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2020年5月

2020/05/24

1990年春 九州一周の旅【3】急行「えびの」で大畑ループ越え

 前回の続き


 熊本からは10時57分発の急行「えびの3号」に乗車。博多と宮崎を結んだ急行で、1993年に熊本―宮崎間に短縮され、2000年に廃止となった。国鉄型キハ58・65形3両編成は塗装も変えられ、車内はリクライニングシートに取り替えられて快適である。八代から肥薩線に入り、球磨川に沿ってゆっくりと走る。座席がほぼ埋まる状態だった列車は人吉でぐっと空き、座席を回転させて4人分をひとり占めできるようになる。大きく右へカーブして山中へ分け入り、やがてトンネルを抜けて大畑(おこば)に到着する。


Photo_20200523005201  この付近は高低差が大きいため、肥薩線はぐるりと一周しながら登っていくループ線になっているが、その途中にある大畑駅は地形の関係で行き止まり式のスイッチバック駅になっている。列車は大畑駅から逆方向へいったん戻った後、再度方向を変えてさらに山を越えていく。ぐいぐいと左に曲がる感覚がある。途中で先ほど走って来た線路と交差するのだが、トンネルの上を越えているためはっきりしない。矢岳を過ぎて次の真幸(まさき)もスイッチバック式。山岳路線の醍醐味を存分に楽しめる路線である。


 吉松から吉都線に入り、えびの高原ののどかな風景の中を淡々と走っていく。14時26分着の都城で下車し、近くの都城営業所から1時間ほどの待ち時間で日南線の志布志駅へ向かう鹿児島交通のバスに乗り継いだ。西都城と志布志の間には国鉄志布志線が走っていたが、1987年に廃止となり、このバスはその代替輸送機関である。途中の大岩田というバス停付近で廃線跡をくぐり、以降は近づいたり離れたりしながら志布志線跡と並走する。レールは撤去されているが草生した線路跡に、時折枕木の埋まっていた跡が見え隠れする。ちなみに今現在、この路線のバスは4往復まで減少しており、都城発は13時50分が最終になっている。


 1時間20分ほどで到着した志布志駅は、新しい小ぶりな駅舎の周辺に広がる空き地が、日南線・志布志線に加え、鹿屋方面へ向かう大隅線との一大ジャンクションだったことを窺わせる。ここから17時08分発の日南線宮崎行きの普通列車に乗る。2両編成のディーゼルカーに乗客は10人ほど。発車してすぐに線路の近くまで寄って来た海岸線がすぐに離れ、ひとつトンネルを抜けるとまた近寄ってくる繰り返しで、単調だが見飽きない景色が続く。串間の手前あたりから内陸に入ると車窓が退屈になり、つい居眠りが出る。


Kyuushuu1  気が付くと列車は青島付近を走っており、乗客もいくらか増えている。志布志から約2時間半、19時41分に宮崎着。今日はここから夜行急行「日南」に乗って博多方面へ向かう予定である。2日連続の夜行泊まり、しかも今夜は座席車である。まずは何をおいても風呂に入りたい。駅員に銭湯の所在を聞き、まだ建て替え前の古い駅舎を出て駅裏へ回り、徒歩15分ほどの銭湯でじっくり汗を流す。それから駅前へ戻り、開いていた食堂で夕食をとると、時刻は21時半。「日南」の発車までまだ1時間半ある。


 春休みのさなかで「日南」の自由席は混んでいるかもしれないと考えた私は、22時11分発の普通列車でいったん鹿児島方面に向かった。時刻表を眺めると、この列車と「日南」がすれ違うのは田野駅と推測された。そこで私は、田野のひとつ宮崎寄り、日向沓掛駅で下車して、「日南」を待ち受けることにした。


 駅のホームに降り立ったのは私だけ。列車が走り去ると、殺風景なホームにぼんやりと薄暗い電灯が数本ともるだけとなった。右手も森、左手も森で、闇の向こうには明かりも見えない。どこか遠くから車の排気音と水の流れる音だけが聞こえてくる。とんでもないところに降りてしまった、と悔やんでみても、「日南」が到着するまで10分、ベンチもないホームでひたすら耐える以外に道はなかった。


 続く。



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2020/05/17

1990年春・九州一周の旅【2】ブルートレインで九州へ(2)

 前回の続き


 春休みが始まったばかりの日曜日、「はやぶさ」の車内には家族連れや学生の姿が目立った。乗客の憩いのフリースペース、「ロビーカー」もそんな乗客で賑わっていた。空いていたソファに腰を下ろし、飲み物を飲みながら、隣に腰掛けていた少年と話してみた。今度中学3年生になるO君は、お母さんとふたりで相模原から実家のある鹿児島へ法事に行くのだという。飛行機で行った方が圧倒的に早いのに「はやぶさ」を使うところからして、やはり鉄道ファンである。私と同じB個室、12号車7番が自席という彼と話が弾む。


 名古屋を過ぎると、少し空き始めたロビーカーに、ふたり連れの若者がやって来た。先ほど食堂車で隣のテーブルにいたふたりである。手にはサントリーの角瓶を持っている。どうみても成人の雰囲気ではなく、年を訪ねてみると私と同じ17歳の高校生だという。一杯どうですか、などとこのコンビ、松戸からやって来たH君とM君に誘われると、昨夜の反省などどこへやら、つい調子に乗ってごちそうになってしまう。近くの席にいた家族連れのお母さんが、おつまみにとスルメを差し入れてくれた。誰も咎める人のない、おおらかな時代である。


Hayabusa  話を聞けば、M君とH君の寝台もB個室12号車。それぞれ4番と8番の上段室で、O君と私でH君の部屋を挟む形になっている。皆で談笑していると、通りがかった車掌長が、
「いやあ君たち、おいしそうだなあ。僕は仕事中だから飲みたくても飲めなくてねえ。…ところで、乗車記念のオレンジカードはいかがですか?」
 オレンジカードも鉄道の平成遺産となって久しいが、当時はブームのさなかだった。未使用のまま所蔵される確率が高く、JR各社にとっての収入源のひとつだった。なかでもJR九州はかなり熱心だったと聞く。つられて1枚購入する。


 大阪の手前で私とO君は退散。23時52分着、3分停車の大阪駅のホームで缶ジュースを補充し、車内の洗面所でタオルを濡らした。個室に戻るとカーテンを引き、パンツ一丁になって身体中をひと拭き。昨夜も風呂に入っていない。当時東京―九州間の寝台特急ではシャワー室を設けているのは「あさかぜ」だけだった。
 浴衣を着てベッドで腹ばいになり本を読んでいると、通路でドタンバタンと激しい音。慌てて飛び出すと、H君が通路でひっくり返っている。横で介助するM君の顔も赤い。満タンだった角瓶は残り半分を切っている。へろへろの二人がそれぞれの個室へ上がっていくのを見届けて、私もベッドにもぐりこんだ。


 翌朝7時前に目を覚まし、7時14分着の下関で機関車の交換作業を眺める。青いEF66型機関車から銀色のEF81型機関車に交換された「はやぶさ」は、いよいよ関門トンネルをくぐり、九州へと足を踏み入れる。今度は赤いEF76型機関車に交換された門司を出たあと、O君の部屋へ遊びに行くと、お母さんと朝食の最中。退散しかけたところへお母さんから、
「お弁当が余ってるんだけど、よろしかったらどうですか?」
とお誘いいただき、ありがたくごちそうになる。


 8時42分着の博多で、同じ種村氏の読者サークルの仲間、TKさんが立席特急券を手に乗り込んできた。夜が明けてからの時間が長い九州特急では、区間を限定して寝台券なしでも乗車できる、通称「ヒルネ」という制度があった。
 初対面のTKさんと挨拶を交わした後、O君・M君と4人でロビーカーへ行き、しばし談笑。ちなみにこの時H君は完全グロッキー状態になっていた。この少し前、車掌長が個室の鍵を回収に巡回したのだが、8号室だけはノックしても返事がなく、マスターキーで解錠するという事態になった。車掌長によって無事生存確認されたH君は、9時半過ぎに私たちが個室に戻ると、個室の階段に蒼い顔をして座っていた。


 明日再び合流する約束を交わしたTKさんは、9時42分着の大牟田で下車。H&Mの両君もここで降りていく。大牟田を出ると食堂車も店じまいにかかり、私たちも下車に備えて荷物の準備にかかる。「はやぶさ」は西鹿児島行きだが、食堂車・ロビーカー・個室寝台を含む後ろ8両は熊本で切り離されるため、ここで降りるか前寄り6両に移るかになる。私はこの先の行程から熊本で下車するが、鹿児島へ帰省のはずのO君親子も熊本で下車するとのこと。後続のL特急「有明11号」に乗り換えると、水俣で「はやぶさ」を追い抜くのだとか。機関車に牽かれる寝台特急と異なり、身軽な電車特急は速い。


 10時21分、「はやぶさ」は定刻に熊本に到着した。ホームの長さの関係で11号車より後ろはホームにかからず、10号車のデッキからホームに降りる。東京から17時間16分の長旅は、愉快な仲間たちのおかげで退屈することなく過ごすことができた。
 「眠っているうちに移動できる」という便利なツールとしての役割は、新幹線の開業ですでに損なわれていたが、ブルートレインは乗ること自体を楽しめる列車だった。この日の「はやぶさ」に、同じ感覚を持った同世代の仲間がたまたま乗り合わせ、今のように独りで時間をつぶせる手段の少ない時代、自然に声を掛け合い、交流が生まれた。


 われわれのような貧乏学生でも少し手を伸ばせば届く、身近な憧れの存在だったブルートレインは今は亡い。唯一残る定期運転の寝台列車は、「サンライズ出雲・瀬戸」だけだが、運転時間が短く、個室寝台ばかりの列車でこうした交流は生まれにくい。
 乗ること自体を楽しむ寝台列車は、近年「ななつ星」「四季島」「瑞風」と立て続けに登場したが、学生どころか貧乏サラリーマンが気楽に利用することの叶わない、遠い存在になってしまった。


 続く。



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2020/05/14

1990年春・九州一周の旅【1】ブルートレインで九州へ(1)

 前回の続き


 翌3月25日、日曜日。お世話になったTさんとともに東村山駅から西武新宿線の準急で新宿へ。ここで同じくサークルのメンバー、Kさんと合流し、東京都内で時間つぶしをした後、17時少し前に東京駅へ入った。本当はもう少し早く到着している予定だったのだが、その前段で乗車したバスが渋滞に巻き込まれ、ギリギリの時間になってしまった。


 東京駅のホームへ上がると、14両編成の青い列車がすでに乗客を迎えていた。この日ここから乗るのは、17時05分発の寝台特急「はやぶさ」である。東京から熊本を経て西鹿児島(現在の鹿児島中央)まで、1,515.3kmを結ぶ、当時日本最長距離を走る列車であった。
 東京と九州を結ぶ寝台特急は「はやぶさ」の他、「さくら」「みずほ」「あさかぜ」「富士」と計5往復があり、いずれも食堂車とA寝台車を連結した上級の列車だった。なかでもA個室・B個室・ロビーカーを組み込んだ「はやぶさ」は、大分・宮崎へ向かう「富士」と並んで最も魅力的な列車だった。


Arashi006 Photo_20200514222701  
 Tさん、Kさんに加え、横浜からわざわざ見送りに来てくださった初対面のSさんと列車の前で記念撮影し、乗り込む。Sさんがその間際、「何か買って食べてよ」と、私の手に1,000円札を握らせてくれた。
 私の寝台は、12号車9番のB個室「ソロ」。「北斗星」などにも組み込まれた、L字型の上下段個室を組み合わせた定員18名の車両で、私の部屋は下段。幅70cmのベッドは肘掛けを降ろして座席にすると進行方向向きに座ることができ、通路部の天井が高いため着替えも苦にならない。BGM装置もついており、個室なのでイヤホンなしで楽しめる。ベッドの上に転がり、妙に陽気な洋楽をBGMに持参の雑誌を読みながら時間をつぶす。


 富士駅を通過した19時15分ごろ、食堂車へ。テーブルはすべて埋まっており、相席に案内された。オーダーを待つ間、食堂車の中をぐるりと眺めてみる。テーブルにはきれいなクロスがかけられているが、壁や天井には無駄な装飾がなく、実に殺風景である。レストランというよりは街の食堂、あるいはスーパーのフードコートのような雰囲気である。混んでいるせいか、ウェイトレスがオーダーを取りに来るまでに10分、それから注文が運ばれてくるまでに30分ほど待たされた。


 食事を終えた客が少しずつ減っていき、すっかり空いたころ、ようやく注文のビーフシチュー定食が運ばれてきた。味はこれといって特徴もないが、窓の外を過ぎ去るかすかな光を眺めながら暖かい食事をとる、この雰囲気は格別である。隣のテーブルには私と同年配くらいの少年2人組が、やはり同じように車窓を眺めながら食事を楽しんでいた。
 食後のコーヒーを含めてお会計は1,660円。普段の食事から考えれば完全に予算オーバーだが、これは想定内である。食堂車付きの寝台列車に乗って食堂車を体験しないなど、ジョージ・マロリーがそこに山があるのに登らないようなものである。


 東京-九州間寝台特急の食堂車は、この旅から3年後の1993年にすべて営業休止となり、売店営業のみとなった。航空機の運賃低廉化や、「のぞみ」登場による新幹線の高速化などにより、九州特急はこの後低落の一途をたどる。「みずほ」「あさかぜ」は1994年に廃止、「はやぶさ」は1997年に熊本打ち切りとなり、1999年には長崎発着の「さくら」と併結運転となる。2005年には「さくら」の廃止に伴い「富士」との併結運転となったが、2009年に廃止され、東京-九州間の寝台特急が消滅した。


 当時の九州特急の愛称のうち、「あさかぜ」「富士」以外の3つ、「みずほ」「さくら」「はやぶさ」が、年月を経て新幹線の列車名として復活しているのは感慨深いものがある。だが、当時のように九州を目指す「みずほ」「さくら」に対し、「はやぶさ」だけが東京駅から完全に逆方向の北海道へやって来ることについては、未だに少なからず違和感がある。


 続く。




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2020/05/10

1990年春・九州一周の旅【0】

 コロナ自粛が続き、新しい旅ネタが発掘できない今日この頃。日常生活もどちらかというと後ろ向きの状況が多い中、こういう時には蔵出しのネタに手を付けてみようと思う。以前に書いていた「帰省百態」もまだ書きかけの状況なのだが、私の鉄道乗りつぶしのひとつの大きなポイントとなった1990年の旅の記事をご紹介しようと思う。ちょうど30年前の旅である。JR発足3年目の1990年から平成をひと跨ぎした今の鉄道の様子と比較しながら書いてみたい。
 なお、この旅については、諸事情により特に前半、写真がほとんどない。その事情はのちに述べる。


 当時私は高校生。2年生の3学期が終わった春休み、14日間にわたる鉄道の旅に出た。お年玉と年賀状配達のアルバイト代をかき集めた予算は20万円。向かうのは日本の南の果てか北の果て、ということになるのだが、すでに受験で北を目指す決意を固めていた私は、あえて南、九州を選んだ。5日を超える長旅は初めてで、両親は当然いい顔をしなかったが、春休み前の自主登校期間中に宿題を全て片付けることを条件に旅立ちを許してくれた。


1990a 1990b  
 1990年3月24日、高校の終業式を済ませた私は大急ぎで自宅へ帰り、昼12時、重い荷物を抱えて家を出た。中央本線瑞浪駅から快速電車に乗り、13時24分に名古屋着。ここから新幹線に乗るのだが、私が乗ったのは東京行き「ひかり8号」。九州とは逆方向である。九州旅行の序章に東京を目指した理由は2つほどあるのだが、のちに述べる。握りしめているきっぷは今は亡き「東京ミニ周遊券」である。


 「ひかり8号」は、当時東海道・山陽新幹線の主力だった100系2階建て新幹線。しかもJR西日本だけが保有する、2階建て車両を4両連結したグランドひかりである。2階建て車両4両のうち3両が、2階グリーン車、1階が指定席の車両で、残り1両が食堂車である。指定された9号車、1階指定席に荷物を置き、隣の食堂車へ移動。混雑しており、30分ほど並んで相席に案内される。大きな窓で眺めの良い2階食堂車でコーヒーを飲み、座席へ戻る。


19900324-8a2 5列座席がデフォルトの東海道・山陽新幹線だが、「グランドひかり」の1階指定席は4列シート。しかも座席にBGM装置が備えられており、持参のイヤホンを差せば利用できる。最近はスマホの普及でめっきり見かけなくなったが、当時新登場の特急列車で流行した装備だった。岡村孝子のアルバムと、先代三遊亭圓楽の「目黒の秋刀魚」を聴きながら約2時間、ノンストップで東京駅へ運ばれた。新横浜に停まる「ひかり」は少なく、品川駅もない時代である。2階建て車両も食堂車も新幹線からは姿を消して久しい。


 東京駅では長い通路を歩いて地下深くにある京葉線ホームへ。もともと貨物線として建設された京葉線は、国鉄末期の1986年に西船橋-千葉港が旅客開業、その後蘇我、新木場へ延長され、2週間前に東京駅へ乗り入れたばかりだった。「シャトルマイハマ」と名付けられた、急行型電車の改造車は、3両編成の車両ごとに座席の色や向きが変えられたリゾート列車。新木場の手前で地上に上がった列車は、東京から16分、ノンストップで終点の舞浜に到着。この駅ができるまでは、地下鉄東西線浦安駅からのバスが東京ディズニーランドへのメインアクセスだった。


1990tokyo1  舞浜駅前をさらりと眺めた後、府中本町行きの武蔵野線快速に乗り、西船橋で中央・総武線緩行電車に乗り換え。新宿から小田急線の電車で参宮橋へ向かい、当時私が所属していたレイルウェイ・ライター種村直樹氏の読者サークルの会合に参加した。私が九州へ向かう前に逆方向の東京を目指した理由のひとつである。


 遠路岐阜から初めて参加した私を、メンバーの皆さんが暖かく歓迎してくださり、調子に乗った私は、大人の皆さんに混じり二次会へ流れた。その日は1つ年上のメンバーTさんのご自宅に泊めていただけることになった。Tさんのご実家は東村山市。初対面の私ごときに大変情けの厚いことである。
 もう時効だからご容赦願いたいが、この夜、私はさらに調子に乗って酒を多量に飲み、酩酊した状態で西武新宿線に揺られた。すっかり具合の悪くなった私は、東村山駅前の自販機の陰で見事にもどす失態をやらかした。図々しいうえに身の程知らず、大変申し訳ないことをしたと今更ながら痛切に反省する次第である。


 続く。



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2020/05/04

令和最初のひとり旅【終点】例によって総括。

 これまでの経過はこちら。

 【本線1】 【本線2】 【本線3】 【本線4】
【支線1】 【支線2】 【支線3】 【支線4】 【支線5】 【支線6】 【支線7】 【支線8】
【脱線1】 【脱線2】


 さて、12月の4日間の旅を終えて、私は今年開業した新しい鉄道路線5路線17.4kmに乗車し、未乗路線のない、いわゆる「綺麗な体」で年を越せることになった。
 通算乗車距離は27,521.8kmである。2018年の完乗以降、関西電力のトロリーバス(扇沢-黒部ダム、6.1km)、JR北海道石勝線夕張支線(新夕張-夕張、16.1km)の廃止があるため、新たな路線に乗ったのに完乗当時より距離が減っている、という状態になっている。


 2020年に入り、3月、新たな路線が富山で開業した。富山駅を挟んで北側を走る富山ライトレール、南側を走る富山地方鉄道市内線のレールが、高架化されたJR富山駅の下で結ばれ、南北貫通運転が始まったのである。開業に先立つ2月、富山ライトレールは富山地方鉄道に移管されて一体運営されることになった。これによる新規開業距離はわずか0.1kmであるが、街の姿を大きく変える可能性を秘めた開業といえる。今年の新規開業路線はこの1区間だけの予定である。


 実は私はこの区間を乗るために、4月中旬に有給休暇を取って富山に行こうともくろんでいた。富山まで行くからには、もう20年以上ご無沙汰になっているJR氷見線城端線にも久しぶりに乗りたい。さらに言えば、3年前の秋、雨の中を駆け抜けた立山黒部アルペンルートの春の風物詩、雪の大谷ウォークも体験してみたい。金はないが夢は広がる。


 けれども、しがないサラリーマンにとってのささやかな楽しみは、新型コロナウィルスの襲来とともに吹き飛んだ。幸いわが社での感染者はまだ発生していないが、札幌では医療機関、介護施設、コールセンターとクラスターが立て続けに発生し、感染拡大は終息の気配を見せない。
 天気の良かった2日・3日には豊平川の河川敷に普段の週末を上回る人数が集まってバーべキューを楽しんでおり、鈴木北海道知事の怒りの緊急速報メールが飛んだ。


 私自身、この窮屈な連休のささやかな楽しみとして、自宅の庭で家族4人での焼肉を楽しんだので、あまり偉そうなことを言う立場にはないが、この状況下であえて見ず知らずの他人が集結する場所に足を運んで長時間を過ごす感覚は理解できない。加えて、その連中が残していったゴミの山の写真がSNSで拡散され、全国ニュースネタにもなった。ほんのひと握りの「自分たちだけなら大丈夫」という輩の行動は、医療や救急に従事する人々の努力、断腸の思いで店を閉めて再開の日を待つ経営者たちの気持ちを逆なでするだけでなく、多くの札幌市民の誇りを傷つけてはいないか。


 緊急事態宣言は月末まで延長され、禁足の状態は続く。連休に入っても新規感染者数は増え続ける札幌、この調子では収束などおぼつかない。時刻表やインターネットを観ながら過ごす悶々とした時間は、当分終わりそうにない。



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