2019/02/18

いかさまさんの平成史 平成6年

 このところの人手不足で、大学新卒生の就職活動は完全売り手市場が続いている。大手企業は早い段階から学生を囲い込み、優秀な人材の確保に余念がないようである。
 実際に今の就活を体験していないからわからないが、バブル絶頂期の就職活動もたいがいひどかった。私たちの2~3期先輩は、内定とともに露骨な囲い込みを受け、温泉でドンチャン騒ぎをしたとか海外旅行に連れていかれたなどといった話も聞いた。内定辞退などと告げようものならコーヒーを引っかけられた、という嘘か本当か分からないような話もあった。


 バブル崩壊とともに就職戦線は一転買い手市場となり、私たちは厳しい就活を迫られた。まだインターネットやスマートフォンなど影も形もない時代、私たちは次々と届く就職情報誌をもとにひたすら資料請求はがきを書いて送った。1993年の暮れから1994年の初めにかけてはこういう状況だった。
 こちらは必死なのだが相手にはそれは伝わっておらず、学校名や居住地域で振り落とされることなどザラであったようである。現に具体的な会社名は言わないが、大阪より西のJR某社など、何度ハガキを送ってもなしのつぶてであった。


 この状況であちらこちらの会社を受験することもかなわず、交通費も無駄にはできなかったから、いきおい就職活動は北海道と名古屋に軸足を置くことになった。これまた具体的な会社名は伏せるが、札幌とか名古屋とかのJR某社がひそかに私の第一志望だったものの、あえなく撃沈となった。ようやく内定付近までたどり着いた会社は、現在私が勤める会社と、北海道に本拠を持つ都市銀行だけであった。
 この銀行がバブル期の融資姿勢を原因として経営破綻するのは、このわずか4年後の話である。すんでのところで命拾いしたともいえるわけだが、その後この会社から何人かが私の会社に移ってきて一緒に働き、その優秀さに舌を巻くことになる。


 その就職活動中、数回にわたって私は名古屋へ飛んだのだが、当時の名古屋空港に着陸する際、いつも滑走路の右端に黒く焦げた鉄の塊を見て胸が痛んだ。
 1994年4月26日、名古屋空港で台湾からの中華航空140便が着陸に失敗して墜落、264人が死亡し、生存者わずか7名という事故が起こった。日本国内では、1985年の日航123便事故に次ぐ犠牲者を出した事故である。ちなみにこの5日後、前回書いたアイルトン・セナが事故死している。


 就職活動のせいもあって、この年は比較的鉄道に乗る機会が多く、東京や仙台などへも列車で出掛けたりしたため、久々に新規の乗車距離は増えた。一方で、北海道内では、国鉄再建法の廃止対象から漏れたローカル線の廃止が始まり、函館本線の名無し支線、通称「上砂川線」(砂川-上砂川、7.3km)が消えた。線路の付け替えなどを別にすると、私が乗車済みの路線の中で初めて廃止となった路線である。


 寝台特急の整理はさらに進み、12月のダイヤ改正で「みずほ」が廃止、ブルートレインの始祖である東京-博多間「あさかぜ」(1・4号)が臨時列車に格下げされた。
 航空機は別格としても、新幹線「のぞみ」が5時間あまりで結ぶ東京-博多間に、15時間以上を要する寝台特急のビジネス需要はほとんどなく、オフシーズンの平日はどの列車も閑散としていたという。定期列車としての「あさかぜ」は、東京-下関間の旧2・3号に残ったが、昭和後期の国鉄を代表する列車だった博多「あさかぜ」の終焉は、オールドファンに少なからずショックを与えた。


 こうして七転八倒しながらなんとか就職活動を乗り越え、ちょうど内定通知の前後の時期に至り、すったもんだがあって彼女に数か月間会えない時期があった。恋愛には何かとトラブルがつきものではあるが、今思い返してもこれはなかなかヘビーな状況であった。詳細は差し控えるが、私の浮気とかそういう類ではない。そんな甲斐性があれば10代後半から20代初頭にかけてこれほどまでに干からびた青春など送ってはいない。



※平成6年の鉄道乗車実績 664.8km(通算13,732.1km)


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2019/02/15

いかさまさんの平成史 平成5年

 先頃、今年4月の北海道知事選挙に、石川知裕元衆議院議員が立候補を表明した。この人が、小沢一郎議員の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反に関して有罪判決を受けていたことが物議をかもしているが、こうした疑惑の渦中にありながら隠然とした影響力を持ち続けた政治家の代表格が田中角栄である。
 ロッキード事件で逮捕され、有罪判決を受けた後も、キングメーカーとして中曽根内閣まですべての内閣に睨みを利かせた。1986年に脳梗塞で倒れた後は、田中派生である竹下登がこれを受け継ぎ、2001年に小泉内閣が登場するまですべての内閣に深くかかわってきた。


 この田中角栄直系が敵味方に分かれて激しい権力闘争を演じた結果、自民党が分裂、衆議院選挙で過半数割れして下野し、いわゆる「55年体制」が崩壊したのが1993年、平成5年である。この時首相に就任した細川護熙、幹事長として辣腕を振るう小沢一郎、いずれも田中直系である。細川内閣の成立を見届けるようにこの年の年末、田中角栄は亡くなるが、のちに細川・小沢いずれも「カネ」の問題でつまずき、自民党は社会党との連立という奇策を弄してわずか1年で与党に復帰することになる。


 5月に天皇に即位される現皇太子殿下がご成婚され、全国的な凶作でコメ不足が深刻化し、行きつけの食堂のご飯大盛りが廃止となり、時にタイ米が混ざるようになった1993年。この年の秋、大学3年生の私は両親の知人のつてでF-1日本グランプリのチケットを入手し、予選から決勝まで鈴鹿サーキットで観戦した。アイルトン・セナが優勝したのだが、結果的にこれが日本でのラストランとなった。翌年、セナはイモラでのサンマリノGPにおいて壮絶な激突死を遂げる。


 同じ秋、私はやや3年間干上がっていた状況を脱し、新たな青春を見つけて久々に舞い上がった日々を送ることになる。おっとりとした彼女は私にとって癒しの存在であり、付き合っている間、一度も大きな声を出して喧嘩した記憶がない。
 中古で買った赤いファミリアで彼女を家の前まで送り、ブレーキランプを5回点滅させようとして車をエンストさせたり、森田童子の「ぼくたちの失敗」を聴きながら自分は失敗しないぞと言い聞かせたりしながら、別の世界に来たかのように充実した日々を送っていた。新加勢大周ならぬ新いかさまの誕生であった。


 一方、鉄道の世界はというと、前年デビューした東海道新幹線「のぞみ」が大増発されて博多に乗り入れる一方、東京-九州間の寝台特急の食堂車が営業を中止し、暮れには特急「ゆうづる」、急行「八甲田」「津軽」といった伝統の列車が廃止、あるいは臨時列車化されて表舞台から姿を消した。
 国鉄分割民営化の際、JRグループ一体となって守るとしていた長距離列車の運転は、押し寄せる不況の波と輸送構造の変化の前に、安楽死の序章が始まりつつあった。私たちが馴染み、憧れてきた列車のこうした状況を横目に見ながら、私の興味が鉄道よりも恋愛に向かうのは、至極あたりまえのことであった。


※平成4年の鉄道新規乗車実績 16.9km(通算13,067.3km)

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2019/02/06

嵐・嵐・大嵐

 こんなタイトルを書いたところで、「ゲームセンターあらし」のエンディングテーマなど覚えている人はごく一握りなのではないかと思うが、もちろん、今回の「あらし話」はその「あらし」ではない。


 このところ札幌は体感気温がきわめて低い日が続いている。気象庁のデータを見る限り、最低気温はマイナス7度から8度程度と、平年かやや低い程度なのだが、なにしろ風が強い。日中時折窓の外を舞う雪は、風にあおられて上へ横へと走る。家や会社から一歩外へ出れば、存分に冷気を含んだ風が容赦なく体に刺さる。わずか5分、バスを待つだけで全身が氷漬けになったように感じられる。
 これから週末にかけて、北海道はいっそう気温が下がっていき、週末には札幌でもマイナス15度前後まで下がるという。暦の上では立春だが、北海道ではまだまだ冬の嵐が続きそうである。


 嵐と言えば、10日ほど前の日曜日、全国を駆け巡ったニュースがあった。私の奥さんの活力源であるアイドルグループ「嵐」の活動休止である。私はこのニュースを、下の坊主とふたりでラウンドワンで遊んでいる最中に、スマホで目にした。嫁はたまたまその時別の場所で時間を潰していたのだが、スマホのニュースではなく、友人から矢継ぎ早に飛び込んでくるメールで知ったらしい。ショックに打ちひしがれて私たちの食事も出てこない状態になるのでないかと危惧するほど、いっとき腑抜けた雰囲気になっていたのだが、敵もさるもの、最近ではその友人たちとしきりに電話でなにやら密談を繰り返している様子である。


 嵐にさっぱり興味のない私は知らなかったのだが、例年11月頃に1度おこなわれる嵐のコンサートは、今年は二度あるのだとか。1回目は5月のようである。目下のところ嫁からこれに関するコメントは出ていないが、おそらくすでに臨戦態勢に入っているのだろう。
 これについて否定するつもりは、私には全くない。なにしろ他に趣味らしい趣味のない人のことである。率直に言うともう少し私にも興味を持ってほしいのであるが、無駄なことは言わない主義である。なんにせよ、これだけは気持ちよく行かせてやることに決めている。


 そうなると今年は私にも2回乗り鉄に出掛ける権利があるのかな、と、一瞬考えてはみたものの、よくよく考えればすでに私は昨年、フライング気味にその権利を行使済みであったことに気付く。百歩譲って承認が得られたとしても、権利の過剰行使によって私の懐具合もそれに耐えられない状況下にある。
 それよりも気にかかるのは、2020年に嵐が活動を休止した後のことである。嫁の唯一の楽しみがなくなったことで、「あなたも乗り鉄活動休止したら」と言われるのではないか。私はただその一点を警戒して、この先数年間を過ごしていくことになる。


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2019/02/03

いかさまさんの平成史 平成4年

 国鉄→JRにおける空港連絡の嚆矢は、1980年に設置された千歳空港駅である。空港ターミナルビルから駅に向かって約250mの連絡橋が伸びており、たもとには荷物を運ぶカートが置かれていた。1991年2月に初めて北海道へ来た私は、カートに荷物を載せて長い通路を歩き、特急なのに補助席のついた781系電車の特急「ライラック」で札幌へと運ばれた。
 ここに新しい空港ターミナルが完成して、その地下に千歳線の支線が乗り入れたのが、平成4年7月のことである。千歳空港駅は南千歳駅と名を改め、新千歳空港へは快速「エアポート」を主体とする、現在に通じる輸送体制が出来上がった。


 東海道新幹線にデビューした「のぞみ」の名古屋飛ばしが話題となり、尾崎豊が亡くなり、風船おじさんが消息を絶った平成4年。私にとって大学の試験のさなかに高熱に苦しむところから幕を開けた。熱の上がり方から、今思えばインフルエンザだったのではないかと思われるが、病院で普通に風邪薬を処方され、テスト勉強もままならぬ状態で私は英語の試験に臨んだ。
 講師が「テストは1年後期、2年前期の2回で、計120点取れば単位をあげます。取れなければ留年確定です」と宣言したその1回目のテストで、私は21点というスコアを叩き出し、夏休み前の2度目のテストに当たっては、大学受験の再来かと思うほどの勉強を強いられることになった。俎板の鯉状態で受け取った成績表の英語の欄には「」の文字があった。99点を取れたかどうかは定かではない。


 そんな感じで学問にはいまひとつ身が入っていなかったが、生活は充実していた。学習塾でのバイトが軌道に乗り、講習会期間には馬車馬の働きで手にしたお金で自動車とバイクの運転免許を取り、実家から古びた軽自動車を持ってきて乗り回した。カーステレオから流れる、槇原敬之の「北風」「もう恋なんてしない」あたりを繰り返し聴きながら、急激に広がった行動半径を楽しんだ。残念ながら助手席に乗ってくれる奇特な女性は現れず、そちら方面は相変わらずの干からび具合であった。


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 車という移動手段を手に入れたこの辺りから、鉄道の乗り歩き意欲はやや低迷期を迎えた。実家に車を引き取りに行った夏の帰省の際、急行「はまなす」から特急「白鳥」、快速「やひこ」そして急行「ちくま」と、今となっては懐かしい列車を乗り継いで帰ったのがこの年唯一の乗り鉄である。鉄道乗りつぶしに対する熱は、このように冷めたり熱くなったりを繰り返しながら、結果的に高熱にうなされるようになっていくのである。



※平成4年の鉄道乗車実績 202.0km(通算13,050.4km)



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2019/01/28

いかさまさんの平成史 平成3年

  昨年相撲界を去った、元。貴乃花親方。一時代を築いた大横綱としてはあまりにも寂しい去り方であったが、兄、若乃花とともに一時の相撲ブームをけん引したのは記憶に鮮やかである。
 その貴乃花がまだ「貴花田」と言っていた平成3年夏場所、初日で対戦したのが、こちらも大横綱・千代の富士である。この一番で貴花田に初めての金星を献上した千代の富士は、その2日後の5月14日、現役引退を表明する。私と同い年の貴乃花の活躍は、私に新しい時代、自分たちの時代の到来を予感させた。


 千代の富士が引退を発表した同じ日、信楽高原鐵道で、世界陶芸祭に向かう満員の乗客を乗せたJR西日本から乗り入れの臨時快速列車が普通列車と正面衝突し、42人の死者を出す事故が起こった。日本国内では1963年の鶴見事故以来の多くの死者を出した事故で、無残にひしゃげて上空に持ち上がった車両の映像は私達に衝撃を与えた。事故の片方の当事者となったJR西日本は、この14年後、このときの倍以上の死者を出す福知山線脱線事故を起こす。


 ちょうどその頃、私は一人暮らしを始めて間もない札幌で、軽いホームシックにかかっていた。これまでの人間関係をあえて断ち切って遠いところに来たはずだったが、札幌での交友関係が軌道に乗るまでは、実家だけでなく中学時代の友人など、手当たり次第に電話をかけ、電話代の請求が月1万円を超える生活が続いた。


 その電話の相手の中には、前の年痛い目に遭った相手もいた。少なくとも電話においては嫌がるそぶりを見せずに相手をしてくれたのをいいことに、その年の夏、実家に帰省した際、私は彼女を呼び出して、再度のアタックを試みた。だが割れたうえに飛び散った皿の欠片を集めたところでどうなるものでもなく、全身から絞り出した勇気は当然のごとく多治見駅2階のカフェに散った。テレビで観たような、「僕は死にましぇん!」のようなドラマチックな恋愛など訪れようはずもなく、大江千里の「格好悪いふられ方」をひたすら自分に重ね合わせて聴くことになる。


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 そんな環境の中で、入試、部屋探し、そして帰省と、岐阜と札幌を行き来する機会が増えたことで、鉄道の乗車距離だけは順調に伸びた今は亡き「北斗星」に3回「トワイライトエクスプレス」に1回と、人生の中で一番たくさん寝台列車に乗った年でもある。秋、9月の試験明けの休みには、「北海道フリーパス」を握りしめて北海道内を一周し、宗谷岬や納沙布岬にも立った。
 自由と青春を謳歌する中で、自分の中で大きなものをいくつも失くしたが、その分たくさんのものを得た。今に通じる大切なものばかりだった。そのことを考えれば、半年あまりの間に買ったばかりの自転車を立て続けに2台盗まれたことも、今思えば取るに足らない出来事だったのだろう。



※平成3年の鉄道乗車実績 4,554.7km(通算12,848.4km)




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2019/01/21

いかさまさんの平成史 平成2年

 平成30年に世間を騒がせた大きなニュースのひとつに、秋篠宮家の眞子さまのご婚約問題があった。前年9月のご婚約内定会見から一転、今年2月、宮内庁から婚礼の延期が発表され、問題は収束しないまま今日に至っている。
 その眞子さまのご両親である秋篠宮さまご夫妻がご結婚されたのが、平成2年(1990年)6月29日のことである。同年、昭和天皇の喪が明け、2月に今上天皇の即位の礼がおこなわれた平成皇室の最初の慶事である。


 その一方で、前年12月に38,957円の史上最高値を付けた日経平均株価は、平成2年に大きく下落する。10月1日には一時20,000円を割り込み、わずか10か月で半分強になった。世の中が実感しはじめるのはもう少し後のことになるが、翌1991年以降、景気は後退局面に入り、バブル崩壊が始まる。日本経済は長期低迷期に突入して「就職氷河期」を招き、4年後、私の人生を振り回すことになる。


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 北海道に最高時速130kmを駆る、785系電車「スーパーホワイトアロー」がデビューしたこの年、私の足は九州に向いていた。高校生活最後の1年を迎える3月、私は終業式とともに新幹線に乗って東京へ向かい、翌日、今は亡き西鹿児島行き寝台特急「はやぶさ」に乗って、初めて九州の土を踏んだ。2週間にわたる長い旅は、美しい景色や楽しい人との出会いをたっぷりと含んだ濃厚な記憶を私に植え付けた。


 高校に入って2年間、全力投球で打ち込んだ弓道の最後の試合は不本意な結果に終わり、5月、私は部活を引退することになった。後輩としては目の上のたん瘤であるうるさい先輩がいなくなってすっきりするところなのだと思うが、そういう中でたったひとりだけ、寂しいと泣いてくれた1年生の女の子がいた。その出来事に舞い上がった私は、学習することなく、再び不器用で無作法な恋愛に足を踏み込むことになる。そしてその結果はご想像のとおりとなる


Img_20190121_0001 高校3年、受験に向けた非常に大切な夏休みを愚直な感情に振り回されて無駄に消費した私の成績は急降下の一途をたどった。交際中、彼女の趣味をほぼ理解しようとしなかった私が、別れた後になって慌てて彼女が好きだったレベッカやPSY・Sのアルバムを聴き始めたのは、今思えば滑稽である。そのレベッカの「ヴァージニティー」、それから「イカ天」出身のバンド、BEGINの「恋しくて」の切ない歌詞に魅了された私は、繰り返しそれを聴きながら、ぼんやりと傷が癒えるのを待った。
 いずれにせよ、このまま漫然と岐阜に居続けるわけにはいかないぞ、と、開き直りの気持ちになり始めたのは、平成2年の秋も深まりつつあった11月頃のことである。


※平成2年の鉄道乗車実績 3,087.9km(通算8,293.7km)



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2019/01/15

いかさまさんの平成史 平成元年

 先日、「いかさま平成史」と題してブログを書いたのだが、後々になってよく考えてみると、これでは詐欺イカサマにまつわる平成史のように読み取られかねない。私の性格言動いっさいをご承知の方からすればどうということもないことではあるが、googleあたりで検索して、それを目指して迷い込んで来られた方がいれば申し訳ないと思うし、なんだ、ただの駄文か、と思われれば私自身も面白くない。よってちょっとだけタイトルを変えてみる。


 さて、1月8日から始まった平成元年。4月になると日常の買い物で3%余計なお金を払うことになり、一方で余計なお金をもらった政治家が続出する中で竹下内閣は沈没し、後を受けた首相は愛人問題であえなく失脚、「指三本」と揶揄された。
 夏の参議院選挙で自民党は結党以来始めて過半数を割り込み、参議院で首班指名を受け、「山は動いた」と言った土井たか子委員長の社会党は、翌年の衆議院選挙でも136議席を獲得したが、その後の政界再編の波に呑まれ、わずか10数年で党勢を10分の1以下に落とす。その後の平成時代の政治的混乱の皮切りと言えなくもない。


 鉄道に目を向けると、JR発足4年目、2階建て車両4両連結の100系新幹線「グランドひかり」をはじめ、バブル景気に乗って全国で新たな列車・車両がデビューする一方で、少しずつ数を減らしながらも夜行普通列車が健在だった。
 同級生と3人で夏休みに北陸・紀伊半島を回った際、天王寺から新宮まで、夜行普通列車の、急行型電車の直角座席に揺られた。夜明けとともに見えてきた、串本付近の複雑な海岸地形と、さながら東映映画のオープニングのようにしぶきを上げる波の景色は印象に残っている。


Soramimi  音楽と言えばさだまさし一辺倒だった私が、同じ弓道部の同級生だったH君に勧められて聴くようになったのが遊佐未森。最近メディアでお目にかかる機会は少ないが、ちょうどこの年、カップヌードルのCMに使われた「地図をください」という曲がヒットした。透明感のあるやわらかな声と、童話のような世界観を持った曲がとても魅力的だった。
 遊佐未森の声とおなじくらい透明感のある心を持ったH君は、今、子供たちに愛される小児科の先生になっている。


Img_20190115_0002  そうして青春を謳歌した私の1年は、その年の暮れに、生まれて初めて女性とお付き合いらしきものをする、というひとつのピークを迎える。だが鉄道になんの興味もない彼女との初めてのデート場所に、不器用で無作法な私は大井川鐵道のSL列車を選ぶという失態を犯した。
  鉄ハラとも言えるこの暴挙の結果、独り善がりで儚い恋愛は翌年早々に早朝の弓道場に散り、SLだけを目当てに千頭で引き返した大井川鐵道へは、その後乗りつぶしのために二度足を運ぶことになるという二重の悲劇を招いた。若き日の苦過ぎる思い出である。

※平成元年の鉄道乗車実績 3,038.2km(通算5,205.8km)

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2019/01/10

いかさまさんの平成史・前史

 今年から与田新監督を迎えて心機一転を図る中日ドラゴンズ。このチームは昭和時代、「ドラゴンズが優勝すると政変が起こる」と言われてきた。事実、1954年に吉田内閣、1974年に田中内閣、1982年に鈴木内閣と、リーグ優勝をするたびに時の内閣が退陣を余儀なくされた。そして昭和最後の年、1988年に星野仙一監督のもと優勝を遂げたドラゴンズは、翌年、昭和という時代もろとも竹下内閣をひっくり返した


 3月に青函トンネル、4月に瀬戸大橋が開通し、四島の鉄道が一本で結ばれた一方で、9月、昭和天皇が大量吐血され、NHKが24時間体制でご容態をテロップで流し続けるようになった。街のイベント、テレビの派手なバラエティ番組など、いたるところで「自粛」ムードが漂い、リーグ優勝したドラゴンズはビールかけもおこなわれなかった。平成が始まる前年、昭和63年というのはこういう年であった。


 一方、私にとっては高校に入学して、あらゆる意味で封印を解かれてアクティブに行動を開始したペレストロイカ的記念すべき年である。以前に書いた初めてのひとり旅もそうだったし、自転車とJRの電車を乗り継いで、片道約1時間をかけて通学するようになった。
 表向きは「中学時代に誰もやっていないから、横一線で始められるスポーツ」という理由、実態はクラスにいた素敵な女の子を追っかけて入部した弓道部で、私は不純な目的を忘れて弓道に没頭することになる。不器用で不釣り合いな恋は実るはずもなく、早々に瑞浪駅の跨線橋に散ったのだが、当時の部活の仲間とは今も数年に一度集まってわいわいと飲む仲間である。


 昭和天皇が崩御された、という報せを、私は当時高校唯一の公認アルバイトだった郵便配達中に、町内放送で聞いた。1989年1月7日。元号が変わる、という初めての体験を、私は奇妙な感慨を持って迎えた。
 当時の私の家は7人の大家族で、両親と妹の他に、大正生まれの祖父母、さらに明治生まれの曾祖母という4世代構成だった。昭和という非常に長い時代の後半に生まれた私にとっては、1時代前=祖父母の時代=とても昔、という印象が強い。昭和から平成に変わる、ということは、私自身がその1時代前の人になることなのだと感じたのである。


 あれから30年。会社には平成生まれの若い社員が増え始め、私も名実ともに旧時代の化石呼ばわりされても不思議のない状況になってきた。その平成も終わり、5月からはまた新しい時代になる。そうなると私たちは、あの頃の曾祖母と同じ2時代前の人になる
 物心ついたころ、すでに何をするでもなく、1日中コタツに入ってテレビを観ていた明治31年生まれの曾祖母は、4つの時代を生きて、平成3年の夏に亡くなった。私が北海道へ渡った最初の夏のことだった。


※1988年末までの鉄道乗車実績  2,167.6km

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2019/01/06

2019年のご挨拶

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 遅くなりましたが、2019年、あけましておめでとうございます。
 旧年中はたくさんお立ち寄りいただきありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 今年は年末から年明けにかけて比較的穏やかな天候に恵まれた。この時期にしては異例ともいえる雪の少なさで、毎年恒例行事のように除雪で体のどこかを痛める身としてはありがたい状況であった。気温も高くなっており、幹線道路では路面が見えて走りやすい反面、融けた雪が無数の水たまりをつくり、車を泥だらけにした。


 それがここ数日は一転、日中しんしんと雪が降り、エリアによっては吹雪で視界が遮られる状況になることもあった。新千歳空港は5日から降雪により断続的に閉鎖されて欠航が相次ぎ、空港で夜を明かした人もたくさんいたという。影響は明日、場合によっては明後日まで続くとのことで、少し長い正月休みだった人たちの中には仕事始めに間に合わない人も出るだろう。学校の始業式に間に合わない子供も出るかもしれない。気の毒だとは思うが、気候が相手ではいかんともしがたい。


 私の会社も、例年仕事始めが1月6日と少々遅めなことと、曜日の並びの関係もあって、昨年に続いて長めの正月休みとなった。だが残念なことに年末からの仕事が片付いておらず、年明けに向けての資料整理を正月休みにしなければならないという失態を犯して今日に至っている。よってあまり休めた気がしないのだが、唯一楽だなあ、と思ったのは、昨年までひとりでやっていた2LDKのアパートの大掃除を今年はしなくて済む、ということであった。


 こういう感じでなんとも落ち着かない正月休みを過ごし、明日からはまた普通の日々が始まる。例年であれば、今年はどこへ乗りに行こうか、と時刻表を眺めながらニヤニヤするという、これまた恒例行事があったのだが、すべての鉄道に乗り終わってしまった今、「どこへ行こうか」ではなく「どこへ行かねばならないか」というある種の義務感に変わってしまっているから張り合いがない。


 経済的にも昨年下期から年末にかけて財布の紐を緩めすぎて切ない状況になっている。こうなるとブログのネタにも事欠く状況になり、昔の資料を引っ張り出してきては往時の旅を懐かしむ、ということになる。実際に出掛けられないというストレスを発生させる懸念もなくはないが、これはこれで楽しい作業でもあるし、ちょっとした気分転換になるのであれば、それもありかなあ、などと思う。


 私の青春時代とともに始まった平成の時代も、あと4か月足らずで終わる。自分の平成史を整理したら、鉄道だけじゃなくて甘酸っぱかったりほろ苦かったりするいろんな記憶もよみがえってきて、ちょっと毛色の変わった文章が書けそうだなあ、などと考えているのだが、さて、どうなるか。



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2018/12/31

盛りだくさんの1年~2018年のしめくくり

 2018年最後の1週間は、片付ける端から積み上がる仕事に辟易しながら慌ただしく過ぎた。これは25日に調子に乗って終電間際まで酔っぱらっていた私自身に起因するものでもあるのだが、ともかく年内に片付けたいと思っていた仕事は、仕事納めの28日の夜遅くになっても片付かず、結局、翌29日の土曜日も出勤する羽目になった。


 思えばここ数年で、今年ほどいろいろな出来事があった年も少ないように思う。
 1月には転勤の内示を受け、2月1日付で4年間続いた単身赴任の旭川から札幌へ戻った。仕事の内容も、営業系から総務系にほぼ180度変わった。大半が社内相手の調整業務で、言葉は悪いがつまらない仕事ではある、全くの素人である私にはしんどい仕事でもあるのだが、逆にこれまでに見聞きすることのなかった業務や、接点のなかった人たちとの交流をある種楽しみつつ、「仕事の鮮度」に支えられながらなんとか1年近くを過ごしてきた。


 2月初旬に学校のスケート教室で氷上を滑走しないで空中を飛行して骨折した上の坊主は、その後いったんギプスを外すことができたが、成長期のさなかだったためか、折れた2本の骨がアンバランスに伸び、8月に再度入院して手術をおこなった。今も定期的に診察とリハビリに通っているが、手術の生々しい傷痕以外はほぼ普段通りの生活に戻った。ちなみに、骨折を理由に滞っていた勉強の意欲が回復する兆しはない


 その我が家に、シンガポールからのお客様、T君がやって来たのが6月。家族以外の誰かが我が家に長期間滞在したのは初めてであり、当然ながら外国人のおもてなしも初めてであった。何しろ口数の少ない少年で、同じ事業でホームステイを受け入れた周囲の親御さんからも「大変でしょう」と言われたのだが、よくよく思い出してみれば、10年前にボストンでホームステイした際の私も似たようなものだったことに思い至れば、さほど苦だとは思わなかった。


 趣味の方では、7月、8月と2度の遠征の結果、自身の46回目の誕生日に鉄道全線完乗を達成できた。これについては、興奮のあまりこれまでにも数限りなく書いてきたのでここでは多くを書かない。だが、現地での立会も含め、友人知人、そしてブログ上でもたくさんの方からお祝いをいただいたことについては、重ねてお礼を申し上げたいと思う。


 そしてもうひとつ。忘れてならないのが、9月6日の北海道胆振東部地震である。最大震度7の猛烈な地震は厚真町を中心に41人の方の尊い命を奪い、北海道全域にブラックアウトという未曽有の電源喪失をもたらした。これについても、数多くの方からご心配をいただき、感謝に堪えない。
 災害といえば、7月の旅行の際にも、中国・四国地方を襲った豪雨に行く手を阻まれた。ここしばらく、豪雨災害の話を聞かない年がない。災害は身近なものとして、物心ともに備えをしておかなければならない、ということを実感した年になった。


 今年1年、皆さんに駄文にお付き合いいただいたこと、また、鉄道完乗へのお祝い、地震に際してのご心配に対し、今年一番お気に入りの写真とともにお礼を申し上げます。
 ありがとうございました。よいお年をお迎えください。

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(2018.8.18 五能線 追良瀬~驫木間)



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