2020/09/01

1990年春・九州一周の旅【10】路面電車で長崎一日散歩

 前回の続き


 オランダ村を出た私は、所定50分のところ2時間20分バスに揺られて佐世保駅に行き、快速「シーサイドライナー15号」と長与経由の普通列車を乗り継いで20時01分、長崎に到着した。諫早での待ち時間に予約しておいた出島近くの古びたビジネスホテルは1泊3,700円の安さで部屋も狭いが、どうせ寝るだけだから何の問題もない。荷物を置いて路面電車に乗り、崇福寺近くの「自由飛行館」で夕食。当地出身のさだまさしが経営するレストランで、現在は日中のみ営業のカフェとなっているが健在である。


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 4月2日月曜日、ホテル近くの出島電停から長崎電気軌道1系統の路面電車に乗った。築町(現:新地中華街)電停で3系統の終点、蛍茶屋へ行き、電車案内所で1日乗車券を購入。新中川町まで引き返してシーボルト記念館を目指すがあいにくの休館日だったため、次の新大工町から賑橋(現:めがね橋)へと歩を進め、眼鏡橋を見る。1634年以来の歴史を持つ眼鏡橋は1982年の豪雨で半壊の憂き目に遭ったが、翌年復旧されている。橋のたもとには人力車が客待ちをしている。乗るほどの持ち合わせはないが、300円払えば記念撮影をさせてくれた。


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 西浜町から5系統の電車で終点の石橋まで行き、引き返して大浦天主堂に立ち寄った後グラバー園へ行った。高校生300円の入園料を払って園内へ入ると、「動く歩道」が設置されており、2本乗り継いで一番高いところへ上ると旧三菱第2ドックハウスがある。1896年建築の船員宿泊施設を移築したものだそうだが、西洋建築の影響を受けた建物は一帯の風景によく合っている。建物の正面は広い池になっていたが、最近の写真を見ると池が狭められて通路になっている。30年も経つとこうした施設も姿を変えるものらしい。


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 旧オルト住宅から日本に現存する最古の木造洋館とされるグラバー住宅へと歩くと、青い空に色とりどりの花が鮮やかである。グラバー住宅の庭からは長崎湾を一望することができ、港を行き来する船の姿が見える。対岸には三菱重工の造船所がある。これより13年後、私は偶然この庭から豪華客船「ダイヤモンドプリンセス」の進水式を眺めた。今年2月、新型コロナウィルスの集団感染で話題になった船である。


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 2時間ほどで園内をひと回りし、電車の停留所に向かう途中で、昨日オランダ村に私を拉致したKSさんとばったり再会した。前日のしこりが若干ありバツが悪いが、これからグラバー園に入るという彼女と二言三言話して早々に立ち去った。オランダ坂を経由して1系統の電車で赤迫へ行き、引き返して松山町(現:平和公園)で下車し、平和公園~浦上天主堂~原爆資料館とめぐって最後に「一本足鳥居」の前に立った。山王神社の参道に4基あった鳥居のうち現存する唯一の鳥居だが、原子爆弾による爆風で片方の足が吹き飛び、以来75年片足で立ち続けている。こうした遺構を目の当たりにすると、やはりいろいろなことを考える。私は少々重い足取りでホテルへと戻り、そのまま引きこもって夜を過ごした。


1990040221  ところでこの日、オランダ坂のたもとにある東山手十三番館に立ち寄った。19世紀末の建築とされる外国人居留地の洋館はカフェになっており、雰囲気がよさそうだったので覗いてみたのだが、入口に「高校生以下お断り」の看板がある。お断りと言われると覗きたくなるのが心理で、スリッパに履き替えて店内に入り、メニューを受け取ると一番安いコーヒーが1,500円。今更撤退するわけにもいかず注文する。唐津焼のカップに入ったドリップコーヒーは確かに美味しかったが、ドトール7杯分はいかにも高価にすぎる。
 しかも怪しげな雰囲気を察したか、「大学生ですか」とマスターに尋ねられて「はい」と答え、「どちらの?」と畳みかけられて思わず「北大です」と夢うつつを口にした私は、その1年後嘘を真実に変える離れ業を演じることになる。
 その後カフェは閉店となり、2007年にこの建物は長崎市に買い取られて登録有形文化財となった。オープンスペースとなった東山手十三番館の一角では再びカフェが営業されているが、コーヒーは350円のようである。


 続く。



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2020/08/24

1990年春・九州一周の旅【9】「オランダ村特急」とオランダ村

 前回の続き。


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 翌朝、赤間で下車した3人を見送って、7時12分着の終点、門司港まで乗車。重要文化財にもなっている1914年完成の風格ある駅舎だが、行き止まり式のホームに客の数は少なく、心なしか寂しい。ここから7時50分発の「オランダ村特急」に乗る。JR九州の観光車両の嚆矢である全面展望席付きのディーゼルカー4両編成の列車は、赤・白・青のトリコロールカラーをまとったおしゃれな車両である。この車両は今も現役で、この2年後に「ゆふいんの森」に転用された後、長崎→大分と渡り歩いて、現在は豊肥本線の特急「あそぼーい!」に使用されている。前日乗車した「SLあそBOY」の後身に当たる列車である。


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 「オランダ村特急」はディーゼルカーだが、門司港~鳥栖間では電車特急「有明11号」と連結して走る。私が確保した1号車6番D席の前方、フリースペースの展望席の前には「有明」ののっぺりとした顔があって景色は見えない。ビュッフェの営業も博多からである。
 ガラ空きだった車内が一気に混んだのは博多から。私の席の前、5番にも私と同じ年頃の少女が座った。かと思うと、背もたれの向こうから少女の顔がにょっきりと現れ、「向かい合わせにしていいですか?」と言うなり私の答えも待たずに座席をくるりと回転させた


 人懐っこく話しかけてくる彼女は、千葉県から知り合いのユースホステルを訪ねて観光に来たというKSさん。今度高校2年だというから私のひとつ年下である。今日はオランダ村から長崎へ抜けるとのことで、私が佐世保に着いた後は夜に長崎に入るまでノープランだと言うと、半ば強引にオランダ村へ連れていかれる羽目になった
 10時57分着の早岐で下車し、8分後の西肥バスでオランダ村へ向かう。西海橋の渋滞につかまり、本来30分ほどで到着するオランダ村まで1時間半近くを要して、12時半過ぎ、ようやく到着した。


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 高い入場料を払って園内に入る。無数のチューリップが園内いたるところに色とりどりの花を開いており、すっかり春の装いである。赤いレンガ造りや、緑に塗られた三角屋根の建物など、これがオランダか、という印象である。立ち並ぶ建物はどれも土産物屋や飲食店になっており、お金のない私たちはただ眺めるばかりだった。私が実際にオランダを訪れて街並みを見るのはこれから18年後のことになるのだが、実際のアムステルダムは確かに同じような建物が並んでいたものの、もう少ししっとりとした印象を受けた。オランダ村の発展形として「ハウステンボス」がオープンするのは1992年のことである。


 ぐるりとひと回りしてしまえば特にすることもなくなり、14時半過ぎに私たちはオランダ村を出た。長崎行きのバスに乗るKSさんと別れて佐世保行きのバスに乗ろうとすると「長崎に行くんでしょ?バスの方が早いじゃん」」と執拗に同行を求められたが、この一連の流れにより、佐世保線・早岐~佐世保間を乗り残したままとなっており、片付けておかないことには具合が悪い。とは言ってもこの話が鉄道に興味のないKSさんに正しく通じるとは思えず、適当な理由を付けて私は佐世保行きのバスに乗った。KSさんはご不満の様子であった。


 続く。



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2020/08/19

1990年春・九州一周の旅【8】九州横断・ふたつの観光列車

 前回の続き。


 上り急行「日南」で迎えた3月31日の朝は、しっかりと自力で目を覚ました。6時58分に博多着。駅に隣接する博多駅交通センターへ移動し、名古屋から夜行高速バスで到着した鉄道仲間の先輩、NさんとOさんに会った。Nさんは2018年の私の鉄道完乗の際、はるばる名古屋から立会に来てくれた人である。3人で博多駅構内の喫茶店に入って朝食をとり、篠栗線経由で平成筑豊鉄道へ向かうというお二人と別れて、私は構内でもう少し時間をつぶし、9時20分頃3番ホームへ上がった。


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 ここから乗るのは9時40分発の久大本線経由別府行き特急「ゆふいんの森」である。前年3月に運転を開始した観光特急は、一般の特急列車とは一線を画した、深いメタリックグリーンのボディーにゴールドの帯が優雅なデザインの車両である。余剰の急行車両の足回りを活用した改造車とは思えない。木目調でまとめられた車内にはカフェテリアもあり、この列車が特別であることがわかる。
 10日前にキャンセル待ちで確保できた2号車窓側の指定席で、ホットコーヒーを飲みながら車窓を楽しむ。数日前に寝過ごしてやって来た天ヶ瀬を過ぎ、由布院駅に到着すると、大半の客が下車。空いた先頭車の先頭席へ移り、大きな窓から全面展望を楽しむ。窓の枠が少し気になるが、右へ左へと曲がるレールの眺めは飽きない。
 

 12時42分着の大分で下車し、30分ほど待って13時15分発の豊肥本線経由熊本行き急行「火の山4号」に乗る。非常に混雑した車内で一つだけ空席を見つけて腰を下ろす。隣席は一見して学生に見える女性だったのだが、声をかけられてお話しすると25歳の保母さんとのこと。国東半島への旅行の帰りだそうである。すっかり楽しくなってしまった私はこのまま「火の山4号」に乗り続けたい衝動にかられたが、今日はもう1本乗っておきたい列車があり、涙を呑んで15時01分着の宮地で下車する。


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 宮地からは15時22分発のSL列車「あそBOY」。8600形という古い蒸気機関車に牽かれたウェスタン調の客車に乗り込むと、車掌からビュッフェの女性係員まで皆西部劇調のファッションでまとめている。
 もうもうと煙を吐きながら豊肥本線を熊本へ向けて走り、立野駅へ入る手前で列車はいったん引き込み線に入って停止する。ここからスイッチバックである。最後部の展望車へ行くと、シューッというエア抜きの音とともに、列車が展望車を先頭にしてゆっくりと走り始めた。緩やかに勾配を駆け上る元の線路と別れてこちらは緩やかに下り、立野に停車。正面へは高森への南阿蘇鉄道が伸びている。「あそBOY」はここでさらに方向転換して、再び蒸気機関車を先頭に熊本へ向かった。


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 豊肥本線は2017年の熊本地震で大きな被害を受けたが、今月、最後まで不通となっていた肥後大津~阿蘇間が復旧し、4年4か月ぶりに全線での運転を再開した。その一方で、久大本線は7月の豪雨による土砂流入や鉄橋流失の影響で今も豊後森~由布院~向之原間が不通となっており、「ゆふいんの森」キハ71系1編成や普通列車数編成が由布院駅に取り残されている。一日も早い復旧を願うばかりである。


 私は熊本からL特急「ハイパー有明43号」に乗り、西鹿児島に20時55分に着いた。コインロッカーに荷物を預けて、前日と同じ「山之口温泉」へ行くと、番台のおばちゃんは私を覚えていてくれた。ひと風呂浴びた後、今日は「かいもん」に乗る、という話をすると、
「さっきもねえ、『かいもん』に乗るちゅう女の子らが3人来たとよ。なんでも屋久島でキャンプしてきたとかで、すごい荷物やったねえ…」
とおばちゃんが語った。


Img_20200819_0001  西鹿児島駅へ戻り、いつものように「かいもん」の4号車自由席に乗り込むと、前寄りの区画に大きな荷物が積み上げられ、3人組の女性が談笑している。通路を隔てた反対側に腰を下ろし、頃合いを見計らって「さっき銭湯に居ませんでしたか?」と声を掛けてみた。
「えっ?やだあ、騒いだの聞こえてた?そんなにうるさかったかしら?」と口々にリアクション。これまた賑やかである。福岡教育大学の学生という3人組と、屋久島でのキャンプの話やこちらの旅の話ですっかり盛り上がり、「かいもん」の夜は更けていった。


 続く。



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2020/08/12

1990年春・九州一周の旅【7】一期二会の旅

 またご無沙汰してしまいました。お盆間際なのになんだか忙しいいかさまです。

 前回の続き


 3月30日金曜日、久々にベッドで眠った朝は7時頃にすっきりと目覚めた。純和食の朝食をたらふく食べ、10時の退出時間までの間にたまった洗濯物を片付ける。
 出発前にホステラーみんなで記念写真を撮り、バイク組の大半が出発するのを見送ると、ひとり残った名古屋人の社会人ライダーが「砂蒸し温泉へ行こう」と声を掛けてくれた。私ももう一度行きたいと思っていたところなので即決で同行する。今度は汗を流すというよりも体をじっくりと温めて体力はほぼ復活。社会人氏を見送ってユースホステルに戻ると、乾燥機に入れておいた洗濯物は十分に乾いていた。


19900330  指宿駅まで2kmほどの道のりを歩いて、13時発の枕崎行き普通列車に乗る。特急電車の座席を転用した回転式シートが並ぶ車内はよく混んでおり、座る場所を求めて通路を歩く。ようやく見つけた空席に座ると、向かいにどこかで見たような顔の少年が座っている。向こうもこちらに気付いたようで、お互い大きな声を上げて再会を喜び合う。「はやぶさ」の車内で一緒だった、鹿児島出身のO君である。鹿児島市内の実家での法事を済ませて、ミニトリップにやって来たという。偶然ということはあるものだ。


 当時の日本最南端駅、西大山の写真を撮ったところでフィルムが満杯になり、私はフィルムを巻き取ろうとした。ところが小さなつまみを回しても、どうも手ごたえがない。恐る恐る蓋を開けてみると、まだわずかしか巻いていないはずのフィルムは綺麗に巻かれてカメラの中に鎮座している。つまり最初からちゃんとセットされていなかったらしく、ここまで1週間の旅の記録は1枚も残らなかった。今回の記事でここまで写真がなかったのはそのためである。特に「はやぶさ」の写真が一枚も残されていなかったことについては、未だに悔やまれる。


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 私とO君、それに車内で一緒になった小平市の中学3年生の少年と談笑しながら、開聞岳の麓をぐるりと回る列車に揺られて14時09分、終点の枕崎に到着。今度は失敗しないようにフィルムのセットを確認して記念写真を撮り、港を見に行くというO君たちと別れて、私は15時35分発の伊集院行き鹿児島交通バスに乗った。この路線は、1984年に廃線となった鹿児島交通の鉄道線の跡と並走する。バスから廃線跡をはっきり見ることはできなかったが、途中の主要駅だった加世田では解体中の駅舎を見ることができた。隣接した木造の車庫の中では色あせたオレンジ色のディーゼルカーが、置き去られたようにぽつりとたたずんでいた。


 終点の伊集院駅前でバスの運転手に肩を揺すられて目が覚めた。砂蒸し温泉で体が休まり過ぎたせいか、また居眠りをしてしまったようである。鹿児島本線の普通電車で西鹿児島へ移動し、今夜の宿、急行「日南」の出発まで夕食がてら駅付近を散歩することにしてコインロッカーへ行くと、またもどこかで見た顔に出会う
「また会いましたね」彼が言う。前夜のユースホステルで一緒になった春日井の専門学校生である。彼もまた「日南」に乗るというので、一緒に駅前へ出て、食事をとろうという話になった。ところが、うわさに聞いていた鹿児島ラーメンを食べたい私と、何でもいいから安く済ませたい彼の波長が合わない。結局、別々の行動をとることになる。


 市街地方面へ歩く間、地元の方らしき上品なおばさまに声を掛け、おすすめのラーメン屋を訪ねると、天文館に近い「こむらさき」という店の前まで私を案内してくれた。細い麺を取り巻く白いスープが何とも食欲をそそる。さすがは地元の方のおすすめで、カウンターの隣に座る夫婦も常連の地元民の方だった。今度はその方に、近くの銭湯の所在を訪ねる。ご夫婦は、接客がひと段落した店員さんの助けも受けて、「山之口温泉」という銭湯を紹介してくれた。


 一応温泉らしく効能書きもあった「山之口温泉」でさっぱりし、気持ちの良い夜の街を15分ほど歩いて西鹿児島駅に戻った。宮崎から急行「日南」となる普通列車は20時13分の発車である。4号車に荷物を置いて、ホームから車内を眺めながら歩くと、先ほどの専門学校生が3号車に腰を下ろしているのが見えた。席を引っ越してまで会話したい相手でもなく、そのまま4号車に収まる。
 列車は通勤客を乗せてほぼ満員で発車し、途中入れ替わりながら少しずつ空いていった。私の隣も南宮崎まで通勤客が入れ代わり立ち代わり座ったが、その先はいつものように空席が目立つ車内となり、私はリクライニングシートを向かい合わせにしてぐっすりと眠った。


 続く。



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2020/07/26

帰ってきました。

 ご無沙汰しております。いかさまです。


 久しぶりにPCでブログの投稿画面を開いている。前回のブログで「半月ほどお休み」と書いたが、気が付けばすでに1か月以上を経過していた。
 「体調を壊したのではないか」「新型コロナに感染したのでは」とご心配を頂いた方もあるようだが、おかげさまで元気でぴんぴんしている。ただ、あまりにも忙しかったのである。
 当初は6月いっぱいまでにどうしても仕上げたい事があり、半月ほどそれに専心するために休むつもりだったのだが、そのうちに本業の仕事の方も猛烈に忙しくなってしまい、そのまま7月になだれ込んだ。遅い時間に家に帰り、食事をとって風呂に入り、一応PCに向かうことは向かうのだが、頭が悲鳴を上げて回転を停止し、結局録り溜めた「笑点なつかし版」を見ながら寝落ち、という状況が続いた。今に至ってもそれはあまり変わらないのだが、ここにきての4連休は頭も体も休めるには持ってこいの時間になった。


 さて、本来ならばこの週末に開幕するはずだった東京オリンピックは延期となり、北海道も静かな夏を迎えている。街中を賑わす観光客、とりわけ海外からのお客様がめっきり減り、交通機関、宿泊施設、飲食店などはかなり厳しい状況だろうと推測する。なんとか経済を回して差し上げたいという気持ちもあり、また3月以来乗り残しになっている鉄道をなんとか制覇したい気持ちもあるのだが、ここにきて本州方面では新型コロナの感染者数が急増しており、旅行には二の足を踏む状況が続いている。


 また、私は元来酒飲みでないので、そもそもすすきの界隈の飲食店に大した貢献はしていないのだが、その私だってたまには酒を飲んで気分を紛らしたいこともあるし、仲間とわいわいやりたいこともある。だが、会社では社内の懇親会は「自粛」からいったん解除になったものの、現在「自制」というよくわからない枷をかけられており、どうにも身動きがとりにくい。「新たな生活様式」の中では「料理に集中、おしゃべりは控えめに」とされている。食にも酒にも興味のない私にとってはもはや拷問に等しく、それならば最初から懇親会など行かない方がいいとさえ思う。


 そのすすきのでは接客を伴う夜の店を核に複数のクラスターが発生し、飲食店へも飛び火している。サッポロビール園でも従業員7人が感染し、クラスターの可能性もあるとして当面の営業を休止する事態となった。「接客を伴う夜の店」については私はさほど興味がない(というか遠い昔に卒業した)が、飲食店にまで影響するとこれまた足が遠のく。


 緊急事態宣言の解除後、通勤途中や昼食時など人との接触は明らかに増えた。一方で、少なくとも北海道に関しては、感染者数は増えてはいるものの、感染経路がある程度追える状況になっている。このことは、新型コロナは闇雲に感染するものではなく、マスクや手指消毒など、みんながそれぞれに一定の自己防衛をすることで感染拡大は抑えられるということを示しているように思う。
 それでも若年層を中心に無症状の感染者が増えていることを考えれば、いつなんどき自分が感染者になり、どこかの誰かに広げないとも限らない。そういう自覚で日々の生活を当面続けていくしかなさそうである。リモートワークが普及したところで直接的な人とのかかわりをゼロにして生きていくことはできない。


 みなさん、お互い元気で頑張りましょうね。



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2020/06/15

1990年春・九州一周の旅【6】5日ぶりの地上泊、3日ぶりの…

 前回の続き


 明けて3月29日、木曜日。目が覚めると列車は止まっている。すわ寝過ごしか、と飛び起きると、窓の外の駅名標には「西鹿児島」の文字。列車の終点なのだから寝過ごしようもないのだが、時計を見ると6時20分。到着してから5分を経過している。また車掌に起こされないでよかった、と安心しつつ、日豊本線国分行きの普通列車に乗り換え。予定では国分のひとつ手前、隼人で下車して肥薩線を往復することになっているが、ここでも容赦ない睡魔に襲われる。


 「お客さん、終点ですよ」の声とともに車掌に揺り起こされた私は、呆然と国分駅前に立った。またしても寝過ごしである。隼人から7時17分発の肥薩線吉松行きに乗る予定だったが当然間に合わず、次の列車は9時36分発。今日は後の行程に余裕があるからいいようなものの、ここ数か月来の苦心の行程がガタガタになるところだった。もっとも、3回の寝過ごしですでに修正に次ぐ修正を重ねているから、今更の感無きにしも非ずである。


 早朝から営業していた「うどん」の幟の立った喫茶店に入る。丸刈りのおじさんがひとりぼーっと座っており、私を見ると「うどんしかないよ。いいかね?」と聞く。他に選択肢がないのだから仕方がない。ありきたりのうどんで朝食をとり、食後にコーヒーを注文すると「インスタントですが」と馬鹿正直な言葉とともに薄いコーヒーが出てきた。不思議な喫茶店である。


 国分から1駅引き返し、隼人から吉松までの肥薩線を往復。水俣経由の海沿いの線路ができるまでは鹿児島本線だった路線だが、深い山間を走る。天気が良く、緑の木々の間から注ぎ込む太陽の光がとても爽快だったことを覚えている。隼人に戻り、ボックスシートがずらりと並ぶ急行型電車の快速「錦江3号」で西鹿児島へ引き返した。わずか1分の接続で、指宿枕崎線の快速「いぶすき3号」に乗り換える。


Ibusuki  鹿児島市交通局の路面電車が車窓に見え隠れし、ベッドタウン化が進んでいるらしい沿線を眺めながら、1時間足らずで指宿に到着した。今日の行程はここで終了。山川桟橋行きのバスに乗り、予約してある「圭屋ユースホステル」へ向かった。東村山以来5日ぶりの地上泊である。それよりなにより、汚い話だが3日前の宮崎以来風呂に入っていない。足の匂いも相当気になっている。疲れもたまっているし、このあたりで一度リセットしないと体がもたない。


 土産物屋の2階にあるユースホステルに荷物を置き、居合わせた先客の勧めで、近くにある「市営砂蒸し温泉」へ行く。現在は「砂楽」という名前に変わっているようだが健在。当時の入浴料は510円で、ロッカー代10円、タオル代100円が別にかかった。更衣室で素っ裸になって浴衣を身に着け、海岸へ出ると、簡単な屋根のかかった砂浜の一角に、がずらりと並んでいる。空いている場所に案内され、寝転がると、スコップを持ったばあさんが私の体の上に一心に砂をかけた。ははあ、これが砂かけ婆か、と感心するうちに、私の体は砂で覆われ、身動きがとれなくなった。


 体を覆った砂は熱く、サウナに放り込まれたようなあんばいである。体の奥から汗や老廃物が外に向かってじわじわと出ていく感覚がわかる。3分ほどもすると体全体が温まり、もういいか、という気分になるが、基本は10分程度というから、心の中で歌を歌いながらじっと時間の過ぎるのを待つ。
 額からたらりと汗が伝い落ちたのを見計らってむっくりと起き上がり、建物の中へ戻って浴衣の中まで砂まみれになった体を洗い流す。あとは洗い場で体を洗い、浴槽に浸かってまたゆっくり。3日分の汗を一気に洗い流す。


 この日のユースホステルには計16人の宿泊があった。当時のユースホステルは相部屋、禁酒、ミーティングありが基本で、今でいうゲストハウスに近いがもっとアットホームな空間だった。「ホステラー」と呼ばれる宿泊客はライダーや自転車(「チャリダー」などと呼ばれていた)が多く、鉄道旅行者はどちらかというと少数派だった。期待していたミーティングは、ホステラーの集まりがあまりよくなく、途中で自然分解のような形になったが、オレンジカードの見せあっこをしている鉄道派の若者を横目に、弓道経験者というペアレントさんからたっぷりと話を聞かせてもらった。


 ちなみにJRで来た人のことを何と呼ぶんですか、とライダーの皆さんに尋ねたところ、
じぇあらー」とのこと。なんだか間抜けな響きである。


 続きますが、私用により半月ほどお休みをいただきます。



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2020/06/08

1990年春・九州一周の旅【5】寝過ごし連発で崩れる行程

 前回の続き。


 3月28日、2時14分に下り西鹿児島行き急行「かいもん」が熊本を出発。その2分後、2時16分に上り門司港行き「かいもん」が熊本に到着した。座席は半分強が埋まっており、先客に挨拶して腰を下ろす。その発車を待たずに私はあっという間に眠りこけたが、下車予定の鳥栖の手前で無事目が覚めた。4時51分着。5時35分発の久大本線普通列車に乗って日田を目指す。今日はこの後昼前に小倉へ入り、北九州市民球場でおこなわれる福岡ダイエーvsオリックスのオープン戦でも観戦しようかと思っている。ちなみに当時の私は、南海時代からのホークスファンである。


 雨がしとしとと降る窓の外を眺めるうち、うつらうつら、そのうちに本格的に睡魔が襲ってきた。久留米から久大本線に入ったはずだが、その先のことはほとんど覚えていない。
 ふと目が覚めると、ちょうどどこかの駅に停まったところだった。駅名標が見えた。「あまがせ」と書かれている。
 わずか数秒、私は考えて、それからやらかしたことに気付き、泡を食って列車から降りる。待つほどもなく上り久留米行きの普通列車が入ってきて、7時47分には日田へ戻ったのだが、乗車予定だった日田彦山線の列車は8分前に出発した後。次の列車は9時58分発で、2時間以上も開いている。


 無念の思いにかられつつ駅前を歩くうち、この時間から開店しているうどん屋を見つけた。「朝食・350円」という看板につられて入ると、どんぶり飯、みそ汁、玉子、漬物、魚のフライ、生野菜と満腹ラインナップ。食後にはコーヒーまでついた。
 なんとか時間をつぶして、9時58分発の日田彦山線快速「日田」に乗車。11時04分着の田川後藤寺で下車して新飯塚までの後藤寺線を往復する予定である。野球の試合には間に合いそうもないが、雨は降り続いており、おそらく中止になるだろう。


19900328 日田で買った文庫本と車窓に交互に目をやるうち、またしても瞼が重くなってきた。必死で耐えようと試みるが無情にも重力に逆らえなかった瞼は下へ落ち、次に気が付くと城野。本日2度目、通算3度目の寝過ごしである。やむなく小倉まで乗車し、L特急「にちりん18号」で博多に向かった。


 時刻表をひっくり返しながら再度行程を練り直し、13時36分発の篠栗線普通列車に乗る。終着の篠栗で後続の列車に乗り換え、14時59分に新飯塚着。15時20分発の普通列車で、予定とは逆方向から後藤寺線を往復する。筑豊炭田の面影を残す路線で、鉱山の大きな事業所が車窓に見える。乗客は少ない。


 新飯塚から篠栗線直通の普通列車に乗り、長者原で香椎線香椎行きに乗り換え。さらに香椎で西戸崎行き普通列車に乗り換える。「海の中道線」の愛称がついた路線は、雁ノ巣の先で砂浜の海岸のすぐわきまで出る。博多から1時間足らずの景色とは思えない。西戸崎から折り返し、香椎からL特急「にちりん42号」、博多でL特急「有明51号」と乗り継いで20時39分に熊本着。ここからさらに三角線を往復する。今だったら景色の見えない時間帯に初乗りなど考えられないが、当時は乗車距離を伸ばすことに貪欲だった。いずれもう一度乗り直したいと思いつつ、その機会のないまま現在に至っている。


 23時ちょうどに熊本へ戻り、1時52分にやって来る西鹿児島行き急行「かいもん」を待つ。0時で閉店となる喫茶店で時間をつぶし、駅前をうろうろしていると、客待ちをしていたタクシーの運転手が24時間営業のメシ屋の存在を教えてくれた。関西方面からの自転車サークルの団体で大混雑の店で相席させてもらい、小さくなってご飯と豚汁、それにおでんを腹に流し込む。


 昨日熊本で捨てた「かいもん」に再び乗り込む。これで「はやぶさ」以来4連続の夜行泊である。昨日から続く3度の寝過ごしは反省材料だが、若き日の有り余る体力と好奇心、それに限られた予算がホテルにもぐりこむことを許さない。幸運にも並びで開いていた座席を確保でき、背もたれを大きく倒すと私は即座に眠りに落ちた。熊本を発車したことすら記憶していない。


 続く。



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2020/06/02

1990年春・九州一周の旅【4】北九州くるっと乗りつぶし

 前回の続き


1990a_20200601234401  当時の九州には博多と鹿児島を結ぶ夜行急行が2系統あった。熊本経由の「かいもん」、大分・宮崎経由の「日南」である。いずれも座席車・寝台車混成の客車急行で、自由席車は「周遊券」で使用できたから、金のない若者は九州旅行の宿代わりによく利用していた。書き忘れていたが、当然私が使っていた切符も「九州ワイド周遊券」である。名古屋市内発の「東京ミニ周遊券」と合わせ技である。
 この両列車は1993年3月のダイヤ改正で電車化され、座席車のみの特急「ドリームつばめ」「ドリームにちりん」となったが、前者は九州新幹線部分開業の2004年、後者は2011年に廃止となっている。


 22時45分、日向沓掛の暗いホームに「日南」が入って来た。厳密には、「日南」は宮崎-西鹿児島間は普通列車として運転されていたので、この時点では厳密には名無しの普通列車である。座席車は当時夜行急行でよく使用されていた12系客車だったが、ボックスシートのはずの座席はグリーン車並みのリクライニングシートに交換されており、指定席車の端にはお茶のサーバーまでついている。案に反して宮崎を過ぎてもガラガラだった車内でぐっすりと眠る。いや、眠りすぎた


 翌3月27日、目が覚めて時計を見ると6時30分。私の計画では6時11分着の折尾で下車して筑豊本線の列車に乗り換え、終着の原田でTKさんと合流する予定になっていた。見事な寝過ごしである。このまま直進して博多に向かってもTKさんとの待ち合わせに遅れることはないが、問題は筑豊本線の乗りつぶしである。特に本数の少ない桂川-原田間を乗り残すと後が厄介になる。悔やんでみたところで始まらない。「日南」は折尾を出ると博多まで停まらない。あきらめてもうひと眠りしたのであるが、今度は博多到着時に車掌に起こされるという恥ずかしい事態になった。


 博多7時30分発のL特急「ハイパー有明5号」に乗り、二日市で後続の普通列車に乗り換えて7時56分、原田着。私が乗るはずだった筑豊本線の列車を恨めしく出迎える。8時22分にやって来た普通電車でTKさんと合流し、鳥栖で長崎本線の電車に乗り換え。まだ発掘・整備が始まったばかりで櫓がぽつんと立つだけの吉野ケ里遺跡を右手に眺めながら佐賀に到着する。


 佐賀からは唐津線西唐津行きのディーゼルカーに乗り、山本で筑肥線に乗り換えて伊万里へ。いずれもキハ40系ディーゼルカーの2両編成である。現在、終焉の日を迎えつつある国鉄型ディーゼルカーだが、当時は全国的に現役バリバリだった。伊万里で昼食をとって折り返し、山本で再び乗り換えて西唐津、そこから筑肥線の電車で博多へ向かった。途中の姪浜から福岡市営地下鉄に乗り入れる。


 予定では博多の先は香椎線、篠栗線と乗り歩くことにしていたが、朝の粗相で乗り残した筑豊本線がどうしても気になり、TKさんと相談してそちらを優先することにした。博多から16時07分発の門司港行き快速電車に乗る。折尾で乗り換えて若松、そこで折り返して直方・原田方面へ、というのが王道だが、TKさんの勧めで折尾を素通りし、戸畑で下車した。


 戸畑と若松の間には若戸大橋という立派な橋が架かっているが、その下を北九州市営の渡船が運航されている。大判時刻表にも掲載されており、10~15分ごとの運航で、運賃は大人20円という安さ。戸畑駅北口から徒歩5分ほどの発着所から乗船すると、小ぶりな船内には座席がなく、吊り革のみである。自転車と一緒に乗っている客も目立つ。わずか4分で若松着。この航路は今も現役だが、運賃は大人100円に値上がりしている。


 若松の渡船発着所からJR若松駅へは徒歩10分ほど。17時54分発の筑豊本線439列車は、ディーゼル機関車が赤い50系客車を牽く「客車列車」。終点での折り返し時に機関車を付け替えなければならない手間もあり、国鉄末期からJR初期にかけて急速に減少していたが、筑豊本線では2001年に折尾-桂川間が電化されるまで現役だった。ガラガラの列車でボックスシートに足を伸ばしてくつろぐ。


19900327  直方で列車を1本落として夕食を調達し、後続の篠栗線経由博多行きディーゼルカーに乗車。そのまま乗り続けて自宅へ帰るTKさんにお礼を述べて桂川で下車し、50系客車の普通列車で寂しい山中を抜けて原田へ着いたのは20時38分。本日打ち止めでもいい時間だが、なにせ若かった。原田から博多、香椎で乗り換えて、香椎線の終点、宇美へ行き、篠栗線経由で博多に戻ったのが23時01分。ととめどなく走り回る。


 この日の宿もやはり夜行急行。今度は急行「かいもん」の自由席に乗った。朝の粗相があったにも関わらず立派な座席でぐっすりと眠る。それでも1時52分の熊本でしっかり目が覚めた。こんな深夜に降りてどうするんだ、と言われそうだが、ここで30分ほど待てば上り門司港行きの「かいもん」が到着する。当時の若い鉄道旅行者がよく使った「夜行返し」と呼ばれるもので、往復の夜行列車を乗り換えることで地上一泊分の効果がある。ワイド周遊券を持っていれば余計な出費もない。体力の有り余る青春時代ならではの行動であるが、さすがに3夜連続の車中泊は睡眠不足を露呈させ、以降、しばしばやらかすことになる


 続く。

 



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2020/05/24

1990年春 九州一周の旅【3】急行「えびの」で大畑ループ越え

 前回の続き


 熊本からは10時57分発の急行「えびの3号」に乗車。博多と宮崎を結んだ急行で、1993年に熊本―宮崎間に短縮され、2000年に廃止となった。国鉄型キハ58・65形3両編成は塗装も変えられ、車内はリクライニングシートに取り替えられて快適である。八代から肥薩線に入り、球磨川に沿ってゆっくりと走る。座席がほぼ埋まる状態だった列車は人吉でぐっと空き、座席を回転させて4人分をひとり占めできるようになる。大きく右へカーブして山中へ分け入り、やがてトンネルを抜けて大畑(おこば)に到着する。


Photo_20200523005201  この付近は高低差が大きいため、肥薩線はぐるりと一周しながら登っていくループ線になっているが、その途中にある大畑駅は地形の関係で行き止まり式のスイッチバック駅になっている。列車は大畑駅から逆方向へいったん戻った後、再度方向を変えてさらに山を越えていく。ぐいぐいと左に曲がる感覚がある。途中で先ほど走って来た線路と交差するのだが、トンネルの上を越えているためはっきりしない。矢岳を過ぎて次の真幸(まさき)もスイッチバック式。山岳路線の醍醐味を存分に楽しめる路線である。


 吉松から吉都線に入り、えびの高原ののどかな風景の中を淡々と走っていく。14時26分着の都城で下車し、近くの都城営業所から1時間ほどの待ち時間で日南線の志布志駅へ向かう鹿児島交通のバスに乗り継いだ。西都城と志布志の間には国鉄志布志線が走っていたが、1987年に廃止となり、このバスはその代替輸送機関である。途中の大岩田というバス停付近で廃線跡をくぐり、以降は近づいたり離れたりしながら志布志線跡と並走する。レールは撤去されているが草生した線路跡に、時折枕木の埋まっていた跡が見え隠れする。ちなみに今現在、この路線のバスは4往復まで減少しており、都城発は13時50分が最終になっている。


 1時間20分ほどで到着した志布志駅は、新しい小ぶりな駅舎の周辺に広がる空き地が、日南線・志布志線に加え、鹿屋方面へ向かう大隅線との一大ジャンクションだったことを窺わせる。ここから17時08分発の日南線宮崎行きの普通列車に乗る。2両編成のディーゼルカーに乗客は10人ほど。発車してすぐに線路の近くまで寄って来た海岸線がすぐに離れ、ひとつトンネルを抜けるとまた近寄ってくる繰り返しで、単調だが見飽きない景色が続く。串間の手前あたりから内陸に入ると車窓が退屈になり、つい居眠りが出る。


Kyuushuu1  気が付くと列車は青島付近を走っており、乗客もいくらか増えている。志布志から約2時間半、19時41分に宮崎着。今日はここから夜行急行「日南」に乗って博多方面へ向かう予定である。2日連続の夜行泊まり、しかも今夜は座席車である。まずは何をおいても風呂に入りたい。駅員に銭湯の所在を聞き、まだ建て替え前の古い駅舎を出て駅裏へ回り、徒歩15分ほどの銭湯でじっくり汗を流す。それから駅前へ戻り、開いていた食堂で夕食をとると、時刻は21時半。「日南」の発車までまだ1時間半ある。


 春休みのさなかで「日南」の自由席は混んでいるかもしれないと考えた私は、22時11分発の普通列車でいったん鹿児島方面に向かった。時刻表を眺めると、この列車と「日南」がすれ違うのは田野駅と推測された。そこで私は、田野のひとつ宮崎寄り、日向沓掛駅で下車して、「日南」を待ち受けることにした。


 駅のホームに降り立ったのは私だけ。列車が走り去ると、殺風景なホームにぼんやりと薄暗い電灯が数本ともるだけとなった。右手も森、左手も森で、闇の向こうには明かりも見えない。どこか遠くから車の排気音と水の流れる音だけが聞こえてくる。とんでもないところに降りてしまった、と悔やんでみても、「日南」が到着するまで10分、ベンチもないホームでひたすら耐える以外に道はなかった。


 続く。



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2020/05/17

1990年春・九州一周の旅【2】ブルートレインで九州へ(2)

 前回の続き


 春休みが始まったばかりの日曜日、「はやぶさ」の車内には家族連れや学生の姿が目立った。乗客の憩いのフリースペース、「ロビーカー」もそんな乗客で賑わっていた。空いていたソファに腰を下ろし、飲み物を飲みながら、隣に腰掛けていた少年と話してみた。今度中学3年生になるO君は、お母さんとふたりで相模原から実家のある鹿児島へ法事に行くのだという。飛行機で行った方が圧倒的に早いのに「はやぶさ」を使うところからして、やはり鉄道ファンである。私と同じB個室、12号車7番が自席という彼と話が弾む。


 名古屋を過ぎると、少し空き始めたロビーカーに、ふたり連れの若者がやって来た。先ほど食堂車で隣のテーブルにいたふたりである。手にはサントリーの角瓶を持っている。どうみても成人の雰囲気ではなく、年を訪ねてみると私と同じ17歳の高校生だという。一杯どうですか、などとこのコンビ、松戸からやって来たH君とM君に誘われると、昨夜の反省などどこへやら、つい調子に乗ってごちそうになってしまう。近くの席にいた家族連れのお母さんが、おつまみにとスルメを差し入れてくれた。誰も咎める人のない、おおらかな時代である。


Hayabusa  話を聞けば、M君とH君の寝台もB個室12号車。それぞれ4番と8番の上段室で、O君と私でH君の部屋を挟む形になっている。皆で談笑していると、通りがかった車掌長が、
「いやあ君たち、おいしそうだなあ。僕は仕事中だから飲みたくても飲めなくてねえ。…ところで、乗車記念のオレンジカードはいかがですか?」
 オレンジカードも鉄道の平成遺産となって久しいが、当時はブームのさなかだった。未使用のまま所蔵される確率が高く、JR各社にとっての収入源のひとつだった。なかでもJR九州はかなり熱心だったと聞く。つられて1枚購入する。


 大阪の手前で私とO君は退散。23時52分着、3分停車の大阪駅のホームで缶ジュースを補充し、車内の洗面所でタオルを濡らした。個室に戻るとカーテンを引き、パンツ一丁になって身体中をひと拭き。昨夜も風呂に入っていない。当時東京―九州間の寝台特急ではシャワー室を設けているのは「あさかぜ」だけだった。
 浴衣を着てベッドで腹ばいになり本を読んでいると、通路でドタンバタンと激しい音。慌てて飛び出すと、H君が通路でひっくり返っている。横で介助するM君の顔も赤い。満タンだった角瓶は残り半分を切っている。へろへろの二人がそれぞれの個室へ上がっていくのを見届けて、私もベッドにもぐりこんだ。


 翌朝7時前に目を覚まし、7時14分着の下関で機関車の交換作業を眺める。青いEF66型機関車から銀色のEF81型機関車に交換された「はやぶさ」は、いよいよ関門トンネルをくぐり、九州へと足を踏み入れる。今度は赤いEF76型機関車に交換された門司を出たあと、O君の部屋へ遊びに行くと、お母さんと朝食の最中。退散しかけたところへお母さんから、
「お弁当が余ってるんだけど、よろしかったらどうですか?」
とお誘いいただき、ありがたくごちそうになる。


 8時42分着の博多で、同じ種村氏の読者サークルの仲間、TKさんが立席特急券を手に乗り込んできた。夜が明けてからの時間が長い九州特急では、区間を限定して寝台券なしでも乗車できる、通称「ヒルネ」という制度があった。
 初対面のTKさんと挨拶を交わした後、O君・M君と4人でロビーカーへ行き、しばし談笑。ちなみにこの時H君は完全グロッキー状態になっていた。この少し前、車掌長が個室の鍵を回収に巡回したのだが、8号室だけはノックしても返事がなく、マスターキーで解錠するという事態になった。車掌長によって無事生存確認されたH君は、9時半過ぎに私たちが個室に戻ると、個室の階段に蒼い顔をして座っていた。


 明日再び合流する約束を交わしたTKさんは、9時42分着の大牟田で下車。H&Mの両君もここで降りていく。大牟田を出ると食堂車も店じまいにかかり、私たちも下車に備えて荷物の準備にかかる。「はやぶさ」は西鹿児島行きだが、食堂車・ロビーカー・個室寝台を含む後ろ8両は熊本で切り離されるため、ここで降りるか前寄り6両に移るかになる。私はこの先の行程から熊本で下車するが、鹿児島へ帰省のはずのO君親子も熊本で下車するとのこと。後続のL特急「有明11号」に乗り換えると、水俣で「はやぶさ」を追い抜くのだとか。機関車に牽かれる寝台特急と異なり、身軽な電車特急は速い。


 10時21分、「はやぶさ」は定刻に熊本に到着した。ホームの長さの関係で11号車より後ろはホームにかからず、10号車のデッキからホームに降りる。東京から17時間16分の長旅は、愉快な仲間たちのおかげで退屈することなく過ごすことができた。
 「眠っているうちに移動できる」という便利なツールとしての役割は、新幹線の開業ですでに損なわれていたが、ブルートレインは乗ること自体を楽しめる列車だった。この日の「はやぶさ」に、同じ感覚を持った同世代の仲間がたまたま乗り合わせ、今のように独りで時間をつぶせる手段の少ない時代、自然に声を掛け合い、交流が生まれた。


 われわれのような貧乏学生でも少し手を伸ばせば届く、身近な憧れの存在だったブルートレインは今は亡い。唯一残る定期運転の寝台列車は、「サンライズ出雲・瀬戸」だけだが、運転時間が短く、個室寝台ばかりの列車でこうした交流は生まれにくい。
 乗ること自体を楽しむ寝台列車は、近年「ななつ星」「四季島」「瑞風」と立て続けに登場したが、学生どころか貧乏サラリーマンが気楽に利用することの叶わない、遠い存在になってしまった。


 続く。



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