1995年・最後の長い汽車旅【5】磐越西線をたどる
前々回の続き。
船室に一斉に明かりが灯ったのは、朝5時前。それで目が覚めた。にわかに船内の人の動きが慌しくなった。
5時半、およそ19時間の航海を終えた「フェリーしらかば」は新潟港に到着、下船となる。小樽よりひと回り以上小さいフェリーターミナルを出ると、小粒の雪がしんしんと降っている。それほど気温が低くないのか、道路に落ちた雪はすぐに溶け、路面は濡れた状態になっている。
新潟駅までは3kmほどで歩けない距離ではないが、私はタクシーに乗った。新潟駅までは10分ほどだった。
新潟発6時29分の磐越西線の津川行き普通列車は、キハ40系と呼ばれる旧国鉄型ディーゼルカーの2両編成。キハ40系は近年急激にその数を減らしているが、この時期は全国の非電化区間ならどこにでもいた。国鉄時代に「タラコ色」に統一されていた塗色はJRになって地方ごとに塗り替えられ、ここの車両は白・紺・赤を配した「新潟色」になった。前寄りのキハ40形は片引きドアのデッキ付き、後ろ寄りのキハ47形は両引きドアのデッキなしと、細部に違いがある。キハ40形が喫煙車になっているが、6時52分着の新津までは新潟近郊の禁煙区間、その後7時から通勤通学時間帯の禁煙タイムになっており、喫煙可能な時間は8分間だけである。いっそ全車全区間禁煙の方がすっきりするのに、と思う。
新潟に向かう通勤・通学と逆方向のせいか、さほどの混雑ではなかった。乗客の中心だった通学生があらかた下車した東下条あたりから、工事中の高架橋が見え隠れし始めた。「磐越自動車道」と書かれたイラスト入りの看板が掲げられている。この当時、高規格道路は幹線区間の供用をほぼ開始して、ローカル鉄道線の独壇場であった地方にまで入り込み始めた。この区間に当たる安田IC-津川IC間が開通したのが翌1996年で、1997年には西会津IC~津川間の供用開始により、磐越東線・磐越西線に沿って走る磐越自動車道は全線開通となり、鉄道の凋落は加速した。
終点の津川は、駅が川を挟んで町の対岸にある。会津若松方面の列車まで1時間余りあるが、朝8時ではまだ町が営みを始めておらず、ストーブが燃えている待合室で煙草を吸いながら待つ。同じ列車で到着した何人かの高校生が、ほどなくやって来たバスに吸い込まれると、あとは地元のおばさんが数人、ストーブの周りを囲んで、時折、ちらりちらりとこちらを見やる。どうにも居心地がよくない。
8時40分頃、大きな荷物を残して待合室を出る。雪は上がっており、阿賀野川に架かる橋を渡って、信号を左折。これが津川町(現:阿賀町)のメインストリートのようである。20分弱歩いた通りの左手に、ちょうど営業開始したばかりの津川郵便局を見つけて旅行貯金をする。昨日立ち寄った小樽桜町郵便局でもしているので、この旅2局目の旅行貯金になる。
⇒旅行貯金とは?
津川郵便局を出て駅方向に少し戻ると仲町バス停があり、ちょうど津川駅行きのバスがやって来た。「新交貸切バス」と書かれたバスに他に乗客はなく、駅まではほんの数分。待合室にいたおばさんたちの姿は消えていた。新潟方面行きの列車に乗ったのだろう。
9時17分発の会津若松行き快速「あがの2号」は新潟始発。JR東日本が1990年代に地方線区へ投入を進めたキハ110系ディーゼルカーの3両編成。ロングシートと、4人用・2人用のボックスシートを組み合わせた車内は座席が半分ほど埋まっている。深い山の中を心地よい加速で走っていくまだ新しい列車の車内は、大きな窓のおかげで明るく、時々訪れる睡魔が心地よかった。
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