日常の旅人

2018/09/22

北海道胆振東部地震の後遺症【2】 物流と情報

 北海道胆振東部地震では、鉄道も大きな影響を受けたが、実はその前日、9月5日の未明に北海道の西を通過した台風21号も道内各地の線路に倒木被害をもたらしており、9月5日は多くの区間で終日運休となり、夕方になって運行を再開した一部の区間もダイヤが大幅に乱れた。
 そこへ地震の発生である。大規模停電の発生により電車区間はもちろん、信号や踏切なども機能停止したため、非電化区間も含めて北海道内すべての鉄道が終日運休となった札幌-旭川間の特急は5日から8日まで4日以上にわたって一本も走らず、札幌-新千歳空港間の快速「エアポート」も、5日の夕方に運転再開したのち、6日から7日午前にかけて運休。飛行機の欠航もあり、札幌市内には行き場を失った国内外の観光客があふれた。


 このことは収穫期を迎えた農産物の輸送にも大きな影響を与えた。震源に近い千歳線、室蘭本線(岩見沢-苫小牧)、石勝線では地震により軌道がずれるという直接的な被害を受けたが、これらはいずれも貨物輸送の動脈である。十勝方面からの貨物列車は1週間以上にわたって運休となり、比較的運転再開の早かった北見方面からの玉ねぎも、室蘭本線の不通で札幌貨物ターミナルを経由せざるを得ず、輸送に支障をきたした。大需要地である本州方面への農産物輸送の遅れは、おそらく皆さんの食卓にも影響を与えたことと思う。


 それでも今回の復旧は、路盤流失などこれまでの豪雨による災害に比べればはるかに早かったし、情報も的確だった。
 石勝線での特急炎上に始まる連続事故や、路線廃止問題が表面化して以降、JR北海道の情報提供はこれでもかというほど細かい。ホームページでは現場の被害状況や復旧に向けた課題、進捗状況など、細かな情報を逐一伝えていた。結果的に当初想定した復旧見通しに対し、実際の運行再開はそれよりも前倒しのペースで進んだが、そのことについて異を唱える人は少なかったのではないかと思う。


 そこへいくと電力の復旧に関する情報はかなりの混乱が見られた。一電力会社の供給エリア全体で長時間の停電が発生する、いわゆる「ブラックアウト」と言われる事象は、おそらく日本で初めての事態ではなかったかと思う。地震発生からブラックアウトに至る経緯や、苫東厚真火力発電所への過度の依存など、さまざまな問題が伝えられているが、私は専門家ではないのでそこには言及できない。問題はその情報提供の手順とルートである。


 地震以降、必死に発電所の復旧に取り組んでくれた北電の現場の人々に対しては感謝しているが、本来北電の口から語られなければならない被災状況や復旧見通しに関する情報は、すべて経済産業省からもたらされた。しかも誤った、あるいは予断を持った形でである。


 経済産業大臣は当初、まったく被害状況が見えない中で「数時間以内に復旧のめどを立てるよう指示した」と語った。北電が何らの情報提供をしない中での発言であり、実際にはブラックアウトまで高温で稼働していた苫東厚真火力発電所の設備は点検もできない状況であったはずで、これだけでも実情を無視した無責任な発言である。
 しかも悪いことに、一部のマスコミがこれを「数時間以内に復旧させるよう要請した」と報道したことで、私を含めた多くの道民に楽観的な予断を与える形になった。


 その後も経済産業大臣は「~を命じた」「~の指示を出した」と誇らしげに記者会見をしてみせたが、復旧見通しはだんだん後退していった。まず最悪の事態を想定した復旧見通しを示したうえで、状況が見えるにしたがって順次前倒しで作業を進めてきたJR北海道とはずいぶん様子が違う。
 プレッシャーを与えて作業を急がせる姿勢はある場面においては必要だろうとは思うが、不確かなものを前のめりに情報として提供すれば余計な混乱を与えることにしかならない。北電の情報提供の在り方にも問題があったであろうことは大いに想像がつくのだが、このあたり、政府と北電との間でしっかりとした意思の疎通があったとはどうにも言い難いようにも思えるのである。


 紆余曲折を経て、「1号機が9月末、2号機が10月中旬、4号機は11月」にまで伸びた苫東厚真の復旧は、実際には前倒しされ、9月19日に1号機が稼働、2号機も来週にも動く方向で準備が進められていると聞く。
 2割を目標としていた節電は、その後数値目標を取り下げて「需要1割減に向けた節電」に変わり、苫東厚真1号機が稼働した19日には「これまで通り無理のない範囲での節電」に緩和された。だがこれとて、北電のプレスリリースは慎重に言葉を選んでいるように感じられるが、行政から矢継ぎ早に届く文書を見ると「これまでのような節電は必要なくなりました」とはっきり断じている。


 苫東厚真が1号機のみしか復旧していない現在の供給能力では、地震発生前の水準を基準にするとピーク需要に対して供給余力は3~4%程度と誰が見ても綱渡りに近い状況である。北海道はこれから暖房需要が拡大していく季節を迎える。しかも老朽化した火力発電所(一番古いものは1968年だとか)がフル稼働している状況でこれを言い切る感性は恐ろしい。繰り返すが私たちが欲しいものは淡い期待ではない。正しい情報である。


 情報といえば、地震発生日の午前中、私は複数の知人から、「札幌市全域で6時間後に断水が始まる。復旧には2、3日かかる」というメールを受け取った。SNS上でもこの情報は広く拡散されたが、同日午後には報道によりデマだと判明する。実際のところ、液状化の被害を受けた清田区などでは1万戸余りが断水したものの、私の家では電気は来ないが水だけは止まることはなかった。


 似たような情報は札幌市だけでなく道内多くの自治体でも広まっていたようである。こうした不届きな情報を発信する方も発信する方だが、混乱の渦中にあった一般市民ならばともかく、事実確認をすることなく拡散した道内出身の国会議員と某野党の公式アカウントもあったという。与党も野党も揃って情報を粗末に扱い道民を振り回す。「ズレている」という言葉が非常にしっくりくる。



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2018/09/15

北海道胆振東部地震の後遺症【1】牛乳と電気

 北海道胆振東部地震から1週間あまり。震源に近い厚真町をはじめ、道内全体で41人の方が亡くなる大きな災害となり、厚真町や鵡川町、門別町の一部などでは未だに水道が復旧しておらず、不便な生活を強いられている方がたくさんいる。


 その一方で札幌では、液状化などによる建物・道路等の被害が発生した清田区や東区・北区の一部を除くと、インフラも復旧し、ほぼ平穏な生活が戻った。けれども、納豆や豆腐、食パン、牛乳といった、いわゆる「日配品」の出回りはまだ少なく、数量制限付きでの販売だったりする。
 なかでも牛乳とその原料となる生乳については、本州にも少なからぬ影響を及ぼしており、新聞等で報道される機会も多い。


 北海道は生乳生産で全国の5割を超えるシェアを持っており、本州でこの時期流通する牛乳の3割強が北海道産の生乳を原料としている。
 今回の地震による大規模停電では、電源の復旧に長いところで2日以上を要したが、機械化の進む道北・道東の酪農地帯では搾乳作業ができない事態に陥った。
 乳牛は定期的に搾乳をしないと、乳が張って「乳房炎」を起こす。乳房炎は母体に免疫低下などの影響を及ぼし、他の疾病を引き起こしたり、最悪の場合は乳牛としての機能を果たせなくなる恐れがある。治療のために投薬をおこなえば、生乳の品質保持のために出荷が禁止されることになる。


 東日本大震災以降、大規模農家では自家発電機の普及が進んでいるが、まだ保有していない農家も多い。JAなどの協力も受けて急遽発電機の手配をおこない、懸命な搾乳作業がおこなわれた。
 ところが今度は搾った生乳の保管ができない。生乳は細菌の繁殖や変質を抑えるため、3~4度の低温で冷却しなければならない。しかし大半の乳業メーカーは停電により稼働停止し、生乳の受け入れができなくなった。日々生乳を出荷する酪農家の保管能力はそれほど大きくなく、自家発電の能力では生乳の冷却まで賄えないところが多い。出荷できずに廃棄せざるを得なかった生乳は数万トン規模に上るとされる。


 道内の乳業メーカーは、大半が8日までに操業を再開し、生乳の受け入れと牛乳・乳製品の製造を始めているが、数日にわたって生産・流通がストップした影響もあり、需要に対して供給が追い付かない状況が続いている。搾乳できずに乳房炎を発症した乳牛も多く、生産力の低下も懸念される。流通が正常化するためにはもう少し時間がかかりそうである。


 一方、その電力であるが、北海道電力の主力である苫東厚真火力発電所が3基とも稼働停止する事態が続いており、電力供給は綱渡りである。北電や政府、道は、地震発生以降、家庭・企業に対し、需要のコアタイムである8時30分~20時30分までの時間帯における2割程度の節電を呼び掛けた。


 けれども、実際の全道ベースの節電は10~15%程度で推移した。東日本大震災以降、泊原子力発電所の停止などもあって、私の会社でもすでにかなりの節電を進めている状況でもあり、2割の節電はかなりハードルが高い。エレベーターの半数以上を止め、事務室の日中完全消灯など、かなり不自由な状況まで取り組んでも、2割に届くかどうかというところである。北海道庁では5割の節電を実現したそうだが、逆に今までどんだけ電気使ってたのよ、と少々勘繰りたい気分になる。


 停止していた発電設備の再開など供給能力が少しずつ回復する中、当面は計画停電を回避できる見通しとなり、一律2割の節電要請は緩和されることになった。それでも苫東厚真火力発電所の復旧は、3基のうち一番早いもので9月末、一番遅い4号機はタービンの損傷もあり11月までかかると言われている。気温が下がり、暖房用電力の使用が増える時期に向けて、需給はいよいよタイトになる。


 北電からは「需要量1割減に向けた節電の協力」をお願いされている。使いたいところに使えない不便さはあるが、最低限の生活、また北海道の農業生産を守るためには当面我慢をしなければならない部分もある。
 むしろ電気が使えるというそのこと自体の有難さをいやというほど再認識した今回の地震の後遺症の中で、懸命の復旧作業を続ける北電の現場の方々には感謝をせねばならないと思う。

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2018/09/08

北海道胆振東部地震~いかさまの40時間

 9月6日3時8分。居間で寝ていた私は、ゴーッという音とともに襲ってきた縦揺れで目を覚ました。ほどなく携帯電話の緊急アラームが響いたと思うと、家がミシミシという音を立てて横揺れを始めた。緊急地震速報より先に揺れが来たのも、家の中で物が落ちるほどの揺れの大きさも初めての経験である。背後の台所ではガラスのコップが割れる音がした。


 私はすぐにテレビと照明を点けた。家族も起き出してきたが、階段下には先ほど割れたグラスの破片が散乱している。家族を制止してとりあえず破片を拾い、掃除機で吸引。テレビでは胆振南東部で震度6強を告げていた。「札幌市南区・震度3」と表示が出たが、南区の計測地点は定山渓で、そこから直線距離で10kmほど離れた我が家の感触では震度5弱、もしくは5強程度の揺れではないかと思われた。
 のちに最大震度は厚真町の震度7、札幌市では東区で震度6弱だったことがわかる。


 ニュースに見入るうち、突然画面が消えて家が真っ暗になる。3時半ごろのことである。地震から停電までギャップがあったのは、苫東厚真火力発電所の停止により需給のバランスが崩れたためとされている。いずれにせよ情報収集の手段は業務用ガラケーのワンセグ放送とスマホでのネット情報だけとなる。


 午前4時過ぎ、会社の同僚と連絡を取ると、我が社のビルも停電していることがわかる。私のセクションはビル管理を担当しているので、放置するわけにはいかない。上司とも連携を取り、後事を嫁と子供たちに託して家を出て、車で市内中心部の職場へ向かった。これが5時頃のことである。道路は空いていたが、信号はすべて消灯しており、慎重に走る。


 5時半頃職場に着き、少し遅れて到着した上司、同僚と打ち合わせ。ビル内は非常電源に切り替わっており、最低限の照明と火災報知機などの機能だけが維持されている状態あわただしい状況確認や打ち合わせの合間を縫って、8時頃、停電中ながら営業していた近くのコンビニで、20分ほど並んで当面の食料を確保。
 非常用電源の残量を睨みながら最悪の状況を想定した手を打つうち、14時半頃、不意に北電からの電力供給が復活し、ビルの電源が息を吹き返す。


 一方、18時過ぎに帰宅した自宅の方はというと、幸い水道は生きており、トイレも含めて水には困らなかったのが救いだが、電気はいっこうに復旧しない。モバイルバッテリーで家族のスマホや携帯の電源だけは確保したが、そのうちに通話やデータ通信が不安定になりはじめ、夜も更けるころにはスマホでのデータ収集も困難になった


 カセットコンロで湯を沸かしてカップ麺を食べ、ふらりと外に出ると、仮死状態にある札幌の上空に満天の星空が広がっている。それはなかなかに感動的な景色だった。家族を呼んでしばしみんなで星空観察。温水器に残っていたぬるいお湯でシャワーを浴びて早めの就寝となる。札幌市内では、早いところではこの日の夕方には電気が復旧していたが、まだ大半の地域で停電が続いており、静かな夜である。


 明けて7日、この日も私は会社に出勤し、許しをもらってモバイルバッテリーを充電。慌しい業務の傍ら、ワンセグ以外の情報が得られない家族に代わって情報の収集に努める。北電による電力の復旧作業は着々と進んでおり、少しずつ停電が解消していたが、昼の段階でまだ全道の半分ほどの家庭が停電となっている。
 北電のホームページを見ると、市町村ごとの復旧状況が掲載されているが、情報が漠然とし過ぎており、ページ上だけでは札幌市は完全復旧しているように見える。もちろんこの段階で我が家は停電が続いている。そのうちに市町村別の復旧状況の表はページから消えた。情報の提供方法が粗雑すぎ、かえって誤解を招くようでは困る


 同じホームページにあった発電所の復旧状況と、ニュースが伝える停電の解消見込みを見比べると、18時半頃とされる伊達の火力発電所が再稼働すれば、全道の8割程度の電力供給が復活すると思われた。苫東厚真火力発電所の再稼働には時間がかかるとされており、逆にこのタイミングで復旧しないと、停電が長期化する可能性もあるな、と私は考えた。


 18時頃会社を出て自宅へ戻る。夕方まで停電していたはずの職場近くの信号も復旧しており、期待が高まる。自宅から2kmほどのところにある銭湯が営業しているのを横目に走るうち、照明がほとんど見えなくなった。自宅周辺は昨夜と同様真っ暗。時間は19時になっており、どうやら我が家は残りの2割に入ったか、と腹を括る。一方で1kmほど先の住宅地には灯りが広がっている。これが少々悔しい。


 自宅では2度目のろうそくを囲んでの食事。長期戦になるかもしれない、と家族に伝え、先ほど見かけた銭湯でとにかく風呂に入ろう、と提案。みんな即座に賛成し、着替えとタオルをそそくさとかばんに詰めて車に乗り込んだ瞬間、上の坊主が、
「あれ?お向かい、電気がついてる!」と一言。
 慌てて家へ戻り、ブレーカーをONにすると、家の中いたるところでブーンと音がした。40時間ぶりに文明が戻ってきた音である。灯りも点いた。「なんかじーんとするね」と坊主が一言。全くもって同感である


 お風呂沸かすのには時間かかるよね、ということで、結局家族そろって銭湯へ行き、ややぬるい風呂にのんびり浸かった後、自宅へ戻った。掃除や洗濯、テレビからの情報、2日間遠ざかっていた身近な感謝をかみしめる。そして私はPCに向かい、こうして半ば備忘録レベルの一部始終をこうして書き散らかしている


 厚真町での崖崩れ、札幌市内の液状化や道路陥没などをはじめ、大きな被害を生んだ地震の中で、こうして無事でいられることは実に幸せなことだと思う。
 今この時間にも道内にはまだ停電の続いている地域があり、需給状況によっては計画停電の実施も想定されている。札幌で感じる回数は少なくなったが、余震の頻度もまだ高い。向こう1週間程度は大きな余震(場合によっては本震)が来ることも考えられる。まだ気の抜けない状況が続くが、緊張感をもって日々を過ごしていかねば、と思う。




 通信が不自由な間、多くの皆様に心配や励ましのメッセージ、コメント等をいただきました。遅くなりましたがお礼申し上げます。ありがとうございました。
 また、今回の地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災されて今なお不自由な生活を強いられている方々に心からお見舞いを申し上げます。

 

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2018/07/03

さようなら、歌丸さん

 夕方、たまたま一息つきにいこうと席を立った瞬間、私のスマートフォンがブルッと震えた。普段仕事中にメールをよこすことなどめったにないうちの嫁から、「歌丸さん死んじゃったって!」とたった1行のメッセージであった。


 以前にも書いたが、私は怪物番組「笑点」が大好きである。番組の歴史が52年、そのうち私は物心ついてから40年以上付き合ってきた、そのシーンに常に居続けた人が亡くなった


 司会としての最後の数年間は、見ていても本当に辛そうだった。肺気腫、帯状疱疹、背部褥瘡と幾度も病欠、もともと細かった体がさらに細くなっているのが、紋付きの袖から覗く腕をみるとよくわかった。


 「笑点」勇退後も高座に上り続ける歌丸さんの姿がしばしばテレビで報じられたが、長年の喫煙で呼吸器を痛めつけたために鼻にチューブを入れ、吸入しながら語り続ける姿は、落語に対する情熱を垣間見せた。まさに鬼気迫る表情で、圓朝の怪談噺を語るにはふさわしかったかもしれない。ぜひ一度生で見てみたいという思いは叶わなくなった。ご本人も、「高座で死ねたら本望」を地で行く生き様だったとはいえ、もう少し長く高座に上がり続けたかっただろうと思う。


 ここ数年、BS放送で「笑点なつかし版」と題して、圓楽時代・歌丸時代の「笑点」の再放送がおこなわれている。私は最近の「笑点」も変わらず好きだが、歌丸さんのいる「笑点」は面白い。とりわけ、先代圓楽が司会で、回答者の真ん中あたりに歌丸さんが座る「大喜利」は安定感があり、「外れ」がない。台本があったとかなかったとかいう噂もあるが、そんなことはどうでもいい、そう思える楽しい日曜日の夕方だった。


 9年前、先代圓楽さんの訃報を、私は視察研修先のオランダで聞いた。それから9年。私が「笑点」を見始めた頃のレギュラーメンバーは過半が鬼籍に入った。75歳になったこん平さんも闘病生活に入って長い。実に月並みな表現で情けないが、時代の節目を迎えた、ということなのだろうか。


 歌丸さん、お疲れ様でした。
 あっちで談志、圓楽、小円遊、そんなメンバーと、落語や笑点談義をゆっくりしてほしい。ご冥福をお祈りします。

 ※過去記事⇒愛すべき怪物番組「笑点」への思い

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2018/06/25

シンガポールからのお客様【4】

これまでのお話、【その1】 【その2】  【その3】


 6月16日、土曜日。T君が日本を去る日になった。
 前夜のさよならパーティの盛り上がりが残ったのか、家族揃って少々寝坊し、10時近くに起床。昼食と荷物の整理で時間はあっという間に過ぎ、15時過ぎに自宅を出発した。


Dscn0171 Dscn0173 
 我が家から空港までは車で約1時間。途中少しだけ遠回りして、山の緑に囲まれた国道453号線を走り、少々冷たい風が吹きつける支笏湖を散策する。そこから30分ほどで新千歳空港。チェックインと買い物を済ませて、T君が日本での最後の夕食に選んだのはラーメン。最後の晩餐にしてはチープで、どこまでも奥ゆかしい話だが、滞在中何度か食べる機会があったようで、とりわけ醤油ラーメンがお気に召したらしい。
 最後の1杯は旭川ラーメン「鷹の爪」。相変わらずあまり表情を動かさず、「おいしいです」と短く言うT君の箸は黙々と動き続けていた。


 19時少し前に、集合場所になっている2階出発カウンター前に行く。他の団員と家族たちも順次集合し、全員揃ったところで保安検査場前に移動して最後の集合写真。いよいよお別れとなり、引率の先生が保安検査場へ皆を促すが、どの団員もなかなか動こうとしない。特に女子の団員は過半が涙まじりにハグしたり握手を交わしている。
 彼らは単に2週間の滞在ではなく、前年のシンガポールでの滞在以来1年近くにわたる絆を深めてきたのである。シンガポールでの別れは、翌年の再会が保証された別れだった。だが今回の別れは、次の約束のない別れである。誰もがその時間を止めたい、と感じていたに違いない。


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 そういう状態がやや10分以上も続き、淡泊なT君も周囲に気を遣ってかなかなか動けずにいたが、やがて意を決したように先頭に立って保安検査場の列に着いた。ようやくほかの団員も後に続く。上の坊主と最後の握手を交わし、ゆっくりと時間をかけて保安検査場の向こうへ去っていった。全員が保安検査場を抜け、搭乗口に向けて移動をはじめるまで、T君は何度もこちらに向かって手を振ってくれた。とても柔らかい表情をしていた。


 T君を見送った私たち一家は、1年前と同様に私が駐車券を紛失するというアクシデントを経て、21時過ぎに札幌の自宅へ戻って来た。テレビをつけてほっとひと息をつくが、どうにも落ち着かない。何かが欠けている。


 下の坊主は就寝間際、「T君、もういないんだね」とぽつりと漏らしたあと、兄の部屋からT君が使っていた布団を引っ張り出して自分の部屋に持っていき、その上に横になってほどなく眠りについた。
 深夜、上の坊主の部屋を覗くと、こちらもベッドの上でスマホをいじりながら、なんとなく寝付けない様子だった。下の坊主が布団を持っていってしまったあとにはぽっかりと空間があいており、そのことが、少し張りつめつつも楽しかった2週間が過ぎ去ったことをあらためて実感させた。その何とも言えない寂しさは、9年前、海外研修の時、語学学校の最終日の帰りに、たくさんの友達と別れた後の気分に似ていた。


 要するに喋る、喋らないが大きな問題だったわけではない。わずか2週間とはいえ、一緒に生活をしていた、それだけで十分な存在感だったのである。自身がホームステイをした体験も得難いものではあったが、ホームステイに来た外国の子供を受け入れるということは、これまた私の人生の中で得難い体験であったと思う。
 その喪失感はそれからしばらくの間続き、私は、案外自分はいずれ、子離れできない親になるのかな、などと考えたりした。


 最終日の昼食の席で、私は坊主たちとT君にこんなことを伝えた。
 もし今回の交流が楽しかったと思えるのなら、ずっと友達でい続けてほしい。連絡を取り合って、いつか成長した後にまた再会できるように。外国での生活体験はもちろんだけど、たくさんの友達、まして他の国に友達ができるということはとても貴重な財産だと。


 日本語と下手くそな英語のちゃんぽんだったから、ちゃんと伝わったかどうかはわからない。けれどもきっと伝わったと信じている。彼らにそんな日が来てくれたら、それが今回の最大の収穫だったといえるのではないか、と思っている。
 そしてその目標に向かって、坊主たちが多少なりともお勉強に注力してくれるのではないか、という淡い期待も多少、抱いているのである。


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2018/06/21

シンガポールからのお客様【3】

 これまでのお話、【その1】 【その2】


 シンガポールからやって来た交流団員は、英語と中国語に堪能で、さらに政府が設立したランゲージスクールで、第二外国語として日本語を2~3年学んでいる。
 15日の金曜日に開催されたさよならパーティで、T君以外のシンガポール団員とお話しする機会があった。スキルの差はあるものの、最低限日常会話ができる程度のレベルには達している。私の英語が、中高大と10年間の学習にもかかわらず世界各国でパードゥンをまき散らしてきたのとは雲泥の差がある。まして第二外国語たるフランス語など、ジュテームくらいしか思い出せない。それに比べれば彼らはきわめて優秀である。


 私たちは、T君が寡黙であることを、最初のうち我が家に馴染めていないせいか、あるいはあまり日本語が得意でないせいかだと思っていた。若干その卦があったことは否定できないが、他の団員たちから「T君、もっと喋りなよ」と声を掛けられるレベルだから、シンガポールにいても相当おとなしいようである。我が家にはいないタイプの人間である。
 学校から帰ってきて家で過ごすT君は、たいてい子供部屋でイヤホンを耳に当て、上の坊主と二人、別々にスマートフォンをいじっている。これではいかん、と坊主にご注進に及ぶが、それなりに会話はしているから大丈夫、と言う。少なくとも私はふたりがわいわいと歓談しているのを1度も見ていない。大丈夫かよ、と思う。


 滞在の後半になると、そこに下の坊主が一緒にいることが増えた。上の坊主が習い事で不在の時も、スマートフォンをいじるT君の横に下の坊主がぴったりと密着して、嫁から借りたスマートフォンをいじっていたりする。何をしているのかと覗き込めば、二人で通信ゲームをしていたりする
 普段は仲がいいが時に邪険な扱いをする兄と違い、T君は終始おだやかである。下の坊主自身もシャイなタイプだから、何か通ずるものがあったのかもしれない。スマホを介したつながりも、近頃の子供は、と片付けるのは簡単だが、そういうコミュニケーションツールに慣らされた今の子供たちには彼らなりの流儀があるのだろうと思う。


 さよならパーティでは、我が家と同じように今回シンガポール団員を受け入れている家族の方ともお話しする機会に恵まれた。
 何人かのお父さんの話を伺うと、総じて男子はどちらかというと家ではおとなしく、女子の方が積極的に家族とのコミュニケーションを取っているように思われた。T君の例は多少極端かもしれないが、よくよく考えてみれば中学3年ないし高校1年のお年頃。むしろベタベタと寄ってくる方がどうかしている、と言われればそのとおりである。


もう1回続く。



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2018/06/17

シンガポールからのお客様【2】

 前回の続き。


 6月3日の日曜日に我が家にやって来たT君。2週間の滞在を終えて、昨夜、新千歳空港からシンガポールへ帰っていった。


 わずか2週間の滞在は、かなりのハードスケジュールであった。平日10日間のうち3日間は、シンガポール団員単独での視察研修で札幌近郊の観光名所や施設を回るが、残り7日間は、上の坊主と一緒に学校へ通い、一緒に授業を受けた。
 坊主の学校は我が家から少々遠く、通学にはバスと地下鉄、徒歩で1時間10分ほどかかる。7時前には家を出て学校へ行き、帰ってくるのは19時近くなる。T君は普段、学校へは両親の送迎で20分ほどの通学時間だというから、これだけでもかなりの負荷がかかったであろうことは想像に難くない。


 通常学校が休みになる9日の土曜日も、ラーニングセミナーと呼ばれる特別授業があり、上の坊主とT君はふたりで学校へ行って受講していたが、その帰り、大通公園で途中下車して、ちょうど開催中だった「よさこいソーラン祭り」を見物して帰ってきた。札幌名物と言えば言えなくもないが、終日フリーになる日曜日は、できればもっと北海道らしい、あるいは日本らしいところへ案内したいと思うのが、ホスト側としての心情である。


Dscn0045  10日の日曜日、朝9時半頃に家族そろって車で自宅を出発し、国道230号線を南へ走って、喜茂別町との境、中山峠で休憩、名物の「あげいも」を食べる。
 ここから先の予定ははっきり決めていない。天気と気分次第で選択できるように、何パターンかの行程を用意してある。T君が来日して以来、夏日が続いた札幌近郊だったが、金曜日にまとまった雨が降った後急激に気温が下がっていて、野外活動には少々不向きな気候になっていたためである。赤道直下の国の人がしんどい寒さにならないよう配慮しなければならない。


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 この日も最高気温は20度に届くか届かないかというくらいであったが、羊蹄山がくっきりと見える陽気で、比較的風も弱く、気候としては悪くない。喜茂別町あまりに冷え込むようだったら、230号線をそのまま南へ向かい、洞爺湖、登別温泉を回ろうと考えていたのだが、私はT君の意思も確認したうえで、車を喜茂別町から国道276号線を西へ走らせた。京極町のふきだし公園、ニセコ町のニセコ高橋牧場を経由して、倶知安町の「ライオンアドベンチャー」のベースに13時半に着いた。目的はラフティングである。


Img_0025 Dscn0102  
 北海道伊達市と千歳氏の境界付近を水源とし、羊蹄山の北側を流れる尻別川は、国内有数の水質を誇る河川で、ビギナー向けのラフティングのメッカである。嫁と子供たちの3人を送り出し、私は地上で写真を撮る。尻別川に架かる橋の上から眺めていると、大量の水を湛えた水面を、ボートがこちらへ向かってきた。大きく手を振ると連中がこちらを見上げた。普段緊張気味のT君の表情も緩んでいる
 2時間ほど後にベースへ戻って来た彼らは、全身びっしょり。この気候の中、あの冷たい水の中へざぶりと飛び込んだようである。


Dscn0103  倶知安町からは国道5号線を北へ向かって、余市町の「柿崎商店」で食事。魚屋の2階が食堂になっており、新鮮な刺身を盛った丼を手頃な値段で堪能できる。サーモンの刺身とイクラの載った「いとこ丼」は1,400円。昔と比べると安さの感動はなくなっているが、それでもコスパは悪くない。T君もおいしそうに食べてくれた。


Dscn0113  さらに国道5号線を走って、小樽運河をちらりと眺めた後、道道1号線の朝里峠を越えて、定山渓の少し札幌寄りにある小金湯温泉湯元小金湯」で体を温めることにする。
 シンガポールのT君は、普段シャワーだけの生活で、私たちの家でも湯船に浸かったことはなく、大丈夫か、と確認の上での温泉体験だったのだが、以前日本に来た際に経験済みだったらしく、まったく抵抗なく脱衣所で裸になり、露天風呂にもしずしずと浸かった。声を出すでもなくのんびりと温まっている姿は、わが兄弟と完全に同化していた


 食べ物についてもそうだったが、こういうところは実に手がかからないというか、およそすべての体験をすんなりと呑み込んでくれる。ただ、非常に言葉少ななところだけは日数を重ねても変わらず、表情で何となく楽しんでるなあ、というのはわかるものの、実のところ本当に楽しかったかどうかの確証が得られないところが多少しんどいところであった。



 つづく。



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2018/06/12

シンガポールからのお客様【1】

 昨年の夏休み、我が家の上の坊主は札幌市の交流事業に参加し、シンガポールで2週間のホームステイを体験してきた。

「子供たちのそれぞれの冒険の夏【その3】」

 その際にも書いたが、この交流事業では翌年度にホームステイ先の子供をお迎えすることになっている。そしてその事業に乗って、6月3日、シンガポールから13名の仲間とともにT君が北海道にやって来た


 当然のことながら我が家は外国のお客様をお迎えするのは初めてである。そもそも家のスペースおよび家族各々のいびき等々の理由によりお父さんがリビングのソファで寝ている環境下では、T君をどこに寝かそうか、という原始的なところから対応は始まった。
 2週間ほど前から、上の坊主の学習机を2階のホールにいったん運び出して就寝スペースを確保。滞在時の行動計画も進める。ただし、T君対応のためにとやる気満々だった嫁と下の坊主による英語の勉強は、教材たるNHKの教育番組1回を見ただけで断念された模様である。


 さて、6月3日日曜日、前日夜にシンガポールを発って羽田経由で北海道へ入ったT君と、札幌市役所前でご対面。上の坊主と同じくらいの身長ですらっとしているが、水球をやっているという体つきはしっかりしており、アンガールズレベルの我が坊主とはずいぶん差がある。学校で2年間日本語を勉強してるため、それなりに聞き取りも話すこともできるようだが、非常におとなしい青年である。日本へ来るのは3度目だが北海道は初めてとのこと。


Dscn0006 初日は疲れもあるだろうということでまっすぐ自宅へ案内し、自宅の庭で焼肉。初夏の北海道における最大級の家庭的もてなしである。
 緊張しているのか表情が硬いT君をほぐそうと、ブロークンイングリッシュで懸命に笑いを取りに行くが、うっすらと口元に笑みを浮かべるだけでなかなかほぐれない。
 食べ物も、勧められると黙々と食べ、「おいしい?」の問いかけには軽くうなずく。気を遣っているのか本当にそう思っているのかうかがい知れない。ただ、うちの坊主どもに勧められて初体験した焼きマシュマロはいたく気に入った様子で、子供3人で2袋を空にする勢いで食べ続けていた。


Dscn0042  外食が多いらしいシンガポールとは異なり、こちらでは家での食事がメインになるが、こと食べ物に関しては、彼は非常に手がかからない。宗教上食べられないものもなく、好き嫌いもほとんどないようである。焼き魚も骨を取り除きながら丁寧に食べるし、刺身も大丈夫である。お父さん唯一の手料理である広島風お好み焼きも、まずまず口にあったらしく、ほっとする。


 ただ唯一、納豆だけは口に合わなかったようで、2粒ほど口に入れ、口先を尖らせながらモゴモゴとしていたが、嫁の「どう?やっぱり無理?」の問いかけに、無言で納豆の小鉢を差し戻してきた。


 つづく。



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2018/02/13

坊主、受難の週末

 先週の金曜日の昼前、「上の坊主が学校のスケート学習でけがをしたから迎えに行ってくる」と嫁からメールが入った。


Img_3265  その前の週末、私は坊主と二人で真駒内アイスアリーナへスケートに出掛けた。スキーに関しては級別1級を持っており私の追随を許さない坊主だが、スケートに関しては未体験でズブの素人である。スケート学習の時にまったく滑れないのは恥ずかしい、ということで、軽く練習してみたいという彼の要請によるものである。
 はじめは氷の上に立つのもおそるおそるだったのだが、ひざや足首の使い方がうまいのか、ものの1時間でなんとか形になった。これが逆にまずかったらしい。なまじ滑れるようになったために、スケート学習では上級の組に入れられ、本人も本人で少々調子に乗ったようである。


 坊主を迎えに行った嫁から、昼過ぎ、「骨折二本。今日手術。入院です」とメール。のちに本人から聞くと、転倒前後のことはよく覚えていないらしく、転んだあとしばし失神していたという。周囲の話では「飛んだ」という表現だったらしいから、おそらく相当加速がついた状態でトゥピック(フィギュア靴の先端のギザギザ)を引っ掛けたのだろうと推測した。
 それにしても相当派手な転倒だったらしく、右の上腕骨2本がポッキリ。即日手術してくれる病院が家から比較的近いところにあったのが不幸中の幸いである。


Img_3268  土曜日には退院したが、腕は当然ながらギプスでがっちり固定され、三角巾で吊られている。指先はかすかに動くが、柔らかいものが触れただけでも痛いと大騒ぎ。数日が過ぎて多少は落ち着いたようだが、痛みと不自由さは傍で見ていても気の毒というよりほかない。


 「こんなことなら練習なんか行かなきゃよかった」と本人は恨み節であるが、そもそも予行演習を求めたのは坊主自身だし、たった1回の練習で上手になった気になって調子に乗った本人にも責任の一端はある
 おまけに、利き腕を骨折したせいで勉強が進まない、とこれまた大騒ぎしているが、これとて骨折前から本人の学習意欲は常に低空飛行であって、骨折とは直接の関係はない。これも自己責任である。


 もっとも、当人がかようなお調子者になってしまったことについては、私の遺伝子が強く作用しているせいでもあり、これについては多少の責任を感じないわけではないが、言えば言ったでまた調子に乗るであろうから黙っておくことにする。



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2018/02/05

戻ってきました。

 前回の記事でも書いたとおり、2月1日付で私は異動辞令を受け、4年ぶりで札幌に戻ってきた。辞令と着任のタイミングは会社によっていろいろと流儀があるようだが、わが社の場合は旧勤務地で辞令を受け取り、即座に新任地へ赴くことになっている。したがって異動の内示から辞令交付までの2週間弱で、お客様への挨拶回りから後任者への事務引き継ぎ、そして当然だが引っ越しの準備も済ませなければならない。非常にタイトである。


 1月19日に内示を受けて以降、話を聞きつけたお客様や取引先の方々から送別会のお声掛けをいただいた。内示前から決まっていた懇親会や会議などの予定もあり、瞬く間に平日の夜が埋まった。日程が折り合わず、お断りした場面もあり、大変に申し訳ないと思いつつも、4年の間、大変多くの方々と交わり、暖かくお付き合いいただいたことを感じずにはいられない。本当にありがたいことだと思う


 こういう状況下で平日の私は遅くに家に帰ってほぼ使い物にならず、2回の週末は荷造りに追われた。31日の夜には札幌から嫁もやって来て、私が送別会の名のもとに最後の旭川の夜を満喫する中、家で掃除の仕上げをしてくれた。私がへろへろになって家に帰る頃にはほぼ作業が完了しており、これまたありがたいことであった。


 2月1日、旭川の事務所で辞令交付を受けてアパートに戻ると、すでに嫁の指揮の下、トラックへの荷物の積み込みが8割方終わっている。荷物の乗ったトラックを見送ったのが10時半頃。最後の掃除をしてアパートの管理会社の立会を受けて退去したのが11時。早めの昼食を取って札幌へ走る。通算で8年、今回に限っても4年間を過ごした旭川との別れとしてはあまりにあっけないが、わが社のルール上致し方ない。
 15時には自宅で荷物の搬入。瞬く間に書斎に積み上げられた段ボールは、その大半が放置されたまま一夜を明かし、翌2日には新部署に着任し、新たな仕事が始まった。


 自宅の書斎に積み上げられた十数箱の段ボールは、この土日でなんとかすべて開梱した。私自身は4年間の単身赴任中にそれほど荷物を増やした意識はなかったのだが、いざ収納にかかると収まる場所が足りなかったりする。それほど使わない物やパソコン周辺機器の空箱などは以前には子供部屋のクローゼットに突っ込んであったのだが、4年間で物が増えたのは子供たちも同様である。クローゼットに空箱など持ち込もうものならブーイングの嵐となる。


 わずかな空きスペースを生み出すために物の配置を極限まで検討してすべてを収納する過程はあたかもテトリスで高得点を狙うがごときであるが、今日までにパソコンも接続し、ようやく居場所を確保した。これから先、挨拶状を作るなどまだ引っ越しがらみの残務処理はいくらか残っているが、嵐のような半月が終わり、ようやくブログの世界にも戻って来られそうである。


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