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2020/01/19

昭和のミスタードラゴンズ、高木守道さん逝く

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 中日ドラゴンズを代表する応援歌と言えば「燃えよドラゴンズ!」(燃えドラ)である。歌詞の中に選手の名前が織り込まれるこの曲は、ドラゴンズが上位争いを繰り広げる年を中心に新しいバージョンが発売され、世代ごとに口をついて出る歌詞が異なるのが特徴である。この曲が最初に発売されたのは1974年、ドラゴンズがジャイアンツのV10を阻止し、20年ぶり2度目のリーグ優勝を達成した年である。
 この時、一番バッターとして登場する選手が高木守道である。昭和のドラゴンズを代表する二塁手であった高木守道が、17日、天国へ旅立った。

 ⇒「燃えよドラゴンズ!」

 現役21年で2274安打(球団歴代2位)、236本塁打(同6位)、369盗塁(同2位)に加え、ダイヤモンドグラブ賞3回の成績は、まさに走攻守を兼ね備えた名選手だったことを示している。私が物心着いた頃はすでに晩年に差し掛かっていたが、王貞治の例を引くまでもなく、チームの「背番号1」を背負い続けることの重さとすごさは、子供心にも理解できた。私の父は、「燃えドラ」に歌われる1番バッターが田尾、彦野と変わっていっても、「♪1番高木が塁に出て~」といつも口ずさみ、「これでないと落ち着かない」と言った。


 私たちの世代から見ると、高木の印象は選手としてよりも監督としての印象が強い。1992年~95年(95年は39試合で途中休養)、2012年~13年の二度に加え、1986年には当時の山内監督の成績不振による休養に伴い68試合で指揮を執っている。
 中でも印象の強いのが、今も「10.8決戦」として球史に残る、1994年10月8日の「最終戦・同率首位同士の優勝決定戦」である。この日、私は札幌の大通駅に近い某レストランの前に車を停めて、カーラジオに聴き入っていた。このレストランのマスターは私と同郷のドラゴンズファンである。劇的な優勝を決めた暁には盛大に祝うぞ、という言葉に、私はわくわくしながらスタンバイしていた。だが、総力戦で最高のパフォーマンスを見せたジャイアンツの前に、ミスを連発したドラゴンズは敗れ去り、私は店に入ることなくしょんぼりとアパートへ帰った。


 第1次の高木監督を挟んで2度にわたり通算11年監督を務め、2度のリーグ優勝を達成した星野仙一とは「太陽と大地」のような関係だったように思う。パフォーマンスに長け、感情をストレートに表した星野と、あくまで寡黙に自分の役割を果たそうとした高木。ここぞという時に爆発的な力を発揮した星野と、肝心の場面で裏目に出た高木。ジャイアンツを宿敵として自他を鼓舞した星野と、球界の盟主として敬意を払った高木。ドラゴンズファンの気質を考えた時、物足りない印象を受けるのもやむを得なかったかもしれない。



 だが内に秘めた闘志や負けん気は、星野に劣らないどころかむしろ上回っていたかもしれない。試合中に叱責を受けて勝手に帰宅した話や、1995年、監督解任が発表されたその日、最後の試合で判定に異議を唱えて退場処分になるなど、熱い一面もたくさんあった。
 私はそんな高木監督が地味に好きだったし、今中や山本昌が頭角を現してきた当時のチームの雰囲気も好きだった。だから私はもう一度、高木に監督をしてほしいと思っていた。


 それが実現した第2次監督時代、特に後半には首をかしげるような采配もあった。結果を見れば、監督としての資質は8年連続Aクラスの落合はもちろん、星野にも劣るということになるのだろう。世間一般には、95年の途中休養、「暴走老人」と揶揄された2013年の悪印象が強いが、調べてみると指揮を執った787試合での勝率は.503と勝ち越している。最下位だった1992年も、60勝70敗の借金10、首位スワローズまではわずか9ゲーム差だった。


 訃報が伝えられた後、さまざまな人からのコメントがニュースとして伝えられた。名古屋というローカルのスター選手としては破格の多さではないかと思う。長嶋茂雄や張本勲、落合博満もが認めた野球センスについてはもちろん、私たちの知りえないグラウンド外でのエピソードを通じて伝えられるその人柄については、亡くなった人に対する敬意を差し引いても、その温かさが存分に伝わってくるものばかりで、気持ちよく読むことができた。特に同僚だった谷木恭平と、高木監督の下で選手として働いた今中慎二、立浪和義のコメントが光った。


 生まれも育ちも岐阜県、県立岐阜商業から中日一筋。星野がのちに阪神、楽天と移っていったのに対し、高木は最後まで中日一筋を貫いた。ポスト星野、ポスト落合という難しい局面で火中の栗を拾ったのは、ドラゴンズへの愛着と男気だったのではないか。特に「勝つことが最大のファンサービス」と公言した落合の後、「ジョイナス」と揶揄されながらもファンへの気配りを最前面に押し出さざるを得なかったあたり、本来寡黙にして頑固、職人気質な高木にとっては内心忸怩たるものがあったのではないかと思う。それでも高木はその役割を黙々と引き受けた。2012年にAKB総選挙の結果を受けて「うちもセンターは大島だしな」という茶目っ気のあるコメントを出せる、素敵なおじさんであった。


 「燃えよドラゴンズ!」45年の歴史で真っ先に登場した高木はまた、監督として登場した「燃えよドラゴンズ!平成FIVE」で、歴代監督の中でただひとり、ファーストネームで登場した。こんなところにもファンの高木に対する親しみが現れていると感じるのは、私の贔屓目だろうか。

 高木がプロ入り前にその実力を長嶋に認めさせた県立岐阜商業は、春のセンバツ高校野球出場が確実視されている。そして、3年連続5位ながら借金わずか5、首位と9ゲーム差まで迫る力を見せた与田監督2年目のドラゴンズ。全力で戦って、天国の高木を安心させてあげてほしいと切に願う。

 モリミチさん、お疲れさまでした。心からご冥福をお祈り申し上げます。





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コメント

燃えよドラゴンズ、私もやっぱり「1番高木」バージョンが出ちゃいますね。
本当に、追悼記事の多さには驚かされます。
張本さんのコメントも私には嬉しいものでした。
ベストナインのセカンド、そう言ってもらえるとは思いませんでした。
個人的にはむか~し飾ってあった守道さんのサインボールが(市販品ですが)どこを探しても見つからないのが残念でなりません。
引越し等で処分してしまったか失くしたか・・・
ブロマイドもあったのに・・・あまりに昔過ぎて。
でも心の中の守道さんは永遠です。

投稿: ミミ | 2020/01/21 21:23

 ミミさん、ありがとうございます。
 ミミさんのブログの方でもやり取りさせていただきましたが、亡くなられてから1週間あまり、次から次へと守道さんの人柄をしのばせる記事が伝えられていますね。監督時代の成績はいろいろあるでしょうが、ドラゴンズを愛し、ドラゴンズファンに愛され、一流のプロに認められた名選手だった守道さん、まぎれもなくミスター・ドラゴンズですね。

投稿: いかさま | 2020/01/26 23:58

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