日本の旅人

2024/08/18

2023 いい日旅立ち・西へ【27】念願の室戸岬灯台へ

 前回の続き


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 海の駅東洋町で1時間弱を過ごし、12時20分発の室戸営業所行き高知東部交通バスに乗った。中型のバスに乗客は私ひとりである。
 28年前、はじめてこのルートをたどったときは、甲浦駅前から室戸経由高知行きの直通バスに乗った。終点の高知まで3時間余りをかけて走る非常に長い路線バスに10人足らずの乗客が入れ替わりながら乗っていたことを思い出す。海岸沿いを走るバスからの景色は美しいが、途中の停留所でもまったく乗降はなく、寂しい。


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 13時04分着の室戸ジオパークセンターで下車。2011年にユネスコの世界ジオパークに選定された室戸エリアの地形や文化・風土に関する展示がある立派なセンター内に他に客の姿はなく、わずかに建物内のカフェで3人ほどの地元客と思しき人々が談笑している。
 13時25分発の安芸営業所行き高知東部交通バスは、先ほどよりさらに小さい小型のバス。折り返しの始発便で、やはり乗客は私ひとりである。甲浦発の便が室戸市内で内陸の室戸高校を経由するのに対し、こちらの便は海岸沿いに室戸岬を経由する、28年前と同じルートをたどる。


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 10分ほどで到着した室戸岬バス停で下車。28年前はここを素通りで駆け抜けたが、道路を挟んだ山の上にある室戸岬灯台の姿が印象的だった。バス停に降り立つと、その灯台の姿は山陰に隠れて見えない。代わりに、目の前には中岡慎太郎の銅像が立ち、その斜め上方に小さな展望台の姿が見えた。
 5分ほどかけてその展望台へ上る。「恋人たちの聖地」と書かれているが、私には何の縁もない。おだやかな海が180度以上開けている。右下の方には、先ほど見上げた中岡慎太郎の後頭部が見える。


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 それから海岸へ降りて、海辺の遊歩道をしばらく歩いてみたが、やはりどうしても山の上にある室戸岬灯台が気にかかる。次のバスまではまだ1時間ほどあり、案内看板には灯台まで20分とあるから、行って帰ってくることは可能だろう。そう思った私は、登山道のような灯台までの道を登り始めたが、ほどなく後悔の念に駆られた。登山道は想像以上に険しく、無造作な石段が延々と続いている。足はがくがくするし、呼吸も乱れる。そのうえところどころに、得体のしれない獣の糞も転がっている、時々木々の間から見える海岸線は間違いなく遠ざかっているが、二度休憩をはさんでも灯台にたどり着く気配はなかった。


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 20分近く歩いて、分岐点に着いた。左へ行けば100mほどで室戸岬灯台、右へ向かえば最御崎寺(ほつみさきじ)とある。せっかくなのでそちらを先に訪問しておく。最御崎寺は四国八十八箇所の、高知県へ入って最初、第24番札所である。23番が日和佐の薬王寺だから、その間約75kmと非常に長い。歩いて巡礼して、最後の最後にこの登山道とはなかなかの苦行である。めったに来る機会のない場所だろうから、念入りに参拝しておいた。


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 そこから室戸岬灯台は、軽い下り坂を歩いて5分ほどだった。間近に見る灯台はそれほど大きなものではなかったが、ここまで登って来たという満足感が景色をより美しく見せた。雲の加減で時々色合いの変わる灯台と、そこから見下ろす太平洋の景色に、私はしばらく見惚れた。


Dscn5916  下りの登山道は息切れこそしなかったが、足はパンパンになった。途中、一組のお遍路さんとすれ違った。私がはあはあ言いながら登った登山道を、私より明らかに年配のお遍路さんは淡々と登っていった。
 登山道を降りたところにある岬ホテル前バス停で、安芸方面へのバスを待つ。11月も末だというのに私は汗びっしょりで、バス停脇にべったりと座り込んだ。喉も乾いていたが、バス停のすぐ前にあったホテルは廃墟のようになっている。バスを待つ途中、実家からLINE電話がかかってきたが、電波が悪くてまったく会話にならない。スマホを見ると、電波の表示は「3G」になっていた。


 続く





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2024/03/10

2023 いい日旅立ち・西へ【10】寄り道・軍艦島への旅(6)

 前回の続き


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 軍艦島の名の由来が、軍艦「土佐」であることは以前にも書いたが、並べてみてみると確かに雰囲気はある。丘の上に立つ建物群が操舵室や煙突のように立ち上がり,青空に浮かぶ白い雲がちょうど煙のように見える。もともとは岩礁に近い小さな島だったものが、1900年代初めに拡張が繰り返されて3倍の面積になり、昭和に入って高層建築物が増加していった結果、より軍艦に近いフォルムになっていったように思われる。
 ただし本家の「土佐」は、第一次世界大戦後の軍縮によって、進水はしたものの戦艦としての役割を果たすことなく、各種兵器の実験船(標的船)となり、進水からわずか3年3か月後に自沈することになる。


 炭鉱としての端島の歴史は、1974年に終わりを迎える。石炭から石油へのエネルギー転換による採算悪化が定説とされているが、端島炭鉱は良質な原料炭を産出することからその影響をあまり受けておらず、閉山の年まで黒字経営を続けた。採鉱の合理化など、エネルギー転換の影響と全く無縁だったわけではないが、当時の技術のもとで安全に採掘できる石炭を「掘り尽くしたためというのが正しいらしい。
 1973年に親会社から廃鉱の提示がなされ,同年末で端島炭鉱の採炭は終了した。炭鉱以外の産業を持たない軍艦島に住民が残ることはかなわず、翌1974年4月までのわずか数か月で、最後まで島に残った2,000に人ほどの住民すべてが離島し、端島は無人島となった。


 端島の落日は、同じように石炭に翻弄された夕張の最も奥、大夕張(鹿島)地区のそれと重なるものがある。同じ三菱系の炭鉱を抱え、最盛期には2万人近い人口を擁して栄えた大夕張は、端島と同時期に炭鉱としての役目を終えた。私が大夕張を訪れた1994年には、地区の人口は500人まで減少して寂寥としていたが、郵便局などのインフラはかろうじて残っていた。
 大夕張はシューパロダムの建設に伴って1998年に無人となり、2014年にダムの底に沈んだ。端島はその姿を残したまま朽ちつつある。どちらが幸せかはわからない。けれども、ふたつの街の姿は、私にある種の文明の終着点のようなものを感じさせた。


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 2001年に三菱から自治体に無償譲渡された端島は、2009年から観光客の受け入れを開始した。世界文化遺産となったこの島の姿を保全すべく,補改修工事が進められているが、すべての建物を守るためには数百億円の費用がかかることから,取捨選択を迫られている。
 次に訪れる機会があるかどうかはわからないが、ガイド氏の言葉どおり、次に出会う軍艦島は今回の軍艦島とはまた違う景色になるのだろう。それはどこの観光地に行っても,どこの列車に乗っても同じことなのだけれど、年月の経過とともに風化していくという変化はとても重いものに感じられた。


2023west002  島の周囲を眺めた後、クルーズ船は長崎港への帰途についた。行きと同じように高島の脇を通り、三菱造船所を眺めながら湾内に入っていったのだが、軍艦島の姿をみた後にあらためて眺めるとまた違った歴史の重みを感じるような気がした。
 11時30分、クルーズ船は長崎港に帰着した。下船時には船員から、日付の印が押された「上陸証明書」が手渡された。それ自体が決してありがたいものではないはずなのだけれど、近代産業史の断片に触れるという経験は、確かに貴重なものだったと思う。



 端島,通称軍艦島。写真だけではわからない空気感を体験するために、一度は訪れてほしい場所である。




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2024/03/03

2023 いい日旅立ち・西へ【9】寄り道・軍艦島への旅(5)

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 前回の続き


 前にも書いたが、軍艦島へは通常5社のクルーズ船が1日1便ないし2便を運航している。軍艦島の船着き場はドルフィン桟橋1か所だけだから、上陸は交代で行われることになる。したがって1便当たりの上陸時間はおよそ40分。2班に分かれている我がクルーズの場合は、1班およそ30分で撤収となる。後ろ髪を引かれる思いだが、そろそろ船に戻る時間となり、ぞろぞろと来た道を引き返す。


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 途中、軍艦島を囲う護岸の上に、釣り人の姿があった。そういえば上陸前、桟橋の跡と思われるコンクリートの上にもいた。この人たちはどのようにして島に来ているのだろうかとふと疑問に思い、ガイドに聞いてみた。一般の釣り船でここまでやって来るのだという。護岸までは釣り人が登ってもセーフなのだが、中へ入ると罰せられるとガイドが教えてくれた。自宅に帰ってから調べると、漁業権との兼ね合いで諸々経緯があったようで、現在は護岸の外側の構造物までは条例上認められているらしい。けれども護岸のはどうやらグレーゾーンのようである。


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 島に上陸した時にくぐったコンクリートのトンネルを再び通り、ドルフィン桟橋へと向かう。トンネルの中ほど、右側に、格子でふさがれた小さなトンネルの入口があった。これが先ほど総合事務所の前を横切り30号住宅方面へ伸びていた地下トンネルの入口だったのかと気付く。
 船に戻り、今度は進行方向左側に陣取る。後ろの班の到着を待って出航。着岸してからわずか40分余りであるが、ずいぶん長い時間を過ごしたような気分になっている。


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 クルーズ船が出航すると、正面から別の会社のクルーズ船の姿が見えた。これから上陸するのであろう。こちらは軍艦島を右手に見ながら時計回りにゆっくりと島の北西端あたりまで進んだ。正面に見える中ノ島は、端島からおよそ700mほど離れており、明治初期には採鉱も行われていたが、条件の悪さから早々に閉山となり、端島住民の公園として整備された。「島内に何でもある」と言われた端島になかったたった二つの施設、火葬場墓地(納骨堂)もこの島には設けられていた。端島炭鉱の閉山とともに中ノ島も無人となり、上陸はできない。


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 船はここでUターンし、私の座る進行方向左側に軍艦島を遠巻きに見ながら、今度は反時計回りに3分の2周ほどして長崎港へと戻る。まずは島の北端に位置する建物群をほぼ正面から眺める。一番左のやや白っぽい建物が先ほど陸上からも見た端島小中学校。最上階の崩れた姿が先ほどよりはっきりと見える。その隣にコの字型の65号棟の北棟、さらに右が4階建ての67号棟(単身住宅)である。65号棟の手前側の4階建ての建物は端島病院(69号棟)で、隣接する白い2階建ての建物(69号棟)は、島内での赤痢の流行を背景に設けられた隔離病棟である。端島病院の設備は総合病院に匹敵するものだったといい、医療水準も先端だったようである。


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 67号棟から連なる鉱員住宅の奥、丘の上に見えるのは、端島神社である。拝殿は倒壊してしまい、それより一段高いところにあった祠だけが残っている。その麓にも住宅が並ぶ。海岸に近い左の51号棟と右の48号棟、その奥の16号棟から20号棟まで連なる鉱員住宅の間の細い道路は「端島銀座」と言われ、高島などからやって来た行商人が店を開くなど賑やかだったようである。
 

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 48号棟の地下にはパチンコ店雀荘があり、48号棟と先ほど第三見学広場から見た31号棟の間には「昭和館」という映画館(50号棟)もあった。2階建ての建物は下層の骨格だけが残っているが、護岸に阻まれて海上からは見えない。比較的建築年次の新しい31号棟は、その昔鉱員向けの遊郭のあった場所に立てられたものだとという。
 「昭和館」の内陸側には、もはや原形をとどめていないが木造の「泉福寺」があった(23号棟)。一応禅宗の寺院だったそうだが、党内唯一の寺ということで、「全宗」と称していたらしい。ガイド氏の談であるが、いよいよなんでもある島である。


 端島は地理的に台風の被害を受けることが多く、時には高い波が防波堤を超えて島の中に飛び込んだ。特に西側の一帯は「潮降町」の異名もあった。生活環境としては非常に厳しく、時に外部との往来もままならなくなる端島では、島内で完結できるだけの生活インフラの整備が不可欠だった。それをより高い水準で目指したからこそ、過酷な労働である炭鉱に労働者が集まったのだろうと思う。
 島の人口は最盛期に近い1960年で5,267人。人口密度にして東京都の17.5倍に及んだ。私のごとき部外者がわずかな知識と情報だけを頼りに断じるわけにはいかないが、危険と背中合わせの一方で、その家族たちは活き活きと暮らしていたのだろう。残された映像や写真の中の島の人々の表情には、そう思わせるだけのものがある。



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2024/02/25

2023 いい日旅立ち・西へ【8】寄り道・軍艦島への旅(4)

 前回の続き。


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 第1見学広場の左手、南側には、第二竪坑坑口桟橋跡がある。軍艦島には4本の竪坑があったが、第二竪坑は閉山まで採掘が続けられ、端島炭鉱を支え続けた。ここで採掘された石炭は良質の原料炭で、海外からの輸入品に劣らない品質を保っていたという。周辺には多くの関連施設があったようだが、そのほとんどは崩壊し、当時の姿をとどめるべくもなく風化している。鉱員たちはここで1日8時間以上、海底の坑道で採掘作業を続けた。地上に出てくると鉱員たちは共同浴場に向かい汗を流した。鉱員浴場の浴槽はいつも真っ黒だったという。


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 しっかりと整備された見学通路を歩いて第2見学広場へ移動する。正面に、この島では珍しい赤レンガの遺構が残っている。ここは総合事務所の跡である。端島炭鉱の中枢ともいうべき場所で、常時70~80人の社員がいて炭鉱作業の指揮命令をとっていた。周辺に連なるいくつかの建物がまだ形をとどめてはいるが、当時はもっとたくさんの建物があったはずである。総合事務所の建物も、裏側では補強がおこなわれているという。


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 その事務所の前をコンクリートの通路のような躯体が横切って、島の西側へと伸びている。これはドルフィン桟橋と居住地域を結ぶ唯一の通路であった地下トンネルとのこと。こちらはまだ生きているのだとか。
 事務所の奥、丘の上には、灯台と並んでコンクリートの貯水槽が建っている。最盛期の端島にはまだ水道設備がなく、定期的に本土から給水船が運んだ水がこのタンクに蓄えられ、落差圧で共同水栓に供給された。住民は「給水券」と引き換えに水を受け取っていたという。1957年に海底水道が開通したことで取水制限はなくなったが、幹部住宅以外の鉱員住宅に浴室が設けられることはなかった。


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 第3見学広場まで来ると、島の西側に位置する住宅群のうち、30号棟・31号棟が間近に見えた。7階建ての30号棟は、1916年に建築された、日本最古の高層鉄筋コンクリート住宅といわれている。140戸の鉱員住宅はロの字型で、中央部は吹き抜けになっていた。
 そこから岸壁に沿うような形で細く伸びる6階建ての31号棟も鉱員住宅であるが、こちらは1957年建築。1階には郵便局や公衆浴場、理美容院などもあった。水道の整備は遅かったが島内の電化は早くに完成し、当時は高級品だったテレビも多くの家庭が備え付けていたというから、島民が生活に困ることがないよう、当時としては比較的高い水準のインフラ整備が進められていたことがわかる。


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 30号棟は建築学的に見てもきわめて貴重な史料価値のあるものだというが、コンクリートの躯体は長年の海水や強風で劣化が進んでいる。むき出しになった鉄骨は錆が進行し、令和2年3月の強風で建物の中央部が大きく崩落したとのこと。パンフレットの写真とは形が異なっている。
「先日もお客様がご覧になっている目の前で崩れたことがあります」とガイドの女性が言った。一瞬見物客がしんとなった瞬間である。
今日の軍艦島は今日だけのものです。次にお越しの際は、きっと形が変わっていると思います
 そう続けたガイドの言葉が印象的だった。



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2024/02/12

2023 いい日旅立ち・西へ【7】寄り道・軍艦島への旅(3)

 前回の続き


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 軍艦島への上陸は2班に分かれて行われる。乗船手続の際、私を含めて早い組はシールタイプのワッペンをもらっているが、これを持っている組がまず最初に上陸する。下船前には、軍艦島にはトイレがないため、事前に済ませていくよう案内が流れる。ドルフィン桟橋の小さな船着き場には簡易的な階段型の梯子がかけられ、順序良くそこから降りていく。各班ごとに付いたガイドの案内に従って島の内部へと進んでいく。
 

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(長崎市パンフレットより)

 トンネルのような小さな建物をくぐって島の中央部に向かって歩く。褐色の廃墟のように見えた島の山腹には、わずかな草木が茂っている。崩れたコンクリートの残骸を眺めながら、「第1見学広場」へ出た。軍艦島の老朽化した建物に近寄れば危険も伴うことから、見学者のルートは島の南部220mほどの見学通路と、途中に設けられた3か所の見学広場に限定されている。
 配布されたパンフレットを見ると、北東から南西方向に細長い島は、おおよそ南側半分が採炭施設群、北側半分が居住・生活エリアとなっており、軍艦島の象徴的な存在である高層住宅などは見学広場から遠巻きに眺める形になる。


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 第1見学広場から北側を眺める。採炭施設の多くは閉山時に解体されたかその後崩壊して残っていないが、貯炭場であった場所を縦貫するように高架の橋脚のようなものがずらりと並んでいる。これは貯炭ベルトコンベアーの跡である。
 軍艦島の地下炭鉱は、島の地下から海底に向かって伸びており、深いところでは海面下1,100mにも達する。ここで採鉱された石炭は竪坑を経て地上に運ばれて精選される。これがコンベアによって貯炭場へ運ばれるのである。といっても残っているのは橋脚だけであり、その作業の全容をつかむためには相当の想像力が必要になる。


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 コンベアー跡の奥には、7階建ての大きな建物が見える。これは端島小中学校跡である。建設は1958年と比較的新しい。下層階が小学校、上層階が中学校だったとのことだが、エレベーターなどはなく、子供たちは階段でこの建物を駆け上った。以下にも学校らしい窓の形状に面影が残るが、屋根は部分的に落ち、くすんだコンクリートは一部がはがれている。それでも比較的形を保っているのは経年が浅いためだろう。
 1970年には隣接する体育館も完成している。ただ、のちに触れるが端島炭鉱の閉山は1974年であるから、学校本体は16年、体育館はわずか4年の施設であった。


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 学校の左隣が65号棟で、太平洋戦争のさなか、1945年に建設された鉱員住宅である。北・東・南の3棟構成で、最も多くの住居を持った建物である。この場所から見えるのは東棟になる。そこからさらに左へ目を移し、丘の上にある3号棟も住宅だが、65号棟と比べても間取りが大きいのがわかる。これは幹部職員用で、鉱員住宅が6畳1間で共同浴場の中、各居室に風呂がついていた。砿長になるとそれとは別に木造2階建ての戸建て住宅があてがわれていたようである。このあたり、小さな島の中でのヒエラルキーが如実に表されている。決して気分のいいものではないが、それもまた歴史の一部である。


 続く。
 



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2024/01/29

2023 いい日旅立ち・西へ【6】寄り道・軍艦島への旅(2) 

 前回の続き


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 長崎港を出て10分ほどで、左手に香焼の造船工場を見ながら女神大橋の下をくぐる。大型船を通すために海面からはかなり高いところに架かる斜張橋である。
 狭く絞られた長崎湾を抜け出すと、右手に伊王島が見えてくる。厳密には沖之島・伊王島と二つの島からなるが、島と島の狭い部分を3本の橋がつないで一体化しており、遠目にもひとつの島のように見える。小高い丘の中腹には沖ノ島天主堂の白い塔が浮かぶように立っており、そのふもとから左手に向かってゆっくりと立ち上がる伊王島大橋が本土との間を結んでいる。

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 右手に高島の姿が近づいてきた。端島(軍艦島)とともに、三菱グループの炭鉱として栄えた島である。単行としての歴史は端島より長く、閉山は1986年のことである。軍艦島同様に炭鉱住宅などの跡が残っているということだが、現在もなお400人足らずの人々が暮らしており、海水浴場が整備され、シュノーケリングやカヤックなども楽しめる。防波堤で結ばれた隣の飛島は磯釣公園として整備されている。
 その高島の先に、中ノ島という小さな島があり、高島と中ノ島の間に、初めて小さく軍艦島の姿が見えた。


 ふつう海の上に浮かぶ島は、伊王島や高島、中ノ島がそうであるように、盛り上がった丘あるいは山を森林が覆っているものだが、この角度から見える軍艦島には、いわゆる「緑」が一切ない。そのことだけでもそこが特別な場所であることが窺える。
 手元のパンフレットなどによると、1800年代初めから佐賀藩の手によって小規模な採炭がおこなわれてきた端島は、明治時代に三菱資本下に入って以降急速に発展する。小さな島は1930年代にかけて順次埋め立てられて南北480m、東西120mの現在の形になり、採鉱施設や住宅などの人工物で島は埋め尽くされた。その姿が当時長崎造船所で建造中だった軍艦「土佐」に似ていたことから、大正時代にはすでに「軍艦島」の通称が新聞などで使われていたようである。


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 中ノ島を過ぎると軍艦島の全容を望むことができる。中央付近に盛り上がった丘の斜面にはわずかに木々の姿も見えるが、全体的に薄褐色の人工物に包まれている。遠目に見える建物は灰色に汚れ、ところどころが崩れている。その光景は無言の圧力を湛えているように私には感じられた。
 天気は変わらず良好で、波も穏やかで接岸、上陸に支障はなさそうである。島の南東部にある「ドルフィン桟橋」は、「桟橋」と呼ぶにはあまりに小さく、確かに少し波が高ければ接岸も難しいだろう。これが軍艦島への唯一の上陸経路である。


 続く。
 



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2024/01/21

2023 いい日旅立ち・西へ【5】寄り道・軍艦島への旅(1)

 前回の続き


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 長崎駅に降り立ったのは20年ぶり、4回目である。最初の1990年3月と次の1995年2月は三角屋根の駅舎、2003年の春に妊娠7か月の嫁を伴って乗り鉄に来た時には箱形の駅舎が迎えてくれたが、新幹線を迎え入れた今回は線路も高架化され、また装いを改めている。外へ出ると、高架のホームが見え、これと直交するように商業施設を取り込んだ新しい駅ビルが建っている。
 駅前の名物だった「高架広場」は、新たなペデストリアンデッキを設置するために解体工事が進められており、全く別の駅の印象になった。新幹線を迎え入れた街の意気込みが伝わってくるようである。


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 背中の荷物を駅のコインロッカーに預けて、長崎駅前から1系統崇福寺行きの電車に乗り、停留所2つ、大波止で下車。「ゆめたうん夢彩都」と名付けられた立派なショッピングモールの横を抜けて、長崎港ターミナルまでは歩いて5分ほどだった。今日はここから「軍艦島」を目指す。2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として世界文化遺産に登録された島で、正式名称を端島(はしま)という。10年余り前からテレビや各種メディアで紹介される機会が多く、一度は訪問してみたいと思っていた。自分で言うのもなんだが、私がこういう一般的な観光名所に強い興味を抱くのはきわめて珍しい


 軍艦島へ上陸できるのは許可を得たクルーズ船5社の旅客に限られている。各社とも、波の高さや視界などの条件を満たしていない場合は島に上陸することができず、周遊クルーズのみとなる。天気によっては運航そのものが中止になる場合もある。
 会社によっては参考資料として、過去の月別の運航率、上陸率をホームページに掲載している。意外なことに11月の上陸率は高く、期待は高いが、上陸率は高い月でも80%台後半から90%程度というから過度な期待は禁物である。


 私は各社のホームページ等を見て比較し、料金が4,000円と手頃であること、「じゃらん」経由で予約ができること、時間帯が良いこと、発着地が長崎駅から比較的近いことなどから、やまさ海運が運航する「軍艦島上陸クルーズ」を予約した。1日2回、午前と午後の出航で所要時間は2時間30分。午前は9時出航である。1本後の「かもめ3号」で長崎へ来ても間に合うのだが、定員制で自由席のクルーズ船で良い席を確保するために早い時間にやって来た。こういう時に限っては早起きをいとわない便利な体質である。


Dscn5443  ターミナル内の受付にはすでに10人ほどが並んでいた。予約の確認を受けて、軍艦島上陸に当たっての「誓約書」に署名。窓口へ移り、料金とともに軍艦島への上陸料310円を支払う。この上陸料は万一上陸できなかった際は払い戻される。
 パンフレットを受け取り、クルーズ船の乗り場へ向かう。抜けるような青空とはまさにこのことで、風もなく、上陸日和である。やはり頑張ったご褒美なのだろうと思う。ただし、出港してから波が高くなって上陸できなくなることもあるようで、油断は禁物である。ほどなく乗船開始となり、220名ほどが乗れるクルーズ船「サルベージュ」の2階席の右側、前から4列目あたりに陣取ることができた。


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 9時ちょうど、定員の8割ほどの客を乗せて、「サルベージュ」は長崎港を出港した。バックで出発し、出島岸壁を見送りながらくるりと180度向きを変えて、長崎湾を南西の方向に向かって進んでいく。進行方向右手には稲佐山の姿が見える。この山からの長崎湾の夜景は日本三大夜景にも数えられる絶景で、私も2度ほど堪能している。


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 さらに先に進むと、三菱重工長崎造船所が見える。1909年にスコットランドから導入されて今もなお現役で動く「ジャイアント・カンチレバークレーン」は、その奥にある「第三船渠」とともに、軍艦島と同じ世界文化遺産を構成する一部である。その少し先には立神工場のドックがあり、海上自衛隊の艦船が並んでいた。


 このドックは、湾を挟んで対岸の南山手の丘にあるグラバー園からも遠望できる。グラバー園もまた、同じ世界文化遺産の一部である。
 20年前の4月、身重の嫁とともにグラバー園から見た立神ドックでは、ちょうど大型客船の進水式が催されていた。この時の新船が「ダイヤモンドプリンセス」。もともとは姉妹船の「サファイアプリンセス」として建造されていたが、本家「ダイヤモンドプリンセス」の建造中の火災のために振り替えられて「ダイヤモンドプリンセス」となった。2020年に船内での新型コロナウイルス集団感染の舞台となったクルーズ船である。なかなかに感慨深い船出である。
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(2003.4.12 グラバー園より)


続く。




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2023/05/28

春のできごと【3】懐かしきあの方と

 前回からの続き


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 家探しで大阪を訪問していた2日目、3月25日の日曜日、私と坊主は昼過ぎの京阪電車で京都へ向かった。初体験のプレミアムカーは座席のつくりが大きくゆったりしており、JRや阪急に比べて線形が悪く、所要時間も長い京阪特急の旅が全く苦にならなかった。
 祇園四条で下車。鴨川べりのドトールでコーヒーを飲んで小休止し、河原町へ向けてぶらぶらと歩く。高瀬川の桜はほぼ満開に近い状態まで開いており、木屋町通りの風情と相まってなんとも美しい。


 さて、このバタバタのさなかに京都まで来たのはわけがある。それは人に会うためである。
 私は以前にも京都でこの方とお会いしている。これまで私のブログに長年お付き合いくださっている方は薄々お察しかと思うが、私が京都まで来てお会いする方と言えば、そう、あの方しかいない


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 懐かしのbuzzっちさんである。


 ご存じない方のためにご紹介しておく。
 私がブログを初めてすぐの頃、1日にアクセスが20件とか30件、それもほとんどが身内と言う状況で寂しい思いをしていた当時、このブログを見つけてコメントを下さって以来のブログ仲間である。とにかくこまめにコメントを下さる方で、私が関西方面に乗り鉄に出掛ける、という記事を書いた時、メアド付きで「いつ、どこに行ったら会えますか」というコメントをいただいた。初めは社交辞令と受け止めていた私も、同様のコメントが連射されるに至り、これは本物だ、ということでご連絡を差し上げ、真夏の京都で奥様・娘さんとともに歓待していただいた。これがもう10年前である。


 その2年後、今度は家族で関西旅行をした冬、再びbuzzっちさんと京都でお会いした。この時は奥様と息子さんにお越しいただき、当方は家族4人でまたしても歓待いただいた。20歳を一歩手前に控えた大学生心得の坊主は、この時小学校5年生のおちびちゃんである。
 今回、大阪に来るにあたって、家族ぐるみでお世話になったbuzzっちさんにはぜひともご挨拶しておきたかった。月曜日に時間の余裕があるので、レンタカーでも借りてbuzzっちさん宅を襲撃しようと連絡したところ、「ぜひ食事を」といつもの展開となり、ありがたくお誘いをお受けすることにしたのである。


 待ち合わせ場所は高島屋京都店1階入口。今を去ること10年前、新品のパンツをはいてドキドキしながら初めてbuzzっちさんとお目見えした場所である。8年ぶりにお会いするbuzzっちさんは、変わらぬにこやかな笑顔で立っておられた。髪には白いものが増えたが、それはこちらも同じである。我が坊主に至っては顔つき、サイズ感まで当時の面影は全くない。その中で奥様だけがここ10年間の私の記憶と変わらないままである。


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 今回もお店はbuzzっちさんご夫妻にお任せ。タクシーに乗って、住宅街の中にひっそりと佇む京料理のお店へ。入るのも緊張するようなしっとりとした構えのお店で、北海道出身の店主が繰り出す上品な京料理に舌鼓を打ちつつ、飲めないながらにお酒が進む。お話し好きの奥様のぽんぽんと切れ味のある話題は楽しく、buzzっちさんとの息の合ったバッテリーは健在である。坊主は「何かあったら連絡しなさい」とbuzzっちさんから名刺を受け取り、私は奥様とLINE・instagramでつながった。buzzっちさんがブログをお休みされてもう久しいが、10年の時間はコミュニケーションツールを豊富にしている。


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 3時間半あまりの楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、ご夫妻のお見送りを受けて私たちは店を後にした。今回もすっかりごちそうになってしまい、buzzっちさんご夫妻が北海道へ来られた際のおもてなしハードルはいよいよ高くなった
 帰りは京都河原町から阪急電車で梅田へ向かった。高瀬川の桜は、小雨の中ライトアップされて、より一層輝いていた。




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2023/05/07

春のできごと【1】長男・受験始末記

非常に長いこと間があいてしまいました。皆様お変わりありませんか?
いかさまは元気です。


 年始の意気込みはどこへやら、気が付けば前回記事から2か月以上が経過しており、私としても少々ばつが悪い気分になっている。「忙しかった」という一言で片付けてしまえばそれまでなのだが、ちょこちょこと書いては下書き保存していた記事を推敲して整理する時間がなかったというのが実のところである。


 で、この間何もなかったのか、というと、実は相当ブログのネタには事欠かない状況にあった。やや小出しになるが、少しずつ記録に残していくことにする。


 まずその1。上の坊主が大学進学のため、大阪へと旅立っていった


 昨年6月の記事でも触れたが、上の坊主は現役生として迎えた昨年の受験で、本人も予想しなかった手痛い失敗を食らい、1年間札幌駅北口の某予備校に通って捲土重来を期していた。ようには見えなかった。とりあえず朝家を出て夜戻ってくるのだが、実のところ日中どのように過ごしているのかは親の目からはわからない。少なくとも家にいるときの彼はうすぼんやりとしており、浪人生にありがちな悲壮感とか危機感のようなものは漂ってこない。ピリついてはいるらしく、時折嫁と大声で言い争いをしているが、これとてこれまでの日常の延長線上にあって、今に始まったことではない。


 秋口になってもそれは変わらなかったのだが、昨年と違ったのは1回受験を経験したことで早い段階からある程度自分の行きたいところが見えていたことと、滑り止めの学校の選択も含めて多少現実的な視点で選択できるようになったことくらいである。
 結局、今年のセンター試験でも、彼は自分が思い描いていたような点を取ることができず、ひとしきり荒れたのであるが、それでもセンター試験利用で受験していた私大3校には合格し、少なくとも二浪はなくなった。前期で受験した本命の国立大学には手が届かなかったものの、後期で受験した別の大学の合格が決まった。ひょっとしたら私立に行く、と言い出すのではないかとも思っていたが、彼は従容とその結果を受け入れて、3月31日、大阪へと旅立っていった。


 偶然にも幸運が重なり第一志望を手にした私が、ある種の挫折を体験した彼にどのような言葉をかけるべきかは非常に悩ましかったけれども、第一志望ではないにせよ次へ向けてのスタートラインに立てたことは一緒に喜ぶべきことである。この先の人生は行った大学の名前だけで決まるものでもないから、後は彼自身の姿勢にかかっている。そのことだけはしっかりと伝えたつもりである。
 もっとも当の本人は行き先が決まった後もフワフワしており、深々と物を考えている雰囲気には見受けられなかった。まあこれとて私の血を分けた子供であるから仕方のないことではある。


 ともあれ、経済的な視点から見れば、授業料が半分で済む学校へ行ってくれたことについては、大変親孝行な息子である。一人暮らしでは満足な生活はさせられないが、最低限死なない程度の生活をさせるだけの余力は残っている。4年間存分に楽しみ、悩みながら成長してくれればよいと、切に願っている。


 これでついに我が家は嫁と二人暮らしになった。嫁は入学式に出るために息子について大阪へ行き、その後私の父の三回忌のために岐阜の実家へ回り、最後は所要もろもろのために東京の従妹の家に世話になって、4月24日まで家を空けていた。その間、春休みで帰省していた下の坊主は4月6日に旭川へ戻った。父の三回忌で私も4月13日から17日まで岐阜に帰っていたが、この間、私は一人暮らしを満喫していた
 4月28日からは下の坊主が連休で再び戻ってきており、今日までで嫁と二人暮らしになったのは実質4日しかない。下の坊主が旭川へ帰った今日からが本番である。仲良くしないとブログにコメントを寄せてくださった皆さんに叱られる



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2022/11/28

今治にて~平成7年と令和4年

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 11月上旬、仕事で四国に行く機会があり、その帰路、28年ぶりに今治駅に降りた。


 1995年(平成7年)2月、私は長いひとり旅の途上にあった。大まかな行程こそ決めていたが、宿泊地はその日の行程の進捗次第で決める気ままな旅だった。安宿の情報はガイドブックや時刻表の後ろに載っていた旅館・ホテルの一覧表だけが頼りである。
 その日は深夜便のフェリーで新居浜に到着し、松山で一日伊予鉄道の電車を乗り歩いていた。道後温泉に泊まるような経済的余裕はなく、行程的にももう少し先へ進みたくて、私は時刻表を頼りに、今治駅に近い某ホテルに電話した。幸い空室があったが、道順を尋ねた際、「角のタバコ屋でチェックインを」と謎の指示が出された。


 19時過ぎに着いた今治駅前は閑散としており、わずかに開いていた1軒の古びた食堂に入り、酸っぱいような腐ったような妙な匂いのする店内で、親父の指のダシが出たうどんと親子丼を食べた。
 それから15分ほど歩き、ホテルへの小路を入る角に、指示されたタバコ屋があった。3,605円の宿泊料を支払うと、タバコ屋のおばさんが私を名前とは裏腹にくたびれたホテルへ案内した。部屋に風呂は付いておらず、入浴はどこで、と尋ねると、隣接のラジウム温泉で、とのことである。


 ホテルの裏口のような戸を開けると、ラジウム温泉のだだっ広い浴場に出た。件のラジウム温泉は休館日に当たっており、浴場内は暗く、当然誰もいない。その中で1 か所だけ照明が灯されており、たくさんある浴槽の中でその照明の真下の浴槽だけに湯が張られていた。桶を床に置けばその音だけが闇の中でこだまする落ち着かない浴場で、私はカラスの行水を済ませて逃げるようにして部屋へ帰った。翌朝街歩きもそこそこに、高松方面への列車に乗ってそそくさと今治を後にした。


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 それから28年ぶりに私は今治駅前に立った。駅前にあった古びた食堂群は解体されて跡形もなかった。今治桟橋へ向かって歩いていく途中、ふと思い立って、地図を調べてあの宿の場所に行ってみようと思った。
 小路へ入る角に見覚えのあるタバコ屋があった。今時タバコ屋も珍しくなったが、その店はまだ営業していた。そこを左に折れると、古めかしいラジウム温泉がまだそこにあった。別棟だと思っていたホテル「青雲閣」はラジウム温泉の増築部分にあった。


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 ホテルとラジウム温泉は長期休館となっていた。当時はゆっくりと眺める余裕もなかったが、あとから取って付けた風の増築部の向こう側は、古びてはいるが洋館風のしゃれた建物である。建物の入口に取り付けられた看板を見ると、1919年に建築され、太平洋戦争中の今治空襲も潜り抜けて、2016年に国の登録有形文化財に指定された由緒ある建物なのであった。
 当時私は青雲閣で布団にくるまり、今治という町は自分に対して何かの試練を与えている、せめて新居浜くらいまで行っておけばよかった、などと嘆いたものだが、なかなかどうして貴重な体験をしたことになる。


 インターネットやスマートフォンが当たり前の現代ならば、こうした予備知識も簡単に入手することができる。それがない時代には、無知ゆえに素通りしてしまう発見がたくさんあった。
 その一方で、新しいものに出会った時の驚きや爽快感は多少薄れてしまった感は否めない。そう言えば時刻表の100ページ以上を占めていた旅館・ホテル案内もいつの間にかなくなった。便利になるということは何かを失わせていくことに通ずる側面を少なからず持っている。



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