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2024年3月

2024/03/24

2023 いい日旅立ち・西へ【12】28年ぶりの島原鉄道

 前回の続き。


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 喜々津で新線と合流し、14時07分、諫早着。28年ぶりに降り立った諫早駅は、西九州新幹線を迎え入れて見事に改装されており、かつての姿が思い出せないほどである。新幹線が来ると、駅舎が街に不釣り合いなほどに大きく立派になるのはいずこも同じである。島原鉄道の乗り場は、JRの改札につながる自由通路と出口の間、中2階のような場所に設けられていた。


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 島原鉄道沿線から熊本方面へは、「雲仙・有明スローラインきっぷ」を使用した。島原鉄道のきっぷとフェリーのきっぷがセットになった片道用の割引きっぷで、2024年3月31日までの発売。有明フェリー・多比良-長洲利用の「A」、九商フェリー・島原-熊本利用の「B」、やまさ海運・島原-三池利用の「C」の3種類がある。このうち「C」のルートは28年前に利用しており、明日の行程も考慮して、「B」ルートを利用することにした。料金は2,180円と、普通に買うより250円お得である。


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 諫早から島原港へ直通する列車は14時48分発としばらく時間があり、とりあえず14時29分発の本諫早行きで先行してみた。車内いっぱいに、かつて島原鉄道を走った1号機関車の写真やイラストがあしらわれたディーゼルカーである。1号機関車は、1872年、新橋-横浜開業時に導入された最初の機関車で、1911年に開業した島原鉄道に払い下げられ、1930年に引退した。現在は大宮の「鉄道博物館」に展示されている。日本の鉄道のみならず島原鉄道の創生期を担った由緒ある車両である。母親に連れられた小さな子供が、珍しいものに出会ったように眺めまわしている。


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 7名ほどの客を乗せて諫早を出発した列車は、長崎本線と別れて、すぐに雑木林の中に入る。それを抜けると本諫早に着いた。たった1駅、わずか3分の列車である。ホームは2面あるが、駅舎に近い側に着いた列車はほどなく諫早へ向かって折り返す。ちゃんと駅員がいる改札を抜けると,小さなロータリーの先の道路は往来が多い。近くに「諫早市役所」の看板が出ており、諫早市の中心部は諫早駅よりこちらの方が近いようである。その割に、駅近くにコンビニなどの姿はなく、次の列車までの時間を過ごすのに難儀した。

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 14時52分発の島原港行き列車は、先ほどの車両と同じ「1号機関車」のディーゼルカー1両で現れた。わずかな時間に一駅区間を1往復して稼いできたらしい。とはいえ、先ほどの諫早からの列車も、折り返し諫早に向かった列車も乗客は数えるほどだったし、「稼いできた」かどうかは微妙である。ただし、島原港行きの列車は、座席がほぼ埋まるくらいの乗り具合にはなっていた。
 列車は諫早湾の干拓地を走る。農地が広がり、真っ平らな印象である。こまめに駅に止まるが、乗り降りは少ない。森山で「鯉駅長 さっちゃん号」のデザインをまとった上り列車と行違う。島原鉄道のキャラクターらしい。


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 吾妻を出た先で、ようやく諫早湾が線路に近づいてきた。ここから海岸線をつかず離れずで走っていく。神代ですれ違った上り列車は、「マモル号」のヘッドマークを付けていた。地元の島原新聞社がスポンサーになっているらしく、「マモル」は記者から社長を務めた清水真守氏がモチーフとのこと。公称15,000部の小さな地域紙で、清水氏は奥様の実家を継いだ形だそうだが、地元の情報通であり、雲仙普賢岳の噴火報道に際して全国紙の記者やフリーライターに大きな影響を与えたという。防災インフラ整備にも尽力されたが、2018年に63歳の若さで急逝している。


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 長洲へのフェリーの乗換地だが小さな駅である多比良(たいら)を過ぎて、二つ目が大三東(おおみさき)。「日本一海に近い駅」と呼ばれる駅はあちこちに存在するが、ここもそのひとつ。諫早湾に最も近い駅である。最近ではキリンレモンのCMで有名になった。停車時間が短く、残念ながらホームに降りることはできなかったが、「鉄道むすめ」のキャラクターが描かれた駅名標の向こうの干潟と、ホームにはためく黄色いハンカチの姿だけは窓から眺めることができた。


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 島原市の中心に近い島原で、車内に残っていた大半の乗客が下車。車両基地のある島原船津を過ぎて、16時08分、島原港に着いた。単線のホームに降りると、小さな待合室だけの駅舎があった。隣接して立派なパチンコ屋が建っており、仮住まいのようなわびしい風情である。
 28年前の1995年、まだ島原外港駅と名乗っていた時代には、おんぼろながらももう少しちゃんとした駅舎があり、乗車済みの切符を記念に持ち帰りたいとおばさん駅員に申し出たら「それはできません」とすげなく断られ、たいそう立腹した記憶がある。
 

 28年前のその日も、島原外港駅は終着駅だった。当時、島原鉄道線は島原半島をさらに南西へ下った加津佐まで伸びていたが、1991年から再三にわたる雲仙普賢岳からの火砕流、土石流により運休と復旧を繰り返し、1993年4月の大規模土石流により島原外港-深江が長期運休のさなかにあった。
 この区間は高架化の上1997年4月に復旧するが、乗客の減少に伴う経営悪化により、2008年に島原外港-加津佐35.3kmは廃止となり、島原外港駅は名実ともに終着駅となった。島原外港駅のおんぼろ駅舎は2010年に失火によって焼失しており、2019年には島原港駅と名を改めた。28年間は島原鉄道の姿を大きく変えたが、昨今の地方鉄道の趨勢を見るに、むしろまだ鉄道が健在であることを喜ばなければならないのかもしれない。


 続く。



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2024/03/17

2023 いい日旅立ち・西へ【11】もうひとつの長崎本線

 前回の続き。


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 長崎市内へ戻り、中島川方面へ向かって10分ほど歩き、ネットで調べた小さな食堂に入ってちゃんぽんを食べる。店内は地元民・観光客入り乱れてほぼ満席の状態。奥のテーブルでは私より少し年上くらいの男性が5人くらいで昼間からずいぶん盛り上がっている。高校時代の同級生らしく、久々に帰って来た友達を囲む地元の仲間といった雰囲気である。
 私がちゃんぽんを食べていると、店員の「相席お願いします」の声とともに、爺さんがひとり、ちょこんと私の前に座った。爺さんは熱燗2合と刺身を注文し、手酌でちびりちびりとお猪口を口に運ぶ。私はあまり酒に強くない方だが、実にうまそうに見える


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 路面電車に乗って長崎駅に戻り、在来線ホームに上がる。新幹線ホームと同様の高架式に改められたホームは、外の光をふんだんに取り入れる屋根に覆われて非常に明るい。そのホームに、これまた近代的な2両編成の列車が2本、停まっている。YC1系と呼ばれるハイブリッド車両で、変わった形式名称は「やさしくて ちからもち」の略だとか。一瞬電車と見まがうようないでたちだが、区分上はディーゼルカーである。奥のホームにさらに1本、こちらは4両編成のYC1系が入って来た。こちらは折り返し、13時03分発の佐世保行き区間快速「シーサイドライナー」になる。西九州新幹線と引き換えに、長崎本線の肥前浜-長崎は電化設備が撤去されて非電化区間になっている。


 その「シーサイドライナー」を見送り、13時12分発の諫早方面、長与経由大村線竹松行きの普通列車に乗る。諫早に着くのは「シーサイドライナー」の方が40分近くも早いが、わざわざこちらを選んだのは、「シーサイドライナー」とこの普通列車が諫早までに通過する線路が異なるからである。


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 長崎本線は、諫早と長崎の間(正確には喜々津と浦上の間)で線路が二股に分かれている。私がこれから行く長与経由は「旧線」とも呼ばれ、1972年に市布経由の「新線」が開業するまでは、すべての列車が長与経由で運転されていた。新線はこの区間をトンネルでショートカットしており線形もよい。快速「シーサイドライナー」や往年の特急はすべて新線経由にあり、私はこの区間を1990年以来これまで3回ほど往復しているが、長与経由の旧線に乗ったのは一番最初の1回だけ、それも夜の列車であった。


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 竹松行き普通列車も2両編成のYC1系。ロングシートに6~7割ほどの乗客が座っている。発車してすぐ、キハ47形ベースの特急「ふたつ星4047」とすれ違う。この列車も長崎に着くと長与経由で折り返していくのだが、発車は14時53分。先を急ぐので今回は我慢である。
 浦上の先で線路は二手に分かれ、複線だった線路が単線になる。右へ分かれた新線はすぐにトンネルに突っ込む。こちらはゆるやかに登りながら地上を走る。しばらくは長崎市郊外の住宅街が続く。13時28分着の長与で半分以上の客が降りていった。列車行き違いのため10分ほど停まる。降車客がそれぞれに散っていくと、静かで穏やかな時間が流れた。


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 長与からは景色が一変してのどかな田園風景となり、本川内を過ぎると雑木林の中に入って小さなサミットを越える。その先に海が見えた。海なし県に生まれ育った身としては、それが平凡な海でも心が躍るような感覚になる。山間には時折果樹園が見えた。この辺りは伊木力みかんの産地である。大草から東園と、対岸の大村市を眺めながら、大村湾に丹念に沿ってのんびりと列車は走っていく。ロングシートの車両は景色を見るには不向きだが、空いているのをいいことに斜めに腰掛け、窓からの景色を十分に楽しんだ。


 ようやくいつもの私の鉄道旅のペースに戻ってきたようである。
 

 続く。



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2024/03/10

2023 いい日旅立ち・西へ【10】寄り道・軍艦島への旅(6)

 前回の続き


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 軍艦島の名の由来が、軍艦「土佐」であることは以前にも書いたが、並べてみてみると確かに雰囲気はある。丘の上に立つ建物群が操舵室や煙突のように立ち上がり,青空に浮かぶ白い雲がちょうど煙のように見える。もともとは岩礁に近い小さな島だったものが、1900年代初めに拡張が繰り返されて3倍の面積になり、昭和に入って高層建築物が増加していった結果、より軍艦に近いフォルムになっていったように思われる。
 ただし本家の「土佐」は、第一次世界大戦後の軍縮によって、進水はしたものの戦艦としての役割を果たすことなく、各種兵器の実験船(標的船)となり、進水からわずか3年3か月後に自沈することになる。


 炭鉱としての端島の歴史は、1974年に終わりを迎える。石炭から石油へのエネルギー転換による採算悪化が定説とされているが、端島炭鉱は良質な原料炭を産出することからその影響をあまり受けておらず、閉山の年まで黒字経営を続けた。採鉱の合理化など、エネルギー転換の影響と全く無縁だったわけではないが、当時の技術のもとで安全に採掘できる石炭を「掘り尽くしたためというのが正しいらしい。
 1973年に親会社から廃鉱の提示がなされ,同年末で端島炭鉱の採炭は終了した。炭鉱以外の産業を持たない軍艦島に住民が残ることはかなわず、翌1974年4月までのわずか数か月で、最後まで島に残った2,000に人ほどの住民すべてが離島し、端島は無人島となった。


 端島の落日は、同じように石炭に翻弄された夕張の最も奥、大夕張(鹿島)地区のそれと重なるものがある。同じ三菱系の炭鉱を抱え、最盛期には2万人近い人口を擁して栄えた大夕張は、端島と同時期に炭鉱としての役目を終えた。私が大夕張を訪れた1994年には、地区の人口は500人まで減少して寂寥としていたが、郵便局などのインフラはかろうじて残っていた。
 大夕張はシューパロダムの建設に伴って1998年に無人となり、2014年にダムの底に沈んだ。端島はその姿を残したまま朽ちつつある。どちらが幸せかはわからない。けれども、ふたつの街の姿は、私にある種の文明の終着点のようなものを感じさせた。


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 2001年に三菱から自治体に無償譲渡された端島は、2009年から観光客の受け入れを開始した。世界文化遺産となったこの島の姿を保全すべく,補改修工事が進められているが、すべての建物を守るためには数百億円の費用がかかることから,取捨選択を迫られている。
 次に訪れる機会があるかどうかはわからないが、ガイド氏の言葉どおり、次に出会う軍艦島は今回の軍艦島とはまた違う景色になるのだろう。それはどこの観光地に行っても,どこの列車に乗っても同じことなのだけれど、年月の経過とともに風化していくという変化はとても重いものに感じられた。


2023west002  島の周囲を眺めた後、クルーズ船は長崎港への帰途についた。行きと同じように高島の脇を通り、三菱造船所を眺めながら湾内に入っていったのだが、軍艦島の姿をみた後にあらためて眺めるとまた違った歴史の重みを感じるような気がした。
 11時30分、クルーズ船は長崎港に帰着した。下船時には船員から、日付の印が押された「上陸証明書」が手渡された。それ自体が決してありがたいものではないはずなのだけれど、近代産業史の断片に触れるという経験は、確かに貴重なものだったと思う。



 端島,通称軍艦島。写真だけではわからない空気感を体験するために、一度は訪れてほしい場所である。




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2024/03/03

2023 いい日旅立ち・西へ【9】寄り道・軍艦島への旅(5)

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 前回の続き


 前にも書いたが、軍艦島へは通常5社のクルーズ船が1日1便ないし2便を運航している。軍艦島の船着き場はドルフィン桟橋1か所だけだから、上陸は交代で行われることになる。したがって1便当たりの上陸時間はおよそ40分。2班に分かれている我がクルーズの場合は、1班およそ30分で撤収となる。後ろ髪を引かれる思いだが、そろそろ船に戻る時間となり、ぞろぞろと来た道を引き返す。


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 途中、軍艦島を囲う護岸の上に、釣り人の姿があった。そういえば上陸前、桟橋の跡と思われるコンクリートの上にもいた。この人たちはどのようにして島に来ているのだろうかとふと疑問に思い、ガイドに聞いてみた。一般の釣り船でここまでやって来るのだという。護岸までは釣り人が登ってもセーフなのだが、中へ入ると罰せられるとガイドが教えてくれた。自宅に帰ってから調べると、漁業権との兼ね合いで諸々経緯があったようで、現在は護岸の外側の構造物までは条例上認められているらしい。けれども護岸のはどうやらグレーゾーンのようである。


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 島に上陸した時にくぐったコンクリートのトンネルを再び通り、ドルフィン桟橋へと向かう。トンネルの中ほど、右側に、格子でふさがれた小さなトンネルの入口があった。これが先ほど総合事務所の前を横切り30号住宅方面へ伸びていた地下トンネルの入口だったのかと気付く。
 船に戻り、今度は進行方向左側に陣取る。後ろの班の到着を待って出航。着岸してからわずか40分余りであるが、ずいぶん長い時間を過ごしたような気分になっている。


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 クルーズ船が出航すると、正面から別の会社のクルーズ船の姿が見えた。これから上陸するのであろう。こちらは軍艦島を右手に見ながら時計回りにゆっくりと島の北西端あたりまで進んだ。正面に見える中ノ島は、端島からおよそ700mほど離れており、明治初期には採鉱も行われていたが、条件の悪さから早々に閉山となり、端島住民の公園として整備された。「島内に何でもある」と言われた端島になかったたった二つの施設、火葬場墓地(納骨堂)もこの島には設けられていた。端島炭鉱の閉山とともに中ノ島も無人となり、上陸はできない。


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 船はここでUターンし、私の座る進行方向左側に軍艦島を遠巻きに見ながら、今度は反時計回りに3分の2周ほどして長崎港へと戻る。まずは島の北端に位置する建物群をほぼ正面から眺める。一番左のやや白っぽい建物が先ほど陸上からも見た端島小中学校。最上階の崩れた姿が先ほどよりはっきりと見える。その隣にコの字型の65号棟の北棟、さらに右が4階建ての67号棟(単身住宅)である。65号棟の手前側の4階建ての建物は端島病院(69号棟)で、隣接する白い2階建ての建物(69号棟)は、島内での赤痢の流行を背景に設けられた隔離病棟である。端島病院の設備は総合病院に匹敵するものだったといい、医療水準も先端だったようである。


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 67号棟から連なる鉱員住宅の奥、丘の上に見えるのは、端島神社である。拝殿は倒壊してしまい、それより一段高いところにあった祠だけが残っている。その麓にも住宅が並ぶ。海岸に近い左の51号棟と右の48号棟、その奥の16号棟から20号棟まで連なる鉱員住宅の間の細い道路は「端島銀座」と言われ、高島などからやって来た行商人が店を開くなど賑やかだったようである。
 

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 48号棟の地下にはパチンコ店雀荘があり、48号棟と先ほど第三見学広場から見た31号棟の間には「昭和館」という映画館(50号棟)もあった。2階建ての建物は下層の骨格だけが残っているが、護岸に阻まれて海上からは見えない。比較的建築年次の新しい31号棟は、その昔鉱員向けの遊郭のあった場所に立てられたものだとという。
 「昭和館」の内陸側には、もはや原形をとどめていないが木造の「泉福寺」があった(23号棟)。一応禅宗の寺院だったそうだが、党内唯一の寺ということで、「全宗」と称していたらしい。ガイド氏の談であるが、いよいよなんでもある島である。


 端島は地理的に台風の被害を受けることが多く、時には高い波が防波堤を超えて島の中に飛び込んだ。特に西側の一帯は「潮降町」の異名もあった。生活環境としては非常に厳しく、時に外部との往来もままならなくなる端島では、島内で完結できるだけの生活インフラの整備が不可欠だった。それをより高い水準で目指したからこそ、過酷な労働である炭鉱に労働者が集まったのだろうと思う。
 島の人口は最盛期に近い1960年で5,267人。人口密度にして東京都の17.5倍に及んだ。私のごとき部外者がわずかな知識と情報だけを頼りに断じるわけにはいかないが、危険と背中合わせの一方で、その家族たちは活き活きと暮らしていたのだろう。残された映像や写真の中の島の人々の表情には、そう思わせるだけのものがある。



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