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2025年10月

2025/10/26

1995年・最後の長い汽車旅【25】未明の八代駅前で職務質問に遭う

 前回の続き
 今回の話は以前にも一度、別記事で書いたことがあるが、ふたたび。


1995020283  博多駅みどりの窓口で、切符の区間外乗車となる博多―大牟田間の乗車券と、博多―八代間の自由席特急券を購入し、夜行特急「ドリームつばめ」9号車の人となった。この列車のルーツは、門司港―西鹿児島間の夜行急行「かいもん」で、5年前の九州旅行では、博多―西鹿児島間を大分・宮崎経由で結ぶ急行「日南」ともども大変お世話になった。3泊続けての車中泊だとか、下り→上りの折り返し乗車だとか、宿代を浮かすためにずいぶんタフなこともしたものである。機関車が2両の寝台車と5両の座席車を引っ張っていた2本の夜行急行は、1993年3月に、車両を昼間の特急と共通化して、座席車のみの特急「ドリームつばめ」、「ドリームにちりん」となった。


 下車予定は途中の八代であり、あまり熟睡するわけにはいかない。通路を挟んだ隣に座って窓下の壁に落書きをしている非常識な若い女を睨みつけながら、寝るまいぞ、寝るまいぞ、と自分に暗示を掛けつづけた。
 日付が変わって2月3日、早朝2時25分の八代で下車。肥薩線人吉方面へ向かう始発列車は6時01分発で、およそ3時間半をこの駅で過ごさなければならない。夜行列車が深夜に発着する駅だから、待合室ぐらい開いているだろうと見当をつけていたのだが、真っ暗な待合室のドアには鍵が掛かっていた。数年前からホームレス対策のため、深夜は閉鎖しているとのことである。


 事情は分かったが、九州とはいえ、2月初めの深夜は身体に吹きつける風も冷たい。ベンチの上で迂闊に横になろうものなら凍死しそうである。ライダーとおぼしき輩が、すでに軒下で寝袋にくるまって寝息を立てていたが、こちらは何の防寒対策も立てていない。
 じっとしていても寒いだけなので、とりあえず国道まで出て10分ほど歩くと、右手にコンビニエンスストアを発見。時間を潰そうと立ち読みを試みるが、他に客はなく、居心地が悪くなって早々に退散する。


 さらに少し歩くと、「リンガーハット」というファミリーレストランを見つけた。今でこそ札幌市内に3店舗ほどあるが、当時は北海道民には全く縁のないチェーン店だった。営業時間を見ると午前4時までとあり、ずいぶん中途半端だが、それでも1時間ぐらいは時間が潰せそうなので、文句を言っている場合ではない。とりあえずチャンポンを流し込み、腹の中を満腹の状態にして来るべき時を待つ


 午前4時、予定どおり閉店の準備に掛かった店を追い出されるようにして駅へ戻れば、同じように始発を待つらしく、40歳前後とおぼしきサラリーマンが所在なげにベンチに座って煙草をプカプカ。私も隣のベンチに座って、釣られたように煙草をふかす。そこへ、1台のパトカーがやって来て目の前に止まった。中には警官が2人乗っていたが、そのうちの片方がパトカーを降りてこちらへやって来た。


「ちょっといいかい?ボク」自分に向けた呼びかけだと理解するのに若干の時間を要する。
「恐れ入りますが、どちらへ?」物腰は柔らかいが、目は笑っていない。
「旅行中です。始発の列車で人吉の方へ。」
「身分証明書、持ってるかい?」
 嫌な気分ではあるが、特段やましいところはあるわけでもないので、ポケットの中から学生証を出すと、警官はそれをじっくり眺めた後、こちらの顔を覗き込むようにして言った。
家出じゃあないですよね


 元来薄いが若干の不精髭も生えた22歳の成年男子を捕まえて家出少年呼ばわりときた。今まで何度も旅をし、夜の町をふらついたことも1度や2度ではなかったが、人生初の職務質問、しかも家出人の捜索である。あっけにとられて隣を見ると、サラリーマン氏も何やら見せながら必死で弁解中である。こちらはさしずめ、家出中年というところだろうが、風体からしてどう見ても勤労中年の単なる寝過ごしである。


「ちょっと確認しますから」
 こちらの警官は私の手から学生証を取り上げ、パトカーへ戻ると、無線でどこかに照会している様子である。しばらくすると戻ってきて、私に「ありがとうございました」と言って学生証を返した。問題なし、と分かったようである。問題があってはたまったものではない。隣の勤労中年始も無罪放免と相成ったようでなによりである。


 パトカーが走り去った駅前のベンチで、勤労中年氏としばらく話した。福岡市内の区役所に勤める公務員で、3人の子供のお父さん。職場からの帰宅途中、羽犬塚で降りるつもりが寝過ごしてしまったらしい。およそ1時間半の豪快な寝過ごしである。せめて2時前に目が覚めていれば、熊本で下車して、折り返し博多行きの「ドリームつばめ」で引き返すことも可能だったのだが、気付いたのが八代の手前ではしょうがない。博多行きの「ドリームつばめ」は、無情にも当方の到着5分前に八代を出発して熊本へ向かっている。


 「阪神大震災の後処理の手伝いで大阪に行っていたりして、多忙だったからねえ」
とは氏の弁である。昼間は仕事の鬼、夜は優しいお父さん、といった感じの氏は、「福岡へ来ることがあったら連絡しなさい」と、連絡先を教えてくれた。5年前の旅ではこうしてすれ違った多くの人とのご縁が生まれたが、時期のせいか、今回の旅ではほぼ初めてのご縁である。せっかくなのでお言葉に甘えたいところだったが、結局、その後福岡は通らずじまいで四国に渡ってしまったから、もう一度お会いできなかったのがすこぶる残念ではある。


 時を経て現在、「リンガーハット熊本八代店」は健在だが、営業時間は24時まで。もっとも「ドリームつばめ」は、九州新幹線が部分開業した2004年に熊本以南が廃止されており、深夜に八代を徘徊することはこの先も含めて、たぶん、ない。


 ⇒別記事「いかさまトラブラー【7】珍トラブル編(1)



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2025/10/19

1995年・最後の長い汽車旅【24】島原半島から福岡へ

 前回の続き


1995020281  島原外港からは、島原観光汽船の高速船に乗って三池港を目指す。この航路は、1997年に島原鉄道が譲受して直営事業として運航していたが、旅客減少による経営難から2015年にやまさ海運(軍艦島クルーズを運営している会社)に譲渡したものの、新型コロナウィルスの影響による旅客大幅減からの回復が見込めず、今年7月から運航休止となった。1995年当時、三池、熊本、三角と3方面へのフェリーが出ていた島原港に残るのは、2社合わせて最大17往復の熊本航路だけになっている。



1995020203  15時30分発、三池港行き島原観光汽船は、前向きの座席がずらりと並んだ高速船。出入口を挟んで前部が喫煙可能な席になっており、そちらに陣取る。喫煙席の客は自分も含めてたった2人である。15時20分に到着した三池港からは、観光バスタイプの西鉄バスで大牟田駅へ向かう。
 切符のルート通りなら、ここから熊本方面へ向かうが、西鉄大牟田線(現:天神大牟田線)をはじめ、未乗の私鉄路線が多く残っているこのあたりの路線に顔を出しつつ博多までいったん戻ることにする。


1995020282  大牟田駅で西鉄電車の無料時刻表を入手した。西鉄が駅で配布している時刻表は、発着時刻が並んだ一般的なものではなく、「ダイヤグラム」と呼ばれる、いわゆる列車の「スジ」が表されたものである。これが一般の客向けに配布されているのは非常に珍しい。デジタル化の進展により、駅での無料配布は終了したようだが、西鉄では現在も有料で同様の時刻表を発行していると聞く。大牟田線は、大手私鉄の幹線としては珍しく、西鉄久留米以南の区間で複線と単線が混在しており、その割に毎時4~8往復と列車本数が多いから、行き違いや追い抜きの様子をこのダイヤグラムとにらめっこしながら眺めるとわかりやすく、面白い。


 16時53分発、西鉄福岡(現:西鉄福岡(天神))行き特急に乗る。西鉄には転換クロスシートを備えた特急用車両があるが、この列車はロングシートの通勤型電車での運用である。大牟田からしばらくの間は複線区間で、この間に大牟田行の特急とすれ違う。向こうは白い車体に赤い帯を巻いた特急用車両である。いささか羨ましい。続けて普通ともすれ違う。複線区間が終了するで、先行の普通を追い抜き、単線区間に入る。途中の中島信号場西鉄柳川で普通と行き違い、蒲池大溝の間の一部複線区間で特急とすれ違う。再び単線に戻って試験場前(現:聖マリア病院前)で普通と交換と実に目まぐるしい。手品のようである。


1995020291  試験場前から先は複線となり、17時22分着の西鉄久留米で後続の普通に乗り換えて西鉄小郡で下車。電車を降りた客が列をなして移動する流れに乗ると、ほんの1、2分で甘木鉄道の小郡駅に着いた。JR鹿児島本線の基山から小郡を経て甘木を結ぶ甘木鉄道は、第1次特定地方交通線の国鉄甘木線を前身とする第三セクター鉄道である。やって来た列車は小さなレールバスだが、通勤・通学帰りの乗客が満載の盛況である。


 国鉄甘木線の1977年度~79年度の輸送密度は653人/km/日と、特定地方交通線の中でも少ない方で、国鉄時代は1日わずか8往復の運転だった。甘木鉄道に転換された際、運転本数は一気に4倍の32往復に増やし、西鉄小郡から600mほど離れていた筑後小郡駅を移転させて西鉄との乗り換えの便を図るなどの施策を打った。った。この結果、2019年度実績で輸送密度は2,026人/km/日とほぼ3倍になり、運転本数は平日ベースで42往復まで増えている。赤字額も比較的少なく推移している。福岡近郊ということもあり、もともと需要のある地域だったはずなのだが、それにしても何の施策もなく、赤字だからといって簡単に廃止対象に挙げてしまった国鉄の対応のまずさが窺われる。


 終点の甘木へは18時10分着。甘木からはもう1本、西鉄甘木線が久留米方面に向かって伸びている。西鉄の甘木駅は踏切を渡って100mほどのところにある。西鉄甘木線の列車本数は、全線を直通する列車で37往復、昼間は綺麗な30分ヘッドダイヤになっている。運転本数は互角だが、運賃の安さもあり、乗降客数は今も西鉄の方が甘木鉄道の倍ほどと優位に立っている。18時30分発の花畑行き電車は2両編成のワンマン列車である。すでに日はとっぷりと暮れており、窓の外の景色は見えない。


 19時02分、大牟田線との接続駅、宮の陣に到着。先行する福岡からの各駅停車に乗り換えて西鉄久留米まで運ばれた。ここからJR久留米駅まで歩こうと試みたが、距離・方向ともにはっきりせず、途中でタクシーを拾った。料金は600円。後で調べると、西鉄久留米駅とJR久留米駅は2km以上離れていた。歩けない距離ではなかったとも思うが、スマホもない時代、地図も持っておらず、無計画ではいかんともしがたい。
 久留米発19時53分の快速電車で基山まで移動し、甘木鉄道に乗り換えて小郡で下車。甘木鉄道の完乗を果たし、先ほどとは逆のルートで西鉄小郡駅へ戻り、急行電車で西鉄福岡へ向かった。


 今日はこの後、博多発23時59分の西鹿児島行き特急「ドリームつばめ」を仮の宿に定めている。「天神あたりでもうまいラーメンは食えるよ」と誰かが言っていたのを思い出し、西鉄福岡駅近くの屋台で1杯450円のラーメンをすすった。時刻はまだ21時過ぎで、「ドリームつばめ」までは時間がある。天神の交番でコインランドリーの所在を尋ねると、3人の警官が顔を突き合わせて相談し、歩いて15分ほどのところにあるコインランドリーを紹介してくれた。そこで1時間ほどかけて洗濯し、やや生乾きの洗濯物を鞄に突っ込み、タクシーを拾ってJR博多駅へ移動した。話し好きな個人タクシーの運転手は、昭和36年まで札幌の自衛隊にいたとのことで、短い時間ながら会話が弾んだ。




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2025/10/05

1995年・最後の長い汽車旅【23】途切れたレールの行方

 前回の続き。


 9日目、2月2日の朝は、ぐっすり眠って8時過ぎにすっきりと目覚めた。朝食と朝湯を満喫して、9時半にチェックアウトと、今日もまたのんびりした出発になった。天気の方はあまりぱっとしないが、どんよりと重いわけでもなく、雨の心配はなさそうである。小浜郵便局に立ち寄った後、小浜温泉バスターミナル内の喫茶店で、島原鉄道の終着駅、加津佐方面へ向かうバスを待った。


1995020291  11時10分発の長崎県交通局バスは、加津佐の少し先、口之津行き。ちょっとそこまで、といった感じのおじさん、おばさんで、そこそこの乗車率になっているが、ほとんどの乗客は途中の停留所で下車していった。長崎、諫早へは半島西岸を北上するバスが早く、島原方面へも雲仙経由の方がはるかに速い。島原鉄道は、加津佐から島原半島をほぼ4分の3周して諌早へ向かう線形で、しかも途中区間が不通になっている。


 11時45分頃、加津佐バス停で下車。島原鉄道の加津佐駅へ歩く。時刻表を見ると次の列車は13時11分発でしばらく時間がある。昼食を求めて街を彷徨うが、なかなか食堂やレストランの類が見つからない。いい加減諦めかけた頃、国道から少し外れた商店街の中に、どうもこの街には似つかわしくない、おしゃれな感じのレストラン「鴻助」を見つけた。ハヤシライスと食後のコーヒーを注文する。他に客はいない。店内には、テレビでおなじみの「フレンチの鉄人」坂井宏行からの年賀状が貼ってあったりする。少し待って出てきたハヤシライスは、意外と量もあり、たいそうおいしかった。


 13時11分発の深江行き列車は、昨日と同じキハ20形の単行である。進行方向右手、最前部の席は、運転士のほぼ横に当たる「展望席」になっており、ここに陣取る。学生も乗っており、なかなか混雑しているが、やはり1駅ごとに下車して、車内が空いてゆく。少しうとうととして目が覚めると、お客は数えるほどしか残っていなかった。加津佐から1時間弱で深江に到着。ここから先の島原鉄道は普賢岳災害の影響で不通となっており、島原外港のひとつ先、南島原(現:島原船津)までがバス代行区間となる。


1995020201  深江駅前で待っていた列車代行バスは、バスとは名ばかりの8人乗りのワゴン車。正面ガラスに「列車代行 南島原駅←→深江駅」の張り紙がある。車体横には「島鉄タクシー」と記してあり、運転手も島鉄タクシーの人だった。乗客はたったの4人で、深江までの列車の運転士と車掌も乗り込んで発車する。島原外港で1人降ろし、14時20分頃、南島原に到着した。何台かで不通区間をピストン輸送しているようだが、昼間の閑散時間帯とはいえ、乗務員まで含めて8人乗り1台で用が足りてしまうとは、高架化工事を進めて、数年後の再開を期している不通区間の今後に不安が残る。


1995020202  南島原のホームで島原外港行きの列車を待っていると、鮮やかな黄色に塗られたディーゼルカーが目の前に入ってきた。「島原の子守唄」をイメージしたイラストが大きくかかれたこの車両は、1ヶ月半ほど前にデビューしたばかりの新車、キハ2500形である。つい誘われるようにふらふらと乗り込んでしまったが、この列車は逆方向の諫早行きである。まだかすかに新車の香りが残るデビューしたての車内には、運賃箱や運賃表が設備されているが、まだカバーが掛けられていて使われていない。近々ワンマン化に踏み切るということなのだろう。合理化のためのワンマン運転は、JRのローカル線も含めて当然の風潮になっており、鉄道維持のためには仕方のない施策になっている。


 島原で列車を降り、1kmほど離れたバスターミナルまで歩いて、島原外港へ戻るバスを探すが、しばらくない様子。ぼんやりと待つのも癪なので、タクシーを拾って港へ向かう。600円だった。港のターミナルでお土産を買い、実家宛てに宅配便で送っておいた。


 島原鉄道は島原外港ー深江間の復旧工事が1997年に完成し、およそ4年ぶりに全線での運転を再開した。けれども、そこから10年の間に、島原外港-加津佐間の沿線の大半を占める南島原市の人口は1割近く減少した。長期間にわたった運休は旅客離れを加速させ、皮肉なことに、復旧区間の設備にかかる固定資産税の負担が経営を圧迫した。南島原市の自家用車保有率は世帯当たり2.3台と県内トップクラスに高く、利用者の増加が見込めない状況にあった。島原外港-加津佐間は2008年、災害復旧からわずか11年で廃線となった。先を見る目がなかったと言ってしまえばそれまでだが、鉄道の存続にこだわり続けた人々のことを思うと、非常に複雑な気持ちになる。



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