へ向かうバスの拠点で、カフーナ旭橋と呼ばれる商業施設と一体化した大きなターミナルである。バス乗り場はコンビニエンスストアや待合室のある建物の周りを囲むように設置されていて、全部で11本ある。時刻表や路線図とにらめっこしていきたい場所を探すことになるが、なにしろ路線が多く、ビギナー旅行者の私にとってはハードルが高い。


Dscn2101 Dscn2103  
 その那覇バスターミナルと旭橋駅の間にひっそりとたたずんでいる、オブジェのような小さな円形のスペースがある。これは転車台の跡である。ゆいレールが完成するまで鉄道空白地帯だった沖縄だが、第二次世界大戦までは那覇を中心に南北と東へ鉄道路線が伸びていた。この辺りの話は私が愛読している朝比奈ひなたさんのブログに詳しいのでそちらをご覧いただければと思う。


Dscn2102 Dscn2109  
 終戦から70年を経た今、現地に当時の痕跡を探すことは非常に困難だが、このところ遺構や発掘品が整備されて展示されるようになっている。この転車台もそのうちのひとつで、現在の那覇バスターミナルの工事に際して発見された、旧沖縄県営鉄道那覇駅のものだという。形だけ見ると転車台だとは思えないが、むしろこの骨格だけが残っていたことだけでもある意味奇跡に近い。一般公開に際して10mほど移設されたとのことで、後日見つけた当時の那覇駅の写真と見比べると確かに若干ずれているが、こうした遺構を大切に扱ってくれるのは嬉しいことである。


Dscn2114 Dscn2117  
 沖縄県営鉄道の線路が伸びていた方向から90度右、ほぼ東方向に向かって伸びているバス通りを行くと、沖縄県庁近くの大きな交差点に出る。ここから約1.6kmが那覇市の目抜き通り、国際通りである。とにかく土産物屋が多く、品定めをしながら歩いているだけでも半日潰せるのではないかと思うが、通りに面した喫茶店でコーヒーを一杯飲んでゆっくりした後、私は国際通りから少し外れたところにある牧志公設市場へ行った。


Dscn2119 Dscn2118 
 牧志公設市場へ行ったのは夕食をとるためで、沖縄に詳しい会社の同僚が勧めてくれたうちのひとつ。本設の市場は現在建て替え工事中で、少し離れた仮設店舗で営業していた。日曜日の夕刻とあって、半分近くは店を閉めていたが、鮮魚や野菜を扱う店が50軒ほど並ぶ。北海道ではあまり見かけない魚が多く、眺めているだけでも面白い。
 市場の2階が食堂になっており、こちらも10軒ほどが営業中。修学旅行生がたくさんいて、あちこちで賑やかに食事中である。そのうちの1軒、きらく食堂に入り、オリオンビールの樽生と島ラッキョウでまずはひとり乾杯。さらに刺身盛りにご飯と汁物、青菜のついた定食をいただく。刺身は日替わりとのことで、今日はサーモン、ホッキ貝のほか、見慣れない魚が3点。店員に何度も聞き直して、イラブチャー、ガーラ、セイイカと判明する。あとで調べてみると、びっくりするような青や赤の鮮やかな色の魚であるが、味が濃く、おいしい。


 北海道では味わえない刺身と、久々の島ラッキョウのコリコリした歯触りとピリッとした辛み、そして下戸にやさしいオリオンビールを堪能してお会計は2,000円弱。すっかり満足した私は、ほろ酔い気分でホテルまで10分ほど歩き、前日の寝不足もあって早々にベッドにもぐりこんだ。



続く。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (1)

2020/03/16

近況報告~北海道・3度目の外出自粛の週末

 北海道知事が新型コロナウィルスに係る緊急事態宣言を出してから3度目の週末である。この2週間で道内の感染者数はほぼ倍になり、3月15日現在で148名となった。
 元来どちらかというと鉄道に乗っているとき以外は引きこもりに近い私の場合、外出するな、と言われてもさほどのストレスではなかったのだが、会社ではマスク常時着用、感染リスク防止のために席替えもして離れ小島のような席に座って日々仕事、飲み会も自粛となると、じわじわと締め付けられるようにフラストレーションが溜まってくる。飲み会など、基本酒の飲めない体質の私にはどうでもいいことのように思えるが、酒は飲めなくともガス抜きは時に必要である。


 そんな中、先週の月曜日、遅くに自宅へ帰り風呂に入った時、追い焚きをしようと思ったら冷たい水しか出てこない。電気温水器を確認すると、漏電スイッチが落ちており、入れようとしても入らない。ネットで色々調べたところ、どうやらヒーターが漏電しているらしく、修理業者を呼ぶしかないという結論になった。この電気温水器は今年の正月にも混合弁の故障で湯が出なくなっており、2度目の緊急事態である。築11年を経過して我が家もいろいろな所にトラブルが発生するようになっている。


 翌朝サービスセンターに電話を入れると、修理業者が来るのは午後になるとのこと。嫁は仕事に出掛けており、私は会社に電話を入れて1日休暇をもらった。1日丸々休めるほど暇でもないのだが仕方がない。降ってわいた休みの日、修理業者が来るまでの間に税務署へ出掛けて確定申告の手続をしたり、家計の整理をしたりと、このところの多忙でできなかったことをまとめて処理した。午後には業者がやって来て修理。幸いヒーターの交換だけで済んだが、交換費に2万円。正月の混合弁と合わせて6万円の出費は痛いが、これでしばらくは無事に動いてくれそうでほっとする。


 会社に電話した際、「ボイラーの故障で」とはっきり伝えたつもりだったのだが、職場メンバーの一部にはそれが伝わっておらず、いかさま発熱説がささやかれていたりしたらしい。このくそ忙しい状況で半月も休むわけにはいかない。仕事の共有がうまくいっていないこと自体はマネージャーたる私の責任でもある。これについては多少言いたいこともあるのだが、たぶんそれを始めると旅行記を超える長期連載になりかねないのでやめておく。ともかく、止められない仕事が重なっていることもあり、健康と感染防止にはかつてないほど気を遣っている日常である。


 目に見えて観光客、特に外国人の姿が激減した札幌市内。日頃は昼夜問わず行列ができる人気のラーメン屋やスープカレー屋も、待ち時間なしで入れるほど空いている。大通地区の百貨店は、店員のコロナウィルス感染が発覚したとかで15日の日曜日は消毒作業のため臨時休業となった。感染者数は札幌市を中心に着実に増加しているが、検査が着実に行われている証でもあるのだろう。検査人数に対して陽性確認は約1割。148人の感染者のうちおよそ3割はすでに陰性が確認されている。恐れられているような「爆発的な感染」という状況ではないように感じる。


 こうした中で小中学校・高校の休校は続いており、今週には分散登校も開始されるが、引き続き子供たちは自宅にいる時間が長くなる。こちらもそれなりのフラストレーションを抱えて現在に至っている。塾が開校していて行き場のある上の坊主はまだよいが、塾もスイミングスクールも休校の下の坊主は相当のものと推察する。一応、塾で出された宿題を毎日定量ずつ解かせて、帰宅後に確認するようにしてはいるが、それ以外の時間はテレビ・ゲーム・スマホのローテーションである。


 しかも、通っているプールは先日まで自主練習OKで、下の坊主も時間帯を見計らって泳ぎに出かけていたようだが、「学校が休みなのにこの状況下でプールに通ってくるとは何事か」と一部の大人からクレームがあったらしく、先週半ばから高校生以下は入館禁止となった。大人がOKで子供はNGとはあまりに気の毒で、それならばいっそ全館休館にしてほしいと思う。昨今問題視されている「自称元気」の高齢者に対してはノーガードの状態で、どうにも解せない。


 3月14日、JRの全国ダイヤ改正がおこなわれ、JR北海道でも快速「エアポート」の増発を軸とする新ダイヤがスタートした。しかし、増発の主たる理由となった外国人観光客は見事に姿を消し、出張自粛も重なって、早くも来週からは特急列車の間引き運転と減車が始まる。コロナウィルスの影響により、主要区間の特急列車利用実績は3月に入って前年比3割と惨憺たる様相になっており、これでは致し方ない。減収は1月から3月までで47億円に達するとみられている。ただでさえ土台が揺らいでいるJR北海道が気がかりではあるが、そのことばかりを心配しているわけにはいかない。まずは自分自身と家族の心配の方が先である。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (6)

2020/03/02

新型コロナウィルス対応に思うこと~ずれている(3)

 世の中はあげて新型コロナウィルス対策一色の様相になっている。2月28日に「緊急事態宣言」が出された北海道では、全国の先陣を切って小中学校の休校が始まっており、週末の札幌都心部からは人の姿が目に見えて減った。公共施設だけでなく、大通地区の百貨店をはじめ臨時休業とする商業施設が相次いだ。


 北海道では3月1日現在、72人の新型コロナウィルス感染が確認されており、3名の方が亡くなっている。クルーズ船内で感染した人を除けば、全都道府県の中でも突出している。
 最初の感染者が出た際、北海道は感染者に関する情報を非公表としたことで道民から批判を受けた。世はインターネットを介した情報社会である。黙っていようが隠していようが、ほんの少し漏れ出した情報は無遠慮に社会に拡散していく。現在、北海道の新型コロナウィルスに関する情報提供は迅速で、十分とはいえないまでもそれなりに充実している。


 こうした情報提供や迅速な動きには、鈴木直道知事の意向も影響しているのだろう。この人は夕張市長時代、JR北海道の経営問題に絡み、いち早く石勝線(夕張支線)のバス転換を決断した人である。さらにその前の東京都職員時代は衛生局や医療・福祉部門で勤務していた。こうした経験と決断力が今回も活きたのだろう。
 26日に発表された小中学校の休校要請についても、保護者や経済活動への配慮など詰めを欠く部分もなきにしもあらずだが、その早い判断は評価されてよい。2月末から1週間(土日を挟むので実質的には約10日間)という休校要請の背景には、3月中旬以降に控えた小中学校の卒業式への配慮もあったと噂されている。


 28日夕方、緊急事態宣言を伝える記者会見で、鈴木知事はテレビカメラと報道陣に向き合い、自分の言葉で話した。話しぶりは時にたどたどしかったが、それはかえって私たちに信頼感を与えた。何とか感染拡大も経済への影響も最小限に抑えたいという意思がはっきりと見えた。「あと1人だけ」と進行役が言って質疑応答が終わった後も、「まだ手を挙げていらっしゃる方がみえるので」と、予定を超えての質問にも応じた。


 一方、29日の安倍首相は、ほぼ全編でプロンプターを見ながらの会見だった。施策にかかわる部分もあったし、そのこと自体は特段否定するつもりはない。だが、国内での発生以来これまでの迷走ぶり、加えて28日に発表された全国の小中学校・高校への休校要請とこれをめぐる混乱、方針は打ち出されているが具体策はこれから、という会見の中身を考えた時、私には空虚な説明にしか見えなかった。「桜を見る会」をめぐる自己中心的な答弁でうんざりしていたせいもあるのかもしれない。「私はやっている感」に溢れた表情も気に入らなかった。


 何より違和感を感じたのは、説明が終わった後の記者からの質問に対する回答だった。回答はあまりに淀みなく、しかも明らかに終始原稿に目を落として話していた。事前に用意されていた質問だったのだろう。そして予定数の質疑が終わると、「予定の時間を過ぎておりますので」という広報官に促されてさっさと退出していった。「まだ質問があります」という記者の声(江川紹子さんだったらしいが)にも全く取り合わなかった。これが事あるごとに「丁寧な説明」を標榜する宰相の対応である。そこには誠意のかけらも感じられなかった。



 政府は1日、増産体制に入ったマスクを買い取り北海道へ供給する方針を示した。鈴木知事からの支援要請に呼応したものと思われるが、一方でマスク不足は北海道だけの問題ではなく、不必要な買い占めや転売により供給が滞っている実態に対する認識もなければその対応策もない。あろうことか、関係のないトイレットペーパーまで品薄になっている。北海道はこのことで、いち早い学校休校要請や緊急事態宣言から一転、ネット上では批判にさらされている。


 感染が拡大する中で、私たちは「次は自分が感染するのではないか」という恐怖にさらされながら日々生活している。会社内でも感染者発生の際の業務体制構築など対応検討が進んでいる。自分がその引き金になりたくないと思うが、そうならない保証があるわけではない。どういうことに注意して、どう対処していったらいいかという疑問と向き合いながら暮らす私たちにとっては、政府の動きはあまりに場当たり的に見える。「桜」隠しのためのポーズかと、穿った見方をしたくもなる。
 官邸や議員会館と国会との間を黒塗りで往復しているだけの人には市井の状況などまったくわからないのだろうな、と悲しく思う。自分の身は自分で守るしかない。買占めに走る民衆の心理は、その思いの裏返しなのかもしれない。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (7)

2020/02/25

令和最初のひとり旅【支線5】ゆいレール各駅停車 その2

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】 【支線1】 【支線2】 【支線3】 【支線4】


Dscn2055 Dscn2067   
 首里城公園から再び8系統のバスに乗り、興南高校前で下車。通りを進むと、モノレールの高架が上空を行く国道330号線に出た。右に200mほど進むと古島駅である。国道330号の上にぽっかりと浮かぶ島のような古島からてだこ浦西行きのモノレールに乗り、市立病院前で下車。その名のとおり高架の駅と那覇市立病院が直結している。


Dscn2071 Dscn2070   
 那覇空港行きに乗って古島を通り過ぎ、おもろまちへ。那覇新都心に立地するおもろまち駅周辺は、これまでの駅とはうってかわって大きなビルやマンションが目立ち、賑やか。ペデストリアンデッキで大型免税店のTギャラリアと直結している。試しに中を覗いてみると、化粧品の匂いに包まれたゆったりしたフロアに、聴き馴染みのあるブランドの店がずらりと並んでいる。もとよりそのためのお金を用意してきているわけではないので単なる冷やかしだが、ちょうどよいサイズ・雰囲気のバッグを見つけてつい心が動いたりする。


Dscn2072 Dscn2076   
 Tギャラリアを出て、モノレールの高架下を国道沿いに歩き、安里駅へ。おもろまちからたった1駅だが、小ぶりな雑居ビルが目立つようになる。駅の形自体は何処も似たり寄ったりで変化にかけるが、駅周辺の雰囲気はひと駅ごとに独特のものがあって面白い。ここから中間の駅を一気に飛ばして、那覇空港のひとつ手前、赤嶺で下車する。


Dscn2075 Dscn2079   
 赤嶺は前回も利用しているが、レンタカーを返した帰りの乗車で、周辺は真っ暗だった。今回、あらためて明るい場所でしっかり確認したいと思ったのは、ここが日本国内で最南端に位置する駅だからである。
 駅前には小ぶりながらロータリーが整備されており、その片隅に、日本最南端の駅を示す石碑が立っていた。ここから日本最北端の駅、稚内までは、直線距離でも約2,500kmある。遠い。ちなみに日本最西端の駅は赤嶺の隣、那覇空港駅である。


Dscn2082 Dscn2086   
 赤嶺からモノレールの高架が伸びる県道221号線に沿って歩く。交通量は多く、スーパーや外食チェーンの店が目立つ賑やかな通りである。1km弱歩いて、駅の横に大きなイオンがそびえる小禄駅からモノレールでひと駅、奥武山公園駅で下車する。駅の北側に公園が広がっており、「セルラースタジアム」と大書きされた立派な野球場も見える。ゆいレールは奥武山公園の先、国場川を渡ったところで北に方向を変える。奥武山公園はモノレールと国場川を2辺とする一帯に広がっており、公園の中を抜けて歩けば次の壷川駅まで行けそうである。


Dscn2090 Dscn2089  
 奥武山公園は野球場、テニスコート、陸上競技場、弓道場などを有する総合運動公園だが、園内には護国神社も祀られている。広い芝生の広場もあって、家族連れやグループの若者が思い思いの時を過ごしていた。小さな子供向けの遊具がある広場もあり、那覇市民のオアシスのようである。こうした公園の存在もさることながら、札幌では雪がうっすらと街を覆う12月初旬、この陽気の下で公園でのんびりできる沖縄を羨ましく思う。稚内までの距離の話と言い、日本は長い


続く。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (0)

2020/02/18

令和最初のひとり旅【支線4】ゆいレール各駅停車 その1

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】 【支線1】 【支線2】 【支線3】
 

Photo_20191223004301 Dscn2056   
 梅田駅近くの居酒屋で懐かしい友人と酒を酌み交わし、気分が良くなった翌日に飛んだ沖縄で、ゆいレールの延長区間に乗車した後、私は空いた時間と1日乗車券をフル活用して、ゆいレール全駅に足跡を残そうと試みた。沖縄に来る機会などめったにないし、全線全駅制覇となればそれはそれで気持ちよかろう。4年前の訪問時と合わせ、これまでに乗り降りした駅は那覇空港・赤嶺・県庁前・美栄橋・牧志・宜保・首里・てだこ浦西の8駅である。ゆいレールの総駅数は19。残りは11駅である。


Dscn2025 Dscn2026  
 まずはゆいレール完乗達成したてだこ浦西から1駅戻り、浦添前田で下車。立派な駅舎が立ち上がっているが、一部の出口はまだ工事中で、駅前ロータリーも整備途上。ここで大きく左に曲がるゆいレールに沿って、次の経塚まで歩く途中、客が並んで待っている沖縄そば屋を見つけた。


Dscn2028 Dscn2027  
 その店「そば処玉家 前田店」は、市内に数店を持つチェーン店のようだが、地元客も多いようで味は確か。鰹と豚骨のダシらしいソーキそばの、さっぱりとしつつもコクのあるつゆは絶品。細めの麺もするすると胃袋の中へ入っていく。ボリュームもしっかりあって、サイドメニューなしでも満腹。700円の値段を上回る値のある一杯だった。こういう偶然の出会いがあるから、鉄道と歩きの旅はやめられない。


Dscn2029 Dscn2031  
 玉家の前の道路をまっすぐ歩き、トンネルをくぐった先が経塚駅。高架の駅なのに、両側の丘に挟まれた掘割のような駅である。ゆいレールは住宅地の広がる丘の上を高架で跨ぎ、道路はその下をトンネルで抜ける。ホームからは雑然と並ぶ小さな建物群が見える。家にしてはずいぶん小さいと目を凝らすとである。しっかりと屋根壁で覆われた墓は沖縄独特のものだと思うが、ご先祖を敬い、しっかりと供養する土地風土が生き続けているのだろうと思う。


Dscn2035 Dscn2038  
 経塚から再びゆいレールに乗って、次の石嶺で下車。ここも駅周辺のロータリーは未整備の状態である。モノレールの駅はこの先首里、宜保と続くが、どちらも以前に下車済みなので、駅近くの石嶺団地入口バス停から沖縄バスのおもろまち行きに乗車。モノレールに沿って走り、首里駅の先でモノレールから離れて首里城のふもとを経由する。


Dscn2040 Dscn2044  
 首里城前バス停で下車。首里城公園の入り口にあたるレストハウスに近く、観光客の行き来も多い。ゆるやかな坂道を上る途中の守礼門は、4年前と変わらず私を迎えてくれた。だがこの先、九慶門をはじめ正殿・御庭エリアへ通ずる門の前にはパイロンが立てられて封鎖されており、随所に警備員が立っている。有料区域はすべて立入禁止である。城壁の外を巡る道路から見上げると、黒く焦げて崩れ落ちた琉球瓦の痛々しい姿が見えた。


Dscn2047 Dscn2051  
 城壁に沿って上の毛公園を抜け、階段を下りて城下の住宅街へ出る。お城のへりに沿って住宅街の中を歩くと、商店の店先に「首里城公園・新エリア開園」、あるいは「首里城祭」のポスターが、そこで時が止まったかのように寂しく貼られていた。首里城の正殿をはじめとする建物群は、1945年の空襲など数次にわたって焼失しており、1992年に再建されたもので、それ自体が深い歴史的価値を有するものではないが、火災後のニュースで流れる県民のインタビューを見ていると、沖縄のシンボルであり県民の精神的支えであったことが窺え、胸が痛む。


 年が明けて2月、焼失した正殿などの一帯が報道陣に公開された。無残に焼け落ち、構造だけが残った建物の周りではがれきの撤去が始まり、ゴールデンウィークを目指して遺構の公開準備が進められているという。私が4年前に感動を得た首里城の偉容が再び目にできるまでには相当の時間がかかると思われるが、沖縄の歴史を語り継ぐために、ぜひ再びその美しい姿を現してほしいと切に願う。


  続く。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (0)

2020/02/11

令和最初のひとり旅【支線3】京都鉄道博物館へ その3

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】 【支線1】 【支線2】
 


Dscn1911 Img_3945  
 京都鉄道博物館は、鉄道車両の展示以外にもさまざまなアトラクションが用意されている。そのうちのひとつが運転シミュレーターである。大宮の鉄道博物館のような本格的な車両型のものではなく、どちらかと言えば「電車でGo!」に近いような雰囲気だが、その分たくさんの機械が用意され、多人数が体験できるようになっている。当然私も体験してみたが、オーバーランを繰り返し、運転士としては落第のようである。やはり列車は客席に揺られているに限る


Dscn1906 Dscn1908  
 展示物の中で面白かったのは、比較的最近までお目にかかることのできた、鉄道がらみのちょい懐かしの設備。
 例えば駅の発車案内表示器、いわゆる「パタパタ」である。「ザ・ベストテン」のランキングボードにも使われていたりしたが、LED式の発車案内が主流になって、すっかり見かけなくなった。実際に操作することもでき、これまたアナログなボタンを押すと「パタパタパタパタ…」というせわしない音とともに表示が変わった。
 昨今では当たり前になった自動改札の風景も、そういえば昔はこんな感じだったなあ、と思い出す。


Dscn1902 Dscn1904  
 列車の中の設備では、新幹線や特急列車のデッキに必ずあった冷水器。ぺったんこの紙コップを広げて冷たい水が飲めた。自動販売機の普及もあって今では全くお目にかからない。最近では列車内の自動販売機も見かけなくなった。食堂車どころか車内販売もなくなった昨今、コンビニや売店で飲食物を買ってから乗車するのが当たり前のご時世である。
 車内のトイレもかつては和式ばかりで、便器の穴は直接地面につながっていた。トイレの入口には「停車中は使用しないでください」という表示があった。それも道理で、停車中にご奉仕すれば、列車が去った後、駅のホームからブツが丸見えになる


Dscn1887 Dscn1915  
 鉄道博物館にはつきものの巨大ジオラマももちろんあり、多様な列車が手の込んだジオラマの中を走り回る様は、大人が見ても子供が見ても楽しいものである。
 その一方で、3階のホールでは、特別企画らしい鉄道模型の実演が行われていた。こちらはNゲージと呼ばれる、巨大ジオラマよりも一回り小さな模型で、どこかの大学の鉄道研究会あたりの人たちが、車両を手に取りながら一生懸命説明している。その専門的な風情たるや私も辟易するほどで、大人の装いをした子供の集団である。ここまでくると子供はもちろん、大人でも一般の人は少ない。


Dscn1924 Dscn1919  
 本館の3階から展望デッキへ出ると、目の前を東海道本線や新幹線の線路が走り、遠くに京都の町と東寺の五重塔の姿が見える。付近の列車の位置が確認できるモニターもあり、その表示の接近に合わせて列車が目の前を駆け抜けていく。N700系新幹線から新快速電車、特急電車、貨物列車とバラエティに富んでおり、見飽きることがない。時間があれば1時間でも2時間でも居続けられる自信がある。展示という歴史の中の鉄道と、今を走る生きた列車の融合が、京都鉄道博物館の最大の魅力かもしれない。


Dscn1836 Dscn1960  
 古い歴史を持つ旧二条駅舎が移築された出口を出て、私はバス停から阪急桂駅までバスに乗り、阪急電車に乗り換えた。たまたまやってきた列車が、車内を和風に彩った「京とれいん雅洛(がらく)」。混雑していて座ることができなかったが、懐かしい鉄道風景から変わり種の列車まで存分に堪能できた半日になった。時刻は18時を過ぎ、阪急中津駅での友人との待ち合わせにはちょうどいい時間になっていた。


 続く。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (0)

2020/02/02

令和最初のひとり旅【支線2】京都鉄道博物館へ その2

 ぎっくり腰やら何やらでだいぶ間があいてしまいましたが、これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】 【支線1】
 


 京都鉄道博物館に収蔵・展示されている車両は50両あまり。この他にもカットモデルの展示もあり、収蔵車両数では大宮の鉄道博物館を越えて日本一なのだとか。そのうち3分の1近くが蒸気機関車というのが、この京都鉄道博物館の生い立ちをよく表している。それ以外の電車やディーゼルカーなどの中には、なじみ深かったりこれまでの旅で印象に残っていた車両も多く、興味深くじっくりと眺めた。


Dscn1865 Dscn1876  
 本館に入るとまず真っ先に目につくのが、500系新幹線。「のぞみ」として山陽新幹線で初めて最高速度300km/hで営業運転した車両である。私はこの車両に1度だけ、それも東京-名古屋間だけ乗ったことがあるが、スタイリッシュで室内も洗練されていたものの、やや天井が低く、軽い圧迫感を感じた記憶しかない。本館奥に展示されている100系新幹線の大柄な体とは対照的である。車体断面が小さいために先頭車の前ドアが設置できなかったこと、速度制限の厳しい東海道新幹線にはオーバースペックだったために、ほどなく700系・N700系に取って代わられ、現在は8両編成に縮められて山陽新幹線で「こだま」中心に運用されている。


Dscn1867 Dscn1872  
 500系の横に並ぶ583系電車は、「昼は座席、夜は寝台」の働き者車両として山陽~九州、あるいは東京~東北を中心に昭和40年代から50年代にかけて活躍した車両である。定期列車としては最後に大阪-新潟間の急行「きたぐに」に使用されていた。私は1995年にその「きたぐに」で1度利用している。すでにロートルの域に差し掛かっていたが、その後も長らく走り続け、2013年に定期列車としての運用を終了した。1980年代に一部の車両が普通列車用途に改造され、東北・北陸・九州で使用されたが、本家より一足先に引退している。


Dscn1868 Dscn1869
 さらにその奥に並ぶのが489系電車。国鉄時代の標準形式、485系特急型電車に、横川-軽井沢間の碓氷峠を機関車と協調運転できる設備を備え、信越本線・北陸本線を中心に使用された。通常は国鉄特急色での展示だが、一般からの投票を基に、JR化後の特急「白山」色に塗り替えられた特別展示とのこと。だが、塗り替えられているのは先頭から運転台の後ろまでで、展示場所の関係でその後ろは国鉄特急色というつぎはぎ状態になっている。ヘッドマークもこの塗色にはなじみの薄い「スーパー雷鳥」のままで、いかにも中途半端である。


Dscn1853 Dscn1858  
 本館の外には「トワイライトゾーン」と呼ばれるエリアがあり、往年の豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」の機関車と客車が展示されている。「寝台列車は青」という当時の常識を打ち破った緑のボディに、豪華なものからエコノミーなものまで個室車を連ねた編成は、「北斗星」を超える設備水準だった。私も2度利用したが、憧れだった最後尾の2人用個室「スイート」にはついに手が届かなかった。憧れの車両は、綺麗に塗り直されて、屋根の下で大切に展示されている。


Dscn1856 Dscn1860
 「トワイライトエクスプレス」といえば、編成中に組み込まれた食堂車「ダイナープレヤデス」と、フリースペースのサロンカー「サロン・デュ・ノール」も名物である。「ダイナープレヤデス」は、営業当時と同じように赤味がかった柔らかな照明を灯して、豪華客車と機関車に挟まれて鎮座している。トワイライトゾーンの外にある屋外喫煙コーナーから外を見ると、少し離れた場所に「サロン・デュ・ノール」の客車と電源車が止まっているのも見えた。スペース上仕方ないのかもしれないが、一緒に並べてくれれば、と思う。


Dscn1930 Dscn1938
 本館の隣には、扇形の機関庫がある。1914年に建設され、京都鉄道博物館の前身、梅小路蒸気機関車館のメイン施設となっていた。現在もきれいに磨き上げられた蒸気機関車が、中央のターンテーブルに向かってずらりと並んでいる姿は壮観だが、その中に1台だけ、目立つ、というかある種場違いな様子で鎮座している車両を見つけた。


Dscn1934 Dscn1943  
 その正体は「デュアル・モード・ビークル(DMV)」の新車である。JR北海道が長年、閑散路線の維持に向けた一策として試行を続けてきた、道路とバスの両方を走行可能な車両である。本家のJR北海道では、一連の経営難の中で導入は断念されたが、四国の阿佐海岸鉄道が今年から導入予定である。
 期間限定の展示のようで、実際に道路と線路のモードチェンジの実演もあった。太鼓のリズムに乗って車体から鉄道用の車輪が下りてきて、それによって道路用のタイヤが浮き上がる仕組みは見ている分には楽しいが、なにしろ鉄道車両と比べて華奢なイメージが拭えない。それでも過疎ローカル線を最大限活用するための最終兵器とも言えるこのシステムが、うまく軌道に乗ってくれることを祈るばかりである。そうすれば、苦心して試行錯誤を続けて来たJR北海道も少しは浮かばれるというものである。


 続く。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (2)

2020/01/26

魔女の一撃

 全国的に暖冬、雪不足の話題が広がっているが、札幌の1月25日現在の積雪は34cm。平年値は60cmだから6割弱である。これでも先週前半の降雪で増えた方で、1月19日まではわずか積雪10cmであった。これは平年の2割に満たない。最低気温はそれなりに下がっているが、日照時間が長いため日中の気温が高く、3月頃を思わせるような空と道路の状況が続いている。


 これはかなり異常な状況で、多い年ならばこの時期には1度目のカーポート・物置の雪下ろしが必要になる。ところが今年は、雪下ろしどころか除雪すらさほど必要がない。例年運動不足で体がなまるこの時期、除雪をしないと体を動かす機会は半減する。肉体面の負担は軽くなるが、運動不足は時に体に深刻な影響を及ぼす。


 これが関係しているかどうかはわからないが、木曜日、「魔女の一撃」~ぎっくり腰に見舞われた。
 私とぎっくり腰の付き合いは長い。27歳の冬、自動車を運転中に、ブレーキを踏んだはずみで助手席から転がり落ちたかばんを拾おうとした瞬間、最初の一撃を食らった。以来20年、それほど頻発するわけではないが、4度ほどやられている。だが今回のそれは、これまでを遥かに超える強烈な痛みを伴うことになった。


 発生場所は日中の会社、それも役員室である。その日、たまたま報告事項があって、私は某副会長の部屋へその説明に伺った。気さくな副会長は、「おう、まあ座れ」と私にソファを勧めてくれた。いつものようにサッと座ろうとした瞬間、激烈な腰の痛みに襲われた。額から脂汗が浮かぶ。


 「今日は何の報告よ?」と笑顔で尋ねる副会長に、私は「すみません、腰をやられました。3分ほど待ってもらえますか」と弱弱しく回答するのが精いっぱいである。忙しい役員のところに時間をもらって報告に上がって3分待ってくださいとは失礼きわまりないが、机に置いた資料すら手に取れないのだから仕方がない。
 「車椅子持ってこさせるか?」→「恥ずかしいからいいです
 「救急車呼ぶか?」→「もっと恥ずかしいからいいです
 「辛かったらここで横になったらいい」→「そんな伝説を作るのはいやです
 役員室のソファで一介の社員が寝っ転がったら間違いなく伝説である。心配してくださる副会長には申し訳ないが、激痛に耐えながら礼を失したやりとりが続く。


 ようやく痛みが治まり、報告事項の説明だけは終わらせたものの、今度は立ち上がれない。立ち上がろうとするたびに、打撲痕をハイヒールで踏みつけられたような猛烈な痛みが走る。いっそこの場で伝説を作ろうかとも思ったが、実はもう1件、常務に決裁をいただきたい案件がある。立ち上がらないわけにはいかない。あれやこれやと少しずつ体勢を変えて、5分ほどかけてようやく立ち上がり、心配した秘書に付き添ってもらって常務室へ。約束の時間は過ぎており、お辞儀もできない非礼をお詫びして、「早く家に帰りなさい」の言葉とともに決裁を受けた私は、結局、たまる仕事をさばききれず、終業時間まで事務所で立ったまま仕事をした。


 翌日、痛みはさらにひどくなり、少し動き方を間違えただけで呻き声が出るほどの痛みに襲われ、立つことも座ることも命がけ、という状態になった。会議と打ち合わせの予定がいくつも入っているがそれどころではない。会社に休む旨の連絡を入れ、1日ソファに横になって過ごした。働き方改革とやらでとらねばならない最後の有給休暇を火曜日に取得したばかりで、こんなことなら火曜日に無理して休む必要などなかったのだが、想定外の結果論である。


 いくらか状況が良くなった土曜日に病院を受診し、安静と称してぐうたらな週末を送ったおかげで、今現在、椅子に座ってパソコンを打てる程度にはなっている。だがこれとて、立ち上がり方を少し間違えるとまだ激痛が走る。ハイヒールからローファーくらいにはなったのではないかと思うが、失敗するたびに2~3秒歯を食いしばって呻く羽目になる。当分、慎重に動かざるを得ない。じっとしていられない性分の私にとってはなかなかつらい日々になる。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (8)

2020/01/19

昭和のミスタードラゴンズ、高木守道さん逝く

Dscn0608  
 中日ドラゴンズを代表する応援歌と言えば「燃えよドラゴンズ!」(燃えドラ)である。歌詞の中に選手の名前が織り込まれるこの曲は、ドラゴンズが上位争いを繰り広げる年を中心に新しいバージョンが発売され、世代ごとに口をついて出る歌詞が異なるのが特徴である。この曲が最初に発売されたのは1974年、ドラゴンズがジャイアンツのV10を阻止し、20年ぶり2度目のリーグ優勝を達成した年である。
 この時、一番バッターとして登場する選手が高木守道である。昭和のドラゴンズを代表する二塁手であった高木守道が、17日、天国へ旅立った。

 ⇒「燃えよドラゴンズ!」

 現役21年で2274安打(球団歴代2位)、236本塁打(同6位)、369盗塁(同2位)に加え、ダイヤモンドグラブ賞3回の成績は、まさに走攻守を兼ね備えた名選手だったことを示している。私が物心着いた頃はすでに晩年に差し掛かっていたが、王貞治の例を引くまでもなく、チームの「背番号1」を背負い続けることの重さとすごさは、子供心にも理解できた。私の父は、「燃えドラ」に歌われる1番バッターが田尾、彦野と変わっていっても、「♪1番高木が塁に出て~」といつも口ずさみ、「これでないと落ち着かない」と言った。


 私たちの世代から見ると、高木の印象は選手としてよりも監督としての印象が強い。1992年~95年(95年は39試合で途中休養)、2012年~13年の二度に加え、1986年には当時の山内監督の成績不振による休養に伴い68試合で指揮を執っている。
 中でも印象の強いのが、今も「10.8決戦」として球史に残る、1994年10月8日の「最終戦・同率首位同士の優勝決定戦」である。この日、私は札幌の大通駅に近い某レストランの前に車を停めて、カーラジオに聴き入っていた。このレストランのマスターは私と同郷のドラゴンズファンである。劇的な優勝を決めた暁には盛大に祝うぞ、という言葉に、私はわくわくしながらスタンバイしていた。だが、総力戦で最高のパフォーマンスを見せたジャイアンツの前に、ミスを連発したドラゴンズは敗れ去り、私は店に入ることなくしょんぼりとアパートへ帰った。


 第1次の高木監督を挟んで2度にわたり通算11年監督を務め、2度のリーグ優勝を達成した星野仙一とは「太陽と大地」のような関係だったように思う。パフォーマンスに長け、感情をストレートに表した星野と、あくまで寡黙に自分の役割を果たそうとした高木。ここぞという時に爆発的な力を発揮した星野と、肝心の場面で裏目に出た高木。ジャイアンツを宿敵として自他を鼓舞した星野と、球界の盟主として敬意を払った高木。ドラゴンズファンの気質を考えた時、物足りない印象を受けるのもやむを得なかったかもしれない。



 だが内に秘めた闘志や負けん気は、星野に劣らないどころかむしろ上回っていたかもしれない。試合中に叱責を受けて勝手に帰宅した話や、1995年、監督解任が発表されたその日、最後の試合で判定に異議を唱えて退場処分になるなど、熱い一面もたくさんあった。
 私はそんな高木監督が地味に好きだったし、今中や山本昌が頭角を現してきた当時のチームの雰囲気も好きだった。だから私はもう一度、高木に監督をしてほしいと思っていた。


 それが実現した第2次監督時代、特に後半には首をかしげるような采配もあった。結果を見れば、監督としての資質は8年連続Aクラスの落合はもちろん、星野にも劣るということになるのだろう。世間一般には、95年の途中休養、「暴走老人」と揶揄された2013年の悪印象が強いが、調べてみると指揮を執った787試合での勝率は.503と勝ち越している。最下位だった1992年も、60勝70敗の借金10、首位スワローズまではわずか9ゲーム差だった。


 訃報が伝えられた後、さまざまな人からのコメントがニュースとして伝えられた。名古屋というローカルのスター選手としては破格の多さではないかと思う。長嶋茂雄や張本勲、落合博満もが認めた野球センスについてはもちろん、私たちの知りえないグラウンド外でのエピソードを通じて伝えられるその人柄については、亡くなった人に対する敬意を差し引いても、その温かさが存分に伝わってくるものばかりで、気持ちよく読むことができた。特に同僚だった谷木恭平と、高木監督の下で選手として働いた今中慎二、立浪和義のコメントが光った。


 生まれも育ちも岐阜県、県立岐阜商業から中日一筋。星野がのちに阪神、楽天と移っていったのに対し、高木は最後まで中日一筋を貫いた。ポスト星野、ポスト落合という難しい局面で火中の栗を拾ったのは、ドラゴンズへの愛着と男気だったのではないか。特に「勝つことが最大のファンサービス」と公言した落合の後、「ジョイナス」と揶揄されながらもファンへの気配りを最前面に押し出さざるを得なかったあたり、本来寡黙にして頑固、職人気質な高木にとっては内心忸怩たるものがあったのではないかと思う。それでも高木はその役割を黙々と引き受けた。2012年にAKB総選挙の結果を受けて「うちもセンターは大島だしな」という茶目っ気のあるコメントを出せる、素敵なおじさんであった。


 「燃えよドラゴンズ!」45年の歴史で真っ先に登場した高木はまた、監督として登場した「燃えよドラゴンズ!平成FIVE」で、歴代監督の中でただひとり、ファーストネームで登場した。こんなところにもファンの高木に対する親しみが現れていると感じるのは、私の贔屓目だろうか。

 高木がプロ入り前にその実力を長嶋に認めさせた県立岐阜商業は、春のセンバツ高校野球出場が確実視されている。そして、3年連続5位ながら借金わずか5、首位と9ゲーム差まで迫る力を見せた与田監督2年目のドラゴンズ。全力で戦って、天国の高木を安心させてあげてほしいと切に願う。

 モリミチさん、お疲れさまでした。心からご冥福をお祈り申し上げます。





ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (2)

2020/01/13

令和最初のひとり旅【支線1】京都鉄道博物館へ その1

 これまでの経過はこちら⇒【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】
 

 今回の旅は、3泊4日の日程で日本列島を端から端まで飛んでいるが、日数に比して乗るべき鉄道は少ない。少し無理をして朝1番の飛行機で新千歳を出てきたおかげで、お昼前には大阪ですべきことを終わらせてしまった。夜、9年ぶりの友人と一杯飲むまで、たっぷりと時間が残っている。だがこれまでの乗り鉄旅とは少々勝手が違い、私にはこの空き時間をどう使おうかという明確なプランがない


 まったくしたいことがないわけではない。比較的頻繁に訪れている関西圏の鉄道でも、高校時代以来ご無沙汰、という路線はたくさんある。だがどこへ行こうか、まったく考えていなかった私は、放出から片町線・JR東西線の電車で北新地へ入り、地下街を迷いながら歩いて地下鉄中津駅の近くにある某ビジネスホテルにアーリーチェックインして荷物をフロントに預けた。
 それからJR大阪駅へ歩き、ICカードで改札を抜けた瞬間、ふと思い立って東海道本線の上り新快速電車に乗った。京都鉄道博物館へ行こうと思ったのである。


 京都鉄道博物館の前身は、大阪環状線・弁天町駅にあった「交通科学館」である。まだニキビ面だった私は30年前、青春18きっぷを握りしめてそこを訪れたことがある。国鉄特急ディーゼルカーの嚆矢キハ81形や「湘南電車」クハ86形が出迎える、さほど大きくない科学館の中には、ブルートレインの元祖、20系の食堂車ナシ20形がレストランとして営業しており、そこでカレーを食べた。そのことは鮮明に覚えている。


 その交通科学館から展示車両や展示品が移動し、京都の梅小路蒸気機関車館と一体になって登場したのが京都鉄道博物館である。しかもここは昨年の夏、上の坊主に先を越されている。小学校1年生の時、大宮の鉄道博物館に連れて行って鉄道ファンとしての英才教育を施そうとしたものの失敗に終わり、さほど鉄道に興味を示さないこの坊主は、京都鉄道博物館だけでなく、実家の祖父に連れられて、まだ私が未訪問のJR東海リニア・鉄道館にも足を踏み入れている。口には出さないがたまらなく悔しい


Dscn1832 Dscn1835   
 京都駅で下車し、バス案内所で、京都駅・桂駅-梅小路公園のバス乗車券がついて1,500円の京都鉄道博物館入場券を購入。京阪バス26系統に乗っておよそ6分、梅小路公園・JR梅小路京都西駅バス停で下車。目の前が梅小路公園の入口になっており、フリーマーケットが開催されて賑やかである。
 公園の中を抜けると正面に京都鉄道博物館の姿が見える。すぐ脇にはJR山陰本線の梅小路京都西駅がある。昨年3月に開業したばかりのこの駅の存在を私はすっかり忘れていた。覚えていれば電車でやって来たに違いない。


Dscn1841 Dscn1949  
 正面入り口から入場すると、すぐのエントランスに、C62形蒸気機関車湘南電車クハ86形+モハ80形0系新幹線が鎮座している。いずれも交通科学館から移設された車両である。0系新幹線は私の知っている現役当時と比べてやや白が明るいのが気に入らないが、4両とはいえ編成で新幹線が展示されているのは嬉しい。しかも先頭車2両が、グリーン車・ビュッフェ車各1両を挟んでいる。N700系やE5系など、シャープなフォルムの車両が増えた昨今の新幹線からすると、速さのイメージに欠ける。今の子供たちには、この車両のすごさや、少年時代の私たちの強い憧れはわからないだろうと思う。


Dscn1926 Dscn1925   
 0系新幹線の後尾近く、80系電車2両編成のうしろには、見覚えのあるナシ20形食堂車が置かれている。四方をプラットホームに囲われて、もはや車両だとも判別しづらいが、飲み物と軽食だけになっていたものの、今も車内を開放して営業中。景色は動かないけれど、青春時代を思い出して、私はテーブルの一角に座り、コーヒーを飲みながら、斜め後ろのテーブルで向かい合う相手に20系寝台車のすごさを力説しているその筋の人の話に耳を傾けていた。


 続く。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | コメント (4)

«令和最初のひとり旅【本線4】金沢シーサイドライン・金沢八景駅