2023/01/23

鉄道150年の肖像【2-1】50/150 乗り損ねた列車 (1) 20系ブルートレイン

 鉄道車両の寿命は現在では30年~40年が一般的である。国鉄時代からの車両がまだまだ元気に活躍しているところもないわけではないが、ここ5年くらいで急速に数を減らしてきたように思う。
 先日北海道の特急「北斗」から引退したキハ281系ディーゼルカーが、試作車登場からちょうど30年である。印象的なデザインのあの車両が登場したのはついこの間のことのように感じるが、実は北海道に特急列車が登場した1961年からの歴史のほぼ半分はキハ281系をはじめとするJR世代の車両がつくっている。こういうところで思った以上に長く生きてきたことを実感させられる。


 つまり私が物心ついた頃に走っていた車両はその大半がすでに鬼籍に入っており、「列車」単位で見ても世の中や鉄道の役割の変化によって使命を終えたものも多い。私が鉄道趣味に目覚めた10歳前後から、写真や映像の中で憧れ続けながらついに乗る機会が訪れなかった車両や列車もたくさんある。そういった点で私が「乗り損ねた」列車や車両について、いくつか書いておくことにする。


 1970年代後半、当時の小学生たちの間で一時ブームを巻き起こしたのが「ブルートレイン」である。写真を撮るために深夜まで駅のホームに出入りする小学生の姿が物議をかもしたこともある。当時新幹線と並ぶ国鉄のエース格であったことは疑いの余地はない。
 私も何度も利用したことがあるが、それらはすべてJRになってからのことであり、国鉄時代に乗車することはかなわなかった。車両形式もいくつかある中で、とりわけ強い憧れを抱かせたのは、以前に触れた151系電車と同じ1958年に寝台特急「あさかぜ」でデビューした20系客車である。


20  それまでの夜行列車は、1両単位で運用可能な「雑客車」と呼ばれる車両の寄せ集め編成だった。20系客車は編成単位で塗装や規格をそろえ、ディーゼルエンジンを積んだ電源車から編成全体に電源を供給する「固定編成」で製造され、深いブルーに細い白帯を3本巻いた統一感の高い編成は実に美しかった。ことに、東京寄り最後部の車端は、丸みを帯びた体に大きな曲面ガラス2枚を持つ印象的なデザインで、半分は乗客が自由に立つことのできる展望スペースだった。平成の時代には当たり前になった1人用個室寝台を初めて設け、編成全体の完全冷房化を実現するなど、「走るホテル」とも呼ばれた。


 私が鉄道に目覚めた頃、すでに寝台特急用の車両は70cm幅・二段寝台の14系・24系客車が主流になっており、52cm幅・三段寝台の20系客車は、東京-大阪間「銀河」などの急行列車への格下げ運用が中心となっていた。編成をバラされ、改造を受けて他形式の客車と混結する仲間もいた。客室の設備は確かに時代遅れになりつつあったけれども、国鉄暗黒期に生まれた無表情な14系・24系客車の「顔」と、高度成長期に生まれた20系客車の美しさは全く比較にならない。個人的には、寝台列車でしか味わえない「三段寝台」への興味もあった。


Dscn1926 Dscn1925 
 1980年の上野-青森(奥羽本線経由)「あけぼの」を最後に特急での運用を終えた20系客車は、1986年には急行を含む定期列車から姿を消した。私がひとり旅に出られるようになったのが1988年からなので、物理的に間に合わなかったことになる。
 1998年までにすべての車両が廃車となったが、一部の車両は解体をまぬがれて各地で保存された。中には公園やリゾート施設などで「列車ホテル」になったものもあるが、現在はすべて閉鎖された。不定期で車内を公開している車両はあるが、常時車内へ入れる保存車としては、京都鉄道博物館にある食堂車「ナシ20形」くらいではないかと思う。


 令和の時代の今、当時の20系客車の設備や旅客ニーズを考えると、「走るホテル」というよりは「走るビジネスホテル」の方が的を射ているような気がする。その使命を唯一受け継ぎ存在するのが「サンライズ出雲・瀬戸」ということになるのだろう。「TRAIN SUITE 四季島」「TWILIGHT EXPRESS瑞風」なども寝台列車だが、あちらは「走る滞在型リゾートホテル」であって、中の下の生活に日々追われる私などには用のない世界であり、憧れよりもむしろやっかみの気持ちの方が強い



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (1)

2023/01/09

鉄道150年の肖像【2】50/150 1972年~2022年 鉄道の在り方が問われた50年

 年も変わってしまったが、引き続き鉄道150年ネタを少々。
 

 鉄道100周年の1972年から昨年に至るまでの50年は、私が一緒に歩んできた鉄道の歴史である。
 もっとも、生まれて何年かの記憶はほぼないわけだから厳密にいえばイコールではないが、それまでの100年と異なり身近な存在であることは間違いない。けれどもその50年は、鉄道の在り方が問われる50年であったのではないかと思う。平たく言うと、鉄道が得意とする輸送分野と、苦手な分野(=他の交通機関の方が適している分野)が明確化され、それぞれの存在意義が浮き彫りになったことである。


Dscn1128 Jrq78701 
 鉄道が得意とする分野である短~中距離都市間輸送の象徴的な存在は、新幹線である。鉄道100年の1972年10月の段階で、東京-岡山間676.3kmだった新幹線は、その後50年で九州や北海道、日本海側へと伸び、昨年9月の西九州新幹線までで2,830.6kmに達した。
 在来線でも、国鉄後期からの特急・快速列車によるフリークエンシーの向上と、JR発足以降の新型車両の導入により、都市間輸送の充実が図られた。特に九州・北海道・四国が比較的早い段階から積極策に打って出たのが目立ったが、その後のバブル崩壊と、ベースとなる人口やその集積条件の違いなどにより、九州と北海道・四国は明暗が分かれていくことになった。


1991051 1991005 
 一方で、過疎化と少子化が進む地方における鉄道の比重は、自動車の発達や道路の整備とともに低下が著しくなった。昭和40年代の赤字83線問題は、列島改造を看板とした田中角栄内閣の登場により沙汰止みとなったが、国鉄の分割民営化を前にした1982年からは特定地方交通線の廃止が本格化する。輸送密度4,000人未満の路線のうち、第1次から第3次まで83線区が指定され、2線区が既存の交通会社、36線区が新設の第三セクター鉄道に引き取られた。残る45線区は鉄道が廃止され、バス転換となっている。


1991031 Dscn1193 
 辛くも生き残った地方交通線も、想定を上回る旅客の減少が続いた。1990年代半ばからは、函館本線支線(砂川-上砂川)を皮切りに特定地方交通線とは別枠でのローカル線廃止も進んだ。特定地方交通線からの転換線についても、弘南鉄道が引き受けた旧黒石線をはじめ、これまでに6線区が鉄道としての使命を終えた。
 2010年代の半ばからは、石勝線列車火災事故などをきっかけに経営悪化が表面化したJR北海道で、極端に利用の少ない区間の廃止協議が進んでおり、これまでに4線区4区間が廃止された。


 これに加えて、2020年から始まった新型コロナウィルスの感染拡大による旅客の減少は、これまで都市圏・都市間輸送の収益でローカル線を維持してきたJR各社の図式を崩壊させ、これまで水面下で進んでいたローカル線問題を顕在化させるに至った。

 昨年JR東日本・JR西日本が相次いで公表した路線別の平均輸送人員(=輸送密度)をみると、JR北海道が廃止を促進した輸送密度200以下の路線が東日本で14線区16区間、西日本で5線区7区間にのぼる。中には100円の収入を得るために1万円以上の経費が掛かる区間もあり、JR北海道の廃線区間をはるかに超える不採算路線も少なくない。



Dscn5791 Dscn1228 
 輸送密度1,000人以下まで範囲を広げてみると、上越線、奥羽本線、羽越本線、山陰本線などの幹線においても、県境区間を中心に対象となる区間が点在する。輸送量の大半を特急などの都市間輸送に依存している路線も多い。1988年に建設凍結が解除された整備新幹線は、着工の前提として、新幹線開業によりローカル化する在来線の経営分離の地元合意を要することになったため、「並行在来線問題」という新たなローカル線問題を生んだ。地元の需要だけでは鉄道を維持できなくなる事例も出てくるが、以前に書いた函館本線のように、旅客だけでなく貨物輸送への影響も考慮しなければならない。


 これらの路線が最終的にどうなるのかは、次の50年の課題として積み残される。いずれにしても1872年以来、国土の骨格を形成し、重要なインフラとして整備されてきた全国鉄道網の寸断が進むことは間違いないように思える。「はやぶさ」が東京と鹿児島を一昼夜かけて結び、「まつかぜ」や「白鳥」が山陰本線や日本海縦貫線をまる1日かけて走り抜けた国鉄時代の記憶を持つ者としては寂しい限りであるが、時代とともに役割や形が変わっていくのは世の常である。次の50年で鉄道の役割は何処に帰着するのか、まだまだ見守りたい気持ちも強いのである。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (1)

2023/01/05

あけましておめでとうございます

Dscn5127_20230105185301

 新年あけましておめでとうございます。
 旧年中は拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。


 例年、1月の年始になると、「今年はまじめにブログと向き合って」云々と大上段に構えて固い決意を刻み込み、結局12月になって目標に遠く未達のまま終わり、「本業が忙しくて」云々としみったれた言い訳を刻み込むのがここ数年の恒例行事になってしまっている。
 今年の1月、私は何を書いていたのだろうと思って過去記事を確認してみると、なんと1月に1本も書いていない。それどころか前年の11月28日から2か月以上もほったらかしである。今年最初となる2月6日のブログには、例によって本業が忙しかった云々に加え、1月に札幌で大雪が降ったので除雪が忙しかったので、などと書いてある。


 むろん、それはそれで事実であり、異動前の大仕事と異動後の慣れない仕事、さらには苦手な忖度に振り回されて1年が終わった。諸事情があって鉄道旅行にも出られず、出張ついでにほんのりと鉄旅気分を味わうのが関の山だったという、精神衛生上よろしくない状況でもあった。1年間で書いた記事の本数は15本。ブログを始めて以来最低である。


 ではパソコンに向かう時間が減ったのかというとむしろ逆で、前任の部署にいた時と比べると帰宅時間は1時間から2時間早くなった。寝る時間は変わらないから、その分余力は捻出されているはずなのだが、筆は進まない。Youtubeだったり、録りためた番組を観ている時間だけは増えている。その動画も、以前のようにドキュメンタリーやドラマなどは減り、頭を使わなくてよいバラエティー番組ばかりである。昨年の4月に「BSよしもと」などというチャンネルが開局し、大昔のベタベタな吉本新喜劇や花王名人劇場などが放送されるようになって、その傾向は一層強まった。


 考えてみれば私ももう50歳である。人生の折り返し点はとうに過ぎ、あと10年で役職定年になる。引き続き仕事をしようとすれば給料は半分以下に下がる。役員にでもなれば話は別だが、初夢ですらそんなに都合のいい夢は見せてもらえない。充実した人生を送るためには、ここからの10年の過ごし方をきっちり考えなければならない。ブログと鉄道旅行は私の人生の潤滑油である。もう少し真剣に向き合っていきたい。


 というようなことを書いていて、ふと、今年もやっていることは同じだよなあ、と残念な気持ちになった。それでは、と手始めにブログのデザインやトップの写真を入れ替えてはみたものの、よく考えればこれも私の「形から入る」よくない習性の発現である。忙しい日々は今年も続きそうだが、あまりそれを言い訳にしたくもない。毎日、とは言わないが、せめて週1回はしょうもない文章をつらつらと書く、という健康的な習慣だけは何とか守っていきたいなあ、と思っている。


 というしょうもない文章から今年も始まることになった
 皆さま、懲りもせず、本年もよろしくお願いいたします。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (4)

2022/11/28

今治にて~平成7年と令和4年

Img_4870 
 11月上旬、仕事で四国に行く機会があり、その帰路、28年ぶりに今治駅に降りた。


 1995年(平成7年)2月、私は長いひとり旅の途上にあった。大まかな行程こそ決めていたが、宿泊地はその日の行程の進捗次第で決める気ままな旅だった。安宿の情報はガイドブックや時刻表の後ろに載っていた旅館・ホテルの一覧表だけが頼りである。
 その日は深夜便のフェリーで新居浜に到着し、松山で一日伊予鉄道の電車を乗り歩いていた。道後温泉に泊まるような経済的余裕はなく、行程的にももう少し先へ進みたくて、私は時刻表を頼りに、今治駅に近い某ホテルに電話した。幸い空室があったが、道順を尋ねた際、「角のタバコ屋でチェックインを」と謎の指示が出された。


 19時過ぎに着いた今治駅前は閑散としており、わずかに開いていた1軒の古びた食堂に入り、酸っぱいような腐ったような妙な匂いのする店内で、親父の指のダシが出たうどんと親子丼を食べた。
 それから15分ほど歩き、ホテルへの小路を入る角に、指示されたタバコ屋があった。3,605円の宿泊料を支払うと、タバコ屋のおばさんが私を名前とは裏腹にくたびれたホテルへ案内した。部屋に風呂は付いておらず、入浴はどこで、と尋ねると、隣接のラジウム温泉で、とのことである。


 ホテルの裏口のような戸を開けると、ラジウム温泉のだだっ広い浴場に出た。件のラジウム温泉は休館日に当たっており、浴場内は暗く、当然誰もいない。その中で1 か所だけ照明が灯されており、たくさんある浴槽の中でその照明の真下の浴槽だけに湯が張られていた。桶を床に置けばその音だけが闇の中でこだまする落ち着かない浴場で、私はカラスの行水を済ませて逃げるようにして部屋へ帰った。翌朝街歩きもそこそこに、高松方面への列車に乗ってそそくさと今治を後にした。


Img_4871 Img_4872 
 それから28年ぶりに私は今治駅前に立った。駅前にあった古びた食堂群は解体されて跡形もなかった。今治桟橋へ向かって歩いていく途中、ふと思い立って、地図を調べてあの宿の場所に行ってみようと思った。
 小路へ入る角に見覚えのあるタバコ屋があった。今時タバコ屋も珍しくなったが、その店はまだ営業していた。そこを左に折れると、古めかしいラジウム温泉がまだそこにあった。別棟だと思っていたホテル「青雲閣」はラジウム温泉の増築部分にあった。


Img_4874 Img_4873 
 ホテルとラジウム温泉は長期休館となっていた。当時はゆっくりと眺める余裕もなかったが、あとから取って付けた風の増築部の向こう側は、古びてはいるが洋館風のしゃれた建物である。建物の入口に取り付けられた看板を見ると、1919年に建築され、太平洋戦争中の今治空襲も潜り抜けて、2016年に国の登録有形文化財に指定された由緒ある建物なのであった。
 当時私は青雲閣で布団にくるまり、今治という町は自分に対して何かの試練を与えている、せめて新居浜くらいまで行っておけばよかった、などと嘆いたものだが、なかなかどうして貴重な体験をしたことになる。


 インターネットやスマートフォンが当たり前の現代ならば、こうした予備知識も簡単に入手することができる。それがない時代には、無知ゆえに素通りしてしまう発見がたくさんあった。
 その一方で、新しいものに出会った時の驚きや爽快感は多少薄れてしまった感は否めない。そう言えば時刻表の100ページ以上を占めていた旅館・ホテル案内もいつの間にかなくなった。便利になるということは何かを失わせていくことに通ずる側面を少なからず持っている。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (2)

2022/11/20

鉄道150年の肖像【1-3】100/150 バス路線図からも消えた駅~東濃鉄道駄知線・駄知駅

 比較的身近な、ローカルの話題をひとつ。


Photo_20221101013101  1968年に公表された国鉄の「赤字83線」の扱いが議論されていた昭和40年代半ばは、国鉄のみならず地方のローカル線も同じようにバタバタと廃止に追い込まれていった時期である。そうした路線の中に東濃鉄道駄知線がある。私の実家のすぐ近くを走っていたこの路線を走る電車の姿を私は見ていない。最後に電車が走ったのは鉄道100年の年、1972年7月12日。私が生まれる1か月と1週間前のことである。


 この路線のことについてはいずれじっくり描きたいと考えているが、簡単に記すと以下のようになる。
 明治時代、中央本線の敷設が計画された際に、古くから陶磁器生産が活発だった駄知・下石・瀬戸などが活発な誘致運動を展開した。しかし中央本線は土岐川の北側、多治見を経由することとなり、誘致に失敗した地区の有力者が中心となって、国鉄中央本線との連絡のために「駄知鉄道」として1922年、鉄道50年の年に新土岐津-下石で開業した。1923年には駄知、1924年には東駄知まで全線開通し、1928年には国鉄土岐津駅(現・土岐市駅)へ乗り入れた。地方ローカル私鉄としては珍しく、戦後間もなくの1950年には全線電化されている。これは接続する国鉄中央本線より16年も早い。


 だが岐阜県統計書によると、まず1960年頃をピークに貨物輸送量が減少に転じた。最高で年間65,000トンを発送していた貨物は、それから10年で6割足らずの37,000トンに減った。旅客輸送は団塊世代が高校に通った1966年度で頭打ちとなり、その後じりじり減少し始める。地方ローカル線共通の現象である。それでも年間220万人の利用があったから、赤字83線よりはるかに状態はよかったはずである。
 そこへ1972年7月12日、のちに「昭和47年7月豪雨」と名付けられた激しい雨が駄知線を襲った。増水した土岐川の流れが駄知線の鉄橋を押し流し、列車の運転は13日から休止された。最終的には復旧費用の負担に耐えられないと判断され、1974年10月、正式に全区間の廃止届が提出されることになった。


Dscn1760 Dscn1771 
 廃線跡は7割方の区間がサイクリングロードとして整備され、スイッチバック式で貨物扱いも多かった駄知駅跡は、広い敷地を活用して東濃鉄道バスの土岐営業所に転用された。最盛期には40台あまりのバスが所属し、西は多治見、東は明智の先まで運用されていた。けれども少子化の影響で路線・車両の縮小が続き、2019年に多治見営業所(これも旧東濃鉄道笠原線笠原駅跡にある)と恵那営業所に移行されて廃止となった。
 廃止後も駄知停留所始終着のバスは残されていたが、今年9月をもってバス停留所としても廃止され、敷地は売却される方針だという。


Toutetsu011 Dscn1711 
 この営業所にはバス9台が収容できる車庫があった。この車庫は、鉄道時代の電車の車庫がそのまま流用されたもので、車庫内の舗装路面には線路の跡が残っていた。このことと、サイクリングロードのおかげで比較的線路跡が容易にたどれることもあり、最近では廃線ファンの姿もよくみられたそうである。敷地の売却により、おそらくこの車庫も過去のものと化すのだろう。両親が通学で毎日利用した鉄道の痕跡は、運行停止から半世紀を経てまたひとつ消えていくことになる。


 そういうわけで、私は自分の生まれ育った場所に最も近いこの鉄道に乗ることはおろか走っている姿も見ていないのであるが、唯一、この線を走っていた電車に会ったことだけはある。
 駄知線を走っていた電車は、幸運なことに9両すべてが廃線翌年の1975年に別の鉄道会社へ転籍していった。このうち、四国の高松琴平電気鉄道に引き取られた5両のうち2両に、琴電仏生山工場で会うことができた。1995年2月のことである。


1995020901 1995020902 
 5両のうち2両はすでに廃車となっており、残り3両となっていたうちの2両が検査のため入庫しており、作業員の方に了承を頂いて写真を撮らせてもらった。左の電車(東濃鉄道モハ102→琴電72)は、この日会えなかったもう1両とともに、東濃鉄道が1950年の駄知線電化に際して新車で導入した車両で、東芝が製造した唯一の旅客用電車という希少価値のある車両でもある。
 2枚の写真の電車は、この3年後の1998年に廃車となった。最後まで残った1両も2000年に廃車となり、駄知線を走った電車はすべて姿を消した。災害による廃線という出来事を越えて、その後四半世紀近く生き永らえたこれらの電車は幸せだったのだろうと思う。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (0)

2022/10/27

鉄道150年の肖像【1-2】100/150 「つばめ」とパーラーカー

 私が直接知らない100年の鉄道の歴史については、鉄道関係書や「鉄道ジャーナル」のバックナンバーなどで触れることができる。元来私は歴史とか過去のものとかに対する興味が強い方なので、昭和40年代頃までのいわゆる「鉄道全盛時代」あるいは「鉄道万能時代」の列車については少なからず憧れはある。


Timetable196408  私の手元にあるもっとも古い時刻表は、1964年8月号である。もう30年近く前に古書店で入手したものだが、定価150円の古雑誌が1,800円だった。それはさておき、表紙からして、朱と黄色に塗り分けられた修学旅行専用電車である。東京地区発用が「ひので」、関西地区発用が「きぼう」と名付けられていた。中京地区発用は「こまどり」だったと、実体験者である父から聞いた記憶がある。全国各地に設定された修学旅行専用列車は、修学旅行生の新幹線利用へのシフトとともに急速に数を減らし、1970年代前半でほぼ姿を消したが、「こまどり」だけは使用車両を変えながら平成初期まで生き延びたそうである。


Dscn1882  さて、この頃の私の最大の憧れは、新幹線開業前の東海道本線を往来した電車特急群である。「つばめ」「はと」「こだま」「富士」「おおとり」に使用された151系電車は、国鉄の電車特急時代の幕開けを告げた画期的な車両である。1958年、「こだま」でデビューした151系電車(当初は20系電車と呼ばれた)は、東京-大阪を6時間50分で走破し、「ビジネス特急」と呼ばれた。1960年、それまで展望車を従えた客車編成で走っていた「つばめ」「はと」の置き換えに際して登場したのが、クロ151形式の通称「パーラーカー」である。


 当時の国鉄は2等級制で、現在のグリーン車に相当するのが1等車、普通車に相当するのが2等車であった。1等車は「こだま」登場時から連結されていたが、展望車に相当する特別な車両を提供する必要に駆られて登場したものだろう。現在であれば東北・北海道新幹線などの「グランクラス」に相当する車両だと思うが、個室・開放席を合わせてわずか18名の定員だったというから、その特別さが窺われる。
 (⇒当時のパンフレットの写真


 だが、東海道新幹線の建設工事さなかに登場したパーラーカーは、最初から短命を運命づけられていた。1964年10月の新幹線開業により、東海道本線の昼間の特急電車は全廃され、パーラーカーを含む151系電車は大阪から広島・下関・博多への新幹線接続特急に転用された。旅客構成の異なる山陽本線では料金を下げてもパーラーカーの利用は芳しくなく、登場からわずか6年の1966年から開放席部分を普通車に改造する工事が始まる。さらに1973年までには全車普通車に改造され、1979年までに製造された12両すべてが廃車となった。


 昨今の電車が30年、40年と使用されるのに比べると、20年に満たない車齢は非常に短命である。「悲運」といえば悲運だが、程度の差はあれ、おそらく当初から転用改造を想定していたのではないだろうか。逆に考えればその短期間でもパーラーカーを投入する必要性があるほど、当時の東海道本線はステータスの高い路線だったということが言える。まだ航空機の大衆化が進んでいない時代である。


Dscn1901 P7106015 
 3年前訪れた京都鉄道博物館に、クロ151形パーラーカーの開放席の座席が展示されていた。古いパンフレットで見た豪勢な雰囲気とは裏腹に、座席が単体で置かれていると妙にみすぼらしく見えた。強いてあげれば、JR九州787系電車のDXグリーンの座席がこれに近いような気がする。時代の差もあり、高級感と言う点ではやはり「グランクラス」の方が1枚上の感じはするが、時刻表上にも「」(=展望車の意味)のメークを付して東海道を誇らしげに走っていた151系のパーラーカーははやり国内最高峰の車両だったのだろう。私が現物を知らない中で最も強く憧れる車両である。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (2)

2022/10/17

鉄道150年の肖像【1】100/150 歴史の中の鉄道

 今年、2022年は、日本に鉄道が誕生して150周年の記念すべき年である。このところテレビでも鉄道を特集する特番が多くなっている。予約番組を追いかけるだけでも大変な時間と労力を要する状態になっている。


 1872年(明治5年)10月14日(当時使われていた旧暦では9月12日)、新橋と横浜の間に、日本で初めての鉄道が開業した。厳密にはその4か月前の6月12日に品川と横浜の間で仮営業が開始されているが、正式営業が開始された10月14日がのちに「鉄道記念日」、現在の「鉄道の日」と定められている。
 私がこの世に生を受けたのが鉄道100周年の1972年。鉄道に興味を持つようになっておよそ40年が経過している。ずいぶん長いこと鉄道と触れ合って来ているような気がするが、私が事実として鉄道のあれこれを語れるのは、その歴史の中の3割にも満たないのである。


Dscn4632 Dscn4627 
 開業当時の新橋駅は、のちの東京駅開業に伴い貨物専用の汐留駅となり、1986年に廃止され、のちに旧国鉄の債務返済のために土地の大半が売却された。現在は高層ビル群に守られるように、復元された日本の鉄道の起点を示す「0哩標識」と「旧新橋停車場」の建物・ホームが名残を残している。また、終点の横浜駅も、名古屋・大阪方面への線路延伸によって支線の駅となった。現在の根岸線桜木町駅である。


 開業当時の列車は、この区間を品川・川崎・鶴見・神奈川の4駅に停車して53分で走った。150年後の現在、京浜東北線の電車は今の新橋と桜木町の間を12駅に停車して40分弱で結んでいる。
 開業当時に使用された「1号機関車」は、大宮の鉄道博物館に静態保存されている。また、1974年に増備された23号機関車は、その後尾西鉄道(現在の名鉄尾西線)12号機関車となり、現在は犬山市の博物館明治村で動態保存されている(2019年から老朽部品更新のため運休中)。「陸蒸気」と呼ばれたSLのわが国最古の動態保存車両である。


 明治期に主要都市間を結ぶ鉄道の建設工事が急ピッチで進められ、民間が建設した山陽本線・東北本線などが日清・日露戦争の軍需物資輸送を経て国有化されることにより、最初の50年間でのちの国鉄につながる幹線鉄道網が形成された。1889年に神戸まで全線開業した東海道本線の所要時間は約20時間だったが、1921年には11時間50分、1930年には超特急「燕」により9時間まで短縮された。この頃から1940年頃までが日本の鉄道の第一次黄金期だったようである。しかし太平洋戦争の長期化により輸送体系は貨物・軍事輸送中心へのシフトが進み、1942年2月18日の本土初空襲から終戦まで203回の空襲のうち、108回で国鉄路線が何らかの被害を受けた(「国鉄の空襲被害記録」集文社・1976年)。人員・物資の不足もあり、鉄道輸送は深刻なダメージを負った。


Dscn1882 P1045415 
 終戦後の国鉄は、1949年に公共事業体の「日本国有鉄道」に経営形態が変更され、急激な回復を遂げる。1950年には東京-大阪の所要時間が戦前水準の8時間を回復し、1956年の全線電化、1958年の特急電車化を経て、1964年の東海道新幹線開通を迎えて東京-新大阪は4時間で結ばれた。鉄道の第二次黄金期である。


 輸送量の増加が続く一方で、1950年頃にピークを迎えた鉄道輸送のシェアは、道路整備の進展と自動車の発展、航空路線の登場などにより、旅客・貨物とも減少に転じた。新幹線が開業した1964年度から国鉄の収支は単年度赤字に転じ、以後再び黒字となることはなかった。この辺りは以前にも書いたので詳細は省くが、閑散ローカル線の赤字問題も深刻になり、国鉄の「赤字83線」問題をはじめ、地方ローカル私鉄の第1次廃線期を迎える。こうした状況の中で日本の鉄道は1972年、開業100周年を迎えた。


 ここまでは私が歴史としてしか触れられなかった鉄道である。古き時代の鉄道を伝える書籍や雑誌には、非常に興味深い列車や風景、設備などがたくさん紹介されている。そのほとんどは私が物心つく前に歴史の1ページとなってしまっており、わずかに残ったものも私が体験する前に姿を消してしまったものが大半である。


P1045428  誕生100年を超えて、速達性や利便性を追求し続けて来た鉄道から私たちが得たものは計り知れない。それゆえに「昔はよかった」などと我々が軽々しく語ることはできない。仕事や日常生活で鉄道を使う人々が、現代ならば2時間半の距離を、背中にモケットも設置されていない直角座席で10時間近くも揺られて行くなど、修行もしくは拷問のようなものである。


 けれども、そういう時代の鉄道旅行には、月並みな表現だがある種の「温かさ」が漂っていた。それは齢50を数える私の脳裏にも少なからず残っている。私はその残像を求めて、時々ふらりと普通列車に身をゆだねているのかもしれない。なかなか旅に出ることもままならない今日この頃、そうした鉄道への雑多な思いを少しずつ思い出しながら記してみようと思う。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (3)

2022/10/03

「並行在来線」の旅【2】函館本線と「キハ281」

 前回の続き。


 木古内から函館方面へ戻り、分岐駅の五稜郭で下車。夕方の特急まではまだ時間があり、函館本線を普通列車で辿ってみる。


Dscn5146 Hakodatesen 
 五稜郭で、昨年の秋乗った札幌行き臨時特急「ニセコ」を見送り、14時26分発の森行き普通列車に乗る。地元客があらかた下車した七飯の先で、ここまで複線で来た線路は二手に分かれ、左側を走る非電化の単線が高架で私たちの進む電化の本線を跨ぎ、右方向へ離れていく。
 この分岐線は通称「藤城支線」と呼ばれ、下り(札幌方面)列車の勾配緩和のために1966年に設けられた。途中に駅はない。特急列車や貨物列車は下り列車に限りすべて勾配の少ない藤城支線経由で運転されてきたが、2016年の北海道新幹線開業により、すべての特急が渡島大野あらため新函館北斗経由になった。以降、藤城支線を経由する旅客列車は、上り列車との行き違いの関係で3本の下り普通列車のみとなっており、北海道新幹線延伸で経営分離された暁には廃止される公算が高くなっている


Dscn51492  我が列車は架線の下を進み、北海道新幹線の車両基地を左手に見ながら新函館北斗に着く。接続の関係で乗降客は少ない。電化区間はここで終わり、にわかに勾配が厳しくなる。仁山を過ぎ、右手から先ほど別れた藤城支線が近づいて来るが、交差する前に向こうはトンネルに入る。次に藤城支線が顔を出すのは、進行方向左手に小沼が見え始めるころで、小沼と我が本線の間に割り込むようにして入ってきて大沼に着く。
 函館本線は大沼の先で再び2本に分かれる。左へ進んでいくのが本線で、大沼公園駅を経て大沼、駒ケ岳の西側を森へ進んでいく。私たちの列車は右へと向かっていく。こちらは大沼の南岸を通って東側から駒ケ岳を回り込み森へ向かう通称「砂原支線」である。


 砂原支線も、もとは大沼公園経由の本線の上り(函館方面)列車の勾配緩和のために1945年に開通した。上り特急・急行列車のうち、馬力に勝るディーゼル列車は距離の短い大沼公園経由、機関車牽引の客車列車と貨物列車は勾配の少ない砂原線経由で運転されていた。客車列車でも機関車が重連で牽引する「北斗星」は大沼公園経由で運転されていたが、機関車が1両しか付かない急行「はまなす」の上り列車は砂原支線経由で運転されていた。
 現在は砂原支線を走る優等列車はないが、藤城支線と異なり、距離が長く途中駅もあり、普通列車は大沼公園経由と砂原支線経由がほぼ半々で運転されている。もっとも両方合わせても運転本数は1日10往復あまりである。


Dscn5153 Dscn5152 
 大沼から次の鹿部にかけては、駒ケ岳山麓の深い雑木林の中を走っていく。枝は開け放った窓のすぐそばまで迫っている。駅の規模の割に立派な駅舎を持つ鹿部までは大沼から14.6kmと長い。この間には池田園・流山温泉・銚子口と3つの駅があったが、今年3月に揃って廃止となり、列車の止まらなくなったホームの跡だけがそこが駅であったことを偲ばせる。函館本線全体では、ここ6年間で11駅が廃止になっている。


Dscn5154 Dscn5155 
 駅周辺にめぼしい建物の見えない渡島沼尻、渡島砂原を過ぎ、ようやくぽつぽつと畑が開けてくると掛澗(かかりま)。行き違いのためここでおよそ18分の長停車となる。ここまで乗車してきた客は10数人で、その大半が旅行鞄とカメラを持っているが、停車時間の間に半分ほどの客がホームに降りて列車や駅の写真を撮っていた。その筋の人々のようである。私にしても古びたこ線橋を渡って小さな駅舎の外へ出てみる。海側に向かって住宅地が広がっているようだが、建物の少ない駅周辺は閑散としている。数人のファンがたむろするホームを、長い貨物列車が唸りながら通過していった。


Dscn5162  掛澗からは海に近い平坦な住宅地の中を走り、16時27分、着。16時30分発の特急「北斗14号」で函館に引き返し、夕食を調達してから17時52分発の札幌行き特急「北斗19号」に乗るため、再び函館駅の改札を抜けた。
 「北斗14号」の車両は、1994年にデビューしたキハ281系7両編成。「北斗19号」も、この列車の折り返しで運転される。「スーパー北斗」として、全盛期には最高時速130kmで、札幌ー函館を2時間59分で走破した。表定速度106.2km/hは、並み居る電車特急を抑えて永らく在来線最速だった。


Dscn5113  それから28年、2012年頃から頻発した車両トラブルを受けて最高速度は120km/hに抑えられ、新幹線開業に伴う経由区間の変更もあり、最速3時間33分、「北斗19号」で3時間44分と往年の韋駄天ぶりは鳴りを潜めた。他の列車にコンバートされることなく、札幌ー函館のみを走り続けたキハ281系は、9月30日をもって定期運転から退いた。国鉄時代に登場したキハ183系よりも早く引退することになるとは意外であったが、それだけ酷使されてきたことの現れでもある。1992年に登場した試作先頭車には、登場当時の「HEAT281」のロゴが復活し、10月22日・23日に予定されている最終運転に花を添える。


Dscn5165  札幌までの帰路、私は心地よい疲れでぐっすりと眠った。「北斗19号」は、車両の性能を持て余すようにゆったりと体を揺らしながら噴火湾に沿って走る。乗り心地はよく、まだまだ余力があるように感じられた。昨年この時期に乗車し、今日の昼五稜郭で見送った「ノースレインボーエクスプレス」も今年で引退が決まり、札幌ー旭川-網走の特急「オホーツク」「大雪」に残るキハ183系も年度内での引退が決まっている。JR北海道の全盛期に北海道へ来た私は、今、JR北海道が一番厳しい時期を目の当たりにしている。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (0)

2022/09/27

「並行在来線」の旅【1】道南いさりび鉄道

 先日、所用で函館に出掛けた。翌日は土曜日で札幌に帰るだけだったので、列車の時間を遅らせて函館近辺の鉄道を久しぶりに乗り歩いてみた。


Isaribi Dscn5118 
 まずは道南いさりび鉄道である。旧JR江差線だった五稜郭-上磯-木古内は、北海道新幹線新函館北斗開業とともにJR北海道から経営分離された。北海道における並行在来線の転換第1号である。この区間はかつて寝台特急「北斗星」や夜行急行「はまなす」で何度も通っているが、昼間の普通列車で辿るのはおそらく31年ぶりである。
 五稜郭-木古内の普通運賃は980円であるが、「いさりび1日きっぷ」を利用すれば通常1,000円で1日乗り放題になる。この時期は北海道からの補助が入り、700円と片道運賃より安い。駅近くのホテルで購入すると、往年の「青春18きっぷ」のような大ぶりのきっぷが渡された。


Img_4791 Dscn5124 
 前回のブログで触れた函館本線・函館-五稜郭同様、本州と北海道を結ぶ貨物列車の往来が多いこの区間は、やはり協議の中でいったんは廃止の提案がなされた経過がある。最終的には北海道が筆頭株主となって第三セクター化されることが決定し、貨物の動脈は守られた。
 函館9時53分発の上磯行き普通列車は、国鉄時代のタラコ色に塗られたキハ40形。地元客を中心に10数人の客を乗せた車内は直角座席とロングシートを組み合わせた往年のままである。JRから譲り受けた車歴40年に近い車両を使い続けなければならないあたり、この路線の厳しさを物語っている。


Dscn5130 Dscn5128 
 函館の次の五稜郭で函館本線と別れて西方面へ進む。七重浜あたりから海が近付いてくるが、函館市郊外の住宅街が続く。乗客の出入は乏しく、北斗市役所に近接した清川口で5人ほどが下車しただけで、10時15分、上磯に到着した。駅前は小さな市街地になっているが、タクシーが1台止まっているだけで閑散としている。駅から正面へまっすぐ200mほど進むと国道228号に突き当たる。その向こうは函館湾で、やや左前方に函館山がそびえているのが見える。


Dscn5131 Img_4795 
 10時56分の木古内行きは、「ながまれ」号と呼ばれる濃紺色に塗られたキハ40形。先ほどの列車とはうって変わって観光客を中心に20人を超える乗客である。上磯を出た列車は、セメント工場の敷地を避けるように内陸へ迂回する。断続的に続いていた民家は途切れ、雑木林の中を走って行く。わずかに市街地が開けた茂辺地で貨物列車とすれ違い、ほどなく海岸沿いへ出る。進行方向左手には、青い海の向こうで、函館山のこんもりした姿が青空に映える。さらにその向うには、うっすらと下北半島の影も見える。あらためてじっくり眺めるとなかなかの眺望である。


 泉沢で、黄色く塗られた函館行きの普通列車と行き違い。この線の駅は、貨物列車との行き違いが想定されているため、どこも行き違い設備が長い。たった1両どうしの普通列車がすれ違うにはもったいないが、行き違う貨物列車は20両クラスの長編成ばかりである。
 泉沢を出ると山手側に函館江差自動車道が近付いてくる。あちらは立派な高架橋、こちらは貧相とは言わないまでも単線の地上線である。


Dscn5139 Dscn5137 
 札苅を出ると山側からさらに立派な北海道新幹線の高架橋が近付いてきて、そのまま1kmほど並走して、11時37分、終点の木古内に到着。線路はさらに先へ向かって伸びているが、この先の区間を通常走るのは貨物列車だけである。この先で分岐していた松前線は、青函トンネルの開業を前にした1988年2月に、江差線も北海道新幹線の開業を待たずに2014年5月、廃止となった。
 廃止路線の代替となるバスは駅南側のロータリーに発着しており、松前へ10往復、江差へ6往復が運行されている。先に鉄道がなくなった松前方面へのバスの方が本数が多いのは地理的条件によるもので、江差へはこれとは別に新函館北斗駅を経由して函館駅を結ぶバスが1日5往復運転されている。


Dscn5133 Dscn5134 
 バス乗り場の整備された南側のロータリーの向こうには、立派な道の駅が整備されており、その一角を占めるパン屋の前には数十人に及ぶ行列ができている。ちょうどお昼時ということもあるのか、道の駅の中もたくさんの客で賑わっている。私は名物と言えども並んでまで食べるほどのこだわりはないので様子を眺めて感心するだけだが、レンタサイクルやレンタカーの窓口もあり、とにかく活気があってよい。


Dscn5135 Dscn5136 
 それとは対照的に、駅内通路で線路を跨いだ反対、北側にある北海道新幹線の木古内駅は閑散としていた。先ほど列車を降りた際も、観光客を含めて大半の客が南口に進み、新幹線駅のある北口へ進んだ客はわずかだった。もっとも、木古内駅に停まる新幹線は1日8往復だけで、次の東京行きは13時01分。ダイヤ上も1時間24分待ちでは接続を取っているとは言い難い。コンパクトな新幹線駅内に乗客の姿はなく、整備された駅ロータリーの周囲には介護施設とまばらな住宅が見えるだけで静かである。


 折り返し函館行きの発車まで1時間14分の間、函館方面に向けて長い貨物列車が2本、走って行った。それを追う函館行き普通列車の乗客は少なく、私は海の見える進行方向右手のボックスを独り占めし、窓を大きく開け放って潮の香りを楽しんだ。
 道南いさりび鉄道の令和2年度の鉄道事業収入は約16億円、うちJR貨物からの線路使用料収入が15億円に達し、一般旅客収入は1億円に満たない。鉄道事業収支は2億円余りの赤字となっている。沿線人口が減少の一途をたどる中、先行きは決して明るくない。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (0)

2022/09/20

もうひとつの「ローカル線」問題~北海道新幹線と並行在来線【2】函館-長万部の課題

 前回の続き。


Dscn5149  北海道新幹線の並行在来線区間となる区間のうち、函館-長万部については、2021年度の輸送密度が1,636人(コロナ前の令和元年度で3,397人)であるが、新幹線アクセスの機能を有する函館-新函館北斗を除けば、その大部分は函館と札幌を結ぶ特急「北斗」に負っている。北海道新幹線並行在来線対策協議会(以下「協議会」)第8回渡島ブロック会議に提示された資料によると、新幹線札幌開業後の新函館北斗-長万部の輸送密度は195人、開業後30年経過した2060年度には86人まで減少すると試算されている。いわゆる「赤線区間」相当である。


 8月31日におこなわれた協議会の第9回渡島ブロック会議では、JR北海道から初期投資・資産譲渡を含めた収支見通しが提示された。この中には、特急列車の廃止により事実上不要となる藤城線(七飯-大沼の勾配緩和用の迂回線で、中間に駅はない)の廃止も見込まれている。全線を第三セクター鉄道化した場合、初年度の2030年度で14億円の赤字、30年間の累積赤字は816億円と試算されている。全線バス転換の単年度2.8億円、30年累積157億円(これでも相当の額だが)と比べても負担は格段に重い。会議の中でも地元自治体の長からは鉄道を残すことに積極的な意見は見られなかった。それはそうだろう。旅客輸送だけを考えればそうなるのは当たり前である。


Dscn5157  問題は貨物輸送である。2020年貨物地域流動調査(国土交通省)によると、この区間を跨いで輸送される貨物は年間で4,989万t、うち鉄道輸送は396万tで、全体の貨物量におけるシェアとしては8%弱と決して大きくはないが、5tコンテナ換算で約80万個、1日2,000個以上がこの区間を往来している。この区間に設定されている貨物列車は1日20往復。特急「北斗」の倍近い


 特に北海道から本州への輸送量で大きなウェイトを占めるのが農畜産物輸送である。北海道開発局が実施している「農畜産物および加工食品の移出実態調査」によると、令和2年(暦年)の北海道から本州への移出は、生乳・花きを除いて322万t、うち86万tが鉄道輸送で、シェアは27%である。基準期間が異なるため一概には比較できないが、北海道から本州への鉄道貨物輸送量197万tのうち、4割以上を農畜産物・加工食品が占めていることになる。
 食料自給率を確保するためには北海道からの円滑な農畜産物輸送が不可欠である。国土交通省「今後の鉄道物流のあり方に関する検討会」においては、5月に開催された会合でホクレン農業協同組合連合会がヒアリング対象となり、鉄道輸送の重要性について言及している。


 この会合においてもう一つ興味深いのは、同じくヒアリング対象として防衛省が招かれ、有事に際しての装備品・補給品等の輸送手段として鉄道の重要性を訴求している点である。戦前の鉄道幹線網が主として貨物輸送を目的として整備されていったことは有名である。1942年(昭和17年)に開通した関門トンネルは、軍事輸送のために工期が圧縮され、連合国軍の攻撃により船舶輸送が壊滅的な状態となる中、終戦まで貨物輸送を継続した。今またそうした状況に巻き込まれることは誰しも望んでいないはずだが、ウクライナ情勢が緊迫化し、ロシアとの関係が悪化する中、防衛の側面からの鉄道の有用性は真剣に議論されてよいのではないかと思う。


 いずれにせよ、こうした状況を考えると、函館-長万部の存廃問題は、これまでの並行在来線問題とは様相を異にする。東北・北陸・九州の各新幹線では、一定の旅客流動を背景として鉄道は存続されてきた。唯一の廃止区間となった信越本線・横川-軽井沢については、ローカル輸送はもともと少なく、貨物については上越線や中央本線などの代替輸送経路もあることから大きな問題には至っていない。
 ところが、函館本線の五稜郭-長万部は、北海道と本州をつなぐ唯一無二の鉄道輸送ルートであり、この区間の存廃問題は地元自治体以上に北海道全体、とりわけ貨物の主要荷主である農業・工業関係者にとって深刻な問題なのである。


 9月12日、国土交通省がこの区間の存廃問題について、北海道・JR貨物・JR北海道との4者協議を始めると報じられた。沿線自治体による旅客輸送の協議とは別に進められる模様だが、貨物輸送の側面から国が並行在来線問題に乗り出すのは異例である。
 北海道の鈴木直道知事は、9月13日の定例会見で「貨物存続は国が中心となって検討するもの」と述べた。JR貨物はこれまでの線路使用料のルールから考えて大幅なコスト負担は受け入れない。JR北海道は並行在来線のルールに則って粛々と経営分離の準備を進めている。異例の決定は前例となり今後の同様の問題に影響を与える可能性もある。この区間の方向性はまだ見えてこない。


※(10月3日追記)江東の住人さんのご指摘により、2030年度の新函館北斗-長万部の輸送密度予測に関する資料を再確認し、記事を修正しました。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (4)

«もうひとつの「ローカル線」問題~北海道新幹線と並行在来線【1】長万部-小樽は廃線へ