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2020年4月

2020/04/29

令和最初のひとり旅【脱線2】遥かニライカナイ

 これまでの経過はこちら。

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【脱線1】

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 辺戸岬を後に私は、本島北部の東側を回る沖縄県道70号線を南へ向かった。険しい山中を走る県道70号線は非常にくねくねしており、こういう道路ではマニュアル車が威力を発揮する。シフトダウンとアップを繰り返しながら、軽快に右へ左へと車を振るのは楽しい。時折現れる「飛び出し注意」の看板は、北海道ならば鹿が定番だが、この辺りではヤンバルクイナになる。
 途中、奥という集落で簡易郵便局をみつけて立ち寄る。この奥簡易郵便局が本物の沖縄本島最北の郵便局である。


 さらに車を南に走らせ、宜野座インターから再び沖縄自動車道に乗り、南風原北インターで降りて県道86号線を左折、東へ向かう。距離にして約20km、いくつかの集落を抜けながら徐々に丘の上へと上がっていく。右手にちらちらと海が見え始め、ほどなく道路の両側に陸上自衛隊の知念分屯地が広がり、左右の敷地をつなぐ道路をトンネルでくぐる
と、県道86号線は大きなヘアピンカーブを描きながら、海へ向かって駆け下りていく。このカーブに架かる橋がニライカナイ橋である。


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 ニライカナイ橋は厳密にはヘアピンカーブを挟んで上部のニライ橋と下部のカナイ橋に分かれている。この橋を眺めるにはトンネル上の道路からが一番なのだが、県道から分かれる側道に車を乗り入れることはできず、その手前に車を停めて200mほど側道を歩く。看板もなく、柵がめぐらされただけの展望台に立つと、緑濃い木々の中を越えるニライ橋と、ヘアピンカーブの先からふもとへ向かって流れるように下るカナイ橋の全貌、その先に広がる海と岬、自然と人工物の織り成す美を一望できる。「ニライカナイ」とは海の向こうにある理想郷を指す言葉とのことだが、最北の大地からやって来た私にとってはまさに海の向こうの理想郷を思わせる風景が広がる。


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 再び車を走らせて、ニライカナイ橋をゆっくりと下り、国道331号線を左折、1kmほど走って右に入り、知念岬公園の駐車場に車を停める。駐車場に隣接して立派な体育館が建っており、岬の公園とは思えないのだが、駐車場から階段を降りて橋を渡ると丸い小さな展望広場に達する。島に渡ったような感覚になるが、実際には地続きで、木々に囲まれた小山のてっぺんだけが禿げたような印象である。そのたたずまいと、小さな四阿とオブジェ程度しかない控えめな感じがまたよい。


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 知念岬展望台からの眺めは、ほぼ300度海に向かって開けている。海に向かって左手は津堅島、正面に久高島を望み、右手は湾になっていて知念漁港まで狭い砂浜が続く。その内側にはビニールハウスがたくさん並ぶ農地が広がっている。のちに調べると南城市の農業生産額は沖縄本島ではトップ、なかでも知念地区はニガウリ・インゲンの主産地だという。
 その畑の向こうに、先ほど通って来たニライカナイ橋が見えた。おおらかなカーブを描いているはずの橋は、下から見ると直線的に折り返しているように見えて面白い。


Okinawadrive  近くにある知念郵便局で記念の貯金をして、私は知念岬を後にした。
 この後のドライブは、以前に書いた沖縄県営鉄道与那原駅跡地への立ち寄りを経て那覇空港近くのレンタカー営業所まで戻ることになる。およそ8時間足らずのドライブでの移動距離は約330kmに達した。
 レンタカー営業所近くのガソリンスタンドで満タン給油すると15Lほど。燃費20km/L超えは、スポーツタイプと言ってもさすがは軽自動車だと感心する。6速マニュアル車であることをすっかり失念してMAX5速までしか使っていなかったとしても、である。



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2020/04/22

令和最初のひとり旅【脱線1】沖縄本島の北端へ

 コロナの影響で日々滅入ることばかりが多い今日この頃ですが、気晴らしに沖縄ネタの続きを。
 
 これまでの経過はこちら。

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 最後に鉄道とはほぼ無縁の話。


 私が沖縄にやって来た主目的である鉄道の乗りつぶしは、実質的には8日の上陸後約1時間でほぼ完遂しており、いつものパターンならば9日の朝、どうかすると8日の夜にさっさと東京へ飛ぶのだが、ここは沖縄である。わずか2日とは言え満喫しないほど私は無粋ではない。


 9日朝、私はホテルを出て、那覇空港から無料送迎バスで某レンタカーの営業所へ向かった。
 私は車の運転が嫌いではない。若い頃は道内を車で走り回ったこともある。その目的が郵便局回りであったのはこの際さておき、普段から足として車は愛用している。これまで5台の車を乗り継いできたが、ファミリーカータイプの車が多く、こういう機会でもないと多少毛色の変わった車にのるチャンスもない。


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 今回借りたのは、「ホンダS660」。スポーツタイプの軽自動車である。この車を選んだ理由は、料金の安さと軽自動車ならではの経済性もあるが、最近見かけなくなったマニュアルシフト車が用意されていたためである。実は今回、旅行の日程が決まった時に真っ先に予約したのが、ホテルでも列車でもなく、このレンタカーだった。
 シートに座ってみると、普段のクルマと比べても着座点が非常に低く、乗り降りのたびに腰に負担がかかりそうである。だが座ってしまえばすっぽりと体が包まれる感覚で、まずは悪くない。


 9時過ぎ、レンタカーの営業所を出発。豊見城インターから那覇空港自動車道に乗り、ひたすら北を目指す。西原ジャンクションで沖縄自動車道と合流し、昨日訪れたゆいレールのてだこ浦西駅を左手に見ながら高速道路を快調に走る。天気は良く、気温も20度近くと高めで、屋根をオープンにしてもよさそうだが、高速道路上では我慢する。途中伊芸PAでの休憩を挟んで名護市の許田インターまでは60km、1時間足らずで到達する。交通量は多いが快適なドライブである。


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 国道58号から名護東バイパスに入り、再び国道に戻ったところでコンビニに入り、飲み物の補充と天井幌の開放作業。頭の上がすっきりしたところで、再びドライブを続ける。前回訪問した古宇利島方面への道路が分岐する真喜屋を過ぎると、海岸沿いへ出た。潮の香りが体を包み込む。
 大宜味村を過ぎて国頭村へ入ると、国道58号はいったん内陸へ入り、国頭村の市街地へ入る。途中看板が見えた国頭郵便局に立ち寄る。普通郵便局としては沖縄本島最北端になるという。国頭村の中心を抜けると再び海岸線へ出る。


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 左手に海、右手に山という険しい地形の海岸線を走り、那覇から125km、2時間20分ほどで、辺戸岬にたどり着いた。沖縄本島最北端に当たり、万座毛ほどの迫力ではないが、断崖絶壁に波が押し寄せる。岬の奥には弓なりに湾曲して小さな砂浜が見えるが、その背後はすぐ山になっている。沖縄本島の厳しい地形を象徴するような岬である。


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 岬の背後を振り返ってみると、山の稜線がいびつな形になっている。菩薩の横顔のようにも見えると言われるこの山は辺戸岳というが、安須森御嶽(あしむいうたき)とも呼ばれ、琉球王朝の正史「中山世鑑」には沖縄開闢の最古の御嶽とされている。
 安須森御嶽を背にした辺戸岬は、太平洋戦争後の占領期、国境の先にある与論島に向けて狼煙を上げ、祖国復帰を願った地でもある。岬の突端近くには、「祖国復帰闘争碑」が立てられ、小さな双眼鏡とともに鹿児島方面を見つめている。


 のちに北海道に帰ってからいろいろと調べ、この地の歴史と伝統に触れたことで、単に沖縄本島最北端だから、という理由で軽い気持ちで訪れたこの地が、実はとんでもない場所だったということに気付かされたのである。


 続く。



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2020/04/17

JR北海道の苦悩と札沼線末端区間の廃止繰り上げ

 経営難による苦境にあえぐJR北海道。新型コロナウィルス感染拡大による影響は、その深刻な状況に拍車をかけている。
 4月14日、JR北海道は、全社員の2割に当たる1,450人を対象に、5月1日から7月23日までの期間、1人当たり月数日の一時帰休を実施する方向で労働組合と協議を進めていると発表した。鉄道会社での一時帰休はきわめて稀である。


 新型コロナウィルスの感染拡大が北海道内で進行し始めた2月以降、JR北海道の都市間列車の利用状況は大幅に悪化している。海外からの観光客は私たちの目にもはっきり分かる形で減少しており、2月の利用者は在来線特急で前年比73.2%。鈴木直道知事が緊急事態宣言を発した以降急激に悪化し、3月は8日までの平均で前年比30.2%となった。旅客減による収支への影響は、3月末までで47億円と推計されている。これはJR北海道の年間鉄道収入(平成30年度)の6.6%に相当する。


 こうした情勢を踏まえて3月23日から気動車特急の編成減車と、札幌―旭川・東室蘭での電車特急の減便が実施された。減便対象は4月6日からは札幌ー函館・帯広にも拡大されている。
 だが、感染拡大の収束が見えない中で、5月16日以降、札幌ー新千歳空港の快速「エアポート」も1日16本が減便されることになった。3月14日のダイヤ改正で満を持して32本を増発、毎時5本化されたばかりの「エアポート」減便は衝撃的だが、インバウンドはおろか国内航空旅客も激減している現況では致し方ない。


 JR北海道は社員の雇用を維持するために、国の雇用調整助成金を活用して一時帰休を実施、さらには経営危機のためすでに行われている役員報酬の自主返上の拡大、執行役員・管理職の給与の一部の自主返上も検討中とのことである。北海道の「足」を守ってくれる人々がこういう状況に置かれてしまうことについては非常に悲しいことである。新型コロナウィルスという見えない敵によって会社の屋台骨が大きく揺らぐ状況になってしまっているが、支えようにも私の会社自身も道内外への出張自粛、不急不要な旅行も自粛するようにとお達しされており、身動きが取れない。何とか耐えてほしいと祈るばかりである。


 JR北海道に関しては、もうひとつ大きなニュースがあった。
 5月7日付で廃止が予定されていた、札沼線・北海道医療大学ー新十津川間については、4月3日のプレスリリースで、旅客密集による新型コロナウィルス拡散リスクを防ぐため、普段は1日1往復しか走らない浦臼ー新十津川間を2往復に増便の上、5月2日から6日までは全席指定で運転すると公表していた。仮にも生活路線である(はずの)この区間を全席指定で運転とは、地元客への配慮はどうなっているのかと訝しんだものの、すでに4月1日から代替バスの運転も始まっており、大きな支障はないと考えられたようである。


 ところが、4月7日の7都府県への緊急事態宣言と12日の北海道・札幌市の緊急共同宣言を受けて状況が一変した。
 これまでの例から考えても、廃止路線の最終運行日には、鉄道ファンが大挙して押し寄せる。「廃線商法」というと聞こえが悪いが、鉄道廃止という出来事は、鉄道会社にとってはそれまで赤字に苦しめられてきたその路線でひと稼ぎする最後のチャンスでもある。ところが、新型コロナで「三密」を避けるように、と言われている昨今、狭い車内に大量の鉄道ファンがひしめき合うのは「三密」以外の何物でもない。これを回避するための全席指定策ではあったが、鉄道ファンが押し寄せるのは列車内だけではない。駅や沿線にもおびただしい数のファンが訪れる。


 こうした状況を危惧したのか、JR北海道は4月15日、この区間の最終運行日を繰り上げ、4月24日にすると発表した。加えて「できる限り町外からのご乗車、来駅、沿線での写真撮影等をお控えくださいますよう」とのお願いを出すに至った。不測の事態の場合には最終運行を繰り上げる場合がある、とも付記されている。
 鉄道ファンの中には、ごく一部であるが「葬式鉄」と呼ばれる常軌を逸した一派が存在する。東京―北海道間の飛行機が減便になったとはいえ飛んでおり、列車も走っている状況であれば、道内のみならず全国からそういう連中が緊急事態宣言を無視して動き回らないとも限らない。対象地域からの来道を控えてほしいという鈴木知事の真摯なお願いも水泡に帰す可能性がある。そういう状況を私はひそかに危惧していた。


 それが昨日(16日)、緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大されるに至り、JR北海道はわずか1日で方針を転換、「不測の事態」に至ったとして、最終運行を今日、4月17日の新十津川発10時の列車に繰り上げた。あと20日ほどあったはずの廃止までの時間は、今この記事を書いている時点でたった9時間になってしまった。あまりに急で残念なことではあるが、今の状況を考えた時、JR北海道のこの決断は是としなければなるまい。
 85年にわたるこの区間の鉄道の歴史は、今日、幕を下ろすことになる。鉄道の余命まで奪った新型コロナウィルス、その収束に向けた出口は未だ見えない。



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2020/04/09

令和最初のひとり旅【支線8】ああ北斗星よ永遠に

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 与那原駅へのドライブを終え、那覇空港から東京・羽田空港へ飛んだ私は、京急電車で品川へ行き、JR横須賀・総武線の電車に乗り換えて、この日の宿泊地、馬喰町で下車した。仕事以外で東京宿泊などめったにないことで、この機会にぜひ一度泊まってみたい宿泊施設があった。


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 馬喰町駅4番出口を出るとすぐのところに、懐かしいヘッドマーク様の看板を掲げた小さな雑居ビルがある。このビル1棟が「トレインホステル・北斗星」という宿泊施設になっている。2015年に運行を終了した寝台特急「北斗星」の設備を流用したホステルということで、2016年の開業当時は話題になった。


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 方向幕に似せた字体で書かれた看板のある1階の受付でチェックインする。館内にはA寝台・B寝台の設備があり、私の一夜の宿は3階のA寝台である。宿泊料金は5,000円。市中のビジネスホテルに比べれば格段に安い。フロアを一つ上がった2階にはこれまた懐かしい「グランシャリオ」の看板。この奥には厨房設備を備えたラウンジがあり、何人かの客が「北斗星」の食堂車、グランシャリオの物を流用した椅子・テーブルが並ぶ室内でくつろいでいた。ちなみに供食サービスはなく、自賄である。


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 3階の宿泊室の入口には、号車番号を流用した階数表示があり、ナンバー錠を押して宿泊室へ入る仕組みになっている。入った右手には、懐かしい2段ベッドのB寝台が並ぶ。一瞬違和感を感じるのは、通路を挟んだ反対側にもベッドが並んでいること。すでに深夜帯で人の動きは少ないが、ベッドは8割方埋まっていた。荷物の雰囲気から、外国人客が多いことが窺える。


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 さて、私のA寝台は、宿泊室へ入った正面にある。B寝台の2段ベッド対面に対し、こちらは当時のA個室寝台「ロイヤル」の設備を用いた半個室になっている。「ロイヤル」ならばせめて鍵付きの部屋であってほしいと思うのだが、そこは安価なホステルのこと、通路との仕切りはカーテン1枚である。それでも部屋は隣室とは区切られており、ソファーにもなる広めのベッドとデスク、チェアが置かれていた。照明は現役だが、壁に取り付けられたBGM装置はただの飾りになっている。「ロイヤル」にあったビデオ・TVもなく、トイレ・シャワーは当然共用である。


 照明を落としてベッドに横になってみたが、寝台列車の揺れやレールの継ぎ目を拾う音もなく、静か。窓の外の景色も動かない。時々通路の外でガサゴソと荷物をいじる音と人の動きがどうにも気になる。貴重品は宿泊室の入口横のロッカーに入れてあるが、念のためカーテンのかかった入口の前に重いチェアを移動させて防犯対策を講じ、再び横になった。ドライブと飛行機の疲れもあったのだろう、そのうち眠りに落ち、目が覚めた時には朝9時近かった。


 こうして「トレインホステル・北斗星」の一夜は明け、無事私は東京を後にしたのだが、日頃ビジネスホテルの快適さと安心感に慣れていると、こういう宿泊施設はやや落ち着かない気分になる。「寝台列車の設備」らしさを味わうのであれば、A寝台よりもB寝台の方がそれらしい雰囲気を醸し出しているように思う。いずれにしても、やはりレールの上を走るホンモノの寝台列車の方が安心して眠れる。ひと昔前に流行した「SLホテル」の類もこんな感じだったのではないだろうか。
 もう一度利用するか、と言われると返事に窮するが、よほど金のない旅行だったらB寝台にもぐりこむことはあるかもしれない。ちなみにドミトリータイプのB寝台なら、1泊2,500円程度から利用できる。
 


続く。


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2020/04/05

令和最初のひとり旅【支線7】与那原駅跡にて

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 2003年にゆいレールが開通するまで鉄道空白地帯だった沖縄県には、太平洋戦争中までは一般の鉄道が走っていた。前回の記事で訪問した転車台のある那覇駅からは、戦時中まで沖縄県営鉄道が、北は嘉手納、東は与那原、南は糸満へと路線を伸ばしていた。「ケービン」と呼ばれた小さな鉄道車両が、当時台頭し始めたバスにも負けず乗客を運び続けた。当時の時刻表によれば各線とも1日10数往復の運転だから、それなりの本数である。


 しかし、激化する戦争の中で、空襲による施設被害により沖縄県営鉄道は運行を停止し、上陸した連合国軍によって鉄道施設はほぼ破壊された。運行停止したのは1945年の3月頃とされているが、正式な廃止日さえはっきりしない。沖縄県営鉄道の線路敷は、その後の再開発や米軍基地建設により分断され、戦後74年を経てその痕跡をたどるのは困難になっている。


 ゆいレールの建設を契機としたかのように、こうした鉄道遺産が再び注目を集めることになった。各所に散逸していた鉄道遺産は、県立博物館や那覇空港に近い「ゆいレール資料館」で見ることができる。かすかにその歴史をとどめる痕跡を求めて廃線跡をたどるブログもたくさんある。
 先日訪れた那覇駅跡の転車台と並ぶ大きな鉄道遺産のひとつが、与那原線の終点、与那原駅跡である。12月9日、沖縄本島をドライブした私は、最後の目的地としてこの与那原駅跡に立った。


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 戦火を潜り抜けて生き残った数少ない鉄道施設のひとつであった与那原駅は、戦後、改修を重ねながら消防署や与那原町役場、農協事務所として活用されてきた。2013年に農協事務所が移転したのち、当時の形に復元工事が始められ、2014年に完成、「軽便与那原駅舎展示資料館」として生まれ変わった。駅舎内には当時の写真や資料が展示されており、入館料は100円と安い。


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 館内には、沖縄県営鉄道の歴史にまつわる資料や写真が数多く展示されている。セピア色なのでややわかりづらいところはあるが、全盛期の与那原駅の様子を収めた写真もあった。当時としては流麗であったであろう建物だが、やがて戦火にさらされて無残な姿になる。それでも建物の骨格が崩れ落ちずに残っていたことが、今日の復元につながっている。


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 現在の与那原町は、国道329号と331号の結節点で、今も陸上交通の要衝のひとつになっている。人口は20,000人弱で増加傾向にあり、街には活気が感じられる。それは沖縄県営鉄道が存在した当時から変わらない。与那原駅は県営鉄道与那原線の終点だったが、与那原からさらに先、西原町小那覇まで沖縄軌道という別の鉄道が伸びる交通の結節点だった。模型で再現された当時の与那原駅周辺は、住宅や商店が密集し、賑わいがあったことを感じさせる。窯業は与那原町の基幹産業のひとつで、首里城復元の際には当地の赤瓦が使用されたという。



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 駅の裏手、当時ホームがあった側に出ると、高さ50cmほどのコンクリート柱が9本立っている。これは戦火に生き延びた与那原駅の骨格を成した柱の跡である。この柱はその後再利用されて、2013年の解体前まで実際に建物を支えていた柱である。近くに設置された案内板の写真と見比べるとよくわかる。再築された駅舎は当時の物とは別物であるが、この柱だけは沖縄県営鉄道時代以来の歴史の証人である。


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 細い路地を挟んだ反対側は、以前駐車場として利用されており、今は空き地になっているが、この辺りはちょうど与那原駅構内の線路があったあたりである。ここからはレールやプラットホームの跡が発掘されている。おそらく広い構内を有していたはずだが、付近は住宅が立ち並び、往時の面影はない。
 駅舎と空き地の間の路地が県営鉄道の線路跡と推定され、住宅の間を縫って那覇方面へ向かって西にまっすぐ伸びている。


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 路地は100mほどで狭い道路とぶつかる。文献やネットの情報では、この先、現在幼稚園になっている敷地を抜けて那覇方面へ向かっていたようだが、この先の痕跡は追えない。インターネット上の様々な情報では、随所に元の線路敷と思われる道路が残っていたりするらしいが、今回はここまで。時間の関係もあり、私は那覇空港へと車を走らせた。今回、与那原線の起点(那覇駅跡)と終点(与那原駅跡)だけを訪れ、中間をすっ飛ばしてしまったことになる。


 「ゆいレール」の開通でようやく軌道系交通機関が復活した沖縄では、人口約32万人の那覇と約6万人名護の間、約67kmを鉄道で結ぶ計画があるという。宜野湾市・浦添市・沖縄市・うるま市と人口10万人前後の都市が経路上に位置しており、実現可能性のほどは不明だが、人口が増加傾向にある沖縄だけに期待したい気持ちは多分にある。鉄道がまた増えてくれれば、沖縄にみたびやって来るという大義名分が立つ


続く。


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2020/04/02

ありがとう、志村けん

 昨夜放送された志村けんの追悼番組を、ようやく今日観ることができた。


 私たちから若干上の世代は、下品で面白いことが大好きな幼少時代に志村けんが一気にドリフの顔になっていくのを目の当たりにしてきた世代である。イッチョメイッチョメ・ワオーカラスの勝手でしょも、最初はグーもリアルタイムで観て来た。小学校時代、土曜8時がドリフ派ひょうきん派に二分されていた時も、私はずっとドリフ派を貫き通してきた。便所の扉にしがみついて遊んで母にどやされ、怒っちゃやーよ、と言ってひっぱたかれたりもした。


 その人が新型コロナウィルスに感染して、いともあっさり亡くなってしまった。人の命に重い軽いはないが、常にブラウン管の中に存在した人がこういう形で姿を消してしまうことはあまりにも衝撃的である。安倍首相の言うことも小池都知事の言うことも軽く聞き流していた人たちでも、この事実は背筋を伸ばさせるのに十分すぎるのではないかと思う。


 私が思う志村けんのすごさは、その表情と声にある。若い頃の写真などを見るとそれなりに男前の雰囲気が漂っているのだが、ひとたびコントになると完全にバカの表情になる。しかもその表情はとても豊かで変幻自在である。加えてこれほど声のトーンを自在に使い分けるお笑い芸人も珍しいのではないか。時に高い声、時に低く太い声で、とんでもないセリフを放つ。2時間足らずの特番の中で、そのすごさは再確認できた。
 40年前から今も変わらず私たちを笑わせるだけでなく、私の子供たちも志村けんを見てゲラゲラと笑う。世代の垣根を越えて笑わせる守備範囲の広さもすごい。というよりは、志村けんを見ると、私たちが40年前の少年時代に引き戻されるんだろうと思う。


 高木ブーが「志村は死なないの。ずっと生きてる」と言った瞬間、私は泣きそうになった。加藤茶の弔辞も感動したが、高木ブーのそのひと言にはものすごい重みと愛情と、ひょっとすると本人以上かもしれない残されたメンバーの無念さが凝縮されているように私には思えた。
 「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」数あるギャグの中で実は私が一番好きなギャグだったりするのだが、ひっくり返った声で言うそのセリフだけで私を悶絶させたその人は、私だけでなく日本中に数限りない笑いを与え続けて、本当に神様になってしまった。あまりにも早すぎる。そして急すぎる。
 40年の時を越えて子供に戻れる機会が奪われてしまったような、言いようのない淋しさばかりが残る。


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