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2024年1月

2024/01/29

2023 いい日旅立ち・西へ【6】寄り道・軍艦島への旅(2) 

 前回の続き


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 長崎港を出て10分ほどで、左手に香焼の造船工場を見ながら女神大橋の下をくぐる。大型船を通すために海面からはかなり高いところに架かる斜張橋である。
 狭く絞られた長崎湾を抜け出すと、右手に伊王島が見えてくる。厳密には沖之島・伊王島と二つの島からなるが、島と島の狭い部分を3本の橋がつないで一体化しており、遠目にもひとつの島のように見える。小高い丘の中腹には沖ノ島天主堂の白い塔が浮かぶように立っており、そのふもとから左手に向かってゆっくりと立ち上がる伊王島大橋が本土との間を結んでいる。

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 右手に高島の姿が近づいてきた。端島(軍艦島)とともに、三菱グループの炭鉱として栄えた島である。単行としての歴史は端島より長く、閉山は1986年のことである。軍艦島同様に炭鉱住宅などの跡が残っているということだが、現在もなお400人足らずの人々が暮らしており、海水浴場が整備され、シュノーケリングやカヤックなども楽しめる。防波堤で結ばれた隣の飛島は磯釣公園として整備されている。
 その高島の先に、中ノ島という小さな島があり、高島と中ノ島の間に、初めて小さく軍艦島の姿が見えた。


 ふつう海の上に浮かぶ島は、伊王島や高島、中ノ島がそうであるように、盛り上がった丘あるいは山を森林が覆っているものだが、この角度から見える軍艦島には、いわゆる「緑」が一切ない。そのことだけでもそこが特別な場所であることが窺える。
 手元のパンフレットなどによると、1800年代初めから佐賀藩の手によって小規模な採炭がおこなわれてきた端島は、明治時代に三菱資本下に入って以降急速に発展する。小さな島は1930年代にかけて順次埋め立てられて南北480m、東西120mの現在の形になり、採鉱施設や住宅などの人工物で島は埋め尽くされた。その姿が当時長崎造船所で建造中だった軍艦「土佐」に似ていたことから、大正時代にはすでに「軍艦島」の通称が新聞などで使われていたようである。


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 中ノ島を過ぎると軍艦島の全容を望むことができる。中央付近に盛り上がった丘の斜面にはわずかに木々の姿も見えるが、全体的に薄褐色の人工物に包まれている。遠目に見える建物は灰色に汚れ、ところどころが崩れている。その光景は無言の圧力を湛えているように私には感じられた。
 天気は変わらず良好で、波も穏やかで接岸、上陸に支障はなさそうである。島の南東部にある「ドルフィン桟橋」は、「桟橋」と呼ぶにはあまりに小さく、確かに少し波が高ければ接岸も難しいだろう。これが軍艦島への唯一の上陸経路である。


 続く。
 



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2024/01/21

2023 いい日旅立ち・西へ【5】寄り道・軍艦島への旅(1)

 前回の続き


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 長崎駅に降り立ったのは20年ぶり、4回目である。最初の1990年3月と次の1995年2月は三角屋根の駅舎、2003年の春に妊娠7か月の嫁を伴って乗り鉄に来た時には箱形の駅舎が迎えてくれたが、新幹線を迎え入れた今回は線路も高架化され、また装いを改めている。外へ出ると、高架のホームが見え、これと直交するように商業施設を取り込んだ新しい駅ビルが建っている。
 駅前の名物だった「高架広場」は、新たなペデストリアンデッキを設置するために解体工事が進められており、全く別の駅の印象になった。新幹線を迎え入れた街の意気込みが伝わってくるようである。


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 背中の荷物を駅のコインロッカーに預けて、長崎駅前から1系統崇福寺行きの電車に乗り、停留所2つ、大波止で下車。「ゆめたうん夢彩都」と名付けられた立派なショッピングモールの横を抜けて、長崎港ターミナルまでは歩いて5分ほどだった。今日はここから「軍艦島」を目指す。2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として世界文化遺産に登録された島で、正式名称を端島(はしま)という。10年余り前からテレビや各種メディアで紹介される機会が多く、一度は訪問してみたいと思っていた。自分で言うのもなんだが、私がこういう一般的な観光名所に強い興味を抱くのはきわめて珍しい


 軍艦島へ上陸できるのは許可を得たクルーズ船5社の旅客に限られている。各社とも、波の高さや視界などの条件を満たしていない場合は島に上陸することができず、周遊クルーズのみとなる。天気によっては運航そのものが中止になる場合もある。
 会社によっては参考資料として、過去の月別の運航率、上陸率をホームページに掲載している。意外なことに11月の上陸率は高く、期待は高いが、上陸率は高い月でも80%台後半から90%程度というから過度な期待は禁物である。


 私は各社のホームページ等を見て比較し、料金が4,000円と手頃であること、「じゃらん」経由で予約ができること、時間帯が良いこと、発着地が長崎駅から比較的近いことなどから、やまさ海運が運航する「軍艦島上陸クルーズ」を予約した。1日2回、午前と午後の出航で所要時間は2時間30分。午前は9時出航である。1本後の「かもめ3号」で長崎へ来ても間に合うのだが、定員制で自由席のクルーズ船で良い席を確保するために早い時間にやって来た。こういう時に限っては早起きをいとわない便利な体質である。


Dscn5443  ターミナル内の受付にはすでに10人ほどが並んでいた。予約の確認を受けて、軍艦島上陸に当たっての「誓約書」に署名。窓口へ移り、料金とともに軍艦島への上陸料310円を支払う。この上陸料は万一上陸できなかった際は払い戻される。
 パンフレットを受け取り、クルーズ船の乗り場へ向かう。抜けるような青空とはまさにこのことで、風もなく、上陸日和である。やはり頑張ったご褒美なのだろうと思う。ただし、出港してから波が高くなって上陸できなくなることもあるようで、油断は禁物である。ほどなく乗船開始となり、220名ほどが乗れるクルーズ船「サルベージュ」の2階席の右側、前から4列目あたりに陣取ることができた。


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 9時ちょうど、定員の8割ほどの客を乗せて、「サルベージュ」は長崎港を出港した。バックで出発し、出島岸壁を見送りながらくるりと180度向きを変えて、長崎湾を南西の方向に向かって進んでいく。進行方向右手には稲佐山の姿が見える。この山からの長崎湾の夜景は日本三大夜景にも数えられる絶景で、私も2度ほど堪能している。


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 さらに先に進むと、三菱重工長崎造船所が見える。1909年にスコットランドから導入されて今もなお現役で動く「ジャイアント・カンチレバークレーン」は、その奥にある「第三船渠」とともに、軍艦島と同じ世界文化遺産を構成する一部である。その少し先には立神工場のドックがあり、海上自衛隊の艦船が並んでいた。


 このドックは、湾を挟んで対岸の南山手の丘にあるグラバー園からも遠望できる。グラバー園もまた、同じ世界文化遺産の一部である。
 20年前の4月、身重の嫁とともにグラバー園から見た立神ドックでは、ちょうど大型客船の進水式が催されていた。この時の新船が「ダイヤモンドプリンセス」。もともとは姉妹船の「サファイアプリンセス」として建造されていたが、本家「ダイヤモンドプリンセス」の建造中の火災のために振り替えられて「ダイヤモンドプリンセス」となった。2020年に船内での新型コロナウイルス集団感染の舞台となったクルーズ船である。なかなかに感慨深い船出である。
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(2003.4.12 グラバー園より)


続く。




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2024/01/15

2023 いい日旅立ち・西へ【4】今回最大の大物・西九州新幹線

 前回の続き


 1973年、「全国新幹線鉄道整備法」に基づき、すでに開業していた東海道・山陽新幹線(東京-岡山)、工事中の山陽新幹線(岡山-博多)・東北新幹線(東京-盛岡)・上越新幹線(大宮-新潟)・成田新幹線(東京-成田 工事中止)に加え、5つのルートに新幹線鉄道を整備する計画が決定された。いわゆる「整備新幹線」である。


 当初、整備新幹線はすべて時速260kmの「フル規格」での建設が予定されていたが、国や国鉄の財政悪化を背景に整備計画は二転三転。新幹線規格の構造物を整備して在来線幅のレールを敷いて既存在来線と直通させる「スーパー特急」、既存在来線のレール幅を新幹線幅に拡幅して新幹線と直通させる「ミニ新幹線」などの方式による整備も検討された。結局2000年代に入り、フル規格での整備が決定し、東北新幹線(盛岡-新青森)、九州新幹線(博多-鹿児島中央)、北陸新幹線(高崎-長野-金沢)、北海道新幹線(新青森-新函館北斗)が続々と開業した。


Nishikyushu  九州新幹線・長崎ルートの武雄温泉-諫早が着工したのは2008年のことである。当初はスーパー特急方式により整備し、博多-武雄温泉は在来線を走行する計画だった。フル規格での整備に変更の上整備区間が長崎まで延長されたのは2012年だった。整備方針の決まらない新鳥栖-武雄温泉間は在来線との間で、車両側でレール幅に合わせて車輪の幅を変更する「フリーゲージトレイン」を導入して直通する構想もあったが、技術的な面から採用は断念され、武雄温泉駅での乗り換えを前提とした形に落ち着いた。こうして2022年9月に開業したのが、西九州新幹線である。


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 明けて11月26日、日曜日。まだ薄暗い中、ホテルを出て武雄温泉駅へ戻る。温泉街に近い北口は、県道にへばりつくように立派な駅舎がそびえており、道路を挟んで申し訳程度のロータリーがある。新幹線の始発駅とは思えない風情が漂っているが、反対の南口に回ると広々としたロータリーが整備されている。早朝のせいか人影は少ない。


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 7時03分発の西九州新幹線・長崎行き「かもめ1号」は、下り始発列車。7時台の始発はずいぶん遅い印象だが、博多6時発の特急列車を受けての設定である。武雄温泉から長崎への早朝着の需要はほぼないのだろう。ただし、途中の新大村からは6時台の始発列車がある。
 11番ホームに上がると、白いボディーの700S系新幹線電車がすでに入っていた。白いボディーの下部に赤いラインを入れた車両は、東海道・山陽新幹線でもおなじみの車両と同形式だが、塗装でずいぶん印象が違う。ボディーには「かもめ」と大きく書かれた文字が目立つ。


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 この列車は6時17分に長崎を出た「かもめ2号」の折り返し運用である。反対の10番ホームに、佐世保始発の特急「みどり(リレーかもめ)2号」がちょうど入って来た。この列車が「かもめ2号」を受けて7時55分に博多に着く。登場から30年以上が経つ783系電車だが、私が九州へ来るたびに塗装が変わっている。現在はオレンジ色に塗られて、これまた従来とは全く印象を異にしている。休日とあってか、乗り込む客の数はそれほど多くない。
 


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 「みどり(かもめリレー)2号」の発車を見送って列車に乗り込み、車内を観察してみる。自由席車と指定席車では座席の配列も異なり、2+3列でビジネスライクな自由席車と比べると、2+2列配置で木を用いたゆったりとした座席が並ぶ指定席車は、わずか30分余りの乗車にはもったいないような優雅さがある。乗客はまばらで、7時ちょうどに10番線に到着した787系電車の「リレーかもめ1号」からの乗り継ぎ客も数十人といったところである。早朝の列車なので仕方がないのかもしれないが、寂しい。


 7時03分、武雄温泉を定刻に出発した「かもめ1号」は、滑るように真新しい高架の線路を走っていく。その道中はトンネルに次ぐトンネルである。博多-鹿児島中央の九州新幹線もそうだったが、昨今の新幹線はトンネルだらけで景色を楽しむ暇もない。武雄温泉-長崎は実キロで66kmだが、およそ3分の2に当たる約41kmがトンネルである。それでも、嬉野温泉を通過し、新大村に差し掛かる手前でちらりと海が見えた。


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 新大村、諫早と停車し、終点の長崎には7時31分に到着。わずか28分である。列車から降り立った乗客は50人に満たなかったのではないか。2022年9月の開業から翌年3月までの西九州新幹線の輸送密度は5,882人/km/日。コロナ下での半年間の実績なので直接比較はできないが、北海道新幹線・新青森-新函館北斗の2倍弱の利用はある。ただ、JR北海道ならば岩見沢-旭川間と同程度の輸送密度しかなく、新幹線としては非常に心許ない。やはり博多へ直結してなんぼだという気がするが、新鳥栖-武雄温泉の工事は、佐賀県の反対もあって着工の見通しも立っていない。


 とりあえずこれで私は今回の旅最大の目的を達したのだが、この先、もう少し細かい作業が残っている。
 その話に達するのは、もう少し先になる。次回以降は箸休め

 



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2024/01/09

2023 いい日旅立ち・西へ【3】唐津から武雄温泉へ

 前回の続き


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 何もない西唐津から、16時21分発の唐津線佐賀行き普通列車に乗る。国鉄時代から40年あまり走り続けるキハ47形の2両編成で、ワンマン運転。唐津から西唐津へ来たのも同じ車両だったが、乗客も少なく、車内はなんともくたびれた雰囲気でわびしい。暖房の入った車内の天井では扇風機がカラカラと回っている。私はそれはそれで趣があっていいと思うが、日常使いの乗客からすればもう少し新しい車両を入れてほしいと思うのだろう。幾たびの改造を経ているものの、キハ47形の経年は最も新しいものでも40年を超えている。


Karatsu  唐津からは姪浜方面への筑肥線としばらく並走し、和多田のすぐ手前で右へ分岐する。唐津線側には駅はない。その先の山本からは伊万里方面への筑肥線が分岐する。ややこしい話だが、もともと筑肥線は博多と伊万里を結ぶ1本の路線で、唐津には入らず、東唐津(現在とは場所が異なる)でスイッチバックして山本へつながっていた。1983年の福岡市営地下鉄開業と時を同じくして、博多-姪浜、東唐津-山本が廃止され、現在の形が出来上がっている。
 その分岐点も山本からはかなり先で、唐津線だけにホームがある本牟田部をすぎても筑肥線はしばらく並走し、いったん左へ離れた後、唐津線をオーバークロスして右手へと別れていく。


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 沿線は河岸のわずかな平地に刈り取りの終わった水田が広がるのどかな風景である。ついうとうととして、気づくと小さな峠に差し掛かっていた。それを越えると、ローカル線には不釣り合いな立派な駅舎を持った多久。徐々に日が傾いて少しずつ暗くなっていき、唐津からちょうど1時間、17時21分に長崎本線との分岐駅、久保田に着く。駅前に居酒屋が1軒あるだけの小さな無人駅である。


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 17時29分発の普通電車で江北へ移動する。かつては肥前山口と名乗り、寝台特急やエル特急が長崎行きと佐世保行きに分割される交通の要衝だった。現在では朝の上り普通列車1本で併合作業があるのみである。窓口に駅員はいなかった。
 この駅にも33年前に降り立った記憶がある。当時はまだ出入口は現在の北口側だけで、古い駅舎が建っていた。橋上駅舎に建て替えられた現在、北口の前には「エキ・キタ」と名付けられたコンテナショップが8店舗ほど並んでいるが、この時間営業しているのは2軒だけで、人影はない。むしろ橋上駅舎になったのちに設置された南口側の方が立派なロータリーを持っており、駅付近こそ何もないが、200mほど歩くとぶつかる国道207号線の沿道には大きなイオンをはじめ店が並んでいる。


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 駅のホームで次々と行き交う特急列車を見送り、18時09分発の佐世保線早岐行き普通列車に乗る。電化区間にもかかわらずキハ47形ディーゼルカーの2両編成で、乗車率は3割ほどと空いている。すっかり暗くなった中を走り、立派な高架へ駆け上がると、18時31分、武雄温泉着。スマートフォンの地図をたよりに温泉街へ向かって7分ほど歩いたところにあるビジネスホテルに落ち着いた。フロントにマンガ本が大量に置いてあって部屋に持ち込めるようなので退屈しないのはいいとして、部屋に入ると実に煙草臭い。喫煙者の私がびっくりするのだから相当のものである。


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 ひと休みしてから、ホテルから徒歩3分ほどの武雄温泉へ向かう。朱塗りの屋根裏がライトアップされて赤く染まる楼門と、その奥に立つ新館は、いずれも1914年、東京駅と同じ辰野金吾の設計によるものだという。新館は現在は資料館になっており、いくつかある浴場のうち最もリーズナブルな「元湯」の入口は、楼門の左脇の小さな建物だった。
 500円払って入り、多くの入浴客で賑わう42度前後の「ぬる湯」に、おしゃべりしながらじっくりと浸かる。隣には「あつ湯」と呼ばれる浴槽があり、こちらは45度前後。数字以上に体感的には熱く、地元客が平然と肩まで浸かる中、私たち遠来の客は完全に熱湯コマーシャルのダチョウ倶楽部状態に陥った。
 



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2024/01/04

2024年の始まりに。

 当ブログを訪問していただいたみなさま、あけましておめでとうございます。
 このところ毎年「今年はブログをまじめに」云々と書いては途中で実行不可能となることが続いておりますので、今年はあえて書きません。私も本業もあれば当面守らなければならない家族もあるもので、どちらが優先かと言われれば答えはひとつしかありません。
 「ブログは鉄道旅行の次。」今年もよろしくお願いします。


 さて、2024年はのっけから大災害・大事故で幕を開けることになった。
 1月1日は石川県能登地方で震度7を記録する大規模地震が発生した。時が経過するにつれて被害の状況が徐々に明らかになってきており、4日夜の時点で亡くなられた方は84名、安否不明の方も179名おられるという。発生から3日以上が経過し、今日も何度か震度4の余震が起こる中、捜索活動が続けられ、ライフラインを確保するために尽力している方々がいる。被災された方々にお見舞いを申し上げ、亡くなられた方のご冥福と、安否不明の方々の無事、捜索や救護活動に当たられる方々の無事をお祈りする。


 その被災地に救援物資を運ぶための海上保安庁の航空機と、新千歳発羽田行きJAL516便が滑走路上で衝突、炎上というショッキングな事故が発生したのが翌日のことである。海保機は原形をとどめないほどに損傷して乗員6名のうち5名が亡くなられたが、炎上して胴体部分がほぼ焼け落ちたJAL機の300名以上の乗員・乗客は、客室乗務員の適切な判断・誘導と乗客の協力により全員の命が守られた。35年前に多くの犠牲者を出した日本航空の安全教育が垣間見える出来事と受け止めたのは私だけだろうか。助け出せなかったペットの扱いをめぐっていろいろと議論が交わされているがここでは触れない。


 X(Twitter)やYahoo!のコメントなどを見ていると、断片的な情報から原因を特定しようとする動きに対して、偏った世論が形成される恐れをたしなめるようなポストが目立っているのが印象的である。双方の機体から回収されたボイスレコーダーやフライトレコーダーの解析、関係者の聴取が進めばいずれ原因は判明する。原因が特定できなければ対策は講じられない。
 ネット上では、原因特定によって「特定の人に責任を負わせてはならない」というコメントも多かったが、原因が絞り込まれてくれば誰も無傷ということにはならない。大切なことはその当事者になった人たちを「吊るし上げる」ことではなく真の原因究明に向けて「協力を求める」ことだと思う。事故を起こしたくて飛行機を操る機長も管制官も存在しない。現実に事故が発生したことで彼らはすでにとてつもなく重い責任と後悔を背負ってしまったであろうことは想像に難くない。


 私は正月早々、下の息子と某家電店の初売にまだ暗いうちから並んで目当ての品をゲットし、有料駐車場の機械トラブルで駐車料金がロハになったささやかな幸運から「今年はいい年になる」と根拠のない期待を呑気に抱いていた。けれどもそんな気分は最初の2日間の出来事で吹っ飛んだ。
 とにかく、今年はいい年になってほしい。これは希望である



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