2020/06/15

1990年春・九州一周の旅【6】5日ぶりの地上泊、3日ぶりの…

 前回の続き


 明けて3月29日、木曜日。目が覚めると列車は止まっている。すわ寝過ごしか、と飛び起きると、窓の外の駅名標には「西鹿児島」の文字。列車の終点なのだから寝過ごしようもないのだが、時計を見ると6時20分。到着してから5分を経過している。また車掌に起こされないでよかった、と安心しつつ、日豊本線国分行きの普通列車に乗り換え。予定では国分のひとつ手前、隼人で下車して肥薩線を往復することになっているが、ここでも容赦ない睡魔に襲われる。


 「お客さん、終点ですよ」の声とともに車掌に揺り起こされた私は、呆然と国分駅前に立った。またしても寝過ごしである。隼人から7時17分発の肥薩線吉松行きに乗る予定だったが当然間に合わず、次の列車は9時36分発。今日は後の行程に余裕があるからいいようなものの、ここ数か月来の苦心の行程がガタガタになるところだった。もっとも、3回の寝過ごしですでに修正に次ぐ修正を重ねているから、今更の感無きにしも非ずである。


 早朝から営業していた「うどん」の幟の立った喫茶店に入る。丸刈りのおじさんがひとりぼーっと座っており、私を見ると「うどんしかないよ。いいかね?」と聞く。他に選択肢がないのだから仕方がない。ありきたりのうどんで朝食をとり、食後にコーヒーを注文すると「インスタントですが」と馬鹿正直な言葉とともに薄いコーヒーが出てきた。不思議な喫茶店である。


 国分から1駅引き返し、隼人から吉松までの肥薩線を往復。水俣経由の海沿いの線路ができるまでは鹿児島本線だった路線だが、深い山間を走る。天気が良く、緑の木々の間から注ぎ込む太陽の光がとても爽快だったことを覚えている。隼人に戻り、ボックスシートがずらりと並ぶ急行型電車の快速「錦江3号」で西鹿児島へ引き返した。わずか1分の接続で、指宿枕崎線の快速「いぶすき3号」に乗り換える。


Ibusuki  鹿児島市交通局の路面電車が車窓に見え隠れし、ベッドタウン化が進んでいるらしい沿線を眺めながら、1時間足らずで指宿に到着した。今日の行程はここで終了。山川桟橋行きのバスに乗り、予約してある「圭屋ユースホステル」へ向かった。東村山以来5日ぶりの地上泊である。それよりなにより、汚い話だが3日前の宮崎以来風呂に入っていない。足の匂いも相当気になっている。疲れもたまっているし、このあたりで一度リセットしないと体がもたない。


 土産物屋の2階にあるユースホステルに荷物を置き、居合わせた先客の勧めで、近くにある「市営砂蒸し温泉」へ行く。現在は「砂楽」という名前に変わっているようだが健在。当時の入浴料は510円で、ロッカー代10円、タオル代100円が別にかかった。更衣室で素っ裸になって浴衣を身に着け、海岸へ出ると、簡単な屋根のかかった砂浜の一角に、がずらりと並んでいる。空いている場所に案内され、寝転がると、スコップを持ったばあさんが私の体の上に一心に砂をかけた。ははあ、これが砂かけ婆か、と感心するうちに、私の体は砂で覆われ、身動きがとれなくなった。


 体を覆った砂は熱く、サウナに放り込まれたようなあんばいである。体の奥から汗や老廃物が外に向かってじわじわと出ていく感覚がわかる。3分ほどもすると体全体が温まり、もういいか、という気分になるが、基本は10分程度というから、心の中で歌を歌いながらじっと時間の過ぎるのを待つ。
 額からたらりと汗が伝い落ちたのを見計らってむっくりと起き上がり、建物の中へ戻って浴衣の中まで砂まみれになった体を洗い流す。あとは洗い場で体を洗い、浴槽に浸かってまたゆっくり。3日分の汗を一気に洗い流す。


 この日のユースホステルには計16人の宿泊があった。当時のユースホステルは相部屋、禁酒、ミーティングありが基本で、今でいうゲストハウスに近いがもっとアットホームな空間だった。「ホステラー」と呼ばれる宿泊客はライダーや自転車(「チャリダー」などと呼ばれていた)が多く、鉄道旅行者はどちらかというと少数派だった。期待していたミーティングは、ホステラーの集まりがあまりよくなく、途中で自然分解のような形になったが、オレンジカードの見せあっこをしている鉄道派の若者を横目に、弓道経験者というペアレントさんからたっぷりと話を聞かせてもらった。


 ちなみにJRで来た人のことを何と呼ぶんですか、とライダーの皆さんに尋ねたところ、
じぇあらー」とのこと。なんだか間抜けな響きである。


 続きますが、私用により半月ほどお休みをいただきます。



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2020/06/08

1990年春・九州一周の旅【5】寝過ごし連発で崩れる行程

 前回の続き。


 3月28日、2時14分に下り西鹿児島行き急行「かいもん」が熊本を出発。その2分後、2時16分に上り門司港行き「かいもん」が熊本に到着した。座席は半分強が埋まっており、先客に挨拶して腰を下ろす。その発車を待たずに私はあっという間に眠りこけたが、下車予定の鳥栖の手前で無事目が覚めた。4時51分着。5時35分発の久大本線普通列車に乗って日田を目指す。今日はこの後昼前に小倉へ入り、北九州市民球場でおこなわれる福岡ダイエーvsオリックスのオープン戦でも観戦しようかと思っている。ちなみに当時の私は、南海時代からのホークスファンである。


 雨がしとしとと降る窓の外を眺めるうち、うつらうつら、そのうちに本格的に睡魔が襲ってきた。久留米から久大本線に入ったはずだが、その先のことはほとんど覚えていない。
 ふと目が覚めると、ちょうどどこかの駅に停まったところだった。駅名標が見えた。「あまがせ」と書かれている。
 わずか数秒、私は考えて、それからやらかしたことに気付き、泡を食って列車から降りる。待つほどもなく上り久留米行きの普通列車が入ってきて、7時47分には日田へ戻ったのだが、乗車予定だった日田彦山線の列車は8分前に出発した後。次の列車は9時58分発で、2時間以上も開いている。


 無念の思いにかられつつ駅前を歩くうち、この時間から開店しているうどん屋を見つけた。「朝食・350円」という看板につられて入ると、どんぶり飯、みそ汁、玉子、漬物、魚のフライ、生野菜と満腹ラインナップ。食後にはコーヒーまでついた。
 なんとか時間をつぶして、9時58分発の日田彦山線快速「日田」に乗車。11時04分着の田川後藤寺で下車して新飯塚までの後藤寺線を往復する予定である。野球の試合には間に合いそうもないが、雨は降り続いており、おそらく中止になるだろう。


19900328 日田で買った文庫本と車窓に交互に目をやるうち、またしても瞼が重くなってきた。必死で耐えようと試みるが無情にも重力に逆らえなかった瞼は下へ落ち、次に気が付くと城野。本日2度目、通算3度目の寝過ごしである。やむなく小倉まで乗車し、L特急「にちりん18号」で博多に向かった。


 時刻表をひっくり返しながら再度行程を練り直し、13時36分発の篠栗線普通列車に乗る。終着の篠栗で後続の列車に乗り換え、14時59分に新飯塚着。15時20分発の普通列車で、予定とは逆方向から後藤寺線を往復する。筑豊炭田の面影を残す路線で、鉱山の大きな事業所が車窓に見える。乗客は少ない。


 新飯塚から篠栗線直通の普通列車に乗り、長者原で香椎線香椎行きに乗り換え。さらに香椎で西戸崎行き普通列車に乗り換える。「海の中道線」の愛称がついた路線は、雁ノ巣の先で砂浜の海岸のすぐわきまで出る。博多から1時間足らずの景色とは思えない。西戸崎から折り返し、香椎からL特急「にちりん42号」、博多でL特急「有明51号」と乗り継いで20時39分に熊本着。ここからさらに三角線を往復する。今だったら景色の見えない時間帯に初乗りなど考えられないが、当時は乗車距離を伸ばすことに貪欲だった。いずれもう一度乗り直したいと思いつつ、その機会のないまま現在に至っている。


 23時ちょうどに熊本へ戻り、1時52分にやって来る西鹿児島行き急行「かいもん」を待つ。0時で閉店となる喫茶店で時間をつぶし、駅前をうろうろしていると、客待ちをしていたタクシーの運転手が24時間営業のメシ屋の存在を教えてくれた。関西方面からの自転車サークルの団体で大混雑の店で相席させてもらい、小さくなってご飯と豚汁、それにおでんを腹に流し込む。


 昨日熊本で捨てた「かいもん」に再び乗り込む。これで「はやぶさ」以来4連続の夜行泊である。昨日から続く3度の寝過ごしは反省材料だが、若き日の有り余る体力と好奇心、それに限られた予算がホテルにもぐりこむことを許さない。幸運にも並びで開いていた座席を確保でき、背もたれを大きく倒すと私は即座に眠りに落ちた。熊本を発車したことすら記憶していない。


 続く。



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2020/06/02

1990年春・九州一周の旅【4】北九州くるっと乗りつぶし

 前回の続き


1990a_20200601234401  当時の九州には博多と鹿児島を結ぶ夜行急行が2系統あった。熊本経由の「かいもん」、大分・宮崎経由の「日南」である。いずれも座席車・寝台車混成の客車急行で、自由席車は「周遊券」で使用できたから、金のない若者は九州旅行の宿代わりによく利用していた。書き忘れていたが、当然私が使っていた切符も「九州ワイド周遊券」である。名古屋市内発の「東京ミニ周遊券」と合わせ技である。
 この両列車は1993年3月のダイヤ改正で電車化され、座席車のみの特急「ドリームつばめ」「ドリームにちりん」となったが、前者は九州新幹線部分開業の2004年、後者は2011年に廃止となっている。


 22時45分、日向沓掛の暗いホームに「日南」が入って来た。厳密には、「日南」は宮崎-西鹿児島間は普通列車として運転されていたので、この時点では厳密には名無しの普通列車である。座席車は当時夜行急行でよく使用されていた12系客車だったが、ボックスシートのはずの座席はグリーン車並みのリクライニングシートに交換されており、指定席車の端にはお茶のサーバーまでついている。案に反して宮崎を過ぎてもガラガラだった車内でぐっすりと眠る。いや、眠りすぎた


 翌3月27日、目が覚めて時計を見ると6時30分。私の計画では6時11分着の折尾で下車して筑豊本線の列車に乗り換え、終着の原田でTKさんと合流する予定になっていた。見事な寝過ごしである。このまま直進して博多に向かってもTKさんとの待ち合わせに遅れることはないが、問題は筑豊本線の乗りつぶしである。特に本数の少ない桂川-原田間を乗り残すと後が厄介になる。悔やんでみたところで始まらない。「日南」は折尾を出ると博多まで停まらない。あきらめてもうひと眠りしたのであるが、今度は博多到着時に車掌に起こされるという恥ずかしい事態になった。


 博多7時30分発のL特急「ハイパー有明5号」に乗り、二日市で後続の普通列車に乗り換えて7時56分、原田着。私が乗るはずだった筑豊本線の列車を恨めしく出迎える。8時22分にやって来た普通電車でTKさんと合流し、鳥栖で長崎本線の電車に乗り換え。まだ発掘・整備が始まったばかりで櫓がぽつんと立つだけの吉野ケ里遺跡を右手に眺めながら佐賀に到着する。


 佐賀からは唐津線西唐津行きのディーゼルカーに乗り、山本で筑肥線に乗り換えて伊万里へ。いずれもキハ40系ディーゼルカーの2両編成である。現在、終焉の日を迎えつつある国鉄型ディーゼルカーだが、当時は全国的に現役バリバリだった。伊万里で昼食をとって折り返し、山本で再び乗り換えて西唐津、そこから筑肥線の電車で博多へ向かった。途中の姪浜から福岡市営地下鉄に乗り入れる。


 予定では博多の先は香椎線、篠栗線と乗り歩くことにしていたが、朝の粗相で乗り残した筑豊本線がどうしても気になり、TKさんと相談してそちらを優先することにした。博多から16時07分発の門司港行き快速電車に乗る。折尾で乗り換えて若松、そこで折り返して直方・原田方面へ、というのが王道だが、TKさんの勧めで折尾を素通りし、戸畑で下車した。


 戸畑と若松の間には若戸大橋という立派な橋が架かっているが、その下を北九州市営の渡船が運航されている。大判時刻表にも掲載されており、10~15分ごとの運航で、運賃は大人20円という安さ。戸畑駅北口から徒歩5分ほどの発着所から乗船すると、小ぶりな船内には座席がなく、吊り革のみである。自転車と一緒に乗っている客も目立つ。わずか4分で若松着。この航路は今も現役だが、運賃は大人100円に値上がりしている。


 若松の渡船発着所からJR若松駅へは徒歩10分ほど。17時54分発の筑豊本線439列車は、ディーゼル機関車が赤い50系客車を牽く「客車列車」。終点での折り返し時に機関車を付け替えなければならない手間もあり、国鉄末期からJR初期にかけて急速に減少していたが、筑豊本線では2001年に折尾-桂川間が電化されるまで現役だった。ガラガラの列車でボックスシートに足を伸ばしてくつろぐ。


19900327  直方で列車を1本落として夕食を調達し、後続の篠栗線経由博多行きディーゼルカーに乗車。そのまま乗り続けて自宅へ帰るTKさんにお礼を述べて桂川で下車し、50系客車の普通列車で寂しい山中を抜けて原田へ着いたのは20時38分。本日打ち止めでもいい時間だが、なにせ若かった。原田から博多、香椎で乗り換えて、香椎線の終点、宇美へ行き、篠栗線経由で博多に戻ったのが23時01分。ととめどなく走り回る。


 この日の宿もやはり夜行急行。今度は急行「かいもん」の自由席に乗った。朝の粗相があったにも関わらず立派な座席でぐっすりと眠る。それでも1時52分の熊本でしっかり目が覚めた。こんな深夜に降りてどうするんだ、と言われそうだが、ここで30分ほど待てば上り門司港行きの「かいもん」が到着する。当時の若い鉄道旅行者がよく使った「夜行返し」と呼ばれるもので、往復の夜行列車を乗り換えることで地上一泊分の効果がある。ワイド周遊券を持っていれば余計な出費もない。体力の有り余る青春時代ならではの行動であるが、さすがに3夜連続の車中泊は睡眠不足を露呈させ、以降、しばしばやらかすことになる


 続く。

 



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2020/05/24

1990年春 九州一周の旅【3】急行「えびの」で大畑ループ越え

 前回の続き


 熊本からは10時57分発の急行「えびの3号」に乗車。博多と宮崎を結んだ急行で、1993年に熊本―宮崎間に短縮され、2000年に廃止となった。国鉄型キハ58・65形3両編成は塗装も変えられ、車内はリクライニングシートに取り替えられて快適である。八代から肥薩線に入り、球磨川に沿ってゆっくりと走る。座席がほぼ埋まる状態だった列車は人吉でぐっと空き、座席を回転させて4人分をひとり占めできるようになる。大きく右へカーブして山中へ分け入り、やがてトンネルを抜けて大畑(おこば)に到着する。


Photo_20200523005201  この付近は高低差が大きいため、肥薩線はぐるりと一周しながら登っていくループ線になっているが、その途中にある大畑駅は地形の関係で行き止まり式のスイッチバック駅になっている。列車は大畑駅から逆方向へいったん戻った後、再度方向を変えてさらに山を越えていく。ぐいぐいと左に曲がる感覚がある。途中で先ほど走って来た線路と交差するのだが、トンネルの上を越えているためはっきりしない。矢岳を過ぎて次の真幸(まさき)もスイッチバック式。山岳路線の醍醐味を存分に楽しめる路線である。


 吉松から吉都線に入り、えびの高原ののどかな風景の中を淡々と走っていく。14時26分着の都城で下車し、近くの都城営業所から1時間ほどの待ち時間で日南線の志布志駅へ向かう鹿児島交通のバスに乗り継いだ。西都城と志布志の間には国鉄志布志線が走っていたが、1987年に廃止となり、このバスはその代替輸送機関である。途中の大岩田というバス停付近で廃線跡をくぐり、以降は近づいたり離れたりしながら志布志線跡と並走する。レールは撤去されているが草生した線路跡に、時折枕木の埋まっていた跡が見え隠れする。ちなみに今現在、この路線のバスは4往復まで減少しており、都城発は13時50分が最終になっている。


 1時間20分ほどで到着した志布志駅は、新しい小ぶりな駅舎の周辺に広がる空き地が、日南線・志布志線に加え、鹿屋方面へ向かう大隅線との一大ジャンクションだったことを窺わせる。ここから17時08分発の日南線宮崎行きの普通列車に乗る。2両編成のディーゼルカーに乗客は10人ほど。発車してすぐに線路の近くまで寄って来た海岸線がすぐに離れ、ひとつトンネルを抜けるとまた近寄ってくる繰り返しで、単調だが見飽きない景色が続く。串間の手前あたりから内陸に入ると車窓が退屈になり、つい居眠りが出る。


Kyuushuu1  気が付くと列車は青島付近を走っており、乗客もいくらか増えている。志布志から約2時間半、19時41分に宮崎着。今日はここから夜行急行「日南」に乗って博多方面へ向かう予定である。2日連続の夜行泊まり、しかも今夜は座席車である。まずは何をおいても風呂に入りたい。駅員に銭湯の所在を聞き、まだ建て替え前の古い駅舎を出て駅裏へ回り、徒歩15分ほどの銭湯でじっくり汗を流す。それから駅前へ戻り、開いていた食堂で夕食をとると、時刻は21時半。「日南」の発車までまだ1時間半ある。


 春休みのさなかで「日南」の自由席は混んでいるかもしれないと考えた私は、22時11分発の普通列車でいったん鹿児島方面に向かった。時刻表を眺めると、この列車と「日南」がすれ違うのは田野駅と推測された。そこで私は、田野のひとつ宮崎寄り、日向沓掛駅で下車して、「日南」を待ち受けることにした。


 駅のホームに降り立ったのは私だけ。列車が走り去ると、殺風景なホームにぼんやりと薄暗い電灯が数本ともるだけとなった。右手も森、左手も森で、闇の向こうには明かりも見えない。どこか遠くから車の排気音と水の流れる音だけが聞こえてくる。とんでもないところに降りてしまった、と悔やんでみても、「日南」が到着するまで10分、ベンチもないホームでひたすら耐える以外に道はなかった。


 続く。



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2020/05/17

1990年春・九州一周の旅【2】ブルートレインで九州へ(2)

 前回の続き


 春休みが始まったばかりの日曜日、「はやぶさ」の車内には家族連れや学生の姿が目立った。乗客の憩いのフリースペース、「ロビーカー」もそんな乗客で賑わっていた。空いていたソファに腰を下ろし、飲み物を飲みながら、隣に腰掛けていた少年と話してみた。今度中学3年生になるO君は、お母さんとふたりで相模原から実家のある鹿児島へ法事に行くのだという。飛行機で行った方が圧倒的に早いのに「はやぶさ」を使うところからして、やはり鉄道ファンである。私と同じB個室、12号車7番が自席という彼と話が弾む。


 名古屋を過ぎると、少し空き始めたロビーカーに、ふたり連れの若者がやって来た。先ほど食堂車で隣のテーブルにいたふたりである。手にはサントリーの角瓶を持っている。どうみても成人の雰囲気ではなく、年を訪ねてみると私と同じ17歳の高校生だという。一杯どうですか、などとこのコンビ、松戸からやって来たH君とM君に誘われると、昨夜の反省などどこへやら、つい調子に乗ってごちそうになってしまう。近くの席にいた家族連れのお母さんが、おつまみにとスルメを差し入れてくれた。誰も咎める人のない、おおらかな時代である。


Hayabusa  話を聞けば、M君とH君の寝台もB個室12号車。それぞれ4番と8番の上段室で、O君と私でH君の部屋を挟む形になっている。皆で談笑していると、通りがかった車掌長が、
「いやあ君たち、おいしそうだなあ。僕は仕事中だから飲みたくても飲めなくてねえ。…ところで、乗車記念のオレンジカードはいかがですか?」
 オレンジカードも鉄道の平成遺産となって久しいが、当時はブームのさなかだった。未使用のまま所蔵される確率が高く、JR各社にとっての収入源のひとつだった。なかでもJR九州はかなり熱心だったと聞く。つられて1枚購入する。


 大阪の手前で私とO君は退散。23時52分着、3分停車の大阪駅のホームで缶ジュースを補充し、車内の洗面所でタオルを濡らした。個室に戻るとカーテンを引き、パンツ一丁になって身体中をひと拭き。昨夜も風呂に入っていない。当時東京―九州間の寝台特急ではシャワー室を設けているのは「あさかぜ」だけだった。
 浴衣を着てベッドで腹ばいになり本を読んでいると、通路でドタンバタンと激しい音。慌てて飛び出すと、H君が通路でひっくり返っている。横で介助するM君の顔も赤い。満タンだった角瓶は残り半分を切っている。へろへろの二人がそれぞれの個室へ上がっていくのを見届けて、私もベッドにもぐりこんだ。


 翌朝7時前に目を覚まし、7時14分着の下関で機関車の交換作業を眺める。青いEF66型機関車から銀色のEF81型機関車に交換された「はやぶさ」は、いよいよ関門トンネルをくぐり、九州へと足を踏み入れる。今度は赤いEF76型機関車に交換された門司を出たあと、O君の部屋へ遊びに行くと、お母さんと朝食の最中。退散しかけたところへお母さんから、
「お弁当が余ってるんだけど、よろしかったらどうですか?」
とお誘いいただき、ありがたくごちそうになる。


 8時42分着の博多で、同じ種村氏の読者サークルの仲間、TKさんが立席特急券を手に乗り込んできた。夜が明けてからの時間が長い九州特急では、区間を限定して寝台券なしでも乗車できる、通称「ヒルネ」という制度があった。
 初対面のTKさんと挨拶を交わした後、O君・M君と4人でロビーカーへ行き、しばし談笑。ちなみにこの時H君は完全グロッキー状態になっていた。この少し前、車掌長が個室の鍵を回収に巡回したのだが、8号室だけはノックしても返事がなく、マスターキーで解錠するという事態になった。車掌長によって無事生存確認されたH君は、9時半過ぎに私たちが個室に戻ると、個室の階段に蒼い顔をして座っていた。


 明日再び合流する約束を交わしたTKさんは、9時42分着の大牟田で下車。H&Mの両君もここで降りていく。大牟田を出ると食堂車も店じまいにかかり、私たちも下車に備えて荷物の準備にかかる。「はやぶさ」は西鹿児島行きだが、食堂車・ロビーカー・個室寝台を含む後ろ8両は熊本で切り離されるため、ここで降りるか前寄り6両に移るかになる。私はこの先の行程から熊本で下車するが、鹿児島へ帰省のはずのO君親子も熊本で下車するとのこと。後続のL特急「有明11号」に乗り換えると、水俣で「はやぶさ」を追い抜くのだとか。機関車に牽かれる寝台特急と異なり、身軽な電車特急は速い。


 10時21分、「はやぶさ」は定刻に熊本に到着した。ホームの長さの関係で11号車より後ろはホームにかからず、10号車のデッキからホームに降りる。東京から17時間16分の長旅は、愉快な仲間たちのおかげで退屈することなく過ごすことができた。
 「眠っているうちに移動できる」という便利なツールとしての役割は、新幹線の開業ですでに損なわれていたが、ブルートレインは乗ること自体を楽しめる列車だった。この日の「はやぶさ」に、同じ感覚を持った同世代の仲間がたまたま乗り合わせ、今のように独りで時間をつぶせる手段の少ない時代、自然に声を掛け合い、交流が生まれた。


 われわれのような貧乏学生でも少し手を伸ばせば届く、身近な憧れの存在だったブルートレインは今は亡い。唯一残る定期運転の寝台列車は、「サンライズ出雲・瀬戸」だけだが、運転時間が短く、個室寝台ばかりの列車でこうした交流は生まれにくい。
 乗ること自体を楽しむ寝台列車は、近年「ななつ星」「四季島」「瑞風」と立て続けに登場したが、学生どころか貧乏サラリーマンが気楽に利用することの叶わない、遠い存在になってしまった。


 続く。



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2020/05/14

1990年春・九州一周の旅【1】ブルートレインで九州へ(1)

 前回の続き


 翌3月25日、日曜日。お世話になったTさんとともに東村山駅から西武新宿線の準急で新宿へ。ここで同じくサークルのメンバー、Kさんと合流し、東京都内で時間つぶしをした後、17時少し前に東京駅へ入った。本当はもう少し早く到着している予定だったのだが、その前段で乗車したバスが渋滞に巻き込まれ、ギリギリの時間になってしまった。


 東京駅のホームへ上がると、14両編成の青い列車がすでに乗客を迎えていた。この日ここから乗るのは、17時05分発の寝台特急「はやぶさ」である。東京から熊本を経て西鹿児島(現在の鹿児島中央)まで、1,515.3kmを結ぶ、当時日本最長距離を走る列車であった。
 東京と九州を結ぶ寝台特急は「はやぶさ」の他、「さくら」「みずほ」「あさかぜ」「富士」と計5往復があり、いずれも食堂車とA寝台車を連結した上級の列車だった。なかでもA個室・B個室・ロビーカーを組み込んだ「はやぶさ」は、大分・宮崎へ向かう「富士」と並んで最も魅力的な列車だった。


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 Tさん、Kさんに加え、横浜からわざわざ見送りに来てくださった初対面のSさんと列車の前で記念撮影し、乗り込む。Sさんがその間際、「何か買って食べてよ」と、私の手に1,000円札を握らせてくれた。
 私の寝台は、12号車9番のB個室「ソロ」。「北斗星」などにも組み込まれた、L字型の上下段個室を組み合わせた定員18名の車両で、私の部屋は下段。幅70cmのベッドは肘掛けを降ろして座席にすると進行方向向きに座ることができ、通路部の天井が高いため着替えも苦にならない。BGM装置もついており、個室なのでイヤホンなしで楽しめる。ベッドの上に転がり、妙に陽気な洋楽をBGMに持参の雑誌を読みながら時間をつぶす。


 富士駅を通過した19時15分ごろ、食堂車へ。テーブルはすべて埋まっており、相席に案内された。オーダーを待つ間、食堂車の中をぐるりと眺めてみる。テーブルにはきれいなクロスがかけられているが、壁や天井には無駄な装飾がなく、実に殺風景である。レストランというよりは街の食堂、あるいはスーパーのフードコートのような雰囲気である。混んでいるせいか、ウェイトレスがオーダーを取りに来るまでに10分、それから注文が運ばれてくるまでに30分ほど待たされた。


 食事を終えた客が少しずつ減っていき、すっかり空いたころ、ようやく注文のビーフシチュー定食が運ばれてきた。味はこれといって特徴もないが、窓の外を過ぎ去るかすかな光を眺めながら暖かい食事をとる、この雰囲気は格別である。隣のテーブルには私と同年配くらいの少年2人組が、やはり同じように車窓を眺めながら食事を楽しんでいた。
 食後のコーヒーを含めてお会計は1,660円。普段の食事から考えれば完全に予算オーバーだが、これは想定内である。食堂車付きの寝台列車に乗って食堂車を体験しないなど、ジョージ・マロリーがそこに山があるのに登らないようなものである。


 東京-九州間寝台特急の食堂車は、この旅から3年後の1993年にすべて営業休止となり、売店営業のみとなった。航空機の運賃低廉化や、「のぞみ」登場による新幹線の高速化などにより、九州特急はこの後低落の一途をたどる。「みずほ」「あさかぜ」は1994年に廃止、「はやぶさ」は1997年に熊本打ち切りとなり、1999年には長崎発着の「さくら」と併結運転となる。2005年には「さくら」の廃止に伴い「富士」との併結運転となったが、2009年に廃止され、東京-九州間の寝台特急が消滅した。


 当時の九州特急の愛称のうち、「あさかぜ」「富士」以外の3つ、「みずほ」「さくら」「はやぶさ」が、年月を経て新幹線の列車名として復活しているのは感慨深いものがある。だが、当時のように九州を目指す「みずほ」「さくら」に対し、「はやぶさ」だけが東京駅から完全に逆方向の北海道へやって来ることについては、未だに少なからず違和感がある。


 続く。




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2020/05/10

1990年春・九州一周の旅【0】

 コロナ自粛が続き、新しい旅ネタが発掘できない今日この頃。日常生活もどちらかというと後ろ向きの状況が多い中、こういう時には蔵出しのネタに手を付けてみようと思う。以前に書いていた「帰省百態」もまだ書きかけの状況なのだが、私の鉄道乗りつぶしのひとつの大きなポイントとなった1990年の旅の記事をご紹介しようと思う。ちょうど30年前の旅である。JR発足3年目の1990年から平成をひと跨ぎした今の鉄道の様子と比較しながら書いてみたい。
 なお、この旅については、諸事情により特に前半、写真がほとんどない。その事情はのちに述べる。


 当時私は高校生。2年生の3学期が終わった春休み、14日間にわたる鉄道の旅に出た。お年玉と年賀状配達のアルバイト代をかき集めた予算は20万円。向かうのは日本の南の果てか北の果て、ということになるのだが、すでに受験で北を目指す決意を固めていた私は、あえて南、九州を選んだ。5日を超える長旅は初めてで、両親は当然いい顔をしなかったが、春休み前の自主登校期間中に宿題を全て片付けることを条件に旅立ちを許してくれた。


1990a 1990b  
 1990年3月24日、高校の終業式を済ませた私は大急ぎで自宅へ帰り、昼12時、重い荷物を抱えて家を出た。中央本線瑞浪駅から快速電車に乗り、13時24分に名古屋着。ここから新幹線に乗るのだが、私が乗ったのは東京行き「ひかり8号」。九州とは逆方向である。九州旅行の序章に東京を目指した理由は2つほどあるのだが、のちに述べる。握りしめているきっぷは今は亡き「東京ミニ周遊券」である。


 「ひかり8号」は、当時東海道・山陽新幹線の主力だった100系2階建て新幹線。しかもJR西日本だけが保有する、2階建て車両を4両連結したグランドひかりである。2階建て車両4両のうち3両が、2階グリーン車、1階が指定席の車両で、残り1両が食堂車である。指定された9号車、1階指定席に荷物を置き、隣の食堂車へ移動。混雑しており、30分ほど並んで相席に案内される。大きな窓で眺めの良い2階食堂車でコーヒーを飲み、座席へ戻る。


19900324-8a2 5列座席がデフォルトの東海道・山陽新幹線だが、「グランドひかり」の1階指定席は4列シート。しかも座席にBGM装置が備えられており、持参のイヤホンを差せば利用できる。最近はスマホの普及でめっきり見かけなくなったが、当時新登場の特急列車で流行した装備だった。岡村孝子のアルバムと、先代三遊亭圓楽の「目黒の秋刀魚」を聴きながら約2時間、ノンストップで東京駅へ運ばれた。新横浜に停まる「ひかり」は少なく、品川駅もない時代である。2階建て車両も食堂車も新幹線からは姿を消して久しい。


 東京駅では長い通路を歩いて地下深くにある京葉線ホームへ。もともと貨物線として建設された京葉線は、国鉄末期の1986年に西船橋-千葉港が旅客開業、その後蘇我、新木場へ延長され、2週間前に東京駅へ乗り入れたばかりだった。「シャトルマイハマ」と名付けられた、急行型電車の改造車は、3両編成の車両ごとに座席の色や向きが変えられたリゾート列車。新木場の手前で地上に上がった列車は、東京から16分、ノンストップで終点の舞浜に到着。この駅ができるまでは、地下鉄東西線浦安駅からのバスが東京ディズニーランドへのメインアクセスだった。


1990tokyo1  舞浜駅前をさらりと眺めた後、府中本町行きの武蔵野線快速に乗り、西船橋で中央・総武線緩行電車に乗り換え。新宿から小田急線の電車で参宮橋へ向かい、当時私が所属していたレイルウェイ・ライター種村直樹氏の読者サークルの会合に参加した。私が九州へ向かう前に逆方向の東京を目指した理由のひとつである。


 遠路岐阜から初めて参加した私を、メンバーの皆さんが暖かく歓迎してくださり、調子に乗った私は、大人の皆さんに混じり二次会へ流れた。その日は1つ年上のメンバーTさんのご自宅に泊めていただけることになった。Tさんのご実家は東村山市。初対面の私ごときに大変情けの厚いことである。
 もう時効だからご容赦願いたいが、この夜、私はさらに調子に乗って酒を多量に飲み、酩酊した状態で西武新宿線に揺られた。すっかり具合の悪くなった私は、東村山駅前の自販機の陰で見事にもどす失態をやらかした。図々しいうえに身の程知らず、大変申し訳ないことをしたと今更ながら痛切に反省する次第である。


 続く。



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2020/05/04

令和最初のひとり旅【終点】例によって総括。

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】
【支線1】 【支線2】 【支線3】 【支線4】 【支線5】 【支線6】 【支線7】 【支線8】
【脱線1】 【脱線2】


 さて、12月の4日間の旅を終えて、私は今年開業した新しい鉄道路線5路線17.4kmに乗車し、未乗路線のない、いわゆる「綺麗な体」で年を越せることになった。
 通算乗車距離は27,521.8kmである。2018年の完乗以降、関西電力のトロリーバス(扇沢-黒部ダム、6.1km)、JR北海道石勝線夕張支線(新夕張-夕張、16.1km)の廃止があるため、新たな路線に乗ったのに完乗当時より距離が減っている、という状態になっている。


 2020年に入り、3月、新たな路線が富山で開業した。富山駅を挟んで北側を走る富山ライトレール、南側を走る富山地方鉄道市内線のレールが、高架化されたJR富山駅の下で結ばれ、南北貫通運転が始まったのである。開業に先立つ2月、富山ライトレールは富山地方鉄道に移管されて一体運営されることになった。これによる新規開業距離はわずか0.1kmであるが、街の姿を大きく変える可能性を秘めた開業といえる。今年の新規開業路線はこの1区間だけの予定である。


 実は私はこの区間を乗るために、4月中旬に有給休暇を取って富山に行こうともくろんでいた。富山まで行くからには、もう20年以上ご無沙汰になっているJR氷見線城端線にも久しぶりに乗りたい。さらに言えば、3年前の秋、雨の中を駆け抜けた立山黒部アルペンルートの春の風物詩、雪の大谷ウォークも体験してみたい。金はないが夢は広がる。


 けれども、しがないサラリーマンにとってのささやかな楽しみは、新型コロナウィルスの襲来とともに吹き飛んだ。幸いわが社での感染者はまだ発生していないが、札幌では医療機関、介護施設、コールセンターとクラスターが立て続けに発生し、感染拡大は終息の気配を見せない。
 天気の良かった2日・3日には豊平川の河川敷に普段の週末を上回る人数が集まってバーべキューを楽しんでおり、鈴木北海道知事の怒りの緊急速報メールが飛んだ。


 私自身、この窮屈な連休のささやかな楽しみとして、自宅の庭で家族4人での焼肉を楽しんだので、あまり偉そうなことを言う立場にはないが、この状況下であえて見ず知らずの他人が集結する場所に足を運んで長時間を過ごす感覚は理解できない。加えて、その連中が残していったゴミの山の写真がSNSで拡散され、全国ニュースネタにもなった。ほんのひと握りの「自分たちだけなら大丈夫」という輩の行動は、医療や救急に従事する人々の努力、断腸の思いで店を閉めて再開の日を待つ経営者たちの気持ちを逆なでするだけでなく、多くの札幌市民の誇りを傷つけてはいないか。


 緊急事態宣言は月末まで延長され、禁足の状態は続く。連休に入っても新規感染者数は増え続ける札幌、この調子では収束などおぼつかない。時刻表やインターネットを観ながら過ごす悶々とした時間は、当分終わりそうにない。



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2020/04/29

令和最初のひとり旅【脱線2】遥かニライカナイ

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】【本線2】【本線3】【本線4】
【支線1】【支線2】【支線3】【支線4】【支線5】【支線6】【支線7】【支線8】
【脱線1】

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 辺戸岬を後に私は、本島北部の東側を回る沖縄県道70号線を南へ向かった。険しい山中を走る県道70号線は非常にくねくねしており、こういう道路ではマニュアル車が威力を発揮する。シフトダウンとアップを繰り返しながら、軽快に右へ左へと車を振るのは楽しい。時折現れる「飛び出し注意」の看板は、北海道ならば鹿が定番だが、この辺りではヤンバルクイナになる。
 途中、奥という集落で簡易郵便局をみつけて立ち寄る。この奥簡易郵便局が本物の沖縄本島最北の郵便局である。


 さらに車を南に走らせ、宜野座インターから再び沖縄自動車道に乗り、南風原北インターで降りて県道86号線を左折、東へ向かう。距離にして約20km、いくつかの集落を抜けながら徐々に丘の上へと上がっていく。右手にちらちらと海が見え始め、ほどなく道路の両側に陸上自衛隊の知念分屯地が広がり、左右の敷地をつなぐ道路をトンネルでくぐる
と、県道86号線は大きなヘアピンカーブを描きながら、海へ向かって駆け下りていく。このカーブに架かる橋がニライカナイ橋である。


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 ニライカナイ橋は厳密にはヘアピンカーブを挟んで上部のニライ橋と下部のカナイ橋に分かれている。この橋を眺めるにはトンネル上の道路からが一番なのだが、県道から分かれる側道に車を乗り入れることはできず、その手前に車を停めて200mほど側道を歩く。看板もなく、柵がめぐらされただけの展望台に立つと、緑濃い木々の中を越えるニライ橋と、ヘアピンカーブの先からふもとへ向かって流れるように下るカナイ橋の全貌、その先に広がる海と岬、自然と人工物の織り成す美を一望できる。「ニライカナイ」とは海の向こうにある理想郷を指す言葉とのことだが、最北の大地からやって来た私にとってはまさに海の向こうの理想郷を思わせる風景が広がる。


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 再び車を走らせて、ニライカナイ橋をゆっくりと下り、国道331号線を左折、1kmほど走って右に入り、知念岬公園の駐車場に車を停める。駐車場に隣接して立派な体育館が建っており、岬の公園とは思えないのだが、駐車場から階段を降りて橋を渡ると丸い小さな展望広場に達する。島に渡ったような感覚になるが、実際には地続きで、木々に囲まれた小山のてっぺんだけが禿げたような印象である。そのたたずまいと、小さな四阿とオブジェ程度しかない控えめな感じがまたよい。


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 知念岬展望台からの眺めは、ほぼ300度海に向かって開けている。海に向かって左手は津堅島、正面に久高島を望み、右手は湾になっていて知念漁港まで狭い砂浜が続く。その内側にはビニールハウスがたくさん並ぶ農地が広がっている。のちに調べると南城市の農業生産額は沖縄本島ではトップ、なかでも知念地区はニガウリ・インゲンの主産地だという。
 その畑の向こうに、先ほど通って来たニライカナイ橋が見えた。おおらかなカーブを描いているはずの橋は、下から見ると直線的に折り返しているように見えて面白い。


Okinawadrive  近くにある知念郵便局で記念の貯金をして、私は知念岬を後にした。
 この後のドライブは、以前に書いた沖縄県営鉄道与那原駅跡地への立ち寄りを経て那覇空港近くのレンタカー営業所まで戻ることになる。およそ8時間足らずのドライブでの移動距離は約330kmに達した。
 レンタカー営業所近くのガソリンスタンドで満タン給油すると15Lほど。燃費20km/L超えは、スポーツタイプと言ってもさすがは軽自動車だと感心する。6速マニュアル車であることをすっかり失念してMAX5速までしか使っていなかったとしても、である。



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2020/04/22

令和最初のひとり旅【脱線1】沖縄本島の北端へ

 コロナの影響で日々滅入ることばかりが多い今日この頃ですが、気晴らしに沖縄ネタの続きを。
 
 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】 
  【支線1】 【支線2】 【支線3】 【支線4】 【支線5】 【支線6】 【支線7】 【支線8】


 最後に鉄道とはほぼ無縁の話。


 私が沖縄にやって来た主目的である鉄道の乗りつぶしは、実質的には8日の上陸後約1時間でほぼ完遂しており、いつものパターンならば9日の朝、どうかすると8日の夜にさっさと東京へ飛ぶのだが、ここは沖縄である。わずか2日とは言え満喫しないほど私は無粋ではない。


 9日朝、私はホテルを出て、那覇空港から無料送迎バスで某レンタカーの営業所へ向かった。
 私は車の運転が嫌いではない。若い頃は道内を車で走り回ったこともある。その目的が郵便局回りであったのはこの際さておき、普段から足として車は愛用している。これまで5台の車を乗り継いできたが、ファミリーカータイプの車が多く、こういう機会でもないと多少毛色の変わった車にのるチャンスもない。


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 今回借りたのは、「ホンダS660」。スポーツタイプの軽自動車である。この車を選んだ理由は、料金の安さと軽自動車ならではの経済性もあるが、最近見かけなくなったマニュアルシフト車が用意されていたためである。実は今回、旅行の日程が決まった時に真っ先に予約したのが、ホテルでも列車でもなく、このレンタカーだった。
 シートに座ってみると、普段のクルマと比べても着座点が非常に低く、乗り降りのたびに腰に負担がかかりそうである。だが座ってしまえばすっぽりと体が包まれる感覚で、まずは悪くない。


 9時過ぎ、レンタカーの営業所を出発。豊見城インターから那覇空港自動車道に乗り、ひたすら北を目指す。西原ジャンクションで沖縄自動車道と合流し、昨日訪れたゆいレールのてだこ浦西駅を左手に見ながら高速道路を快調に走る。天気は良く、気温も20度近くと高めで、屋根をオープンにしてもよさそうだが、高速道路上では我慢する。途中伊芸PAでの休憩を挟んで名護市の許田インターまでは60km、1時間足らずで到達する。交通量は多いが快適なドライブである。


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 国道58号から名護東バイパスに入り、再び国道に戻ったところでコンビニに入り、飲み物の補充と天井幌の開放作業。頭の上がすっきりしたところで、再びドライブを続ける。前回訪問した古宇利島方面への道路が分岐する真喜屋を過ぎると、海岸沿いへ出た。潮の香りが体を包み込む。
 大宜味村を過ぎて国頭村へ入ると、国道58号はいったん内陸へ入り、国頭村の市街地へ入る。途中看板が見えた国頭郵便局に立ち寄る。普通郵便局としては沖縄本島最北端になるという。国頭村の中心を抜けると再び海岸線へ出る。


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 左手に海、右手に山という険しい地形の海岸線を走り、那覇から125km、2時間20分ほどで、辺戸岬にたどり着いた。沖縄本島最北端に当たり、万座毛ほどの迫力ではないが、断崖絶壁に波が押し寄せる。岬の奥には弓なりに湾曲して小さな砂浜が見えるが、その背後はすぐ山になっている。沖縄本島の厳しい地形を象徴するような岬である。


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 岬の背後を振り返ってみると、山の稜線がいびつな形になっている。菩薩の横顔のようにも見えると言われるこの山は辺戸岳というが、安須森御嶽(あしむいうたき)とも呼ばれ、琉球王朝の正史「中山世鑑」には沖縄開闢の最古の御嶽とされている。
 安須森御嶽を背にした辺戸岬は、太平洋戦争後の占領期、国境の先にある与論島に向けて狼煙を上げ、祖国復帰を願った地でもある。岬の突端近くには、「祖国復帰闘争碑」が立てられ、小さな双眼鏡とともに鹿児島方面を見つめている。


 のちに北海道に帰ってからいろいろと調べ、この地の歴史と伝統に触れたことで、単に沖縄本島最北端だから、という理由で軽い気持ちで訪れたこの地が、実はとんでもない場所だったということに気付かされたのである。


 続く。



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