日高晤郎ショーの思い出
日高晤郎、と言っても、北海道民以外には馴染みが薄いのではないかと思うが、北海道民でこの人を知らないとモグリと言われるレベルの有名人である。市川雷蔵、勝新太郎に師事した俳優として、よりも、北海道で35年にわたって土曜日のラジオの顔であり続けたパーソナリティーとして名高い。その日高晤郎氏が今日、悪性腫瘍のため亡くなった。74歳。
大阪出身だが40年ほど前からSTVラジオへの出演機会が増え、1983年4月からスタートし、当初3時間の生放送だった「ウィークエンドバラエティ・日高晤郎ショー」は、翌年から8時間、1987年からは9時間の生放送となった。歯に衣着せぬ物言いでいわゆる「アンチ」も多かったようだが、ラジオの聴取率は常に高位安定していたという。
私が北海道に来たのが1991年で、車の運転をするようになったのが翌年の事である。当時は車にCDとかDVDとかTVなどついていない時代で、FMの電波も入りにくい地方へドライブに行けばAMラジオだけが耳慰めであったから、「日高晤郎ショー」や日曜日夜の「日高塾」などよく聴いた。やんちゃ坊主が大人になり、厳しいが節を曲げない頑固親爺になったような、そんな印象の人だった。
この日高晤郎氏と私はたった一度だけ、接点を持ったことがある。
最初の旭川勤務の時だからもう20年近く前の話になるが、当時よく通っていたサンロク街のスナックに晤郎ショーの収録が来ることになった。「SUNカラオケ訪問」というコーナーで、晤郎氏が道内各地のスナックのママと電話でトークをしながら、その店で事前収録されたお客のカラオケを流して採点する、というものであった。1回あたり5人ほどの客が歌い、高評価を受けるとスポンサーの焼酎をプレゼントされることになっていた。私はママに頼まれてそのうちの1人に加わり、「燃えよドラゴンズ!」を熱唱した。
放送日が近くなった頃、私の上司が、
「なあ、日高晤郎は巨人ファンだろう。放っておいたらお前の歌った部分はカットされるんでないか」
と言い始めた。それはもったいないですね、どうしましょう、と話すうちに、この際当日の公開放送に乗り込もう、という話になった。晤郎ショーはSTVのスタジオからの放送だったが、数十人が入れる客席を設けてスタジオ観覧を実施していた。
当日、コーナーの放送時間の少し前をめがけて上司とSTVへ行き、首尾よくスタジオに入れることになった。偶然なことに、番組の電話受けをしているアルバイトの女の子の一人が私の大学時代の塾の教え子で、スタジオの手前で声を掛けられて話をしているところへ、ちょうどCM中でトイレから帰って来た晤郎氏と鉢合わせになった。
「Tちゃん(教え子の名前)、そのお客さん、お知り合い?」
と晤郎氏に声を掛けられた彼女が私を紹介し、スタジオ観覧に来た理由を説明すると、晤郎氏は台本を確認しながら、
「ああ、『燃えよドラゴンズ!』の? 俺巨人ファンだよ。気に入らないからカットしようと思ってたんだよ。」と言った。切って捨てるような言葉だったが、目は笑っていた。
そう言われながらも結局そのコーナーの中で私の歌は放送され、晤郎氏から鐘の連打と、
「下手に歌ってくれりゃあこっちも突っ込みようがあったのに、応援歌をこんなに明るく爽やかに歌いやがって、嫌な野郎だなお前よお」
という最上級の誉め言葉を頂戴した。同行してくれた私の上司は照り焼きハンバーグみたいな顔と評されてややご立腹だったが、プレゼントされた焼酎6本は、後日上司も含めて皆で美味しくいただいた。
最近は「日高晤郎ショー」を聴く機会もめっきり少なくなっていたのだが、今日、訃報に触れて、私は久々に当時の音源を探し出して聴いてみた。私の張りのある歌声も相当若かったが、畳みかけるような歯切れのよい晤郎氏の喋り口調も若く、私の中での晤郎氏の印象そのままだった。
晤郎氏が35年近く一度も欠席しなかった生放送を初めて休んだのが今年の2月。手術を経て、1週休んだだけで復帰した後も、自らの体験を笑いに変えていたという。
ネット上に、3月24日放送の晤郎ショーのエンディング部分がアップされていた。晤郎氏の語り口調は、私の印象とはまったくかけ離れたものだった。声はしわがれて言葉も弱々しく、言葉に詰まって嗚咽を漏らすシーンさえ見られた。
「来週は35年間より上の晤郎ショー、それをやります」
自身の病気のことに触れた後でそんな言葉を絞り出したご自身の中には、ひょっとすると何らかの予感というか、覚悟があったのかもしれない。結果的にはこの放送が晤郎氏の最後の声となった。
北海道を愛し、北海道民に広く愛され、北海道を代表するパーソナリティとして長年君臨した日高晤郎氏。賛否両論はあったかもしれないが、その実績は確かなものである。74歳は今のご時世あまりにも早すぎる。
謹んでご冥福をお祈りします。
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コメント
日高さんは存じ上げませんでしたが
師匠(いかさまさん)を高評価・鐘の連打…ありがたい事です
私もご冥福をお祈りさせていただきます。
いかさまさんの更なる鉄以外の才能がこの頃、目白押しに
出てくるので…目が離せませんね(汗)
車のテールランプで車種を言えるなんてスゴイです
そしていかさまさんの爽やかクリスタルボイスを是非いつの日か♪…(*^-^)
投稿: ゆきぱんだ | 2018/04/04 11:42
こんばんは。
今朝小倉さんの番組で訃報を知りました。
小倉さん曰くしゃべりの天才だそうですが、私は残念ながら聞いた事はありません。
が、写真を見てどこかで見たような気がしました。
その方といかさまさんの間にこのようなエピソードがあったのですね。歌声が気になるところですが…
私も千代の富士さんが亡くなった時は交わした言葉や当時の出来事を昨日のことのように思い出しました。
少しでも自分と関わりのあった方の訃報に接するとより寂しいものですね。。。
ご冥福をお祈りします。
投稿: ミミ | 2018/04/04 19:20
ゆきぱんださん、いつもありがとうございます。
毎度お褒めいただいてどうにも背中がくすぐったくてたまりません(笑)。
若い頃の勢いだった、ということなのでしょうが、これもひとつのご縁だったのでしょうね。最近のラジオの放送内容には批判も多かったようですが、少なくとも当時はとても楽しい番組でした。こうした方々をお見送りするということは私もそれなりに歳を取ったのだということを感じずにはいられません。
私の歌声はそのうちお聞かせしましょう。ただし、高いですよ(笑)
投稿: いかさま | 2018/04/07 00:29
ミミさん、いつもありがとうございます。
体調はいかがですか?
小倉さんの結婚式の司会をされたのだとか。番組には大物演歌歌手の方もよくゲストで来られていましたし、北海道ローカルの方の印象ですが、いろんな人脈をお持ちの方だったのだと改めて知りました。
ラジオの内容、本人の人柄含めていろいろと批評も多い方でしたが、こういう接点を持つといい印象しか残らないのが不思議ですね。
投稿: いかさま | 2018/04/07 00:33