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2025年9月

2025/09/23

1995年・最後の長い汽車旅【22】温泉を求めて島原半島横断

 前回の続き


1995020104 ホテルが密集して建つ雲仙公園バス停でバスを降りて、細かい雨が降り出す中、しばらく散策。もうもうと湯気の吹き出す地獄谷は、スケールでいけば登別温泉それにはかなうべくもないが、なかなか壮観だった。
 続いて雲仙観光協会の建物を訪ね、宿の値段についてお伺いを立ててみると、1泊2食付きで10,000円から12,000円前後だとのこと。確かに立派な温泉街だからお値段もそれ相応どころか、かえって安いぐらいかもしれない。けれども、この旅で私は、宿泊は素泊まり5,000円以内、という原則を掲げて旅を進めて来た。旅はまだ全体の4分の1ほどであり、懐具合を考えても、長崎で臨時ボーナスを得たとはいえ、贅沢をするにはまだ早い。


 立ち並ぶ立派なホテルの中の1軒、九州ホテルに入り、1階ラウンジで1杯500円のコーヒーをすすりながら、空いているのを幸い、カウンターのお姉さんにいろいろ話を聞いてみた。雲仙の温泉街は普賢岳噴火の直接的な被害は受けておらず、影響は軽微だったとのことである。むしろ今回の阪神・淡路大震災の方が問題で、地震への警戒と交通機関の寸断などの影響で、関西・関東地区から九州はじめ西を志向する旅行者が激減しているのだという。昨日のガラ空きの寝台特急といい、震災の間接的な被害はわれわれの想像もつかないところまで及んでいるようである。


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 雲仙は断念したものの、一度沸き上がった温泉への思いはいかんともしがたく、島原半島の西岸にある小浜温泉を目指してみることにした。西入口バス停から16時51分の長崎行き特急バスに乗る。長崎県交通局の真っ赤なボディーのレトロ調バスは立派だが、乗客は私を含めてたったの3人である。くねくねとカーブを繰り返しながら、およそ25分で山を下り、海沿いの小浜温泉ターミナルに到着したのは17時15分頃。何とかここで泊まるところを探さないと、あとはバスで、島原か長崎のいずれかへ引き返すより他なくなる。


 国道を隔てた小浜温泉観光案内所へ行くと、本日の業務はたった今終了しました、という雰囲気だったが、幸いカウンターに座っていたおじさんが対応してくれた。雲仙温泉のときと同じように価格のお伺いを立ててみると、ご予算はいくらですか、と逆に問い返された。
 私はおずおずと、「いや、あのう、安ければ安いほどいいんですけどね…」と言ってみたが、 無理を承知で聞いてみるものである。協会のおじさんが紹介してくれたのは、1泊2食付き6,330円の国民宿舎「望洋荘」。素泊まりなら3,605円なのだから、原則は守られている。もっとも、わざわざ素泊まりにして外へ食事に出る気にもならないので、2食付きで予約する。


1995020155  海沿いの道を口之津方面へ向かった。道端の側溝にはめられた蓋の隙間から湯気が上がっていた。
 「望洋荘」は温泉街の南の外れにあり、バスターミナルから歩いて10分ほどだった。多少古びてはいるものの、なかなかの構え。2025年現在、宿泊は扱っていないようだが、入浴施設としては健在である。食事は食堂で取ることになっており、おかずの量もちょうどよく、まず満足だった。肝心の風呂も、滝湯や、小さいながら露天風呂もあって、これも十分に満足。広い湯船にゆったりと浸かり、身体の疲れを落とした。

 



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2025/09/15

1995年・最後の長い汽車旅【21】島原に自然の脅威をみる

 前回の続き。


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 1995年2月1日。旅の8日目の朝の目覚めは遅かった。想像以上にゆっくり眠ることができたせいなのか、逆に寝つきが悪かった結果なのかはわからない。カプセルホテルを抜け出したのは午前10時近かった。長崎駅へ向かう途中で、1軒のパチンコ屋を見つけ、冷やかし程度のつもりで「綱取物語」という台の前に座った。1,000円ほどつぎ込んだところで大当たりが来て、結局1時間少々の間に4回の当たりを引いた。幸先のよい2月のスタートであるが、旅の始まりはさらに遅くなった


 11時43分長崎発の諫早行き普通列車は、713系電車の2両編成。片側2か所の両開きドアの間にボックスシートが並んだ、地方線区用の近郊電車である。普通列車には珍しく、車内にLEDの案内表示装置が付けられていたが、使われている様子はなかった。900番台の車号が振られており、試作車であることがわかるが、この形式の電車は当時の国鉄の「赤字の九州への巨額投資は不適切」との判断により量産されず、2両×4編成のみの製造に終わった希少車である。代わりに投入されたのが、昨日乗車した、余剰寝台電車改造の715系電車である。


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 終点の諫早で町をぶらつき、駅前で昼食用にドーナツを買い込んで、13時20分発の島原鉄道の島原外港(現:島原港)行き普通列車に乗った。キハ20形という古びたディーゼルカーの単行で、律儀に若い車掌が乗務している。平日の昼だというのに高校生でかなりの賑わいを見せているのは、試験期間か何かなのだろう。人いきれと若干効き過ぎかと思われる暖房のおかげで、車内はむっとするほどの暑さで、窓が曇っていた。


  島原鉄道は島原半島一円をテリトリーとする地方私鉄である。かつては、自社車両を博多-長崎間の国鉄急行に併結してもらい、博多と島原半島の直通を実現させるなど、地方私鉄としては意欲的な経営を行っていた。城山三郎のノンフィクション小説「盲人重役」は、島原鉄道の常務取締役であった宮崎康平の生涯を描いた傑作である。1991年に発生した雲仙普賢岳の噴火による火砕流・土石流で、島原外港以遠の区間では線路が寸断され、復旧しては被災が繰り返された。1992年にはの人為ミスによる正面衝突事故も起こり、暗いニュースが続いている。

 島原半島の中心である島原まではおよそ1時間。この時点で、全線のほぼ中間に当たる島原外港-深江間が不通となっており、列車は3駅先の島原外港で終点となる。不通区間はバス代行であると車内に掲示されていた。島原外港駅の改札口に立つおばさんに、切符を記念に貰えないか、と頼んでみたが、「それはできません」と、かつての国鉄を彷彿とさせるすげない返事だった。この時降り立った古びた駅舎は、2010年に煙草の不始末により焼失したとのことである。


 島原外港駅から、正面の通りをまっすぐ歩いて数分行くと、三池へ向かう船の乗り場となる島原外港に突き当たった。最初はこのまま三池へ渡り、熊本方面へと下ろうかと思ったのだが、併設されていたバス停に「雲仙」の文字を見つけた瞬間、無性に温泉に入りたくなった。
 そうなれば行先は三池ではなく、雲仙である。680円の切符を買って、15時20分発の長崎県交通局雲仙方面行きバスに乗車。数組の中学生、高校生、幾人かの老人が乗っているだけで、空いている。


1995020103_20250912235801  バスは国道57号線を深江方面に向かって走り、ほどなく普賢岳噴火の際に大量の土石流が下った水無川を渡った。火山灰に埋もれた川は、これが川なのかと目を疑いたくなるほど無残な姿をさらしており、付近に建っている民家は、1階部分が完全に埋まってしまっている。柱だけの姿になっている民家もあり、目を背けたくなるのをぐっと我慢した。ふとニュースで見た神戸の被災の様子が思い出されたが、災害から数年を経てまだこれだけの傷痕が残っている。


 バスが山登りにかかると、曇りがちな空の向こうに溶岩ドームが見え隠れした。この数日間で、優しい自然、厳しい自然を車窓から目の当たりにしてきたが、所詮人間は自然の前に無力だな、という思いがひときわ強くなった。

 



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2025/09/07

1995年・最後の長い汽車旅【20】ナガサキ・シティ・セレナーデ

 前回の続き


 今年の夏も全国的に猛烈な暑さに見舞われているが、私が長い旅に出る前年の1994年も猛暑の年であった。加えて、特に西日本を中心に、記録的な少雨による断水や給水制限が実施された。特に深刻だったのは四国・九州である。「四国の水がめ」とも呼ばれる高知県の早明浦ダムの渇水は、この年何度もニュースになった。


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 九州でも福岡県や長崎県を中心に、長期にわたって断水や取水制限が実施された。佐世保市でも、2月の段階でまだ時間指定断水が実施されており、取水制限も含めて最終的に解消したのは5月のことだったそうである。
 その佐世保から、17時35分発の長崎行き快速列車「シーサイドライナー19号」に乗った。キハ58+65の急行型ディーゼルカー4両編成は、ダークブルー1色に塗られた「シーサイドライナー」色の車両の中に、2両目に1両だけ、真っ赤な「ハウステンボス」色が異彩を放っている。車内も1・3両目はボックスシート、2・4両目はグリーン車並みのリクライニングシートと異なっている。


 4両目に座席を確保して、リクライニングシートをいっぱいに倒してくつろぐ。座席がさらりと埋まった「シーサイドライナー19号」は、日宇で特急「みどり17号」、大塔で快速「シーサイドライナー20号」と立て続けに行き違い停車する。時刻表上は佐世保から早岐まではノンストップだが、実質各駅停車である。
 これがローカル線の駅かと目を見張る偉容のハウステンボスは、1992年に開業した同名のテーマパークの玄関駅。5年前に訪れた長崎オランダ村に代わってランドマークになったハウステンボスのために、全線非電化だった大村線は、早岐-ハウステンボス間だけが電化され、特急列車も乗り入れるようになった。この頃が来場者数のピークだったと後で聞いた。


 いつしか日は暮れて、列車は相変わらず対向列車に道を譲りながら、のんびりと走る。快速列車ながら、81.4kmに2時間近くかけて、19時24分、長崎に到着した。5年前の旅行の際、ゆったりとした時間を過ごした数少ない街である。その時も佐世保から夜の列車で長崎に入り、出島跡に近い1泊3,700円のビジネスホテルに2泊した。坂の多い街を歩き、異国の文化を吸収し続けてきた姿に感動し、平和公園や原爆資料館で涙したりと、その旅の核となるような思い出を得た記憶が鮮明に蘇ってくる。


 その時の長崎での心残りのひとつが、函館・神戸と並び称される長崎・稲佐山の夜景を体験していないことであった。
 今回は迷わず駅前からタクシーに乗って、ロープウェイの出発駅である淵神社へ直行。20時のロープウェイで稲佐山の山頂へ運ばれた。風は冷たかったが、他にも4組ほどのカップルがいた。全てカップルというのが気に入らないが、ひとりでここまで来たのは私の勝手だから仕方がない。けれども、展望台の眼下に広がる夜景は、そんなことも忘れさせるに十分であった。空気が澄んでいるのだろう。


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 ~宝石箱に身を投げたような
  港の夜を抱きしめてごらん
  大空に深く横たわる川が
  この街に注ぎ込んで光る海になる~


 長崎出身のさだまさしの曲、「長崎小夜曲」の一節が知らず知らず口ずさまれた。ここまでの何日間かで溜まった疲れが落ちていくような、そして札幌に残してきた他愛もないわだかまりが消えていくような、少しセンチメンタルな気持ちになって行くのがわかった。


 当時21時だったロープウェイの最終が迫り、後ろ髪を引かれる思いでふもとの淵神社へ舞い戻った。近くの宝町電停から長崎電気軌道1系統、正覚寺下(現・崇福寺)行きの路面電車に乗車。思案橋で下車し、5年前と同じように、さだまさしの店「自由飛行館」で遅い夕食を取った。
 長崎駅まで歩いて戻り、今回は駅前のカプセルホテル「カプセルイン長崎」にチェックイン。テレビ代100円を含めて2,700円の宿泊料金は安い。坂と山に囲まれながら不思議に奥行きのある宝石箱の夜景とは打って変わって、寝返りを打てば壁に衝突し、上半身を起こして背伸びをすれば頭を打ちそうなマッチ箱の中で、疲れた体の私は急速に眠りの淵に落ちていった。

 



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2025/09/01

1995年・最後の長い汽車旅【19】日本最西端の駅に立つ

 前回の続き


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 有田からは、松浦鉄道に乗って、伊万里経由で佐世保を目指す。JR佐世保線で乗り進めば佐世保までは5駅、20.6kmの道のりだが、松浦鉄道では海沿いを回って93.8km、4倍以上の旅になる。もともと国鉄松浦線で、特定地方交通線として第三セクター化された路線である。経営環境の厳しさはこことて例外ではないが、国鉄時代よりも大幅に列車本数と駅数を増やし、地域密着を図っている。


 1995013172 有田からの列車は、すべて途中の伊万里で乗り換えとなる。12時19分発の伊万里行きは、MR-100形と呼ばれるかわいらしいレールバス。驚いたことに車内は喫煙可能であった。列車内に割引切符の案内が掲示されており、その中に「金額回数券」というのがあった。100円券12枚、50円券12枚、20円券12枚、10円券16枚の計2,200円分が綴られて2,000円。ちょうどうまく使いきれそうな金額である。列車の終点、伊万里駅で買い求めようとするが、困ったことに券売所に係員がいない。ようやく現れたのは、松浦行き列車の発車3分前だった。せっかくのよい商品なのに、売り手がこれでは困る。


 伊万里から松浦までは、おおむね1時間に2本程度の運転である。12時54分発の松浦行きは、ほんの僅かの乗客を乗せて、2つ目の里の先で海に出た。伊万里湾である。時々内陸に入ったり、また海沿いに出たりを繰り返しながら、13時36分、松浦に到着。30分弱の乗り継ぎ時間に、駅近くのコンビニで昼食を確保し、14時05分発の佐世保行きの列車に乗り継いだ。こちらも空いている。


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 14時29分、たびら平戸口着。2003年に沖縄県に「ゆいレール」那覇空港駅が開業するまで、ここは日本の鉄道最西端の駅であった。当時の東西南北の最端駅は、東が根室本線東根室、南が指宿枕崎線西大山、北が宗谷本線稚内であった。現在は、ゆいレールの開業により、南が赤嶺になり、東根室駅は今年3月に廃駅となって最東端は根室に変わった。30年前から変わらず「最果て」を守っているのは北の稚内だけである。


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 駅前に立つ最西端の碑の前で記念撮影し、せっかくだから平戸の散策を、と、郵便局の目の前にあったバス停から、14時40分の西肥バスで平戸を目指したが、朱塗りの立派な平戸大橋を渡る頃から、しとしとと雨が降り始めた。こうなると、散策をしようなどという気分は吹っ飛び、平戸新町バス停の目の前に平戸郵便局があるのを確認して、終点の平戸桟橋まで乗車、歩いて郵便局まで引き返して旅行貯金をしただけで帰りのバスに乗り込んだ。長い人生、また改めて訪問することがあるだろう、と自分に言い聞かせたが、こういう展開でそれ以降実際に訪れた場所は数えるほどしかない。現にあれから30年、平戸にはまだ足を踏み入れていない


 平戸口桟橋でバスを乗り換えて平戸口駅前へ戻り、16時02分発の佐世保行き普通列車で、1時間半のロングランとなる。列車は通学客で混雑しており、夕方の禁煙タイムに入っていた。何とか座席を確保したが、高校生を中心に立ち客も出る混雑ぶりである。相席の客は中年の男性と、いかにもガラも行儀も頭も悪そうな高校生が2人。隣のボックスの後輩に向かって大きな声でわめき、威張り散らしている。言われる側も迷惑そうで、見ているこちらも不愉快きわまりないが、巻き込まれるのも面倒なので黙って耐える。彼らは、「今晩、女でも××すっか」とお行儀の悪い言葉を残して、16時58分着の大学で下車していった。


 車内は多少空いたが、それでもまだ立ち客が若干いる盛況である。運転士は前方をきっと見つめ、きびきびとした動作で好感が持てる。そう思った矢先、列車が急にブレーキを掛け、座っていた僕までがつんのめりそうになった。何事か、と思って前方に目をやると、わずか100mほど前方に山の田駅のホームが見えており、そこに子供が2人、呆然と突っ立っている。列車はそろりそろりとホームへ進入して、所定の位置で停車。何人かの客を下ろすと、運転士はホームに降りた。先刻の子供たちと何事か会話した後、2人の頭を撫でて指切りをしている姿が見えた。


 ほどなく運転士が戻ってきて列車が発車させ、「列車遅れまして大変ご迷惑をお掛けいたしました。ただいま線路上に置き石のいたずらがあったため、急停止いたしました」と放送で告げた。このために列車の発車は5分の遅れを出したが、私の気分は悪くなかった。いたずらを厳しく叱りつけるのは簡単だが、子供を諭して頭を撫でて指切りという運転士の対応がとても上品でスマートに見えた。子供たちも、頭ごなしに叱られるより、余程堪えるのではと思う。頭の弱い高校生にも説諭をかましてくれると満点なのだが、客室内には目が届きにくいワンマン運転の限界も感じられた。


 ところで松浦鉄道も、「優等生」と言われた第三セクター鉄道のひとつであるが、利用者数は1996年の年間442万人をピークに、2024年度では289万人まで減少した。増発した列車も、旅客の減少に伴い、伊万里-松浦間の区間便などを中心に減便となった。それでも全区間で1時間間隔程度の運転本数は確保しているが、2000年度まで続けた黒字経営も、以降は沿線自治体の支援により何とか踏みとどまってはいるものの、2024年度の経常損益は約1億8,000万円の赤字と苦境にある。

 


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