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2020年1月

2020/01/26

魔女の一撃

 全国的に暖冬、雪不足の話題が広がっているが、札幌の1月25日現在の積雪は34cm。平年値は60cmだから6割弱である。これでも先週前半の降雪で増えた方で、1月19日まではわずか積雪10cmであった。これは平年の2割に満たない。最低気温はそれなりに下がっているが、日照時間が長いため日中の気温が高く、3月頃を思わせるような空と道路の状況が続いている。


 これはかなり異常な状況で、多い年ならばこの時期には1度目のカーポート・物置の雪下ろしが必要になる。ところが今年は、雪下ろしどころか除雪すらさほど必要がない。例年運動不足で体がなまるこの時期、除雪をしないと体を動かす機会は半減する。肉体面の負担は軽くなるが、運動不足は時に体に深刻な影響を及ぼす。


 これが関係しているかどうかはわからないが、木曜日、「魔女の一撃」~ぎっくり腰に見舞われた。
 私とぎっくり腰の付き合いは長い。27歳の冬、自動車を運転中に、ブレーキを踏んだはずみで助手席から転がり落ちたかばんを拾おうとした瞬間、最初の一撃を食らった。以来20年、それほど頻発するわけではないが、4度ほどやられている。だが今回のそれは、これまでを遥かに超える強烈な痛みを伴うことになった。


 発生場所は日中の会社、それも役員室である。その日、たまたま報告事項があって、私は某副会長の部屋へその説明に伺った。気さくな副会長は、「おう、まあ座れ」と私にソファを勧めてくれた。いつものようにサッと座ろうとした瞬間、激烈な腰の痛みに襲われた。額から脂汗が浮かぶ。


 「今日は何の報告よ?」と笑顔で尋ねる副会長に、私は「すみません、腰をやられました。3分ほど待ってもらえますか」と弱弱しく回答するのが精いっぱいである。忙しい役員のところに時間をもらって報告に上がって3分待ってくださいとは失礼きわまりないが、机に置いた資料すら手に取れないのだから仕方がない。
 「車椅子持ってこさせるか?」→「恥ずかしいからいいです
 「救急車呼ぶか?」→「もっと恥ずかしいからいいです
 「辛かったらここで横になったらいい」→「そんな伝説を作るのはいやです
 役員室のソファで一介の社員が寝っ転がったら間違いなく伝説である。心配してくださる副会長には申し訳ないが、激痛に耐えながら礼を失したやりとりが続く。


 ようやく痛みが治まり、報告事項の説明だけは終わらせたものの、今度は立ち上がれない。立ち上がろうとするたびに、打撲痕をハイヒールで踏みつけられたような猛烈な痛みが走る。いっそこの場で伝説を作ろうかとも思ったが、実はもう1件、常務に決裁をいただきたい案件がある。立ち上がらないわけにはいかない。あれやこれやと少しずつ体勢を変えて、5分ほどかけてようやく立ち上がり、心配した秘書に付き添ってもらって常務室へ。約束の時間は過ぎており、お辞儀もできない非礼をお詫びして、「早く家に帰りなさい」の言葉とともに決裁を受けた私は、結局、たまる仕事をさばききれず、終業時間まで事務所で立ったまま仕事をした。


 翌日、痛みはさらにひどくなり、少し動き方を間違えただけで呻き声が出るほどの痛みに襲われ、立つことも座ることも命がけ、という状態になった。会議と打ち合わせの予定がいくつも入っているがそれどころではない。会社に休む旨の連絡を入れ、1日ソファに横になって過ごした。働き方改革とやらでとらねばならない最後の有給休暇を火曜日に取得したばかりで、こんなことなら火曜日に無理して休む必要などなかったのだが、想定外の結果論である。


 いくらか状況が良くなった土曜日に病院を受診し、安静と称してぐうたらな週末を送ったおかげで、今現在、椅子に座ってパソコンを打てる程度にはなっている。だがこれとて、立ち上がり方を少し間違えるとまだ激痛が走る。ハイヒールからローファーくらいにはなったのではないかと思うが、失敗するたびに2~3秒歯を食いしばって呻く羽目になる。当分、慎重に動かざるを得ない。じっとしていられない性分の私にとってはなかなかつらい日々になる。



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2020/01/19

昭和のミスタードラゴンズ、高木守道さん逝く

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 中日ドラゴンズを代表する応援歌と言えば「燃えよドラゴンズ!」(燃えドラ)である。歌詞の中に選手の名前が織り込まれるこの曲は、ドラゴンズが上位争いを繰り広げる年を中心に新しいバージョンが発売され、世代ごとに口をついて出る歌詞が異なるのが特徴である。この曲が最初に発売されたのは1974年、ドラゴンズがジャイアンツのV10を阻止し、20年ぶり2度目のリーグ優勝を達成した年である。
 この時、一番バッターとして登場する選手が高木守道である。昭和のドラゴンズを代表する二塁手であった高木守道が、17日、天国へ旅立った。

 ⇒「燃えよドラゴンズ!」

 現役21年で2274安打(球団歴代2位)、236本塁打(同6位)、369盗塁(同2位)に加え、ダイヤモンドグラブ賞3回の成績は、まさに走攻守を兼ね備えた名選手だったことを示している。私が物心着いた頃はすでに晩年に差し掛かっていたが、王貞治の例を引くまでもなく、チームの「背番号1」を背負い続けることの重さとすごさは、子供心にも理解できた。私の父は、「燃えドラ」に歌われる1番バッターが田尾、彦野と変わっていっても、「♪1番高木が塁に出て~」といつも口ずさみ、「これでないと落ち着かない」と言った。


 私たちの世代から見ると、高木の印象は選手としてよりも監督としての印象が強い。1992年~95年(95年は39試合で途中休養)、2012年~13年の二度に加え、1986年には当時の山内監督の成績不振による休養に伴い68試合で指揮を執っている。
 中でも印象の強いのが、今も「10.8決戦」として球史に残る、1994年10月8日の「最終戦・同率首位同士の優勝決定戦」である。この日、私は札幌の大通駅に近い某レストランの前に車を停めて、カーラジオに聴き入っていた。このレストランのマスターは私と同郷のドラゴンズファンである。劇的な優勝を決めた暁には盛大に祝うぞ、という言葉に、私はわくわくしながらスタンバイしていた。だが、総力戦で最高のパフォーマンスを見せたジャイアンツの前に、ミスを連発したドラゴンズは敗れ去り、私は店に入ることなくしょんぼりとアパートへ帰った。


 第1次の高木監督を挟んで2度にわたり通算11年監督を務め、2度のリーグ優勝を達成した星野仙一とは「太陽と大地」のような関係だったように思う。パフォーマンスに長け、感情をストレートに表した星野と、あくまで寡黙に自分の役割を果たそうとした高木。ここぞという時に爆発的な力を発揮した星野と、肝心の場面で裏目に出た高木。ジャイアンツを宿敵として自他を鼓舞した星野と、球界の盟主として敬意を払った高木。ドラゴンズファンの気質を考えた時、物足りない印象を受けるのもやむを得なかったかもしれない。



 だが内に秘めた闘志や負けん気は、星野に劣らないどころかむしろ上回っていたかもしれない。試合中に叱責を受けて勝手に帰宅した話や、1995年、監督解任が発表されたその日、最後の試合で判定に異議を唱えて退場処分になるなど、熱い一面もたくさんあった。
 私はそんな高木監督が地味に好きだったし、今中や山本昌が頭角を現してきた当時のチームの雰囲気も好きだった。だから私はもう一度、高木に監督をしてほしいと思っていた。


 それが実現した第2次監督時代、特に後半には首をかしげるような采配もあった。結果を見れば、監督としての資質は8年連続Aクラスの落合はもちろん、星野にも劣るということになるのだろう。世間一般には、95年の途中休養、「暴走老人」と揶揄された2013年の悪印象が強いが、調べてみると指揮を執った787試合での勝率は.503と勝ち越している。最下位だった1992年も、60勝70敗の借金10、首位スワローズまではわずか9ゲーム差だった。


 訃報が伝えられた後、さまざまな人からのコメントがニュースとして伝えられた。名古屋というローカルのスター選手としては破格の多さではないかと思う。長嶋茂雄や張本勲、落合博満もが認めた野球センスについてはもちろん、私たちの知りえないグラウンド外でのエピソードを通じて伝えられるその人柄については、亡くなった人に対する敬意を差し引いても、その温かさが存分に伝わってくるものばかりで、気持ちよく読むことができた。特に同僚だった谷木恭平と、高木監督の下で選手として働いた今中慎二、立浪和義のコメントが光った。


 生まれも育ちも岐阜県、県立岐阜商業から中日一筋。星野がのちに阪神、楽天と移っていったのに対し、高木は最後まで中日一筋を貫いた。ポスト星野、ポスト落合という難しい局面で火中の栗を拾ったのは、ドラゴンズへの愛着と男気だったのではないか。特に「勝つことが最大のファンサービス」と公言した落合の後、「ジョイナス」と揶揄されながらもファンへの気配りを最前面に押し出さざるを得なかったあたり、本来寡黙にして頑固、職人気質な高木にとっては内心忸怩たるものがあったのではないかと思う。それでも高木はその役割を黙々と引き受けた。2012年にAKB総選挙の結果を受けて「うちもセンターは大島だしな」という茶目っ気のあるコメントを出せる、素敵なおじさんであった。


 「燃えよドラゴンズ!」45年の歴史で真っ先に登場した高木はまた、監督として登場した「燃えよドラゴンズ!平成FIVE」で、歴代監督の中でただひとり、ファーストネームで登場した。こんなところにもファンの高木に対する親しみが現れていると感じるのは、私の贔屓目だろうか。

 高木がプロ入り前にその実力を長嶋に認めさせた県立岐阜商業は、春のセンバツ高校野球出場が確実視されている。そして、3年連続5位ながら借金わずか5、首位と9ゲーム差まで迫る力を見せた与田監督2年目のドラゴンズ。全力で戦って、天国の高木を安心させてあげてほしいと切に願う。

 モリミチさん、お疲れさまでした。心からご冥福をお祈り申し上げます。





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2020/01/13

令和最初のひとり旅【支線1】京都鉄道博物館へ その1

 これまでの経過はこちら⇒【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】
 

 今回の旅は、3泊4日の日程で日本列島を端から端まで飛んでいるが、日数に比して乗るべき鉄道は少ない。少し無理をして朝1番の飛行機で新千歳を出てきたおかげで、お昼前には大阪ですべきことを終わらせてしまった。夜、9年ぶりの友人と一杯飲むまで、たっぷりと時間が残っている。だがこれまでの乗り鉄旅とは少々勝手が違い、私にはこの空き時間をどう使おうかという明確なプランがない


 まったくしたいことがないわけではない。比較的頻繁に訪れている関西圏の鉄道でも、高校時代以来ご無沙汰、という路線はたくさんある。だがどこへ行こうか、まったく考えていなかった私は、放出から片町線・JR東西線の電車で北新地へ入り、地下街を迷いながら歩いて地下鉄中津駅の近くにある某ビジネスホテルにアーリーチェックインして荷物をフロントに預けた。
 それからJR大阪駅へ歩き、ICカードで改札を抜けた瞬間、ふと思い立って東海道本線の上り新快速電車に乗った。京都鉄道博物館へ行こうと思ったのである。


 京都鉄道博物館の前身は、大阪環状線・弁天町駅にあった「交通科学館」である。まだニキビ面だった私は30年前、青春18きっぷを握りしめてそこを訪れたことがある。国鉄特急ディーゼルカーの嚆矢キハ81形や「湘南電車」クハ86形が出迎える、さほど大きくない科学館の中には、ブルートレインの元祖、20系の食堂車ナシ20形がレストランとして営業しており、そこでカレーを食べた。そのことは鮮明に覚えている。


 その交通科学館から展示車両や展示品が移動し、京都の梅小路蒸気機関車館と一体になって登場したのが京都鉄道博物館である。しかもここは昨年の夏、上の坊主に先を越されている。小学校1年生の時、大宮の鉄道博物館に連れて行って鉄道ファンとしての英才教育を施そうとしたものの失敗に終わり、さほど鉄道に興味を示さないこの坊主は、京都鉄道博物館だけでなく、実家の祖父に連れられて、まだ私が未訪問のJR東海リニア・鉄道館にも足を踏み入れている。口には出さないがたまらなく悔しい


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 京都駅で下車し、バス案内所で、京都駅・桂駅-梅小路公園のバス乗車券がついて1,500円の京都鉄道博物館入場券を購入。京阪バス26系統に乗っておよそ6分、梅小路公園・JR梅小路京都西駅バス停で下車。目の前が梅小路公園の入口になっており、フリーマーケットが開催されて賑やかである。
 公園の中を抜けると正面に京都鉄道博物館の姿が見える。すぐ脇にはJR山陰本線の梅小路京都西駅がある。昨年3月に開業したばかりのこの駅の存在を私はすっかり忘れていた。覚えていれば電車でやって来たに違いない。


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 正面入り口から入場すると、すぐのエントランスに、C62形蒸気機関車湘南電車クハ86形+モハ80形0系新幹線が鎮座している。いずれも交通科学館から移設された車両である。0系新幹線は私の知っている現役当時と比べてやや白が明るいのが気に入らないが、4両とはいえ編成で新幹線が展示されているのは嬉しい。しかも先頭車2両が、グリーン車・ビュッフェ車各1両を挟んでいる。N700系やE5系など、シャープなフォルムの車両が増えた昨今の新幹線からすると、速さのイメージに欠ける。今の子供たちには、この車両のすごさや、少年時代の私たちの強い憧れはわからないだろうと思う。


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 0系新幹線の後尾近く、80系電車2両編成のうしろには、見覚えのあるナシ20形食堂車が置かれている。四方をプラットホームに囲われて、もはや車両だとも判別しづらいが、飲み物と軽食だけになっていたものの、今も車内を開放して営業中。景色は動かないけれど、青春時代を思い出して、私はテーブルの一角に座り、コーヒーを飲みながら、斜め後ろのテーブルで向かい合う相手に20系寝台車のすごさを力説しているその筋の人の話に耳を傾けていた。


 続く。



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2020/01/07

令和最初のひとり旅【本線4】金沢シーサイドライン・金沢八景駅

 相変わらずのマイペースで、すっかり遅くなってしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。

 昨年からの続き。
 これまでの経過はこちら⇒【本線1】 【本線2】 【本線3】
 

 相鉄新横浜線を乗り終えた私は、西谷から相鉄本線の快速で横浜へ行き、昼食を取ってから根岸線の電車に乗った。磯子で後続の大船行きに乗り換え、次の新杉田で下車する。
 ここから乗るのは、横浜シーサイドライン金沢シーサイドラインである。前者が会社名、後者が路線名である。1989年の開業だから歴史は古く、私は2013年に乗車済みなのだが、ここまで来たのには訳がある。


 この線の終点の金沢八景駅は、京浜急行逗子線との乗り換え駅だが、駅周辺の用地買収が遅々として進まなかったために、京急の駅まで数百m手前に仮駅を設置して開業した。京急の駅とほぼ直結の本駅まで伸びたのが今年3月のことで、30年にわたって仮の状況が続いていたのである。私が乗車したのも仮駅時代のことである。


 今回の本駅開業で金沢シーサイドラインの営業キロは0.2km伸びた。わずかな距離とはいえ、ここを乗り残したままにすれば、鉄道乗車記録は100%にはならない。数字に追われている感が無きにしもあらずだが、新たに接続した金沢八景駅の様子がどのように変わったかという興味もある。


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 そういうわけで私は、新杉田駅のホームに立った。金沢シーサイドラインは、金沢八景の本駅開業からわずか2か月後の6月1日、この新杉田駅で電車が逆走して車止めに激突し、6名の重傷者を含む14名の負傷者を出した。6月4日から手動運転で再開され、自動運転に復帰した8月以降も平日の運転本数は7割程度に間引かれていたが、ようやく1週間ほど前の12月2日から通常運転に戻ったばかりである。


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 電車を1本見送り、13時20分発の電車の最前部に陣取る。自動運転の金沢シーサイドラインの電車には運転士がいない。普通の電車なら運転士が座る場所に、私が鎮座している。ゴムタイヤを受けるコンクリートの軌道が正面に伸びている。新杉田を発車すると、根岸湾沿いに左へ、右へと緩やかに弧を描きながら走る。港が近く、物流倉庫が目立つ。いかにも臨海地帯といった雰囲気の中を、ほぼ南へ向かって走り、八景島とそれを囲む海の公園の外側に沿うように野島公園、金沢八景を目指す。


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 単調だったコンクリートの軌道に変化が出た。複線だった線路が単線になる。線路の左側の空間では4、5人の作業員が動いており、線路の右側には階段が見えた。明らかにそれとわかる金沢八景仮駅の跡で、3月までは単線の線路の左側にホームがあり、改札を出た乗客は行き止まりの線路の奥の連絡通路を通って右の階段から地上へ降り、150mほど歩いて京急金沢八景を目指していた。ホームと駅舎の解体はほぼ終わり、よく観察しないとかつて駅だったとはわからないと思う。


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 ここからの200m弱が未乗区間になる。解体作業が進む仮駅から本駅までの間は暫定の単線になっており、仮駅撤去が完全に終了すれば複線化されるようである。複線の予定地には雑然と工事用の資材が積まれている。それを横目に見ながら緩やかに左に曲がり、終点の金沢八景へ入る。


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  正面を走る京急線に対して直角のホームを前方に歩き、改札を出て左に折れ、階段を降りると京急金沢八景駅の橋上改札がある。自由通路がめぐらされており、以前の金沢八景駅の面影を探すのは難しい。もとのメイン改札付近は絶賛工事中である。鉄道路線が1本伸びてくることで、駅の姿がかくも大きく変わる。都市部だからかもしれないが、鉄道にはそういう力がある。


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≪参考≫ 2019年12月と2010年12月の金沢八景駅地上改札付近


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 旅行貯金をするために郵便局を求めて駅周辺を歩くと、根岸湾が切り込んだこのあたり、野島公園にかけては釣り船屋が点在している。釣り船が並ぶ水面のはるか上には、私が先ほど乗って来た金沢シーサイドラインの高架が虹のようにかかっている。ともあれ私は、今見えているあの区間を最後に、再び日本の鉄道すべてに足を記したことになった。


 もっとも、この記録は、来年の3月には再び途切れる予定である。富山駅を挟んで北側を走る富山ライトレール、南側を走る富山地方鉄道、ふたつの路面電車が北陸新幹線とあいの風とやま鉄道の高架下で手を結び、直通運転が始まる。これにより鉄道の路線総延長は0.1km伸びる。たったの100mである。けれどもその100mは、富山の街の姿を大きく変える可能性を秘めている。数字だけを見れば少々面倒くさい手間だが、その街の姿を見ることができるのは非常に楽しみである。



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