2023 いい日旅立ち・西へ【7】寄り道・軍艦島への旅(3)
前回の続き。
軍艦島への上陸は2班に分かれて行われる。乗船手続の際、私を含めて早い組はシールタイプのワッペンをもらっているが、これを持っている組がまず最初に上陸する。下船前には、軍艦島にはトイレがないため、事前に済ませていくよう案内が流れる。ドルフィン桟橋の小さな船着き場には簡易的な階段型の梯子がかけられ、順序良くそこから降りていく。各班ごとに付いたガイドの案内に従って島の内部へと進んでいく。
(長崎市パンフレットより)
トンネルのような小さな建物をくぐって島の中央部に向かって歩く。褐色の廃墟のように見えた島の山腹には、わずかな草木が茂っている。崩れたコンクリートの残骸を眺めながら、「第1見学広場」へ出た。軍艦島の老朽化した建物に近寄れば危険も伴うことから、見学者のルートは島の南部220mほどの見学通路と、途中に設けられた3か所の見学広場に限定されている。
配布されたパンフレットを見ると、北東から南西方向に細長い島は、おおよそ南側半分が採炭施設群、北側半分が居住・生活エリアとなっており、軍艦島の象徴的な存在である高層住宅などは見学広場から遠巻きに眺める形になる。
第1見学広場から北側を眺める。採炭施設の多くは閉山時に解体されたかその後崩壊して残っていないが、貯炭場であった場所を縦貫するように高架の橋脚のようなものがずらりと並んでいる。これは貯炭ベルトコンベアーの跡である。
軍艦島の地下炭鉱は、島の地下から海底に向かって伸びており、深いところでは海面下1,100mにも達する。ここで採鉱された石炭は竪坑を経て地上に運ばれて精選される。これがコンベアによって貯炭場へ運ばれるのである。といっても残っているのは橋脚だけであり、その作業の全容をつかむためには相当の想像力が必要になる。
コンベアー跡の奥には、7階建ての大きな建物が見える。これは端島小中学校跡である。建設は1958年と比較的新しい。下層階が小学校、上層階が中学校だったとのことだが、エレベーターなどはなく、子供たちは階段でこの建物を駆け上った。以下にも学校らしい窓の形状に面影が残るが、屋根は部分的に落ち、くすんだコンクリートは一部がはがれている。それでも比較的形を保っているのは経年が浅いためだろう。
1970年には隣接する体育館も完成している。ただ、のちに触れるが端島炭鉱の閉山は1974年であるから、学校本体は16年、体育館はわずか4年の施設であった。
学校の左隣が65号棟で、太平洋戦争のさなか、1945年に建設された鉱員住宅である。北・東・南の3棟構成で、最も多くの住居を持った建物である。この場所から見えるのは東棟になる。そこからさらに左へ目を移し、丘の上にある3号棟も住宅だが、65号棟と比べても間取りが大きいのがわかる。これは幹部職員用で、鉱員住宅が6畳1間で共同浴場の中、各居室に風呂がついていた。砿長になるとそれとは別に木造2階建ての戸建て住宅があてがわれていたようである。このあたり、小さな島の中でのヒエラルキーが如実に表されている。決して気分のいいものではないが、それもまた歴史の一部である。
続く。
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