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2025年6月

2025/06/22

1995年・最後の長い汽車旅【15】平成筑豊鉄道を乗り歩く(1)

 前回の続き。


 実質的な九州第1日目となる1月30日は、八幡発9時31分の博多行き快速列車でスタートした。メインルートの鹿児島本線を走る列車ではなく、直方、飯塚を経由して博多へと向かう、いわば「裏街道列車」である。急行型ディーゼルカー3両編成での運転。先頭と2両目が濃淡ベージュツートンカラーの「九州急行色」、最後尾は白地に青帯の一般形車両の混成編成。先頭車だけがグリーン車から転用のリクライニングシートを装備しており、あとの2両はボックスシートである。「九州急行色」は、5年前の旅の際、九州山地を越える内陸の急行列車でずいぶんお世話になったが、新型車両投入→特急格上げで本来の活躍の場が狭まりつつあった。


 鹿児島本線をいったん西へ向かって走った列車は、黒崎の先で左へ分かれ、鹿児島本線のホームとはかなり離れたわびしい折尾の筑豊本線ホームに停車。10数人の乗客があった。列車を乗り間違えたらしいおばさんが、女性乗客2人から引き返し方の手ほどきを受けて、次の中間で下車していった。直通快速の八幡―博多間の所要時間は、鹿児島本線経由の約50分に対して、1時間50分余り。北九州から筑豊への列車と、筑豊から福岡への列車を2本つないだような性格の列車で、直通客はほとんどないと思われた。この6年後、2001年に、折尾-直方-飯塚-吉塚間の筑豊本線・篠栗線は電化され、急行型ディーゼルカーそのものの引退が進んでいく。


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 9時46分着の直方で下車。ここは前回の旅行の時にも下車している。あの時は、わずかな停車時間に、駅前に1軒だけ営業していたファーストフード「モスバーガー」で、列車の発車時刻を気にしながら夕食のハンバーガーを買った記憶がある。その店はまだ健在だったが、斜め向かいに新たに開業していた「ミスタードーナツ」でドーナツとコーヒーを買って朝食にする。直方駅舎は2011年に新駅舎に建て替えられて、味わいのある旧駅舎は解体されており、「モスバーガー」も「ミスタードーナツ」も今はないようである。


 直方や飯塚を中心とした筑豊エリアは、かつて石炭の主産地であったこともあり、国鉄が縦横無尽に路線を張り巡らせていた。この地区の列車を効率よく乗りつぶすための行程作成は大変だったらしく、国鉄時代にこの辺りを乗り潰した人からは、同行の士と思われる人と朝から晩まで同じ行程をたどったという話をよく聞いた。
 筑豊炭田の凋落とともに、これらの路線は特定地方交通線として次々と姿を消し、現在残っているのは、JRでは筑豊本線、日田彦山線、後藤寺線の3路線。他に国鉄から第三セクターに転換された平成筑豊鉄道を残すのみとなっている。


1995013002_20250622195101  その平成筑豊鉄道は、直方から田川伊田への伊田線、その先、行橋までの田川線、伊田線の中間駅である金田から分かれて田川後藤寺へ向かう糸田線と、3本の路線をY字型に広げている。いずれも旧国鉄の特定地方交通線である。
 とりあえず、持ち合わせの小銭で足りる220円の切符を券売機で買い、白地にオレンジと赤の帯の入った行橋行きの愛らしいディーゼルカーに乗り込んだ。10時半ちょうど、発車。たった1両のワンマン列車は、地元の客でそこそこ混んでいる。国鉄時代より本数も増やし、地元の足としての定着を図っていた平成筑豊鉄道は、当時、第三セクター鉄道の中でも数少ない黒字会社であった。


1995013003  まずは糸田線で後藤寺へ向かうことにして、分岐駅の金田で下車。運転士に精算を頼むと、ホームに降りて「乗車証明書」を取ってきて欲しいと言う。乗車証明書は、無人駅ではよく目にする、乗車駅を確認するための「整理券」のようなものだが、金田駅のそれは、箱の面に数十個の駅名を記したボタンが並んでおり、行先のボタンを押す仕組みになっている。乗車証明書発行機というよりは自動券売機のようである。田川後藤寺のボタンを押すと、金田・田川後藤寺両駅の駅名を書いた、きっぷと見まがうような証明書が発券された。こんなに凝った機械を各無人駅に置くのなら、ひとおもいに自動券売機を置いてしまった方がよさそうな気がするが、現金の管理など、問題もいろいろとあるのだろう。


 その証明書を持って運転士のところへ行き、直方から田川後藤寺までの運賃350円と、所持している切符との差額、130円を払うと、証明書の片隅に、「精算済」のスタンプがポンと押された。これが田川後藤寺までの切符代わりになるらしい。他のローカル私鉄と異なり、複数の路線を持つだけに、その精算システムは少々複雑だった。それ以来平成筑豊鉄道には乗車できていないので、この仕組みが今どうなっているかはわからないが、きっぷは目的地まで正しく買うに限る。



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2025/06/15

1995年・最後の長い汽車旅【14】そして5年ぶりの九州へ

 前回の続き。


 本州最西端の駅であり、JR西日本とJR九州の境界駅でもある下関には、17時54分着。駅の中を軽く散策した後、18時06分発の博多行き普通列車でいよいよ九州へ入る。高校2年生から3年生にかけての春休みに、2週間近くかけてJRを中心に乗り歩きを楽しんだ時以来、5年ぶりの九州である。前回は専らJRの乗りつぶしを主眼においていたので、今回は他の鉄道やバスも含めた、ゆったりとした旅をしたいと考えている。この5年の間に、JR九州がどのように変化したのかを、自分の眼で確かめる楽しみもある。

【参考】1990年春 九州一周の旅


32423740_m  本州から九州への普通列車は、昨日の鈍足特急「やくも」以来の電車である。3ドア・セミクロスシートの近郊型電車、415系の4両編成で、JR九州標準の白地に青帯を巻いている。最後尾の1両だけが喫煙可能な車両となっているのは、5年前から変わらぬJR九州独特の流儀である。もちろん喫煙車に乗り、無事窓際の席を確保すると、待ちかねていたように煙草を取り出して一服。5年前なら明らかに禁煙車を選んでいたのだが、つまらぬものに手を出すようになったと思う。JR九州の普通列車が全車禁煙となるのは、この4年ほど後のことである。


 列車は発車するとすぐに関門トンネルに突入した。全長3.6kmほどと、青函トンネルの10分の1にも満たない長さだが、トンネルを抜ければそこは九州である。本州と関門トンネル内は直流1500V、九州内は交流20000Vと電化方式が異なるため、当時の古い電車では門司駅手前で切り替えのため車内の照明が一瞬消えた。


1995012991  九州の玄関にあたる門司、新幹線によって北九州の新玄関となった小倉を過ぎて、18時45分、かつて北九州最大の賑わいを見せた鉄鋼の町、八幡で下車する。大学の親しい友人の故郷であるこの街がどんなところか見てみたく、西鉄バスで中央町へ向かう。この辺りは1992年まで西鉄北九州線が路面電車を走らせていたところであるが、日が暮れたせいもあるのか、面影は見つけられなかった。


 中央町はちょっとした繁華街であったが、ダイエーがこうこうと明かりをつけて営業しているほかは、日曜の夜ということもあり開いている店は少なく、静かだった。近くで店を開けていた喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら、タウンページで宿を探す。さすがに古くからの工業都市だけあって、商人宿といった感じの旅館の広告が多い。


 そのうちの1軒、八幡駅に近いビジネス旅館「憩荘」を予約。バス・トイレ付きで1泊3,000円は激安だが、予想どおり値段相応の古ぼけた商人宿といった風情の建物である。おばさんに前金で宿代を払い、部屋に入ると、6畳ほどの畳敷きの部屋に布団が敷いてある。バス、トイレも民家のそれのようだが、値段を考えれば文句はない。今回の記事を書くにあたって、当時の領収書にあった住所をもとに調べてみたが、存在しなかった。当時の雰囲気と30年という時間を考えれば、当たり前ではあるが寂しいものである。


 荷物を置いて20時22分の電車で小倉へ引き返し、夜の町を歩いた後、夕食を取った。22時の電車で八幡へ戻り、宿へ入って風呂を浴び、布団に潜り込んだ。何となく単調な1日だったが、身体は疲れている。ゆっくり休んで、九州本番に備えることにしよう。



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2025/06/08

1995年・最後の長い汽車旅【13】「偉大なるローカル線」を行く

 前回の続き。


1995012901 1月29日は、この旅5日目にして初めて朝から気持ち良く晴れた。朝9時過ぎに叔父さんに連れられて浜田漁港を見物に出掛ける。小高い丘の上から見る漁港の雰囲気はとてもよく、併設された「しまねお魚センター(現・はまだお魚市場)」には水揚げされたばかりの新鮮な魚介類がずらりと並んでいる。ここでもお土産と昼食用の寿司まで買ってもらい、最後は浜田駅まで送っていただいた。


1995012902 11時01分発の益田行き普通列車で山陰本線を下る。すっかりおなじみになったキハ47形2両編成の列車は、上半分黄色、下半分白のツートンカラーに塗られており、車掌も乗務している。同じJR西日本、同じ山陰本線でも、東部と西部では管轄が違うようで、塗装も運行形態も異なっている。列車に乗ってほどなく、先ほどまで晴れていた空にどんよりとした雲が横たわり始めた。


 11時54分に益田に到着すると、雪がしんしんと降っている。次の列車まで待ち時間は50分ほどあるが、散歩の気分ではなくなり、駅前に店開きしていたフルーツパーラーで暖をとる。果物がてんこ盛りになったフルーツアラモードを年甲斐もなく注文し、がつがつと食べる。近くにかわいい女性でもいたら注文することすら恥ずかしいような代物だが、幸い店内には親子連れや年寄りしかいなかった。このお店は改装されて今も健在である。


1995012991 12時45分発の長門市行き普通列車は、キハ23形1両で、85.1km、約2時間の道のりをワンマン運転する。益田までのキハ47形と同じ塗色で、外観もそっくりだが、運転台が両端にあり、車体幅が少し狭い。運賃箱の置かれた運転席後部の座席は撤去されていて、座席数はたったの50席と大型バスにも劣る。
 キハ47形より10年ほど早く製造された先輩車両は、大きな唸り声を立てて走っていく。ワンマン装置の調子が悪いようで、案内放送が時々途切れたり、ずれたりする。どうみても幹線の列車とは思えない。県境を挟むこの区間は、かつて宮脇俊三氏が「偉大なるローカル線」と称した、京都-幡生間673.8kmの山陰本線の、最も輸送密度の小さい区間である。



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 長門市駅前の書店で少し時間をつぶし、長門市から仙崎までヒゲのように伸びる支線を往復。独立した路線名はなく、山陰本線の一部である。独立した名前がついていたならば、国鉄合理化の波に呑まれて廃止されていたであろうから、何が幸いするかわからない。
 JR西日本が管内各地に投入を進めている新型の軽量ディーゼルカーキハ120形の単行ワンマンカーで、採光性が良く明るいロングシートの車内に、私ひとりを乗せ、民家の軒先をかすめるようにして走る。ほどなく右へ大きくカーブすると、もう終点の仙崎。わずか3分の旅である。駅のホームから眺めた仙崎の駅前は寂れており、1軒だけ異彩を放っているパチンコ屋も、営業しているのかどうかは不明である。折り返し列車の乗客も、やはり私ひとりだった。


 長門市からの下関行き普通列車は、すっかりおなじみになったキハ47形2両編成。車掌が乗務している。1ボックスに2人程度という乗車率で発車した列車は、お客の入れ替わりこそ多かったものの、帰宅時間帯にあたっているせいか、終始同じぐらいの乗車率をキープして下関まで走った。窓の外に夕日が傾いた。この区間のうち、人丸-滝部間は、2023年の豪雨により現在も不通となっている。


 同じ1本の「山陰本線」を名乗っていても、エリアによってその役割や様相はまったく異なり、ほぼ全線を貫通する特急列車や長距離普通列車が走っていたことなどもはや遠い昔の出来事になったが、新幹線や航空機など、大都市と直結する交通手段の発達が、流動を大きく変えていったのだろうと思う。もっとも、山陰本線の場合は、私が鉄道に興味を抱いた昭和50年代から、すでに時代の流れから超然としていたようなイメージがあるのだけれど。



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2025/06/01

1995年・最後の長い汽車旅【12】遠い親戚にお世話になる

 前回の続き。


 行きの賑わいが嘘のように空いた境線の列車でおよそ1時間半ぶりに米子へ舞い戻る。米子からはこの旅初めての特急列車利用、15時33分発のL特急「やくも11号」で出雲市へ向かう。米子から出雲市までのわずか61.6kmの間で、安来、松江、玉造温泉、宍道と4駅に停まり、さらには対向列車との行き違いのために、荒島と来待にも停まる。単線区間だから仕方がないとはいえ、途中11駅のうち半分以上の6駅に停車し、ちょうど1時間を要するという、呆れた鈍足ぶりである。



1995012821  一畑電鉄の古びた車両が見えた終点の出雲市で下車し、駅前にあった雰囲気のよい和風喫茶「宴」でコーヒーを飲み、実家に電話する。この先の浜田に、曾祖父の弟(曾祖叔父)に当たる親戚の家があり、今も交流のある祖父を通じて泊めてもらえないかと打診してもらっていた。祖父の話では、気持ち良く泊めてくれることになったとのことで、ありがたい。私自身は訪問はおろか顔も見たことのない親戚で、今思えば相当図太い話であるが、金もないし、利用できるところはなんでも利用しようという魂胆で、ある意味怖いものなしだった。駄目だった場合は出雲市泊として、出雲大社に行ったり、一畑電鉄の乗り歩きなどをしようか、と考えていたが、まっすぐ浜田へ向かうことにする。


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 再び出雲市駅へ戻ると、ちょうど東京行き寝台特急「出雲4号」が停車していた。今日の最終目的地となる浜田からわずか4両編成でやって来て、ここ出雲市で7両を増結し、11両編成となって東京へ向かう。車内を覗き込むと、可哀想なほどガラガラである。「出雲1号・4号」は1998年に出雲市-浜田間が区間廃止となり、2006年には運転を終了したが、新幹線の恩恵が小さい山陰地区と東京を直結する寝台特急のニーズは根強く、1998年に「出雲3号・2号」を置き換える形で運行を開始した「サンライズ出雲」は、「サンライズ瀬戸」とともに国内唯一の定期運転寝台列車として、今も寝台券が入手しにくい人気列車となっている。


 「出雲4号」の発車を見送り、ベージュに朱色の帯を巻いた国鉄時代そのままの急行形ディーゼルカー3両編成の浜田行き普通列車に乗車すると、こちらもガラガラ。1ボックスを占拠してのんびりする。
 斜め前のボックスには高校生の男女が座っている。一見して「ええかっこしい」の男子が、「いいか、恋愛って言うのはだな…」などと、お世辞にも美しいとは言いがたい女子に向かって講釈を垂れている。他人が恋愛論をぶっているのを聞くほど面白いことはない。本に目を落とすふりをしてしばし聞き耳を立てるが、旧型気動車の唸り声に阻まれて断続的にしか聞き取れない。「お前も、もし彼氏ができたら…」などと言っているところをみると、恋人同士ではなさそうである。そう言えば高校時代の自分がそんな役回りだったなあ、とふと思い出し、耳をふさぎたい気分になった。


 浜田到着は19時40分。親戚宅は美容院を経営しており、タクシーの運転手に住所と店の名前を告げると、ものの数分で運ばれた。曾祖叔父はすでに亡くなっていたが、その奥様たるおばあさまは健在で現役の美容師だった。その息子にあたる叔父さんとその奥様の暮らすこの家で、これ以上はないというほどの歓待を受けた。食事どころか洗濯までしてもらい、業務用の乾燥機でしっかりと乾いた洗濯物は、眠る前には枕元に綺麗にたたんで置かれていた。


 この親戚とはその後年賀状のみのお付き合いが続いたが、2019年の春、小学校を卒業したばかりの下の坊主を伴って24年ぶりに訪問した。おばあさまと叔父さんはこの間に他界され、叔母さんがひとりで家と店を守っていた。


(参考)2019年3月の旅⇒親子ふたり旅【1】広島から出雲へ



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