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2024年2月

2024/02/25

2023 いい日旅立ち・西へ【8】寄り道・軍艦島への旅(4)

 前回の続き。


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 第1見学広場の左手、南側には、第二竪坑坑口桟橋跡がある。軍艦島には4本の竪坑があったが、第二竪坑は閉山まで採掘が続けられ、端島炭鉱を支え続けた。ここで採掘された石炭は良質の原料炭で、海外からの輸入品に劣らない品質を保っていたという。周辺には多くの関連施設があったようだが、そのほとんどは崩壊し、当時の姿をとどめるべくもなく風化している。鉱員たちはここで1日8時間以上、海底の坑道で採掘作業を続けた。地上に出てくると鉱員たちは共同浴場に向かい汗を流した。鉱員浴場の浴槽はいつも真っ黒だったという。


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 しっかりと整備された見学通路を歩いて第2見学広場へ移動する。正面に、この島では珍しい赤レンガの遺構が残っている。ここは総合事務所の跡である。端島炭鉱の中枢ともいうべき場所で、常時70~80人の社員がいて炭鉱作業の指揮命令をとっていた。周辺に連なるいくつかの建物がまだ形をとどめてはいるが、当時はもっとたくさんの建物があったはずである。総合事務所の建物も、裏側では補強がおこなわれているという。


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 その事務所の前をコンクリートの通路のような躯体が横切って、島の西側へと伸びている。これはドルフィン桟橋と居住地域を結ぶ唯一の通路であった地下トンネルとのこと。こちらはまだ生きているのだとか。
 事務所の奥、丘の上には、灯台と並んでコンクリートの貯水槽が建っている。最盛期の端島にはまだ水道設備がなく、定期的に本土から給水船が運んだ水がこのタンクに蓄えられ、落差圧で共同水栓に供給された。住民は「給水券」と引き換えに水を受け取っていたという。1957年に海底水道が開通したことで取水制限はなくなったが、幹部住宅以外の鉱員住宅に浴室が設けられることはなかった。


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 第3見学広場まで来ると、島の西側に位置する住宅群のうち、30号棟・31号棟が間近に見えた。7階建ての30号棟は、1916年に建築された、日本最古の高層鉄筋コンクリート住宅といわれている。140戸の鉱員住宅はロの字型で、中央部は吹き抜けになっていた。
 そこから岸壁に沿うような形で細く伸びる6階建ての31号棟も鉱員住宅であるが、こちらは1957年建築。1階には郵便局や公衆浴場、理美容院などもあった。水道の整備は遅かったが島内の電化は早くに完成し、当時は高級品だったテレビも多くの家庭が備え付けていたというから、島民が生活に困ることがないよう、当時としては比較的高い水準のインフラ整備が進められていたことがわかる。


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 30号棟は建築学的に見てもきわめて貴重な史料価値のあるものだというが、コンクリートの躯体は長年の海水や強風で劣化が進んでいる。むき出しになった鉄骨は錆が進行し、令和2年3月の強風で建物の中央部が大きく崩落したとのこと。パンフレットの写真とは形が異なっている。
「先日もお客様がご覧になっている目の前で崩れたことがあります」とガイドの女性が言った。一瞬見物客がしんとなった瞬間である。
今日の軍艦島は今日だけのものです。次にお越しの際は、きっと形が変わっていると思います
 そう続けたガイドの言葉が印象的だった。



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2024/02/12

2023 いい日旅立ち・西へ【7】寄り道・軍艦島への旅(3)

 前回の続き


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 軍艦島への上陸は2班に分かれて行われる。乗船手続の際、私を含めて早い組はシールタイプのワッペンをもらっているが、これを持っている組がまず最初に上陸する。下船前には、軍艦島にはトイレがないため、事前に済ませていくよう案内が流れる。ドルフィン桟橋の小さな船着き場には簡易的な階段型の梯子がかけられ、順序良くそこから降りていく。各班ごとに付いたガイドの案内に従って島の内部へと進んでいく。
 

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(長崎市パンフレットより)

 トンネルのような小さな建物をくぐって島の中央部に向かって歩く。褐色の廃墟のように見えた島の山腹には、わずかな草木が茂っている。崩れたコンクリートの残骸を眺めながら、「第1見学広場」へ出た。軍艦島の老朽化した建物に近寄れば危険も伴うことから、見学者のルートは島の南部220mほどの見学通路と、途中に設けられた3か所の見学広場に限定されている。
 配布されたパンフレットを見ると、北東から南西方向に細長い島は、おおよそ南側半分が採炭施設群、北側半分が居住・生活エリアとなっており、軍艦島の象徴的な存在である高層住宅などは見学広場から遠巻きに眺める形になる。


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 第1見学広場から北側を眺める。採炭施設の多くは閉山時に解体されたかその後崩壊して残っていないが、貯炭場であった場所を縦貫するように高架の橋脚のようなものがずらりと並んでいる。これは貯炭ベルトコンベアーの跡である。
 軍艦島の地下炭鉱は、島の地下から海底に向かって伸びており、深いところでは海面下1,100mにも達する。ここで採鉱された石炭は竪坑を経て地上に運ばれて精選される。これがコンベアによって貯炭場へ運ばれるのである。といっても残っているのは橋脚だけであり、その作業の全容をつかむためには相当の想像力が必要になる。


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 コンベアー跡の奥には、7階建ての大きな建物が見える。これは端島小中学校跡である。建設は1958年と比較的新しい。下層階が小学校、上層階が中学校だったとのことだが、エレベーターなどはなく、子供たちは階段でこの建物を駆け上った。以下にも学校らしい窓の形状に面影が残るが、屋根は部分的に落ち、くすんだコンクリートは一部がはがれている。それでも比較的形を保っているのは経年が浅いためだろう。
 1970年には隣接する体育館も完成している。ただ、のちに触れるが端島炭鉱の閉山は1974年であるから、学校本体は16年、体育館はわずか4年の施設であった。


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 学校の左隣が65号棟で、太平洋戦争のさなか、1945年に建設された鉱員住宅である。北・東・南の3棟構成で、最も多くの住居を持った建物である。この場所から見えるのは東棟になる。そこからさらに左へ目を移し、丘の上にある3号棟も住宅だが、65号棟と比べても間取りが大きいのがわかる。これは幹部職員用で、鉱員住宅が6畳1間で共同浴場の中、各居室に風呂がついていた。砿長になるとそれとは別に木造2階建ての戸建て住宅があてがわれていたようである。このあたり、小さな島の中でのヒエラルキーが如実に表されている。決して気分のいいものではないが、それもまた歴史の一部である。


 続く。
 



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