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2025/07/13

1995年・最後の長い汽車旅【16】平成筑豊鉄道を乗り歩く(2)

 前々回の続き。


1995013091  金田からは11時ちょうど発の糸田線田川後藤寺行きに乗車。こちらは直方からの列車とは対照的に空いていた。わずか14分で運ばれた田川後藤寺は、金田から行橋方面へ4駅の田川伊田とともに田川市の中核をなしている。両駅の間はJR日田彦山線が短絡していて、わずか1駅だが、田川伊田へ向かう列車は11時50分までない。おそらくバスが頻発運転しているだろうと当たりをつけてバスセンターへ向かうと、古びたバスセンターから折よく11時20分発の伊田方面行き西鉄バスが発車するところだった。


 かなりの乗客を乗せたバスは、11時30分、伊田駅手前の南大通バス停に停車。目の前に郵便局があるのを見て、ついふらふらと下車する。この伊田郵便局で旅行貯金を済ませると、田川伊田駅までは歩いて数分だった。
 行橋へ向かう次の列車は、12時30分の発車で、相当時間がある。この列車に乗ると、行橋着は13時12分、折り返し行橋発13時17分の列車に乗車すれば、田川伊田乗り継ぎで直方着14時34分となる。時間つぶしのつもりで駅前を散歩し、何気なくバス停でバスの時刻表を眺めると、12時01分発の行橋行き西鉄バスがあることを発見した。同じ区間を鉄道で行ったり来たりするのも芸がないと、迷わず乗車することにする。


 しばらく待ってやって来たバスの乗客はかなり多かったが、途中乗降を繰り返している間にガラガラになってしまった。途中のバス停から、犬を連れて高校生のカップルが乗ってきた。運転手に「ダメだよ」と怒られるが、「大丈夫、暴れませんから」と繰り返すばかり。暴れなければいいという問題でもない。非常識な高校生もいたものだが、執拗な抵抗に屈服した感じで乗車を許可した運転手も情けない。
 行橋が近づくに連れてバスの車内は再び混みはじめ、伊田発車時と同じぐらいの混み具合となって12時40分、行橋駅前に到着した。国道201号で直線的に進むバスの所要時間は、南を大きく迂回する平成筑豊鉄道田川線とほぼ同等である。


 バスのお陰で、当初予定より1本早い12時55分発の列車に乗って、直方への帰途に着いた。この列車は途中の犀川止まりなので、結果的に直方着は予定と同じになるが、どこか1駅で下車する余裕が生まれた。時刻表を眺めると、美夜古泉、今川河童、東犀川三四郎と、、なんとも興味をそそられる駅名がずらりと並んでいる。しかし、最初に止まった美夜古泉は、わずかばかりの住宅の中にぽつんとホームと待合室だけが置かれている無人駅で敬遠。残る2駅も同じような雰囲気で、何となく降りそびれているうちに、終点の犀川に着いてしまった。


1995013004  犀川駅は最近改築されたらしく、無人駅ながらゆったりとした造りの内装で、タクシーの営業所が同居している。壁には地元の画家が描いたと思われる絵が何点か飾ってある。外へ回ると、木がふんだんに使われていて、どことなくユーモラスな表情を見せているが、いっぽうで直線的でいかめしくもある。案内板によると、河童を模して造られたのだとのことだが、どこか要塞のような雰囲気がしなくもない。


 犀川からは、当初乗車予定だった田川伊田行きの列車に乗車。外観は直方から乗った車両と同じだが、中に入るとロングシートが並んでいた。先ほどまでののどかな田園風景とはうってかわった山の中を走ったりと、けっこう楽しませてくれる。田川伊田で直方行きの列車に乗り換え。改めて観察すると、田川伊田から直方までの線路が全て複線だったのも意外な発見だった。かつて石炭の積み出しでかなりの賑わいだったのだろうと推測される。


 筑豊地区の鉄道網の発達は、筑豊炭田の盛衰と軌を一にしてきた。石炭から石油へのエネルギーシフトが進み、疲弊の進んだ筑豊地区の炭鉱は、1976年にはすべて閉山となった。貨物輸送を失い、人口減少で旅客輸送も激減した筑豊地区の鉄道は、多くが特定地方交通線に指定されて姿を消した。
 比較的まとまった旅客輸送があった伊田線・糸田線・田川線は、平成筑豊鉄道に転換されて生き残り、新駅の設置や増便などの積極策で旅客の確保に努めた。直方-金田間でのセメント輸送もあり、一時は「第三セクターの優等生」と呼ばれた。私が平成筑豊鉄道を乗り歩いたのは、そのピークに近い時期であった。


 1992~1994年頃をピークに旅客輸送は減少の一途を辿り、平成筑豊鉄道が公表している各駅の乗降人員の合計は、ピーク時の4割ほどまで減少している。2004年にはセメント輸送も終了して貨物輸送が消滅し、「優等生」は一転、ここ数年は継続的に年間3億円程度の営業損失を出し、その存続が危ぶまれる状況になっている。
 2024年12月には福岡県庁に「平成筑豊鉄道沿線地域公共交通協議会」が設置され、1月以降これまで3回にわたり、鉄道を維持した場合の収支試算や代替交通機関への転換も含めた今後の方針が協議されている。おおよその方針は2025年度内には決まるとのことだが、あれから30年訪れていない平成筑豊鉄道が、今どうなっており、今後どうなっていくのか、気にかかる。



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