2021/10/04

「さいとう・たかを」と総理大臣の椅子

Img_0160  先日亡くなった劇画家、さいとう・たかを氏の代表作と言えば「ゴルゴ13」だが、残念ながら私はこれをほとんど読んだことがない。けれども氏の隠れた名作のひとつに「歴史劇画・大宰相」がある。1945年、敗戦国となった日本が復興していく過程の中で起きた政治家たちの権力争いをダイナミックに描いた作品である。原作は戸川猪佐武の「小説吉田学校」であり、劇画の初出時のタイトルも「劇画・小説吉田学校」であったが、のちにタイトルを変えて文庫化された。私が所蔵しているのは2000年前後に出版された文庫版全10巻である。以前にも書いたことがあるが、田中角栄という人物に興味を持ったところからアプローチしたこの本は、私が戦後政治史にのめりこむバイブルとなった。


 「歴史劇画・大宰相」は、原作者の戸川が急死した1983年から少し後、田中角栄が脳梗塞で倒れて政治の表舞台から姿を消した1985年で終わっている。時の首相は中曽根康弘で、「三角大福中」と称された自民党実力者の最後の一角である。


 この時代、衆議院は中選挙区制で、同一選挙区内で複数の自民党候補が立ち、互いにしのぎを削っていた。本来政党という志や政策を同じくする者の集まりの中で、「派閥」というさらに小さなグループに細分化される理由ともなったのだが、一方で派閥は次世代を担うたくましい政治家を育ててリーダー(領袖)とし、そのリーダーを総理大臣の椅子に座らせるための「軍団」でもあった。1955年結党時の初代総裁・鳩山一郎以来、竹下登までの12人の総裁はすべて派閥領袖であった。


 「三角大福中」に続くニューリーダーと呼ばれていた竹下・安倍晋太郎・宮澤喜一の「安竹宮」のうち最初に総理総裁の座を射止めた竹下がリクルート疑惑の渦中で退陣を余儀なくされ、後継と目された安倍・宮澤の両名も疑惑の渦中にいた1989年にその潮目は変わる。宮澤は後に総理総裁となるが、キングメーカーとなった竹下派による院政と、その流れを汲む当時の新進党が仕掛けた小選挙区・比例代表並立制の導入により、派閥の地位は相対的に低下した。
 今の派閥を見渡すと、かつての軍団の面影は少なく、領袖の顔触れも総理総裁を目指すというよりは闇将軍を目指しているか、もしくは単なる雇われマダム的な印象が強い。竹下氏の後、14人が自民党総裁となったが、就任時に派閥領袖となっていたのは宮澤・小渕恵三・森喜朗・麻生太郎の4氏だけである。


 そういう視点で見ると、派閥そのものの功罪は別として、候補者中唯一の領袖である岸田氏が総理総裁になったということは、そこに様々な駆け引きがあったにせよ自然の流れに思えてくる。派閥領袖が総理総裁となるのは麻生氏以来、宏池会からは宮澤氏以来の総理大臣である。岸田派宏池会は池田勇人を源流とする保守本流の伝統ある派閥であるが、権力闘争に弱く「公家集団」と揶揄された派閥でもあった。自民党の下野により総理大臣になれなかった2人の総裁はいずれも宏池会に籍を置いていた。


 総裁選の経過や、その後の党人事・閣僚人事を見る限り、権力の二重構造の香りがぷんぷんと漂ってくるが、まずはこのコロナ禍をどう乗り切り、疲弊した経済と財政を立て直していくのか。主権者国民の選択は間近に迫っているようである。




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2021/09/26

帰省百態【7】クルマとフェリーの旅(5) 商船三井フェリー「さんふらわあ」

 積み残しネタと言えばもうひとつ、2年ほど前に書き始めてやはり中途半端で終わっていた札幌~岐阜間の帰省の話がある。

  帰省百態【0】岐阜・札幌間の小さな旅
  帰省百態【1】名古屋・札幌 空の玄関の28年
  帰省百態【2】50時間のクルマ旅
  帰省百態【3】クルマとフェリーの旅(1) 新日本海フェリー
  帰省百態【4】クルマとフェリーの旅(2) 東日本フェリー
  帰省百態【5】クルマとフェリーの旅(3) 太平洋フェリー その1
  帰省百態【6】クルマとフェリーの旅(4) 太平洋フェリー その2


 前半はクルマとフェリーの組み合わせでの帰省の話が中心になり、利用した航路もおおむね上記の3航路に集中しているが、最後にもうひとつ、これ以外で一度だけ利用した、苫小牧-大洗間の商船三井フェリーの話を書いておく。
 北海道と関東をダイレクトに結ぶ航路は、かつては釧路-東京、苫小牧-東京、室蘭-大洗などが存在したが、1999年から2002年にかけて相次いで廃止、あるいは休止となり、苫小牧-大洗が唯一の存在となっている。


 当時も現在も、この航路には夕方便、深夜便が各1往復運航されており、所要時間は18~19時間。私が利用したのは2007年12月29日、苫小牧発18時30分の夕方便、「さんふらわあふらの」である。ちなみにこの船は2017年に更新されており、現在の就航船は2代目。私が乗船した初代は、もともと東日本フェリーが「へすていあ」の船名で室蘭-大洗航路を運航しており、「へるめす」「はあきゆり」の姉妹船である。2017年に引退してインドネシアへ売却されたようである。


 当時、私たち一家は岩見沢に住んでおり、上の坊主は4歳、下の坊主は1月に生まれたばかりの0歳児であった。
 早くから子供を連れて札幌の実家に帰っていた嫁は、一足先に下の坊主とともに東京に住む叔父の家へと飛んでいた。28日まで岩見沢で仕事をこなした私は、29日の15時半頃、嫁の実家の両親に連れられてやってきた上の坊主と、苫小牧港フェリーターミナルで合流した。ここから坊主とふたりの船旅&クルマ旅である。


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 坊主は初めての船旅が待ち遠しくてしょうがないようで、ターミナルの外から、出航を待つ「さんふらわあふらの」と、仙台へ向かう太平洋フェリー「きたかみ」の姿を見て「ねぇはやくおふねにのろうよぉ」とはしゃぎ気味。16時半過ぎに車とともに乗り込み、カジュアルルーム(2等寝台)に荷物を置いて船内をひとまわりすると、目を丸くしながら走り回っている。
 この日はちょうど国内各地に雪をもたらした気圧の谷が通過した日であった。わが船も相当の揺れが予想されたため、レストランでの食事前に酔い止めのアンプルを親子ともども流し込むが、案ずることもなく坊主は、あれもこれもと皿に乗せてきたバイキングの料理をぺろりと平らげ満足気である。


 食後は大浴場へ。船が外海に差し掛かったようで、風呂の湯が大きく波打っては浴槽からこぼれている。大きなお風呂が大好きな坊主は、それもまた楽しかったようで、またまたおおはしゃぎ。風呂を上がった後も、船内を所狭しと駆け回り、船の大きな揺れで通路に何度もひっくり返るが、まったく平気である。


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 そんなこんなでやっと寝付いたのが22時過ぎ。つられてお父さんもそのままお休み。夜更かしすると絶対に早起きできない坊主が、翌朝7時にはピシッと目を覚まし、利口なことに一人で便所の場所を探し当てて用を足してきたらしく、眠くてしょうがないお父さんを必死でゆすり、
ぼくえらいでしょ、ね、ね、だからはやくあさごはん~
と猛アピール。お父さんも起きないわけにはいかず、手をひかれるままにレストランへ。朝食もいつもの3割増ほどの量をあっさりと胃に流し込み、再度浴場へ足を運ぶが、揺れのせいか浴槽の湯が半分以下しか残っておらず、入浴は断念となる。


 あとはキッズルームで見知らぬお友達と遊んだり、展望デッキで海を眺めたりと、大洗まで20時間程の船旅を全く飽きることなく、また船酔いすることもなく、元気で大洗に降り立った。坊主は「すご~くゆれたねぇ。でもたのしかったね。またおふねにのろうね」とニコニコしながら語り、車が東京ヘ向けて走り出すとほどなく、助手席でぐっすりおねむになってしまった。


 ところで私はこの航海の途中、車のカギを一瞬紛失して、坊主を連れてあちらこちらを探し回ることになった。30分近くかけて結局、展望デッキのソファの間にはまり込んでいたのを発見し、ほっとしたのであるが、よほどその出来事が印象に残ったらしい。以来、坊主が何か失くし物をすると「ちゃんと整理しておかないからだ!」と叱りつけるのであるが、そのたびに奴はニーッと笑って、「お父さんもフェリーの中でカギ失くしたよねえ」とのたまうので、二の句が継げない私は何の説得力も持たなくなる
 そんな坊主も18歳。誰かに似て受験票を忘れて受験に行くのではないかと、今から心配でならない。




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2021/09/20

特急「ニセコ」と「ノースレインボーエクスプレス」

 久々に温かめの鉄道の話。


Niseko  函館と旭川を結ぶJR函館本線は、長万部-札幌間で倶知安・小樽を経由する。このルートには国鉄時代、特急「北海」、急行「ニセコ」などが運転されていたが、山あいで線形が悪く、東室蘭・苫小牧を経由する室蘭本線・千歳線経由、通称「海線」の方が約30km距離が長いにもかかわらず所要時間は圧倒的に早い。沿線人口も多い「海線」は、1日10往復の特急「北斗」が結ぶメインルートとなっている。小樽経由の通称「山線」に、現在定期運転の優等列車はない。


 その「山線」に、2015年から観光シーズンの9月を中心に臨時特急「ニセコ」が運転されている。当初「ニセコエクスプレス」車両で運転されたこの列車は、「ニセコエクスプレス」の廃車に伴い2018年からはキハ183系の一般特急車両で運転されていたが、今年は「ノースレインボーエクスプレス」が投入された。
 9月上旬、函館へ出張する機会があり、その帰路にこの列車を利用してみた。


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 「ノースレインボーエクスプレス」は、1992年にJR北海道が新製した車両である。3号車のダブルデッカー車を含むハイデッカー構造は、当時のリゾート列車のトレンドで、3号車1階にはラウンジが設けられていた。改造車両を含めて一時期6編成となったJR北海道のリゾート車両は、富良野・トマム・ニセコなどの観光地へのアクセスに活躍したが、定期特急の強化に軸足を置いたJR北海道の戦略と車両の老朽化により廃車が進み、一昨年「クリスタルエクスプレス」が姿を消した後は、「ノースレインボーエクスプレス」が最後の1本となっている。

 
 「ニセコ」は函館13時58分発である。この列車の5分前、13時53分に出発する「海線」経由の定期特急「北斗13号」は札幌着17時47分、所要3時間54分である。一方の「ニセコ」は、観光列車で途中駅での停車時間も長めに取られていることもあり、札幌着は19時27分。所要5時間29分と1時間半以上余計にかかる。普通なら選択肢には入らないが、札幌帰着はどちらにしても17時を過ぎるから出社する必要はない。

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 前日利用した函館行き特急「北斗20号」は、函館着が夜20時を超えるという時間帯もあり、私の乗った車両は1両に乗客わずか3人と言う惨憺たる有様だったが、この日の「ニセコ」は、指定席に関してはざっと50%の入りと、コロナ下としてはかなり優秀な成績である。もっとも、ニセコや倶知安、小樽といった観光地が目的の客よりも、列車そのものが目的と言う客の比率の方が高いようにも見える。1号車の先頭座席の客は、乗車早々、前面展望の運転席後ろにビデオカメラを設置して臨戦態勢である。


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 列車は新函館北斗で新幹線からの乗り継ぎ客をいくらか増やし、青天に映える大沼・駒ヶ岳を横目に快調に走って、15時47分長万部着。長万部町のゆるキャラ「まんべくん」の歓迎を受ける。10年ほど前に毒舌キャラで人気を博しながらTwitter炎上騒ぎを起こして一時全国的に話題となった。乗客の向けるカメラに笑顔(?)でモデルを務めている。


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 長万部からは「山線」に入る。にわかに風景が緑の中に沈み、勾配のある線路を右へ左へと体をくねらせながら走る。黒松内昆布と、5両編成の列車全体がホームにかからない小駅に止まる。右手に羊蹄山の美しい姿が見え隠れする。17時11分発のニセコからは地元観光協会の車内販売が乗って来た。倶知安までのわずか14分間だが、「飲むヨーグルト」などの名産品がよく売れる。


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 17時25分着の倶知安で10分停車。古びたホームの隣には、真新しいコンクリート製の構造体が出来上がっている。北海道新幹線を迎え入れるため、在来線ホームを西側に移設する工事で、10月31日からの供用開始が予定されている。現在のホーム位置には新幹線のホームが設置される予定である。
 もっとも、新設された在来線ホームに2030年度以降も列車が走るかどうかについてはまだ決まっていない。函館本線の長万部-倶知安-小樽間は、北海道新幹線開業に伴い並行在来線としてJRから分離される方向である。余市-小樽間では一定の通勤・通学需要があるものの、この区間の2020年の営業係数は349と、新型コロナの影響を考慮しても閑散ローカル線並みの成績である。


 倶知安から徐々に窓の外が暗くなり、18時41分着の小樽に着く頃にはすでに真っ暗。ここで2割ほどの乗客が下車していった。札幌近郊区間に入った「ニセコ」は、快速「エアポート」が32分で走る小樽-札幌間を46分かけて悠々と走り、19時27分、定刻に札幌駅に到着した。全般的に乗客の入れ替わりは少なく、所要時間を考えても列車そのものが目当ての乗客が多かったことを物語っている。


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 今回運用された「ノースレインボーエクスプレス」は、2年前に利用した「クリスタルエクスプレス」と比べて車両自体の状態は良さそうだが、車齢は来年で30年を迎え、老朽化は着実に進行している。新たなリゾート用車両として、現行のキハ261系を特別装備した「はまなす編成」「ラベンダー編成」も出揃った。定期列車で走ることのない「ノースレインボーエクスプレス」に乗車するチャンスは少なく、ひょっとするとこれが最後かもしれない




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2021/09/06

ワクチン、接種終わりました。

 世間ではオリンピックの閉幕とともに想定どおり、というか想定を超える勢いで新型コロナウィルスの新規感染者数が激増し、北海道も岐阜県も緊急事態宣言の対象となった。パラリンピックも閉幕を迎えたこのところ、新規感染者の増加はいくらか鈍化しているようだが、病床の使用率や重症患者数など相変わらず高い水準にある。不自由な生活が続く中、仕事上しんどい日が続いていることもあり、珍しく自宅で缶ビールの栓を開けたが、350ml1本で泥酔し居間のソファーに沈没した。


 全国的にワクチンの接種が進む中、札幌市の進捗はきわめてゆっくりで、先日ようやく嫁が1回目の接種を終え子供たちの摂取県は8月に入ってようやく届いたばかりである。幸い嫁の努力で9月には1回目の摂取をできることになったようだが、なにしろダブル受験を控えている環境だからなるべく早い段階で安心できる状況にしておきたい。


 私はと言えば、会社の職域接種で、7月26日・8月23日にモデルナ製のワクチンを接種した。
 このところ異物混入の話題で持ちきりのモデルナ製ワクチンだが、幸い該当ロットからは漏れていた。ただ、噂にわさに聞いていた副反応はそれなりにしっかり出た。会社で同年代の人たちの話もいろいろ聞いたが、多少の個人差はあるもののおおむね同じような経過をたどったようである。年齢と副反応の強さは比例するような話もあり、ある意味ほっとするところでもある。


 1回目は腕の痛み程度で済んだ副反応だが、2回目はこれに加えて翌朝の明け方、軽い寒気で目が覚めた。体温計を引っ張り出して熱を測ってみると37.9度。とりあえず朝食をとってロキソプロフェンを服用。在宅勤務するうちに、お昼にかけて熱は36度台半ばまで下がり、食欲も快調。これで終わりかと安心する、というより不安になりかけた午後から7度台前半の微熱が続き、夕方頃から多少体に再びの寒気と軽い頭痛が襲ってきた。検温してみると38.2度。食欲はないわけではないが旺盛でもなく、普段の半分ほどの量を流し込み、2度目のロキソプロフェンを飲んで、さっさと布団にくるまった。それがピークで、翌朝には体温も体調も全く普通どおりに戻っていた。


 もちろん、ワクチン接種が終わったからと言って行動の制約がゼロになるわけではない。巷には緊急事態宣言が出続けており、ごく一部の横紙破りを除いては飲食店は短縮営業で酒の提供もしていない。会社の手前、9月頭に予定していた実家への帰省も延期した。社内にはワクチン接種をしていない人もおり、私自身が重症化するリスクは大きく低下したものの、自身が感染したり周囲の人に媒介する可能性は残っている。ワクチン自体も時間の経過で抗体量が大きく減少し、近々3度目の接種が必要になると言われている。軽々な行動をとるわけにはいかない。


 昨年の初め、北海道から火が付いた新型コロナウィルスの拡大は、1年半以上経過して当初の予想を大きく上回る感染拡大になっている。感染力や重症化率がインフルエンザと同等という声もあるが、少なくとも特効薬がまだない状況で同等に扱うのは無理がある気がする。
 こうした状況が続く中で、全力を傾けて対処しなければならない内閣は半年余りで仕事を放棄し、その後を引き継いだ総理大臣も今またその責務を放り投げようとしている。永田町は挙げて政局模様である。なんだかなあ、という気持ちが拭えない。




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2021/08/22

1990年春・九州一周の旅【15】総括と後日談

 3月24日の出発から14日間に及んだ九州旅行は、実はもう少し続きがある。私は熊本から乗った寝台特急「なは」を三ノ宮で降り、神戸でひと足先に大学生活を始めていた2つ年上の従兄の家に1泊して、ポートライナーや六甲ライナーなどを乗り歩いて、自宅に帰着したのは4月8日の夜であった。


 都合16日間の旅での移動距離は、あらためて計算してみるとJRだけで8,308.4km、その他の鉄道やバスなども含めるとおよそ8,720kmに達した。1日当たりに直すと545kmの移動で、数字だけ見るとただひたすら移動していただけのようにも見えるが、実際には夜行列車での移動が半分以上を占めている。
 この時の旅ではJR全線の乗りつぶしが主眼になっていたことと、周遊券だけで利用できるJR線を中心にした移動になったことで、JR以外の鉄道に乗る機会が非常に少なかった。こののち、目標を鉄道全線に切り替えたことで、私はあと二度にわたって乗りつぶしのために九州を訪れることになる。


 旅から30年が過ぎ、途上で出会った人々とは疎遠になってしまって久しい。それでもこの旅から5~6年くらいの間は年賀状のやり取りがあったりした。「はやぶさ」で出会った同級生コンビ、H君とM君のうち、M君からは、翌春、代ゼミ行きが決まったとしょっぱい手紙が届き、「火の山4号」の保母さんからはこの数年後に「結婚しました」のはがきが舞い込んだ。鹿児島の中学生O君や、「オランダ村特急」のKSさんとも年賀状のやり取りが何年か続いた。


 ユースホステルや車内で出会って一緒に記念写真を撮った人たちは、「あとで写真を送るよ」ということで住所を教えたが、その大半はそれっきりになってしまった。そんな中で、旅の記憶が少々薄れかけた6月頃になって、福岡の女子大生から「かいもん」の車中で撮った写真が届いた。いろんな方々と出会い、一緒に写真に納まったのだが、結局手元に残ったのはこれ1枚である。もっとも私とて、「はやぶさ」の車中でみんなで撮った写真を凡ミスでフイにしてしまっているからあまり他人のことは言えない。


 こうしてあらためて振り返ってみると、実にいろんな人々と、まさに「一期一会」を繰り返してきたということがしみじみと実感できる。列車に乗ることはもちろんだけれども、その行程の中での「人との出会い」は、若き日の旅の中で非常に重要なファクターであったことは間違いない。今の時代にこうした出会いが転がっているかというと難しそうな気もするし、この歳になるとむしろそういったことから隔離された中でひとりの旅を楽しむように、私自身の旅の質も変容しているのは事実である。
 この春以降私は、恋愛に振り回されて成績も精神状況も乱高下を繰り返しながら、長崎オランダ坂の喫茶店でで吹いたホラをまことにするため人並みに受験勉強に没頭し、太宰府天満宮のおみくじにも負けず、翌春晴れて北海道の人となった。


 ところで平成頭のこの旅を令和の今実現しようとすると非常に難しい。
 まずは夜行列車。東京~熊本・西鹿児島(鹿児島中央)の「はやぶさ」、西鹿児島・熊本~新大阪の「なは」はもちろん、九州内で宿代わりに利用した夜行急行「かいもん」「日南」は後身となった列車を含めてすでにない。それだけでもあの旅の再現は困難だが、列車では九州新幹線に置き換えられた門司港・博多~熊本・西鹿児島の特急「有明」、熊本~宮崎の急行「えびの」が消えた。SL「あそBOY」も引退し、「オランダ村特急」に使われた車両がその後継列車となっている。


 路線では、鹿児島本線の新八代~川内は九州新幹線の身代わりとしてJRから切り離され、肥薩おれんじ鉄道となった。日田彦山線の添田~夜明は2017年の豪雨により運休となっていたが昨年BRT化が決定した。バス路線も大幅減便になっていたり、国東半島の周遊バスのように路線自体がなくなっているところもある。なにより周遊券の存在がなくなったことで、同じところを行ったり来たりする不経済な乗り鉄旅自体が不可能になった。当時私は切符代を含めて20万円弱でこの旅を実現したのだが、今同じルートを忠実にたどれば倍近い金額がかかるのではないかと思う。


 以上、おしまい。
 



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2021/08/09

1990年春・九州一周の旅【14】旅の終わりは懐かしい友と夜行特急

 このところいろいろあってブログも若干放置に近い状態である。昨日終了した東京オリンピックについても書きたいことがないわけではないのだが、思うところがあまりにたくさんあるのでどれから手を付けてよいのかわからない。下手に書くと山積みしている仕事にも影響しかねないし、このところ鉄道ブログを標榜するのが憚られる状態にもある。
 実はこれまでにネタ枯れ対応として書いてきたシリーズ物がいくつか中途半端なままの状態で残っていることに気付いた。そのひとつが21年前の九州旅行編である。前回から半年以上も経過してもはや誰も記憶していないかもしれないが、興味のある方はこちらからどうぞ。


 1990年4月6日金曜日、12日間滞在した九州最終日の朝は、9時30分頃ユースホステルを出た。同宿の仲間は思い思いの方向へ散り、私は10時10分伊美発の大分交通バスに乗った。豊後高田営業所で乗り換え、宇佐からは12時16分発のL特急「ハイパーにちりん19号」で大分へ入った。
 12時58分着の大分駅の改札を出ると、懐かしい友人の顔が見えた。小学校1年生の終わりに引っ越していった同級生、HK君である。会うのは10年ぶりになるのだが、お互いよほど代わり映えしなかったと見えて一発でわかった。


 商店街の喫茶店で昔話に花を咲かせながら食事をとり、一緒にボーリングへ行った。それから不二家レストランへ連れて行かれて、そこでアルバイトをしているHK君の彼女を紹介された。干からびた青春真っただ中の私にとっては目の毒だが、遠くに住む友人が元気で楽しく暮らしているのはなによりである。


 乗車予定の列車まではまだ少し時間があるので、HK君と二人、駅前のパチンコ屋に入った。デジパチ台に座り、200円だけと玉を買って打つ。当然のようにわずかな玉は台に吸い込まれていったのだが、最後の一球がスタートチャッカ―に入って数字が回り出すと、同じ数字がぴたりと揃った。手元に玉はなく、隣の台の人に少し玉を分けてもらい、ドル箱を一杯にした。


19900406a  HK君の見送りを受けて、16時52分発の豊肥本線熊本行き急行「火の山6号」に乗った。列車は空いていて、素敵な女性と隣り合わせになることもなく、リクライニングシートを向かい合わせにして足を伸ばした。3時間弱の行程をひたすら眠り続けて、19時52分、熊本に到着した。
 九州を離れる列車に選んだのは、新大阪行き寝台特急「なは」。熊本発は22時33分で、2時間半ほど余裕がある。実は前夜、1週間前の「火の山4号」で同席した保母さんに電話を入れて、国東半島を紹介してもらったお礼かたがた、夕食でも、と勇気を出してお誘いしてみたのだが、翌日が入園式のために多忙とのことで撃沈。当然と言えば当然である。


 熊本駅内にあった焼き鳥屋「駅亭」に入り、馬刺しをつまみにビールのジョッキをグイっと空けた。3月26日に九州上陸してから12日、これまでの人生の中で最も長い時間列車に揺られてきた旅も終幕が近い。新鮮な風景やたくさんの人との出会い、日々感銘を受けながらの旅だった。3日後の月曜日からは高校3年生の新学期が待っている。大学受験に向けた最後の1年間で、当分こうした旅はお預けにせざるを得ない。九州最後の夜はそんな感慨の中で更けていった。

Naha Naharegato
 寝台特急「なは」の私の一夜の宿は、寝台車ではなく座席指定車「レガートシート」である。「なは」と新大阪~長崎間の「あかつき」だけの存在だった座席車は、寝台列車が最後の光を放とうとしていた時期、競合相手としてクローズアップされた高速バスへの対抗措置として設置されたものである。
 高速バス同様、独立3列のリクライニングシートが並ぶ車内は、座席の色が鮮やかなほかは改造前の殺風景な雰囲気そのままだったが、バスより広い車体幅のおかげで非常にゆったりとしていた。当初指定された座席が故障していて別の席に移動したほかは、特にトラブルもなくすこぶる快適であった。出発初日に新幹線の車内で購入したイヤホンは、九州内の「ハイパーサルーン」で大活躍し、この日の夜のレガートシートでも私の耳を慰めた。イヤホンから流れてくる「ランバダ」とともに、私の九州旅行は終わった。

 ※「レガートシート」の画像はTwitterより「ぐっ殿」さんからお借りしました。ありがとうございます。
 ※ 未成年のパチンコ・飲酒は法律で禁止されています。ご注意を。

 次回、総括。



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2021/07/26

【備忘録】相続手続をやってみた (2) 登記申請と遺産分割協議書

 法定相続情報証明を手に入れたら、あとは土地の相続手続である。
 

 中学校公民の世界になるが、遺産相続には「法定相続」というのがあって、我が家の場合、父の遺産は配偶者である母が2分の1、子供である私と妹が4分の1ずつというのが民法上の決めである。
 この場合の登記手続は、登記申請書、固定資産評価証明書または納税証明書の写し、相続人の住民票、相続が開始したことを証明する書類を法務局に提出することが必要になる。「相続が開始したことを証明する書類」は、先に述べた法定相続情報証明で対応できる。法定相続情報証明作成の際、私は相続人の住民票も併せて提出したうえで居住地の情報も載せてある。これで相続人の住民票も省略できる。


 けれど我が家は今回、家族で協議の上、遺産をすべて母に相続させることになった。不動産などの所有者が、遠くに住む者を含めた複数人の共有となると、今後何かと具合が悪い。実際そこに住むのは母一人である。
 いわゆる「相続放棄」はこの場面でしてはいけない。「相続放棄」すると、その法定相続人は最初から存在しなかったことになる。我が家の場合、子供二人が相続放棄すると、法定相続人が母と父の兄弟に移るだけである。


Isanbunkatsu  よってこの場合は「遺産分割協議書」を作成することになる。
 相続人全員が協議のうえ、法定相続によらない割合で遺産を相続した、という記録である。これは相続人全員の実印を押印してそれぞれが保有する。
 登記手続に際しては、上記の書類一式に加え、遺産分割協議書のうち1通と相続人全員の印鑑証明書をを法務局に提出することになる。この際、印鑑証明書の添付が必要になる。印鑑証明書の発行日は問われない。
 遺産分割協議書の作成方法は、インターネット上にも多数転がっており、入手はたやすい。また、遺産の相続方法が複雑でなければ、記載事項もシンプルで済む。我が家の場合は父名義の資産をすべて母に相続させるから、最もシンプルなパターンである。


Toukishinsei  登記申請書の作成方法もインターネット上で容易に入手できる。作成サンプルを参考にしながら、記載すべき事項をひとつずつ埋めて行けばいいのだが、こちらは若干コツを要する。
 まず添付する資料だが、「登記原因証明情報」、これは法定相続情報証明、遺産分割協議書、印鑑証明書、納税証明書または固定資産評価証明書が該当する。これらをひとまとめにして提出するのであるが、法定相続情報証明はともかくとして、それ以外の書類は原本をそのまま持って行かれてしまうと具合が悪い。そこで、添付情報の欄に「原本還付請求」と記載しておく。
 また、納税証明書・固定資産評価証明書は写しの提出でも構わないが、この場合は提出するコピーに「これは原本の写しである」と記入し、相続人または代理人の実印を押印する。


 続いて代理人である。今回の場合、相続人は母であるが、一連の手続は私が代行して進めることになっており、私は「代理人」の扱いになる。氏名の横に実印を押印し、印鑑証明書を添付することになるが、私は法定相続人のひとりであるので印鑑証明書は兼用できる。このように相続人以外が手続をする場合は、身内であっても「委任状」が必要になる。


 それから相続する不動産に関する課税価格と登録免許税、それに不動産の表示となる。
 不動産の表示は、課税明細書や固定資産評価証明書に記載されている不動産番号、所在地、地番、地目、地積、家屋番号、種類、構造、床面積を記載する。一連の不動産について、課税明細書・固定資産評価証明書に記載された課税価格(=固定資産評価額)を合計し、1,000円単位で端数切捨てをおこない課税価格を算出する。


 この時、相続により土地を取得した人が相続登記をしないまま死亡した場合、または市街化区域外の土地で市町村の行政目的のため相続登記の促進を特に図る必要があるものとして法務大臣が指定する土地のうち不動産の価格が10万円以下の土地に係る相続登記については、登録免許税が免税となる。我が家の場合は、相続を受けた一部の土地が後者の条件に該当しており、免税となった。読めば難しいが、要するに田舎の小さな土地で放っておいたら登記するのも面倒な土地は、登記を促進するために税金を取りませんよ、というものである。


 以上のようにして算出した課税価格に、0.4%を乗じて100円未満を切り捨てた金額が登録免許税、すなわち登記に係る税金である。先に挙げた非課税の特例を受ける場合は、前者の場合「租税特別措置法第84条の2の3第2項により(一部)⾮課税」、後者の場合「租税特別措置法第84条の2の3第1項により(一部)非課税」と登記申請書に明記する。登録免許税は金融機関で納付し、領収書を登記申請書に貼り付けるが、30,000円以下の場合は収入印紙で納付することもできる。


 一連の書類を携えて、私は岐阜地方法務局多治見支局へ出向いた。通常、一発では受理してもらえないともっぱらの噂であり、再度足を運ぶことは覚悟の上であった。窓口へ行き「相続登記で来た」と告げると、係の人は「相談だったら事前予約です。」とどこかで聞いたような冷たい返事であったが、「いえ、提出です」と言うと、やはりちょっと驚いたようにして私の書類をあらため始めた。必要書類はすべて揃っていたようだが、内容の一部に疑義があったらしい。
 係の人は、登記相談の当番とおぼしき老司法書士に、「ちょっと時間あったら見てもらえますかね」と私の書類を渡した。老司法書士は「10分だけだよ。10分経ったら予約が入っとるでね」と言って私の書類をパラパラと眺めた。これは非常に幸運なことであった。


 結果的には、この段階で先に記した登録免許税の特例を加味していなかったことを指摘されたのであるが、老司法書士は「これとこれは非課税だで、課税価格と登録免許税はこの金額になりますよ。後で還付請求も受けられるけど、実印持っとられるならここで訂正しなさい」と言ってくれた。「租税特別措置法云々」のゴム印も用意されていたのでお借りし、その場で登録免許税の訂正をして実印を押した。それから庁舎内の窓口で所要の収入印紙を買って貼り付け、割印を押して、書類を提出した。ここまでものの30分であった。


 不備があれば連絡する、とのことで、私はそれから数日間ひやひやしていたのだが、幸いお直しの指示が来ることなく、4日ほど後に無事に所有権移転登記が完了した。私はこの時点ですでに札幌に戻っていたので、受付時に渡された受付票の裏に、登記識別情報の受取人を母に指定した委任状を再度記載して母に預けておいた。


 その後、金融機関の口座解約手続については、事前準備だけを私がして、実際は現地で母に動いてもらった。手続内容は金融機関によってかなり温度差があったが、共通していたのは遺産分割協議書と印鑑証明書が必要だということであった。遺産分割協議書は原本を提示するより他ないので、結局1軒1軒順に処理していくより他なく、そういう意味では法定相続情報証明を事前に複数部作成しておいた意味合いは薄れた。あちこち走り回った割に持ち歩く書類の分量が減っただけ、という結果だったのだが、何事も経験である。
 もっとも、これとて何度も経験するわけではなく、順調にいけばあと1回するだけである。その次には自分が相続される側に回る番がやって来るはずである。
 



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2021/07/18

【備忘録】相続登記をやってみた (1) 法定相続情報を作成する

 父が亡くなり、葬儀がひととおり終わると遺産の整理という仕事が待っている。
 前回も書いたとおり、預金等も含めて現金や金融資産はそれほどないが、家や店の敷地と建物、それに先祖代々の小さな畑は不動産資産として残っている。評価額をすべて合わせても相続税の対象になるほどの金額はないので、金融機関の口座解約や不動産登記が主な仕事になる。


 こういう手続は司法書士にお任せしてしまうのもひとつの手であるが、7年前に祖父が亡くなった際の司法書士はすでに廃業している。葬儀社に頼めば別の司法書士を紹介してもらうことも可能ではあるが、幸いなことに当時の手続書類がひとまとめになって残してあった。大した金額ではないとはいえ費用が掛かる話でもあるし、私自身が会社で社有地や資産の売買に携わっていることもあって、それなら自分でやってみようか、ということになった。


 これらの手続を進めるにあたっては、被相続人たる父の出生から死亡までの戸籍謄本・除籍謄本、住民票の除票、それに相続人たる私・母・妹の戸籍謄本または抄本が必要になる。これらの書類の束を、口座のある金融機関や法務局などで手続のたびに提出し、確認が終われば返してもらって次の手続先にまた持っていく、ということが必要になるのだが、何度も手続を繰り返すのも面倒だし、さりとて必要な手続件数分の一連書類を用意するのも費用が掛かる。


 そこでこれに代わるものとして、法務局の「法定相続情報証明制度」を利用することにした。
 これは一連の戸籍・住民票の束に、自身で作成した「法定相続情報一覧図」を添えて法務局に提出すると、登記官がその一覧図に認証文を添えた写しを交付してもらうことができるというものである。この写しは無料で交付を受けることができ、登記のみならず金融機関での手続においても、一連の戸籍・住民票の束に代わる証明書類として使用することができる。この手続は被相続人の本籍地・最終住所地・被相続人名義の不動産所在地のほか、申出人の住所地でもおこなうことができる。


 まずは地元の市役所へ出向いて、父と母に関する戸籍・住民票などの書類の交付を受ける。私の場合、たまたま支所の窓口に中学時代の同級生がおり、事情をすべて知ってくれていたので、交付はスムースに運んだ。
 必要となる書類は上に書いたとおりだが、除籍謄本についてはその戸籍の中に誰も居なくなった状況を示すものである。父を筆頭者とする戸籍にはまだ母が残っているため、これは必要がない。


 もうひとつ気を付けなければならないのは、被相続人の出生日から死亡日までの連続した戸籍が必要になるということである。現代、普通に考えれば、本人の戸籍謄本とその両親、すなわち私から見て祖父母の戸籍謄本があれば用足りるのであるが、父の生まれた昭和23年というのは少々特殊な年に当たる。
 昭和22年に民法および戸籍法が改正され、それまでの「家」を基本とした戸籍から「夫婦」を基本とした戸籍にあらためられることになった。父が生まれた昭和23年4月17日の段階で祖父はまだ旧法に基づき曾祖父の戸籍の中におり、父の誕生の3日後、4月20日に出生届とともに新たな戸籍がつくられた。このため、祖父母の戸籍謄本だけでは父の人生に3日間の空白が生ずることになる。
 よってその3日間の間、祖父の名前があった曾祖父を戸主とする戸籍も合わせて提出することになる。


 提出書類のもうひとつは「法定相続情報一覧図」である。
 こちらは法務局のホームページに書式が掲載されているが、被相続人とすべての法定相続人の間柄を示す家系図のようなものである。被相続人の最終本籍地と住所、出生・死亡年月日、法定相続人の続柄、生年月日を記載する。身分を証明するための住所も記載することができるが、この場合は上記の書類に加えて法定相続人全員の住民票が必要になる。


 私は父の葬儀の後、ゴールデンウィークを挟んで約2週間実家に滞在したため、この期間中に妹にも依頼して必要な書類をそろえてもらった。私自身の住民票は札幌に戻らないと手に入らないため、書類一式を持って札幌へ帰り、私の住所を管轄する札幌地方法務局南出張所に出向いて書類を提出した。

 窓口の担当者は、「ご相談ですか?それなら事前予約してもらわないと」と人の話も聞かずに仏頂面で答えたが、私が「提出です」と書類の束を差し出すと、少し驚いたように書類をあらためた。先に書いた戸籍がひと世代分足りない話は実はこの段階で発覚したのだが、念のため持参していた祖父の相続の時の書類一式から流用することで事なきを得た。書類は無事受理され、「1週間以内にご連絡します」と言われた5時間後には「出来上がりました」と連絡を受けた。
Photo_20210718200101

 実際の完成品は、私が作成した法定相続情報一覧図を、登記の専用の台紙にコピーし、登記官の証明を添えただけのもので、特段ありがたみがあるわけではないが、とにかくこれで相続手続の第一段階は終了した。ここから先は、6月に再度帰省する際に手続することになる。


 つづく。



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2021/07/05

父のこと【3】

 そろそろ別の記事を、と思っているうちに、元中日・日本ハムの大島康徳さんの訃報が届いた。私たちの少年時代、「燃えよドラゴンズ!’82」で、「5番・大島 よみがえる」と歌われた大島さんの復活は叶わなかった。70歳という若さ,場所や期間は違えど癌との戦い、亡くなる数日前までブログを自分で書き続けた強さ。比べるのもおこがましいかもしれないが、やはり父のことが思い出される。もう1回だけ、父のことを書くことをご容赦いただきたい。



 子供との付き合い方が決して器用でなかった父だが、私が幼い頃、少ない夏休みに必ず家族を旅行に連れて行ってくれたことは印象深い。それは物心ついた頃からずっとそうだった。初めて新幹線に乗せてもらった1981年の神戸ポートピア'81、今は亡き豊島園で遊んだ1982年の東京、「大垣夜行」で運ばれ、開園したばかりの東京ディズニーランドへ行ったその翌年の二度めの東京などはよく覚えている。


 今になって思うのは、これらの家族旅行が、父の綿密な計画に基づいて進められたことである。私は子供心に、「あそこに行きたい、ここに行きたい」と多種多様な要求、場合によっては無理難題を押し付けたが、結果として私たちは旅行のあいだじゅう退屈することなく、また無理にせかされることもなく楽しい時間を過ごした。上野駅でカメラ片手にホームからホームへと飛び回る息子を父はどう見ていたか、今となっては知るすべもないが、子供たちを最大限楽しませてやろう、という気持ちは今更ながら感じる。


 思うに、父は常に自分のペースで歩いているように見えながら、いつも誰かのためにということを考えていたのかもしれない。年を取るにつれてその傾向は強くなったというか、子供たちが独り立ちしたあとはその思いが周囲に向けられたのかもしれない。帰省した時に見る父は、それまでとは変わって明るい雰囲気でよくしゃべる人になった。会社勤めを卒業した後に民生委員を引き受けたと聞いたときは、若き日の父に抱いた印象から、私は驚いたものである。


 父が亡くなって葬儀の打ち合わせの時、喪主になった私は、昨今増えている家族葬ではなく、普通の葬儀をすることにした。それは母が商売を営んでおり、お客様筋に対して失礼に当たらないようにとの思いだったのだが、いざふたを開けてみると、父に世話になった、という人が、私の想像を超えてたくさん参列してくださった。晩年になればなるほどそういう人の数は増えていったようである。葬儀という場面であることを差し引いても、そういう話を聞くことは私にとってとても気分のいいことだった。


 両親は以前から、自分たちが亡くなっても子供たちに残せるものは何もない、けれども子供たちに迷惑をかけないようにしたい、とよく語っていた。それは確かにそのとおりかもしれないが、父は母がこの先暮らしていける家と店を残し、私たちには自分たちで生活していけるだけの経験と「箔」を残してくれた。とある漫画本の中に出て来たセリフの受け売りになるが、親が残した最大の財産は子供であるというような言葉があった。さて、自分は父が胸を張れる財産になりえただろうか。


 闘病期間中、父は体を動かす拍子などに「痛い」という言葉は口にしたが、自身の命をむしばむ病と向き合う中で「つらい」とか「苦しい」ということを言わなかったと母から聞いた。たぶん私には真似のできない強さである。私はこの人の息子で本当に良かったと心から思った。
 四十九日を終えて父を埋葬した墓の中には、遡って5代の先祖たちがいる。その人たちを前に父が後ろめたい思いをせずに済むように、私は父が誇れる息子でありたいという思いを新たにした。父は祖父に遅れることわずか7年あまりで旅立ってしまったが、私はそうなるためにもあと50年は生きてやろうと本気で考えている。



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2021/06/29

父のこと【2】

 私が幼かった頃の父は、いつも忙しくて家にいない人だった。勤め先が名古屋だったため、私が起きるより早く家を出て、私が寝てから帰ってくるような生活を送っていた。月曜日から土曜日までずっとそんな生活だったから、日曜日は寝坊だった。一方、日頃は起こされないと起きない子供は、どういうわけか日曜の朝だけは早く目を覚ます。両親の寝室へちょっかいを掛けに行っては母に怒られるのが常だった。


 私が小学校4年生の時、父は病気を患ったことをきっかけに名古屋の会社勤めを辞め、地元の会社に転職した。それまで見ることの少なかった父の顔を見る時間が増えて、私は少々戸惑ったようである。それはひょっとすると父も同じだったのかもしれない。私は休みの日になるとキャッチボールに駆り出されたが、家の前の細い道路で向かい合う私たちはどこかぎこちなかった。おまけに、野球が得意でない私の投球フォームをくそみそにけなされて、私は正直うんざりな気分だった。 


 接する時間が短い割にはよく叱られた思い出が多く、厳しい、というよりは気難しい印象のあった父だったが、「勉強しろ」というようなことを言われた記憶だけはほとんどない。そこは見事に母と歩調が合っていた。私は中学生の頃から「大学は北海道に行く!」と公言しており、そのためにはそれなりの勉強を重ねなければならなかったのだが、高校では部活にのめり込み、家に帰ったら寝るだけという生活をしていても何も言わなかった。単に面倒くさかったのか、我が子を信じていたのかは定かではない。ただ、「私立だったらひとり暮らしはさせられないぞ」ということを言われた記憶はある。


 その父を私が最後に激しく怒らせたのは、大学の入学試験もひととおり終わった直後の出来事であった。前年の夏に失恋したことで地元から逃げ出したい一心だった私は、両親に無理を言って京都2校、東京2校の大学を滑り止め受験させてもらった。この他に両親のたっての希望で名古屋の大学も1校受験したのだが、最初に合格通知を受けた京都の大学に入学金を突っ込んでもらった。
 センター試験に失敗し、本命の希望がしぼみつつあって多少居直り気味になっていた私は、父の言葉にしたがって地元残留もやむなしと思い始めていた。名古屋の私立大学は「補欠」で連絡待ちとなっていたのだが、私は父に、補欠合格した暁には入学しようと思う、と伝えた。その途端、父の怒りが爆発した。家族全員が見守る前でつかみ合いになった。寺内貫太郎一家のように家の外まで吹っ飛ばされることはなかったが、初めて見る父の剣幕にさすがの私も脅えた。


 父の怒りの理由は、今思えばふたつあったのだろうと思う。自分の決めた進路に対して腰の定まらなかった私への戒め、そして経済的に過大な負担をかけようとしている私への怒りだろう。社会人として一番脂ののった時期に転職せざるを得なかった父の稼ぎはお世辞にもよくなかったと思う。そのことは後に、奨学金を取るために提出が必要だった父の源泉徴収票を見て知ることになる。今の私だって60万円をドブに捨てろと言われれば背筋が凍る。結果、京都の某大学に払った入学金30万円はそのまま流れ、名古屋の某大学から補欠合格の通知が届いたのは、本命の合格通知が届いた日の午後であった。


 合格を一番喜んでくれたのは外ならぬ父であったろうと思う。父と一緒に下宿探しで吹雪の札幌市内を歩き回り、「北斗星」で戻った数日間は、私にとって忘れ得ぬ最大の思い出になった。父は私を4年間飢えさせることなく大学に通わせてくれた。バブル崩壊後の就職氷河期のさなか、今の会社に就職が決まった時、喜んでくれた父の表情の中に一抹の寂しさを私は垣間見た。
 父と顔を合わせるのは年に1~2回、日数にしてほんの10日程度になった。心理的距離がほんの少し近付いた代わりに、物理的距離・時間的距離が遠くなって、差し引きすると私は相変わらず父との距離感をうまくとれずにいたのかもしれない。


 私は30歳で父になった。長男が11歳、次男が8歳の時に単身赴任になり、4年後に再び自宅に戻ってくる経過を経て、父が感じた子供との距離感をいやおうなしに実感することになる。程度の差、環境の差こそあれ、父が通った道を私も追っているのかもしれない。
 来年の春、長男は高校卒業の年を迎える。人生の岐路に立つ息子との葛藤の1年を私はどう過ごすのだろうか。父が亡くなって2か月、私はしばしばそんなことを考える。まだまだ本調子にはほど遠いようである。



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