2023 いい日旅立ち・西へ【10】寄り道・軍艦島への旅(6)
前回の続き。
軍艦島の名の由来が、軍艦「土佐」であることは以前にも書いたが、並べてみてみると確かに雰囲気はある。丘の上に立つ建物群が操舵室や煙突のように立ち上がり,青空に浮かぶ白い雲がちょうど煙のように見える。もともとは岩礁に近い小さな島だったものが、1900年代初めに拡張が繰り返されて3倍の面積になり、昭和に入って高層建築物が増加していった結果、より軍艦に近いフォルムになっていったように思われる。
ただし本家の「土佐」は、第一次世界大戦後の軍縮によって、進水はしたものの戦艦としての役割を果たすことなく、各種兵器の実験船(標的船)となり、進水からわずか3年3か月後に自沈することになる。
炭鉱としての端島の歴史は、1974年に終わりを迎える。石炭から石油へのエネルギー転換による採算悪化が定説とされているが、端島炭鉱は良質な原料炭を産出することからその影響をあまり受けておらず、閉山の年まで黒字経営を続けた。採鉱の合理化など、エネルギー転換の影響と全く無縁だったわけではないが、当時の技術のもとで安全に採掘できる石炭を「掘り尽くしたため」というのが正しいらしい。
1973年に親会社から廃鉱の提示がなされ,同年末で端島炭鉱の採炭は終了した。炭鉱以外の産業を持たない軍艦島に住民が残ることはかなわず、翌1974年4月までのわずか数か月で、最後まで島に残った2,000に人ほどの住民すべてが離島し、端島は無人島となった。
端島の落日は、同じように石炭に翻弄された夕張の最も奥、大夕張(鹿島)地区のそれと重なるものがある。同じ三菱系の炭鉱を抱え、最盛期には2万人近い人口を擁して栄えた大夕張は、端島と同時期に炭鉱としての役目を終えた。私が大夕張を訪れた1994年には、地区の人口は500人まで減少して寂寥としていたが、郵便局などのインフラはかろうじて残っていた。
大夕張はシューパロダムの建設に伴って1998年に無人となり、2014年にダムの底に沈んだ。端島はその姿を残したまま朽ちつつある。どちらが幸せかはわからない。けれども、ふたつの街の姿は、私にある種の文明の終着点のようなものを感じさせた。
2001年に三菱から自治体に無償譲渡された端島は、2009年から観光客の受け入れを開始した。世界文化遺産となったこの島の姿を保全すべく,補改修工事が進められているが、すべての建物を守るためには数百億円の費用がかかることから,取捨選択を迫られている。
次に訪れる機会があるかどうかはわからないが、ガイド氏の言葉どおり、次に出会う軍艦島は今回の軍艦島とはまた違う景色になるのだろう。それはどこの観光地に行っても,どこの列車に乗っても同じことなのだけれど、年月の経過とともに風化していくという変化はとても重いものに感じられた。
島の周囲を眺めた後、クルーズ船は長崎港への帰途についた。行きと同じように高島の脇を通り、三菱造船所を眺めながら湾内に入っていったのだが、軍艦島の姿をみた後にあらためて眺めるとまた違った歴史の重みを感じるような気がした。
11時30分、クルーズ船は長崎港に帰着した。下船時には船員から、日付の印が押された「上陸証明書」が手渡された。それ自体が決してありがたいものではないはずなのだけれど、近代産業史の断片に触れるという経験は、確かに貴重なものだったと思う。
端島,通称軍艦島。写真だけではわからない空気感を体験するために、一度は訪れてほしい場所である。
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