2019/06/23

いかさま音楽堂【2】 音楽との42年

 そもそも私と音楽の付き合いは非常に古い。幼稚園に入園した4歳の春からだから、もう42年の付き合いである。これは私にとっては鉄道歴よりも長い
 幼少の頃から外で泥だらけになって遊ぶよりも芸術や文章に触れることを好むお上品な子供であった私は、幼稚園入園とともに、幼稚園内の音楽室で開講されていたヤマハの幼児科教室へ通い始める。これを卒園までの2年間続け、小学校入学以降はアンサンブルコースへ1年、それからジュニア科へ4年と、7年間のグループレッスンのほか、小2からは幼児科時代の先生の自宅へ個人レッスンに通っていた。


 普通に小学校に通っていれば半径2kmから外へ出ることのない幼少期に、バスに乗って隣町の駅前まで通える、という不純な動機もあったことは否定しない。ともあれ、小2から小3にかけての私は、この他に週3回の習字と週2回の剣道少年団にも通っており、月:習字、火:音楽(グループレッスン)→剣道、水:習字、金→習字+剣道、土→ピアノ(個人レッスン)と、習い事のない平日は木曜日だけ、という、今の私に勝るとも劣らない忙しさであった。


 だがこうした状況は、幅広く技術を習得することができる半面、すべてにおいて中途半端な子供を創り出す。まず習字。初段への昇段試験に3回滑り、小3の途中で断念する。その後大学時代のバイトや社会人になってからの資料作成で、「字が読みやすい」という評価を受けるが、「字が美しい」と言われたことはない


 次にヤマハのグループレッスンだが、そもそも練習嫌い、という私の性格もあるのだが、もうひとつ、とある先輩との出会いが岐路になっている。
 ヒデさんという私の小・中学校の2つ上の先輩で、今は世界を股にかけて音楽でピアノを演奏されている。とにかく発表会や、ジュニアオリジナルコンサート~ヤマハが開催する小中学生の自作曲のコンクール~で奏でる曲は、2歳の年の差を遥かに超え、センス、テクニック、すべてにおいて私とはイチロー対リトルリーグほどの差があった。


 人格的にもたいへん優れたヒデさんと出会ったことで、自分にも音楽的な才能があるのではないか、という淡い自信は見事に打ち砕かれ、私はお決まりのようにおふざけに走った。今思えば真面目にレッスンを受けていた同じクラスのメンバーには大変迷惑をかけたと思う。
 結局ジュニア科4年の満了後、私はヤマハでさらに高みを目指すことをあきらめ、個人レッスン一本に絞るのだが、こちらもピアノを上達したいというよりは、帰り道の甘味屋で1本50円の五平餅を買って食べるのが楽しみだというありさまであった。


 こうして、もはや音楽は私にとって「手に職」ではなく、単なる趣味の延長上にしかなくなり、中学3年生の春、受験を翌年に控えた私は、10年間学び続けた音楽から一時距離を置くことになる。
 だが不思議なもので、レッスンとか練習という重荷を下ろした私は、練習嫌いの私の部屋でいつもホコリをかぶっていたアップライトのピアノの前に座る機会が増えた。今私の家には安物のキーボードしかないが、何かの拍子にふと無性に弾きたくなり、時々押し入れから引っ張り出しては戯れている。


 そういうわけで今でも私はピアノの前に座れば、多少指の動きがぎこちなくなるのは別として、ラジオ体操第一・第二くらいは演奏できる。小さい頃から蓄積したある種の「音楽脳」は今も健在で、音楽を聴くことも好きだし、周囲がウエーと言うくらいカラオケも好きである。
 ただ多少困ったことは、中学、高校くらいから音楽の趣味が少々周囲と比べて脱線し始めたことと、インパクトのある曲に出会うとしばらくの間、その歌が頭の中を駆け巡り、仕事中だろうが食事中だろうが耳から離れてくれなくなることである。最近もとある曲にストーカーのように付きまとわれているのだが、その話はまた、いずれ。

 

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2019/06/18

ブログを書く気力が減退しているここしばらくの私

 最近、とある友人から「最近のあんたのブログは面白くなくなった」と言われた。


 私の場合、ブログは文章を書くための鍛錬だと思っているので、必ずしも周囲の人々を面白がらせようと思って書いているわけではないのだが、直球勝負で何のひねりもなく言われるとさすがに少々へこむ。けれども、このところの文章を自分で読み返してみると、確かに一時期のようなキレがない。このところPCに向かっていても気乗りのしていないことが多い自覚症状もある。


 旭川から札幌へ転勤してきて1年半近くなるが、仕事の方が少なからず多忙になっている。もともと経験のない業務で、1年半が経過しても知らないこと、未経験のことが多く、無知がゆえに振り回される時間は多い。決断までの所要時間も長くなる。
 これに加えて通勤時間が伸びている。行き帰りでおよそ2時間が費やされている。そのうち半分から7割の時間、バスや地下鉄に揺られているのだが、スマホで文章を書くのが得意ではない私にとっては専ら寝るか音楽を聴くか本を読むかの時間である。
 こんな調子で帰宅時間も遅く、PCに向かう時間もままならなくなっている。心身ともに疲労が蓄積しているのか、平日も休日もPCの前に座りはするものの、文章を書く気力が乗ってこない。


 思い返してみると、「文章を書くのは好き」と公言しながら、そもそも私は日記を綴るのが大変苦手だった。その日あった出来事を即席で文章に落とすと、悲しいほど平べったい表現になる。自分が読んでも面白くないから続かない。たいがい1か月も持たずに尻切れトンボとなる。唯一の例外は小学校時代に好きだった女の子とやった交換日記くらいで、どうやら明確な目的意識、悪く言えば下心がなければ続かないことになっているようである。私がブログで滅多にその日の出来事を日記的に書かないのは、このあたりに理由がある。


 そういうわけで、私がブログを書く時には、さまざまな出来事をメモや写真から掘り起こし、熟考しながら文章に起こすことが多い。綴っていて断然楽しいのはもちろん鉄道の話である。けれども、これも昨夏にひと区切りを付けてしまってからはあまりパッとしない。3月以降、大阪や横浜で新しい路線の開業もあるが、訪問のめどはたっていない。過去ネタであれば、四半世紀あまり前の大物が2件ほど、まだ料理されずに残っているが、これはできればもう少し先の楽しみに取っておきたい。そうなると、さて、どうしようか、ということになり、結局最近の私はPCの前でYoutubeを開いてぼんやりと音楽を聴いている。


 このところよく聴くのが、かつてヤマハが主催していた「ポピュラーソングコンテスト」、略して「ポプコン」の曲である。昭和50年代の音楽シーンに燦然と輝くポプコンは、1969年から1986年までの17年間、延べ32回で、あまたの名曲とアーティストを輩出してきた。全般にフォークあるいはニューミュージック系統の曲が多いのだが、この時代の曲にはある種の中毒的なところがあって、一度耳にすると容易に離れてくれない。細かな曲の話は後日に回すとして、ここ数日も私の頭の中で2曲ほどが交互に駆け巡っている。


 ポプコンの聖地と言えば静岡県のつま恋だが、開始当初は三重県の合歓の郷が本選会場だった。この2施設はいずれも当時ヤマハが運営していたリゾート施設である。私もかつて通っていたヤマハ音楽教室の合宿(と称した旅行)と家族旅行で二度、合歓の郷へ行ったことがある。コンサートはもちろん、音楽合宿でもよく利用されていて、ポプコンでグランプリを獲得する前のあみんなんかもここで合宿したと当時の著作に書いてあった。園内ではBGMとしてポプコンから生まれた曲や、ポプコンに縁のある歌手の歌がスピーカーから繰り返し流れており、これも私の脳内にその曲を強く刻み付けた。


 そんなこともあって、私はYoutubeを観ながら、当時音楽少年だった時代の自分を思い出している。そう言えば、7年以上もブログを続けてきて、「音楽の旅人」などというカテゴリーまで用意しながら、そのカテゴリーにはたった1本の記事しかない。講釈を垂れるほど音楽に造詣が深いわけではないけれど、好きな音楽の話や音楽との交わりの話ならそれなりにネタもある。試しにそんな話を書いてみようかな、などと考えているところへ、新潟県で震度6強というニュースが入って来た。1年前の今日は大阪府北部地震が発生した日である。その間には北海道胆振東部地震もあり、大きな地震がどこかで続いている。
 まだ現地の情報は細かくは入ってこないが、一部では停電も発生しているようである。大事に至らないことを祈るばかりである。


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2019/06/02

「白い巨塔」~3人の財前五郎

 5月の末に放送されたテレビ朝日系のドラマ「白い巨塔」。都合が重なってリアルタイムで観られなかったが、録画しておいたものをようやく全編観ることができた。

【注】以下ネタバレありますので注意。


Img_3756  大学病院をめぐるあくなき権力闘争と、医療に向き合う人の姿勢を主題に据えた「白い巨塔」は、私の好きな作家のひとりである山崎豊子の長編小説である。1963年から68年にかけて雑誌連載され、1966年から断続的に映像化されている。とくに有名なものは、主人公のひとり、財前五郎田宮二郎が演じた1978年版、唐沢寿明が演じた2003年版だろう。前者は全31話、後者は全21話と、長い連続ドラマになっている。


 岡田准一が財前五郎を演じた今回は84分×3、130分×2の計5話である。過去2度の連続ドラマと比べると短く、限られた時間の中でエピソードが盛り込まれたこともあり、内容的にはかなり絞り込まれたものになっていた。原作と比較すると、1978年版、2003年版のドラマでも細微のエピソードがカットされているが、今回はさらにカットされ、ストーリーの本筋にかかわる部分の一部にまで及んでいた。それが本筋の展開に少々無理を生じていた点が気になっており、医療と向き合う医師のあり方が描き足りないように感じたのは残念だった。


 原作や過去のドラマと見比べてみるときに興味深いのは、主人公、財前五郎のキャラクターである。
 貧しい境遇に育ち、篤志家の支援で医学の道に進んだ財前は、その才能を見出されて財前又一というスポンサーを得て、最上級の技量を持つ外科医にして、強い上昇志向を持つ野心家となる。同級生の内科医・里見脩二とは、互いにその能力を尊敬しあいつつも、医療や患者との向き合い方を巡り対立する場面が増えていく。
 登場人物の中では一見、最もわかりやすい性格の持ち主のように見えて、実はその台本、キャストによって受ける印象が最も異なる人物でもある。


 1978年版で田宮二郎が演じた財前は、時に策士になり切れない脇の甘さを見せる場面がある。里見や愛人の花森ケイ子の鋭い指摘にひるむ場面も多い。尊敬とある種の畏敬の念が混じり合い、里見に対しては苦手意識、ケイ子に対しては甘えの表情となって現れる。部下である医局員たちに対しても、威圧的で絶対権力者でありながら、少なくとも鉄壁の強さを持った人間ではない。控訴審に敗れ、死の床についた財前は、医療や患者と向かい合う姿勢の中に過ちがあったことを認め、反省の念を強くしていく。
 このドラマの収録直後に田宮二郎本人は猟銃自殺を遂げる。末期になればなるほど演技に凄絶さが増していくのはこのためかもしれない。


 2003年版、唐沢寿明の演じた財前は、前作と比べると落ち着いた印象を受ける。いかなる状況においても表情を動かすことが少なく、きわめて冷静に行動している。その冷静さと自信は、誰かに甘えたいという弱さや、随所で襲ってくる不安を、必死で押し殺しているようにも見えた。それは死期が近付いても変わらず、里見とともに自分の病状を確認しあった後も、医師としての誇りを失わなかった。夜の病院で里見と向き合った際の「僕に不安はないよ。ただ…、ただ、…無念だ」という、短く、抑えたセリフに胸を打たれたのは私だけではないと思う。


 これに対して、今回、岡田准一が演じた財前五郎は、自らの技量と野心に寸分の隙も見せない強固さが貫かれていた。だがその側面が強調されるあまり、医局員の柳原にカルテの改ざんを求める(このシーン自体が2019年版のオリジナルだが)シーンでの表情など、鼠を袋小路に追い詰めたかのような冷酷さ、残忍さを感じた。敗訴と末期癌という事実に直面した際、財前五郎は財前五郎でなくなったかのように取り乱す。そこに最後の安定を与えたのは外ならぬ里見の存在ではあったが、全編を通して今回の財前五郎には自信を通り越した「狂気」の印象を受けた。


 原作の中の財前五郎は、死を迎えるに際し、「自ら癌治療の第一線にある者が、早期発見出来ず、手術不能の癌で死すことを恥じる」という言葉とともに、自らの病状に関する所見を述べた手紙を大河内教授に託した。ドラマではこの手紙は、いずれも里見宛に変更されており、田宮二郎の財前五郎は自らの来し方に対する反省の弁と里見への感謝を綴り、唐沢寿明の財前五郎は医師としての矜持を里見に託し、岡田准一の財前五郎は里見への感謝の言葉こそあったものの大学の名誉を傷つけたことへの謝罪を残した。


 三者三様の財前五郎に対する評価は人それぞれだろうと思うし、好みもまたそれぞれだろうと思う。以下は私の私見であるが、全体を通した印象として原作のイメージに最も近いのは唐沢版、山崎豊子が描く財前五郎像に近いのは田宮二郎、という感想を抱いた。
 今回のドラマがつまらなかったわけではなく、これはこれでよくできた作品だとは思ったが、いかんせん放送回数の関係でディテールが弱いことと、なによりこのふたつの作品がいずれも強烈な印象と高視聴率を残したゆえに、田宮版から40年、唐沢版から15年以上を経ても比較で見られてしまうことは大変不幸であるように思う。もう一度じっくり見返す機会があれば、また印象は変わってくるのかな、とも思う。



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2019/05/27

暑い!

 今、時刻は日付の変わる0時になろうとしている。開け放った私の部屋の窓からは、気持ちの良い風が吹き込んでくる。
 札幌市南区の23時30分現在の気温は19度。窓を開けたまま寝ると風邪をひくレベルである。


 この19度という数字は、札幌市のこの時期の最高気温の平年値である。
 見事なまでの好天に恵まれた今日、札幌市の最高気温は32度まで上昇した。これは年間最も高い時期の平年値を上回る気温である。この気温の中、私は自宅の庭の片隅にあるささやかな畑を耕し、トマトやキュウリの苗を植えていた。途中何度も家へ入って水をガブ飲みし、最後は疲れ果てて居間のソファで仮眠した。何とか作業は終わったが、私は少々グロッキー気味である。


 だがこの程度で「暑い」と騒いでいては、道東方面の皆様に面目が立たない。
 オホーツク海沿岸の佐呂間町では、日中の最高気温は39.5度に達した。北海道内で5月に猛暑日を記録するのは観測史上初のことであるが、これは年間を通じても観測史上最高値である。気象庁のデータによると、26日の最高気温ベスト10を記録したのはいずれも北海道内で、そのすべてが観測史上最高を記録している。


 この時期、北海道の気温が上がるのは、ここ数年の状況を見ていると恒例行事である。私も過去に何度か記事に書いたが、5月の連休明けから6月上旬にかけては、北海道は非常に気温が上がりやすい。特に日高山脈の東側、いわゆる道東エリアでは、風が山を越える際に空気の温度が上昇する「フェーン現象」の影響で、これまでにもこの時期、真夏日となることは多かった。だがそれにしても今日の気温は想像をはるかに超えている。あの熊谷でも35度、館林や多治見は猛暑日にもなっていない。


 もう一つの特徴は朝晩の寒暖差である。札幌の現状については冒頭に書いたとおりだが、根室管内の別海町では、26日の最低気温が5.8度、最高気温が36.6度であった。半日で気温が30度以上も上昇したなど、さすがに聞いたことがない。ちなみに別海では、2週間たらず前、14日まで最低気温が氷点下になっていた。


 雪解けが早く、上がったり下がったりを繰り返しながらも比較的高温、好天で推移してきた北海道の天気。農作業の序盤は順調に進んだようだが、一方で降水量の絶対的な不足で畑は乾燥気味になっている。昨年は6月以降天候不順となり、日照も少なく、気温もそれほど上がらなかったため、多くの農作物に影響が出た。ここ数年の天候の推移をみるとき、「異常気象」という言葉が頻繁に出るが、もはや何が異常で何が正常なのかもよくわからないような状況になりつつある。よい秋になればよいのだが、と、祈るような心境である。


 なお、5月25日に北広島市のテニスイベントのため松岡修造氏が来道していた事実が発覚しており、ネット上ではフェーン現象以上の気温上昇要因だったのではと騒がれている。因果関係は定かではないが、なるほど、とつい納得してしまうだけの実績は十分にお持ちのようである。



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2019/05/13

令和最初の。

 気が付けば令和最初のブログの更新になる。


 4月27日から5月6日まで10日間にわたる連休は、おそらく私が会社勤めをしている間、最初で最後であろう行楽シーズンの長期連休であった。連休の前半は気温がぐっと下がり、道北や道東では雪が積もったところもあったようだが、後半は一転、おだやかな陽気となり、行楽にはもってこいの天気となった。


 だがこの貴重な連休、私は何をしていたかというと、ほぼ通常の休日と同じ過ごし方をしていた。どこへ行っても料金が高く、3月に子供と二人旅をしたばかりで緊縮財政の真っただ中にある我が家には厳しい。道内の近場でも、函館・松前・静内といった桜の名所は、友人のFacebookなどからも大混雑の状況が伝わってくる。
 加えて子供たちも中学生、高校生ともなれば、それぞれに友人との時間の使い方もある。おいドライブするぞ、などと言って喜ぶのは小学校までで、強制力を伴ったレジャーであれば露骨に気が進まない表情を見せる。で、結局家族で出掛けた先と言えば、外食+カラオケで1回、車で15分ほどの小金湯温泉の日帰り入浴に1回、といったところで、10日間ついに札幌の南半分から出ることはなかった


 だがまとまった休日があるということは、これまで手を付けようと思ってできなかったことができる時間でもある。
 そこでまずひとつは車の修理であった。この冬、どういうわけかリアバンパーの右側に豪快なこすり傷が付いた。それは塗装が剥げて下地が露出し、部分的に深く傷ついている。おそらく修理に出せば数万円はかかるであろうこの作業を、事前に1万円余りでネット購入した修理用品を使って自力でやってみた。
 

 樹脂製のバンパーを、水を流しながら耐水サンドペーパーで磨き、パテ盛り、下地塗装と乾燥・研磨を繰り返す。それからようやく塗料を吹き付けるのだが、これが私の非常に不得手な作業である。小学校時代から美術の時間「下書きだけの男」と呼ばれてきた私は色塗りが何より嫌いである。慎重に慎重に作業を進めた結果、とりあえず遠目にはそれほど違和感のない仕上がりになったが、近寄って見れば、焦って厚塗りしすぎた結果の「だま」が随所に残っている。艶もよくない。翌週ももう一度塗装面を削って塗り直すことになり、相変わらずの腕前ではあるが、濃色ボディに白い筋が無数に入ったままで走るよりはましである。


 この連休に手掛けたことのもうひとつは、ノートパソコンのハードディスク(HDD)の入れ替えである。
 これは私のものではなく、嫁が7年来使用しているものである。最近では子供と共用しているのだが、ゲームやら何やらといろいろなアプリがインストールされるうちにだんだん動きが重くなった。起動してデスクトップにアイコンが並ぶまで10分近くかかり、その後の動きもきわめて重い。せっかちなところのある嫁は、動かないパソコンを前にマウスクリックやキー連打を繰り返し、「寿命だ!子供のせいだ!」と騒ぐ。PCのスペックを考えれば、アプリやディスクの中身を整理してやればもう少しサクサクと動くようになるのではないかと思い、いろいろと試みてみるが、なかなか動きは軽くならないどころか、フリーズの頻度が高くなっていく。


 たまたま連休中、PCに詳しい大学時代の友人が立ち寄ってくれたので、彼に診断してもらったところ、HDDに不良があることが原因ではないか、ということになった。そうなれば解決策はHDDの交換ということになる。
 私自身は普段、自作のデスクトップパソコンを使用しており、パーツの交換には慣れているが、既製品のノートPCをいじるのは初めてである。しかもPC本体に付属していたはずのOfficeやユーティリティーソフトのCDが行方不明になっており、今現在の調子の悪いHDDのクローンをつくって新しいHDDに移植するという面倒な作業も必要になる。気は進まないが、嫁のイライラ声を聴くのはもっと気が進まない。ちなみに、「自作のPC」などと偉そうに言ったが、その1号機を組み立ててくれたのはこの友人である。


 新しい2.5インチのHDDを一緒に買ってきたケーブルでPCに接続し、フリーウェアのクローン作成ソフトを使って複製を試みるが、HDDの不良のせいか、複製に失敗し、途中で終了してしまう。ソフト自体を変えて試してみても同じである。
 そこで、ノートPCのディスクをいったん、ポータブルのHDDにイメージコピーし、それを新しいHDDに移す、という手順に変更。300GBほどのデータのコピーに6~7時間かかり、おまけに中途半端な状態でアップデートが止まっているwindowsの復元やら、いらないアプリの復元、ディスクの最適化など、結局のところたっぷり1週間を要する作業になってしまった。それでもなんとか交換と複製に成功し、PCの動きが目に見えて軽くなった。およそ6,000円でここまで漕ぎつけたことについては、緊縮財政下評価されてよい。


 こうして私は連休をちまちまとした、しかし時間のかかる作業に費やし、しかも連休中ですべてを仕上げることができず、1週間後の今日に至るまで持ち越した。これが令和最初の私の休日であった。
 ちなみに私はこの他にもうひとつ、自分のPCのHDDも新しいものに交換しようと、同じタイミングで3.5インチのHDDを購入して用意していたのであるが、こちらの方はまだ手を付けられることのないまま、自室の棚で出番を待っている。


 というわけで皆様、新しい時代もどうぞよろしくお願いいたします。



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2019/04/30

いかさまさんの平成史 平成20年~平成23年

 平成16年頃から中国の経済成長を主因として上昇基調にあった原油価格が急騰したのが平成20年である。年明けに70ドル/バレル前後だったニューヨーク原油先物市場における原油価格(WTI先物価格)は、7月11日に147ドル/バレルの史上最高値を記録した。
 これに呼応して市中のガソリン価格も上昇、レギュラーガソリンは8月に全国平均で182円に達した。平成19年の参議院選挙で大勝した民主党は、ガソリンに課されている暫定税率の措置延長に反対した。法案は衆議院で可決されたものの参議院で否決され、3月末をもっていったん失効し、衆議院での再可決で5月から復活したことも、ガソリン価格の乱高下に拍車をかけた。


 ところが9月、いわゆる「リーマン・ショック」により、原油価格は年末には40ドル/バレルを割り込むレベルまで暴落した。前年一時18,000円台まで回復した日経平均価格も下落が加速、翌年3月には7,000円割れ目前まで下がった。そうした中で平成21年8月の衆議院選挙がおこなわれる。前回、「郵政選挙」で圧倒的多数を得た自民党は目も当てられない大敗を喫し、15年ぶりに下野、政権は民主党に移り、鳩山由紀夫内閣が誕生した。


 だが好調なスタートを切った鳩山内閣は、事業仕分けの不調や普天間基地移設問題などでほどなく迷走を始め、首相や小沢一郎幹事長の献金問題などもあり、わずか9か月で総辞職。菅直人内閣で迎えた参議院選挙で民主党は敗北、ふたたび国会はねじれ状態に突入する。そして野田佳彦内閣で迎えた平成22年の衆議院選挙で、今度は民主党が惨敗を喫し、政権は再び自民党に戻る。第二次安倍内閣が組閣され、良くも悪くも政権はようやく安定して現在に至っている。その後の民主党の状況はご承知のとおりである。


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 このような状況の中、私は以前にもここで長々と書き連ねたとおり、平成20年、21年と続けて海外研修に出る幸運に恵まれた。特に平成21年の2か月間にわたるアメリカ・ヨーロッパでの単独研修は印象的だった。
 この研修は新型インフルエンザの流行で出発が1か月遅れた。9月13日、成田からニューヨークへ向かったJAL機内では、そのJALの経営危機問題のニュースが流された。そして9月16日、鳩山内閣発足のニュースを、私はボストン郊外のホームステイ先で、インターネットを通じて見ることになった。円高が進行して90円/ドル前後だったため、かなり余裕のある生活を送ることができた2か月間でもあった。

 ⇒ 2009年世界の旅 (いかさまトラベラー:世界の旅人

 この研修の年の2月、私は人事異動で6年間過ごした岩見沢から10年ぶりに札幌へ戻り、新築した自宅に収まった。11月に研修から戻ってきてひと息つくのもつかの間、翌平成22年の2月には部署異動と、変化に次ぐ変化が訪れた時期になった。
 鉄道趣味の方は、海外研修などのバタバタもあり、若干クールダウン気味に推移したものの、この間に鉄道乗車記録のデータベース化などを地道に進め、比較的仕事に余裕があった平成23年から乗りつぶしに向けた意欲を燃やしていくことになる。それから先はほぼ年1回のペースで旅に出かけることになっていった。

 ⇒ 2011年夏 九州・四国・中国乗りつぶしの旅

 だが鉄道の世界では、平成21年3月、寝台特急「富士・はやぶさ」の廃止により、昭和33年以来50年にわたる東京駅発着の「ブルートレイン」の歴史に終止符が打たれ、若い頃世話になった「大垣夜行」の後身、快速「ムーンライトながら」も臨時列車化された。東北・北海道方面や、四国・山陰地方に向けて夜行列車はまだ多少残っていたものの、歴史ある列車が退場を余儀なくされたことで、夜行列車時代は終焉を迎えたといっても過言ではないように思う。



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 その一方で平成22年12月には東北新幹線・八戸-新青森が延長開業し、翌平成23年3月には九州新幹線・博多-新八代が開業、ついに青森県から鹿児島県までが新幹線によってつながることになった。
 しかしこの記念すべき出来事の前日、3月11日、東北地方を震度7の巨大地震と未曽有の津波が襲う。東日本大震災の発生と、これに連なる福島第一原発事故で大きな被害を受けた地域は、今なお復興途上にある。平成最後の10年間は、地震、豪雨と多発する災害との闘いであったようにも思う。


 さて、最後は駆け足になってしまったが、なんとか平成23年までたどり着いた。この翌年、平成24年2月に、私はこのブログを開設している。平成24年以降の私の平成史はブログで振り返ることでご容赦いただくことにしたい。非常に手前勝手のように思われるが、平成回顧は平成のうちに終わらないとどうにもおさまりが悪い気がして仕方がない。 
 私が青春を駆け抜けた平成は間もなく終わる。次の時代は、私の子供たちが青春を駆けていく。その時代は子供たちにどんな楽しい思い出と、しょっぱいネタを提供してくれるのか、非常に楽しみである。
 次の時代、令和はあと数時間でやってくる。


※平成20年の鉄道新規乗車実績    447.3km(通算 20,895.2km)
※平成21年の鉄道新規乗車実績    185.8km(通算 21,081.0km)
※平成22年の鉄道新規乗車実績   1,287.0km(通算 22,368.0km)
※平成23年の鉄道新規乗車実績   1,386.5km(通算 23,754.5km)


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2019/04/28

いかさまさんの平成史 平成18年~平成19年

 平成18年、5年間にわたった小泉内閣が余裕を残して退陣した後、日本の政治は混迷期に入る。戦後最年少で第一次内閣を組閣した安倍首相は、翌年、閣僚が次々と不祥事を起こして辞任する事態の中、参議院選挙敗北の結果を受けて退陣、跡を継いだ福田内閣も1年で投げ出し、以後、平成24年に第二次安倍内閣が登場するまで、1年ごとに内閣が変わる危機的事態に突入した。


 そんな中、平成18年の日本は、スポーツで印象的な出来事が相次いだ。トリノオリンピックで「イナバウアー」の荒川静香が金メダルを獲得。夏の甲子園では、3連覇を目指した駒大苫小牧高校が早稲田実業と引き分け再試合の死闘を演じた。結果は早実に軍配が上がり、駒大苫小牧の3連覇は成らなかったが、駒大苫小牧のエース・田中将大はその年のドラフトで楽天イーグルスに入団、7年後の平成25年、24勝0敗という驚異的な成績を残して楽天球団史上初の優勝の原動力となる。かたや早実のエース、「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹は、早大経由で北海道日本ハムファイターズに入団したものの、一軍と二軍の間をさまよい続けている。


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 その年の日本シリーズは、北海道移転後初の優勝となった日本ハムと、2年ぶりにセリーグを制した中日との戦いとなった。ドラゴンズの日本シリーズを札幌で観られるという興奮に打ち震えた私は、ネットオークションで倍の値段を払って第3戦から第5戦までの3試合すべてに通った。だがこの3連戦でドラゴンズの得点はわずか2点、しかもそのうちの1点は、第3戦1回表。岩見沢から仕事終了後に駆けつけた私はそのシーンに間に合わなかった。3歳になった上の坊主とふたりで出掛けた第5戦、私たちはライトスタンドのビジター応援席で、日本ハムの胴上げを見せられることになる。帰り道で、坊主に「パパまけちゃったね。げんきだしなよ」と慰められたのを覚えている。
 日本シリーズはその翌年、平成19年も同じ組み合わせでおこなわれた。私はこの年も第6戦・第7戦のチケットを用意して待ち構えていたが、ドラゴンズが札幌へ戻ってくることはなかった。第5戦のナゴヤドームで、山井-岩瀬のパーフェクトリレーで53年ぶりの日本一を決めたからである。


 平成18年当時、私の勤務するブランチのボスは、私が平成7年に入社した時の教育担当課長だった人である。その人の趣味が鉄道乗りつぶしだと知ったのは、10年ぶりに岩見沢でお会いした後のことだったのだが、履歴書に「趣味:鉄道」と書いた私のことをご記憶だったようで、時々私の席にふらりと現れては、「先週どこどこへ行ってきた」とか「この間〇〇線に乗って来た」という話をした。
 元来が負けず嫌いの私は、そういう話を聞くと黙っていられなくなる。鎮火目前の燃料に再び火が付いた。職場では6月に配属になったばかりの新人を抱え、また自宅では3年ぶりに腹が大きくなった嫁を抱えてはいるが、もう止まらない。


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 ひとしきり文句を言う嫁を説得し、12月中旬の金曜日、私は飛行機で東京へ飛び、4日間をかけて、京都、天橋立、姫路、大阪、倉敷、岩国、宇部と辿り、火曜日の飛行機で福岡から札幌へ帰ってきた。4泊4日の純粋な乗りつぶし旅は、大学卒業の時の旅行以来になる。この年、私の鉄道新規乗車記録は久々に1,000kmを超え、通算乗車距離もついに20,000kmを超えた。
 けれども、翌年1月に下の坊主が生まれ、2月には鉄道好きのボスも異動で岩見沢を去ったこともあり、岐阜県多治見市が40.9度の猛暑を記録した一方で、私の鉄道熱は平熱やや下までみたび下がることになる。


 こうした状況もあって、実際に私が鉄道全線完乗を達成するまでにはさらに12年の月日を要することになるわけだが、理由は他にもある。
 これまではちょっと出掛ければ新規乗車距離がぐんぐん伸びたのだが、主な幹線をおおむね乗り終わったこの時期になると、未乗路線に乗るためにすでに乗車済みの区間を往ったり来たりする頻度が高くなった。また、この時期まだ鉄道路線のデータベースの整備ができておらず、後になってから取りこぼしと呼べるような未乗区間がボロボロと出てきたこともある。
 つまり乗車実績が伸びるにしたがって、乗りつぶしの効率はだんだんと悪くなっていくわけで、平成18年の乗りつぶし旅は、その後やって来る壮大な散財の序章に過ぎなかったことがのちになって実感されるようになってくるのである。


【過去記事】
12月と鉄道  2006年12月の旅 その1 その2 その3 その4


※平成18年の鉄道新規乗車実績 1,007.0km(通算 20,325.0km)
※平成19年の鉄道新規乗車実績  122.9km(通算 20,447.9km)


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2019/04/25

いかさまさんの平成史 平成15年~平成17年

 このところ公私ともにバタバタと忙しい日が続いており、なかなかブログを更新する暇もなかった。平成の終わりに当たって私自身の平成史を振り返り、懐かしみながら記事を書こうと思っていたのだが、気が付けば令和時代の到来まであと1週間を切っている
 とはいえ、ここまで書いてきたものが尻切れトンボになるのも心が痛むので、もう少し、自分振り返りの旅を続けようと思う。


 バブル絶頂期の平成元年に38,915円を記録した日経平均株価が7,607円と底を打った平成15年(2003年)は、私にとって何度目かの人生の大きな転機になる年となった。2月に4年間を過ごした旭川から岩見沢へ転勤となり、7月には待望の長男が私と同じ顔で生まれてきた。仕事はきわめて順調で、私はこの年からしばらく、仕事と家族(子供)を中心に充実した、悪く言えば振り回される生活を送ることになる。こういう状況の中で、鉄道乗りつぶしの方は、平成15年に仕事で九州・関西へ行った際、未乗だった山陽新幹線・三原-博多間373.8kmに乗ったのが唯一の大物で、相変わらずお休みに近い状況が続いた。


 一方でこの3年間は、鉄道にとって大きな出来事が重なった年であった。平成15年10月1日、東海道新幹線品川駅が開業、東海道新幹線はこれまでの「ひかり」から「のぞみ」中心のダイヤに大幅変更された。品川に「のぞみ」全列車が停車するようになるのはこの5年後だが、品川、新横浜への停車拡大により首都圏西部から新幹線へのアクセスが飛躍的に向上することになった。
 翌平成16年3月13日には九州新幹線・新八代-鹿児島中央間が開業。在来線の線形が悪い区間の先行開業は、既存の新幹線と接続しない異例の形で、博多-新八代間の開業を待つことになる。


 華やかな出来事が続いたJR各社に大きな衝撃の走る事故が、平成17年4月25日、発生する。JR西日本・福知山線脱線事故である。この事故については以前にも書いたので詳細は省くが、成長と技術革新、スピードアップの裏側で大切なものを置き忘れてきたことに気付かされた瞬間でもあった。JR西日本では在来線ダイヤの見直しが行われ、ホームページのトップには今も福知山線事故に関する記述が残っている。こうした事故の発生を目の当たりにしながら、この6年後、JR北海道で鉄道の安全性が否定されかねない事故が続発し、今日的状況を招いていることも、これまでに何度も書いてきた。


 政治的には平成13年に旋風を巻き起こして誕生した小泉純一郎内閣が長期政権となり、平成17年にはかねてからの持論であった郵政民営化法案を参議院で否決された小泉首相が衆議院を解散する、いわゆる「郵政解散」がおこなわれた。私の住む岩見沢の選挙区でも、自民党の現職が造反して刺客を送り込まれ、分裂選挙となった。その結果、民主党前職が漁夫の利を得て余裕の当選、比例単独一位とされた刺客は小選挙区では最低の得票だったものの比例復活で難なく当選し、自民党の公認を失った前職は健闘空しく当選ならなかった。全国的には自民・公明の連立与党が300議席以上を獲得して政権を盤石の体制にしている。


 盤石と言えば、2004年に発足した中日ドラゴンズの落合博満監督体制も、その後8年間、リーグ優勝4回、日本一1回、8年間すべてでAクラスという盤石な体制を築いた。就任1年目、「現有戦力の底上げだけで優勝を目指す」と公言してそれを実行した「有言実行」の行動力、業界(政界)内ではどちらかというと一匹狼の印象が強く「変人」的評価を受けていた落合博満と小泉純一郎はどこか相通ずるところがある。この年、プロ野球界は近鉄とオリックスの合併に端を発するプロ野球界再編問題から前代未聞のストライキに突入し、結果、楽天が新規参入で2リーグ12球団体制の維持が図られることになった。今シーズンの楽天イーグルスはここまで好調な戦績を残しているが、参入初年度97敗という記録的な敗戦数となったことを思うと非常に感慨深い。そう言えばその年の楽天の監督、田尾安志も中日の中核選手だったなあ、と、ふと思い出す。



※平成15年の鉄道新規乗車実績  379.3km(通算 19,212.0km)
※平成16年の鉄道新規乗車実績   26.0km(通算 19,238.0km)
※平成17年の鉄道新規乗車実績   80.0km(通算 19,318.0km)


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2019/04/15

いかさまさんの平成史 平成13年~平成14年

 先頃、北広島市への本拠地移転を発表した北海道日本ハムファイターズ。2023年には新球場を建設して札幌を去ることになる予定だが、ファイターズが2004年以来本拠地球場として使用してきた札幌ドームがオープンしたのが、21世紀最初の年、2001年(平成13年)のことである。
 プロ野球公式戦のこけら落としは、6月26日の巨人対中日戦であり、この試合、1回表に1番打者の福留孝介(背番号1)が投手メイの第1球をライトスタンドに叩き込んだ。札幌ドーム公式戦第1号となったこの打球の落下点付近には今も記念のプレートが取り付けられている。
 この年の7月にはオールスターゲームも開催された。運よくチケットが当選した私たち夫婦は、旭川から観戦に出掛けた。昔のナゴヤ球場に慣れ親しんだ私にとって、広く、大きな天井に包まれたドーム球場は驚きの環境だったが、練習中から西武・カブレラがその天井に直撃弾をぶち当てて、私たちの驚きを倍増させた。


 その札幌ドームを含め、日本国内10会場でサッカー日韓W杯が開催されたのが2002年(平成14年)。札幌ドームでは予選リーグのみ3試合の開催だったが、アルゼンチン対イングランドという屈指の好カードも組まれた。サッカーに全く縁も興味もない私は、この試合を観戦するために東京からやって来た高校時代の同級生と飲むために旭川から札幌へ出た。その夜の札幌市内には夜が更けるまでサッカーファンの姿が絶えず、いつもに増して不夜城の様相を呈していた。


Pa042924  平成13年に最も世界を震撼させた出来事と言えば、ニューヨーク同時多発テロをおいて他にない。私はそのニュースを旭川の社宅の部屋のテレビで観ていた。最初に私が眼にした映像は、高層階から激しく煙を噴き上げる2本のビルの姿だった。NHKの現地レポーターの中継が続く中、飛行機らしき小さな物体がビルに接近していき、ビル陰に消えたかと思うと、ちょうどそのあたりから新しい煙が上がった。やった、と私は直感したが、ビルを背後に喋り続けるレポーターはそのことに気付かない。もどかしい思いは今も覚えている。
 これが4機の飛行機による同時多発テロであると分かったのは後日の話である。この事件はのちのイラク戦争の契機となった。そして私は事件から8年後、更地となったWTC跡地を訪れることになる。


Jrh7891  鉄道の世界では、2002年12月、東北新幹線が八戸まで伸び、盛岡-八戸間の東北本線が並行在来線としてJR東日本から切り離されて第三セクター化された。東北新幹線接続の対北海道連絡は、それまでの特急「はつかり」・快速「海峡」のペアに代わって、八戸-函館間の特急「スーパー白鳥」が担うことになった。2001年に廃止となった大阪-青森間特急「白鳥」の愛称が所を変えて復活する一方、「はつかり」や「はくつる」など東北本線筋の伝統ある愛称が消えたことで、全国津々浦々をネットした国鉄の印象は次第に薄まっていく。
 私の鉄道熱はと言うと、平成13年こそ新規乗車区間は札幌市営地下鉄東豊線の延長部のみだったものの、翌年は仕事で千葉方面を訪問した際に銚子の先まで足を伸ばすなど、7年ぶりに100kmを超えた。だが、まだ本格的に乗りつぶしを再開する状況にはなっていない。


 こうした中にあって、私の21世紀を迎えての生活は順風満帆であった。家に帰れば誰かがいるという生活を久しぶりに味わい、やはりいいものだなあ、と喜びをかみしめる一方、子供がいないこともあって時々嫁が札幌に帰るため、一人の時間も堪能できた。仕事も順調で、人事異動で私を育ててくれた上司は平成13年、14年に続けて札幌へと去っていったが、後任で来た上司も私の覚醒に一定の評価を与えてくれたらしく、こまごましたことをあまり言わず、のびのびと仕事をさせてくれた。取引先にもかわいがってもらい、旭川という街は私の中で札幌に次いで大きな印象を残す街になった。嫁のお腹の中に、北海道でただ一人、私の血を引く生命が宿ったと知らされたのは、その年の秋も深まった頃のことである。


※平成13年の鉄道新規乗車実績     5.5km(通算 18,618.2km)
※平成14年の鉄道新規乗車実績  214.5km(通算 18,832.7km)


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2019/04/12

いかさまさんの平成史 平成11年~平成12年

 先日、2024年に紙幣のデザインが一新されることが発表された。渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎とはまた渋い人選だなあ、などと思っているのだが、そうした中で唯一蚊帳の外に置かれたのが二千円紙幣である。沖縄で積極的に流通している以外はめっきり見かけなくなり、流通量もさることながら傷みも少ないとして、今回刷新が見送られた。
 この二千円紙幣登場の年が、「ミレニアム」と呼ばれた2000年、平成12年である。九州・沖縄サミットの開催とともに、小渕恵三首相の肝煎りで登場したものだが、ご当人はその年の春、小沢一郎率いる自由党の連立離脱騒動のさなか脳梗塞に倒れ、サミットも二千円紙幣も見ることなくこの世を去った。


 小渕首相の緊急事態に登板したのが、森喜朗首相である。どちらかと言うと筋肉で物を考えるタイプらしいこの方は、就任早々から失言を連発、後継指名の不透明さもあって支持率をじわじわと落とす。これを見て反旗を翻したのが、加藤紘一、山崎拓らである。小泉純一郎を含めて「YKKトリオ」と呼ばれた彼らは、野党を巻き込んで森首相に三行半を突きつけようと画策するが、戦い下手の公家集団と揶揄された加藤率いる宏池会は政権側に切り崩された。頼みの綱の小泉は森に殉じて動かず、「加藤の乱」と呼ばれたクーデターは失敗、YKKは壊れたファスナーとなる。派閥の分裂を招いた加藤は自民党内で急速に力を失い、加勢しなかった小泉は翌年、首相の座を射止める。加藤を泣きながら制止した谷垣禎一は、10年後、自民党下野というまさかの事態下で総裁となるが首相にはなれず、自転車で転倒して政界引退を余儀なくされる。まさに政界一寸先は闇である。


 私は、11月20日に起こったこの一部始終を、クアラルンプールのホテルのテレビで観ていた
 墜落寸前の低空飛行に追い込まれていた私に転機が訪れたのは、平成11年の2月である。この年の定期異動で私は札幌を離れ、旭川で勤務することになった。時を同じくして札幌から旭川に異動になった上司が引っ張ってくれたらしい。「お前の異動はバクチだ。化けるかボケるかどっちかだ」と部長に言われて腐り気味だった私に「俺は化けると思ったんで連れて来た」とその上司は言ってくれた。
 人間現金なもので、そう言われて発奮しないわけにいかない。自由に自分を動かして背後からフォローしてくれる上司の下で、私はのびのびと仕事に取り組んだ。年末には2年半付き合った彼女との結婚も決まり、翌年、その新婚旅行先がマレーシアそしてシンガポールだった。加藤の乱の数日後、私たちはシンガポールのホテルでいかさまの乱ならぬ大喧嘩をかますことになるのだが、まあよくある話である。


 下降の一途をたどっていた私の人生のバイオリズムは、20世紀の終わりを目前にようやく上昇カーブを描きはじめた。しかし、氷点下目前まで迫っていた鉄道への熱が上昇するにはもう少し時間がかかる。上野-札幌間に新型寝台特急「カシオペア」がデビューしたのは1999年7月。その一方で九州方面への寝台特急は、同じ年に走り始めた700系「のぞみ」の影響もあってますます縮小が進む。1999年12月のダイヤ改正で「さくら」と「はやぶさ」が東京-鳥栖間併結運転となり、翌年には関西・九州間の寝台特急も大分行き「彗星」と長崎行き「あかつき」が併結運転となった。子供の頃憧れの対象だったブルートレインの退潮も、アチチアチチと燃えていた私には思いを巡らせる余裕もなかった。平成12年に私が新たに乗車した鉄道路線は0km。昭和62年からの32年間で唯一この年だけである。


※平成11年の鉄道新規乗車実績  78.4km(通算 18,612.7km)
※平成12年の鉄道新規乗車実績       0km(通算 18,612.7km)


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