2025年秋 夫婦勤続25周年の旅【4】伊予大洲にて
前回の続き。
伊予大洲に下車するのは初めてである。高松から松山を経てさらに西へ向かうJR予讃線は、松山の少し西、伊予市で二股に分かれ、海岸を走る「海線」と、内陸を走る「山線」に分かれる。私たちが特急「宇和海」で揺られてきたのは、後からできた「山線」の方であるが、この両線が合流するのが伊予大洲である。人口約36,000人の、地元の方には申し訳ないが、比較的地味な街に泊まることになったのは、この先の行程との関係によるものであって他意はない。そうは言っても、せっかく来たからにはどんな街なのか観察してみたい。駅から歩いて5分ほどのところにあるホテルにチェックインし、想像以上におしゃれな部屋に荷物を置いて、私たちは街並み拝見に出かけた。
大洲の市街地を貫く国道56号を南へ歩き、肱川に架かる肱川橋へ出ると、右手奥の山の上に小さな天守が見える。これが大洲城である。川を渡って右手へ曲がり、郵便局と市民会館の前を通って、小高い城山公園へ上がる。ホテルからは歩いて20分ほどである。その城山公園の片隅に、おもちゃのような天守が建っている。これはもちろん復元天守である。
資料によれば、この地に最初に築城されたのは鎌倉時代末期、その後、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて天守をはじめとする建物や城郭の整備が進んだ。1857年の芸予地震で多くの建物が損壊し、その後一部が再建されたが、明治に入って1881年に天守は構造上の理由と老朽化から解体されたという。現在の天守は2004年に木造で復元されたものだが、その両脇を守る台所櫓・高蘭櫓はそれぞれ地震後の1859年、1860年に再建されたものである。
したがって、建造物としては年代的にはそれほど目を見張るべきものではないが、私の興味を惹いたのは、城跡の公園内に建つ「加藤貞泰公顕彰碑」であった。加藤貞泰は1617年、大洲藩の3代目城主となった人物であるが、出生は岐阜県であり、美濃国黒野藩4万石から伯耆国米子藩6万石を経て大洲に転封された外様大名である。以降、1871年の廃藩置県まで大洲藩は13代にわたり加藤氏が治めた。私は黒野藩とは何のかかわりもないが、我が故郷岐阜と大洲を結ぶ縁である。顕彰碑は2017年、加藤貞泰の入城400年を記念して「黒野城と加藤貞泰公研究会」が建立したもので、これは岐阜の黒野城址に大洲史談会が建立した「顕彰碑」の返礼であるという。
「地蔵が丘」と呼ばれる大洲城址の標高は約40mで、ビルの13階から14階程度に相当する。ここから見下ろす大洲の街の雰囲気は実に穏やかである。南側には「NIPPONIA HOTEL」が見える。古民家を改造した宿泊棟や食堂棟の集合体からなるホテルで、ここに泊まることも考えないでもなかったが、旅の最初から1泊10万近い投資をする勇気は私にはなかった。ちなみに大洲城はキャッスルステイもできるプランがあるが、こちらは明治期の数奇屋造りの建築である臥龍山荘での限定アクティビティなどもついて、1泊2食付き2名で132万円と、いよいよ大名限定プランである。
城山公園を後にして、街並みを楽しみながら市街地へ戻る。江戸時代から明治時代の建物が残る古い町並みは風情がある。街灯のすぐ下にある町名や字名を示した行燈など、私の子供の頃の地元を思い出させるが、観光客向けの飲食店や土産物屋は16時頃でおおむね店じまいしてしまっており、人の姿も少なくひっそりしている。北へ向かって肱川を渡ると、堤防から小さな大洲城をそれなりの貫禄で望むことができた。川沿いには地場の味噌工場などもあり、小さいながらいろいろな建物を目にすることができる、楽しい町ではある。
今日の夕食は、あらかじめ予習していた鉄板焼き「美ゆき」。ビールとつまみで本日の反省会を開始し、メインディッシュは当地名物のB級グルメ「ちゃんぽん」。と言っても長崎名物のあの感じではなく、焼きそばと焼きめしを混ぜ合わせた、いわゆる「そばめし」的な感じである。4代・70年以上続くこの店が発祥らしく、お客さんのリクエストで作って以来のメニューだとか。ソースは甘口と辛口を選べるが、甘口を選んでも、それほどくどさや脂っこさがなく、順調に胃袋に収まっていく。嫁との旅行なのに、もう少しお洒落な食事でもよいのではないかと、正直訪問前は少し反省したのだが、案外嫁も喜んで食べていた感じだったので、あまり深く考えないことにする。
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皿の上に載せられたぶどうを覗き込み、お父さんのGoサインを待ち構えるハイエナ2匹。















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