歴史の旅人

2023/01/23

鉄道150年の肖像【2-1】50/150 乗り損ねた列車 (1) 20系ブルートレイン

 鉄道車両の寿命は現在では30年~40年が一般的である。国鉄時代からの車両がまだまだ元気に活躍しているところもないわけではないが、ここ5年くらいで急速に数を減らしてきたように思う。
 先日北海道の特急「北斗」から引退したキハ281系ディーゼルカーが、試作車登場からちょうど30年である。印象的なデザインのあの車両が登場したのはついこの間のことのように感じるが、実は北海道に特急列車が登場した1961年からの歴史のほぼ半分はキハ281系をはじめとするJR世代の車両がつくっている。こういうところで思った以上に長く生きてきたことを実感させられる。


 つまり私が物心ついた頃に走っていた車両はその大半がすでに鬼籍に入っており、「列車」単位で見ても世の中や鉄道の役割の変化によって使命を終えたものも多い。私が鉄道趣味に目覚めた10歳前後から、写真や映像の中で憧れ続けながらついに乗る機会が訪れなかった車両や列車もたくさんある。そういった点で私が「乗り損ねた」列車や車両について、いくつか書いておくことにする。


 1970年代後半、当時の小学生たちの間で一時ブームを巻き起こしたのが「ブルートレイン」である。写真を撮るために深夜まで駅のホームに出入りする小学生の姿が物議をかもしたこともある。当時新幹線と並ぶ国鉄のエース格であったことは疑いの余地はない。
 私も何度も利用したことがあるが、それらはすべてJRになってからのことであり、国鉄時代に乗車することはかなわなかった。車両形式もいくつかある中で、とりわけ強い憧れを抱かせたのは、以前に触れた151系電車と同じ1958年に寝台特急「あさかぜ」でデビューした20系客車である。


20  それまでの夜行列車は、1両単位で運用可能な「雑客車」と呼ばれる車両の寄せ集め編成だった。20系客車は編成単位で塗装や規格をそろえ、ディーゼルエンジンを積んだ電源車から編成全体に電源を供給する「固定編成」で製造され、深いブルーに細い白帯を3本巻いた統一感の高い編成は実に美しかった。ことに、東京寄り最後部の車端は、丸みを帯びた体に大きな曲面ガラス2枚を持つ印象的なデザインで、半分は乗客が自由に立つことのできる展望スペースだった。平成の時代には当たり前になった1人用個室寝台を初めて設け、編成全体の完全冷房化を実現するなど、「走るホテル」とも呼ばれた。


 私が鉄道に目覚めた頃、すでに寝台特急用の車両は70cm幅・二段寝台の14系・24系客車が主流になっており、52cm幅・三段寝台の20系客車は、東京-大阪間「銀河」などの急行列車への格下げ運用が中心となっていた。編成をバラされ、改造を受けて他形式の客車と混結する仲間もいた。客室の設備は確かに時代遅れになりつつあったけれども、国鉄暗黒期に生まれた無表情な14系・24系客車の「顔」と、高度成長期に生まれた20系客車の美しさは全く比較にならない。個人的には、寝台列車でしか味わえない「三段寝台」への興味もあった。


Dscn1926 Dscn1925 
 1980年の上野-青森(奥羽本線経由)「あけぼの」を最後に特急での運用を終えた20系客車は、1986年には急行を含む定期列車から姿を消した。私がひとり旅に出られるようになったのが1988年からなので、物理的に間に合わなかったことになる。
 1998年までにすべての車両が廃車となったが、一部の車両は解体をまぬがれて各地で保存された。中には公園やリゾート施設などで「列車ホテル」になったものもあるが、現在はすべて閉鎖された。不定期で車内を公開している車両はあるが、常時車内へ入れる保存車としては、京都鉄道博物館にある食堂車「ナシ20形」くらいではないかと思う。


 令和の時代の今、当時の20系客車の設備や旅客ニーズを考えると、「走るホテル」というよりは「走るビジネスホテル」の方が的を射ているような気がする。その使命を唯一受け継ぎ存在するのが「サンライズ出雲・瀬戸」ということになるのだろう。「TRAIN SUITE 四季島」「TWILIGHT EXPRESS瑞風」なども寝台列車だが、あちらは「走る滞在型リゾートホテル」であって、中の下の生活に日々追われる私などには用のない世界であり、憧れよりもむしろやっかみの気持ちの方が強い



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (2)

2023/01/09

鉄道150年の肖像【2】50/150 1972年~2022年 鉄道の在り方が問われた50年

 年も変わってしまったが、引き続き鉄道150年ネタを少々。
 

 鉄道100周年の1972年から昨年に至るまでの50年は、私が一緒に歩んできた鉄道の歴史である。
 もっとも、生まれて何年かの記憶はほぼないわけだから厳密にいえばイコールではないが、それまでの100年と異なり身近な存在であることは間違いない。けれどもその50年は、鉄道の在り方が問われる50年であったのではないかと思う。平たく言うと、鉄道が得意とする輸送分野と、苦手な分野(=他の交通機関の方が適している分野)が明確化され、それぞれの存在意義が浮き彫りになったことである。


Dscn1128 Jrq78701 
 鉄道が得意とする分野である短~中距離都市間輸送の象徴的な存在は、新幹線である。鉄道100年の1972年10月の段階で、東京-岡山間676.3kmだった新幹線は、その後50年で九州や北海道、日本海側へと伸び、昨年9月の西九州新幹線までで2,830.6kmに達した。
 在来線でも、国鉄後期からの特急・快速列車によるフリークエンシーの向上と、JR発足以降の新型車両の導入により、都市間輸送の充実が図られた。特に九州・北海道・四国が比較的早い段階から積極策に打って出たのが目立ったが、その後のバブル崩壊と、ベースとなる人口やその集積条件の違いなどにより、九州と北海道・四国は明暗が分かれていくことになった。


1991051 1991005 
 一方で、過疎化と少子化が進む地方における鉄道の比重は、自動車の発達や道路の整備とともに低下が著しくなった。昭和40年代の赤字83線問題は、列島改造を看板とした田中角栄内閣の登場により沙汰止みとなったが、国鉄の分割民営化を前にした1982年からは特定地方交通線の廃止が本格化する。輸送密度4,000人未満の路線のうち、第1次から第3次まで83線区が指定され、2線区が既存の交通会社、36線区が新設の第三セクター鉄道に引き取られた。残る45線区は鉄道が廃止され、バス転換となっている。


1991031 Dscn1193 
 辛くも生き残った地方交通線も、想定を上回る旅客の減少が続いた。1990年代半ばからは、函館本線支線(砂川-上砂川)を皮切りに特定地方交通線とは別枠でのローカル線廃止も進んだ。特定地方交通線からの転換線についても、弘南鉄道が引き受けた旧黒石線をはじめ、これまでに6線区が鉄道としての使命を終えた。
 2010年代の半ばからは、石勝線列車火災事故などをきっかけに経営悪化が表面化したJR北海道で、極端に利用の少ない区間の廃止協議が進んでおり、これまでに4線区4区間が廃止された。


 これに加えて、2020年から始まった新型コロナウィルスの感染拡大による旅客の減少は、これまで都市圏・都市間輸送の収益でローカル線を維持してきたJR各社の図式を崩壊させ、これまで水面下で進んでいたローカル線問題を顕在化させるに至った。

 昨年JR東日本・JR西日本が相次いで公表した路線別の平均輸送人員(=輸送密度)をみると、JR北海道が廃止を促進した輸送密度200以下の路線が東日本で14線区16区間、西日本で5線区7区間にのぼる。中には100円の収入を得るために1万円以上の経費が掛かる区間もあり、JR北海道の廃線区間をはるかに超える不採算路線も少なくない。



Dscn5791 Dscn1228 
 輸送密度1,000人以下まで範囲を広げてみると、上越線、奥羽本線、羽越本線、山陰本線などの幹線においても、県境区間を中心に対象となる区間が点在する。輸送量の大半を特急などの都市間輸送に依存している路線も多い。1988年に建設凍結が解除された整備新幹線は、着工の前提として、新幹線開業によりローカル化する在来線の経営分離の地元合意を要することになったため、「並行在来線問題」という新たなローカル線問題を生んだ。地元の需要だけでは鉄道を維持できなくなる事例も出てくるが、以前に書いた函館本線のように、旅客だけでなく貨物輸送への影響も考慮しなければならない。


 これらの路線が最終的にどうなるのかは、次の50年の課題として積み残される。いずれにしても1872年以来、国土の骨格を形成し、重要なインフラとして整備されてきた全国鉄道網の寸断が進むことは間違いないように思える。「はやぶさ」が東京と鹿児島を一昼夜かけて結び、「まつかぜ」や「白鳥」が山陰本線や日本海縦貫線をまる1日かけて走り抜けた国鉄時代の記憶を持つ者としては寂しい限りであるが、時代とともに役割や形が変わっていくのは世の常である。次の50年で鉄道の役割は何処に帰着するのか、まだまだ見守りたい気持ちも強いのである。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (4)

2022/11/20

鉄道150年の肖像【1-3】100/150 バス路線図からも消えた駅~東濃鉄道駄知線・駄知駅

 比較的身近な、ローカルの話題をひとつ。


Photo_20221101013101  1968年に公表された国鉄の「赤字83線」の扱いが議論されていた昭和40年代半ばは、国鉄のみならず地方のローカル線も同じようにバタバタと廃止に追い込まれていった時期である。そうした路線の中に東濃鉄道駄知線がある。私の実家のすぐ近くを走っていたこの路線を走る電車の姿を私は見ていない。最後に電車が走ったのは鉄道100年の年、1972年7月12日。私が生まれる1か月と1週間前のことである。


 この路線のことについてはいずれじっくり描きたいと考えているが、簡単に記すと以下のようになる。
 明治時代、中央本線の敷設が計画された際に、古くから陶磁器生産が活発だった駄知・下石・瀬戸などが活発な誘致運動を展開した。しかし中央本線は土岐川の北側、多治見を経由することとなり、誘致に失敗した地区の有力者が中心となって、国鉄中央本線との連絡のために「駄知鉄道」として1922年、鉄道50年の年に新土岐津-下石で開業した。1923年には駄知、1924年には東駄知まで全線開通し、1928年には国鉄土岐津駅(現・土岐市駅)へ乗り入れた。地方ローカル私鉄としては珍しく、戦後間もなくの1950年には全線電化されている。これは接続する国鉄中央本線より16年も早い。


 だが岐阜県統計書によると、まず1960年頃をピークに貨物輸送量が減少に転じた。最高で年間65,000トンを発送していた貨物は、それから10年で6割足らずの37,000トンに減った。旅客輸送は団塊世代が高校に通った1966年度で頭打ちとなり、その後じりじり減少し始める。地方ローカル線共通の現象である。それでも年間220万人の利用があったから、赤字83線よりはるかに状態はよかったはずである。
 そこへ1972年7月12日、のちに「昭和47年7月豪雨」と名付けられた激しい雨が駄知線を襲った。増水した土岐川の流れが駄知線の鉄橋を押し流し、列車の運転は13日から休止された。最終的には復旧費用の負担に耐えられないと判断され、1974年10月、正式に全区間の廃止届が提出されることになった。


Dscn1760 Dscn1771 
 廃線跡は7割方の区間がサイクリングロードとして整備され、スイッチバック式で貨物扱いも多かった駄知駅跡は、広い敷地を活用して東濃鉄道バスの土岐営業所に転用された。最盛期には40台あまりのバスが所属し、西は多治見、東は明智の先まで運用されていた。けれども少子化の影響で路線・車両の縮小が続き、2019年に多治見営業所(これも旧東濃鉄道笠原線笠原駅跡にある)と恵那営業所に移行されて廃止となった。
 廃止後も駄知停留所始終着のバスは残されていたが、今年9月をもってバス停留所としても廃止され、敷地は売却される方針だという。


Toutetsu011 Dscn1711 
 この営業所にはバス9台が収容できる車庫があった。この車庫は、鉄道時代の電車の車庫がそのまま流用されたもので、車庫内の舗装路面には線路の跡が残っていた。このことと、サイクリングロードのおかげで比較的線路跡が容易にたどれることもあり、最近では廃線ファンの姿もよくみられたそうである。敷地の売却により、おそらくこの車庫も過去のものと化すのだろう。両親が通学で毎日利用した鉄道の痕跡は、運行停止から半世紀を経てまたひとつ消えていくことになる。


 そういうわけで、私は自分の生まれ育った場所に最も近いこの鉄道に乗ることはおろか走っている姿も見ていないのであるが、唯一、この線を走っていた電車に会ったことだけはある。
 駄知線を走っていた電車は、幸運なことに9両すべてが廃線翌年の1975年に別の鉄道会社へ転籍していった。このうち、四国の高松琴平電気鉄道に引き取られた5両のうち2両に、琴電仏生山工場で会うことができた。1995年2月のことである。


1995020901 1995020902 
 5両のうち2両はすでに廃車となっており、残り3両となっていたうちの2両が検査のため入庫しており、作業員の方に了承を頂いて写真を撮らせてもらった。左の電車(東濃鉄道モハ102→琴電72)は、この日会えなかったもう1両とともに、東濃鉄道が1950年の駄知線電化に際して新車で導入した車両で、東芝が製造した唯一の旅客用電車という希少価値のある車両でもある。
 2枚の写真の電車は、この3年後の1998年に廃車となった。最後まで残った1両も2000年に廃車となり、駄知線を走った電車はすべて姿を消した。災害による廃線という出来事を越えて、その後四半世紀近く生き永らえたこれらの電車は幸せだったのだろうと思う。



ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (0)

2021/01/18

昭和の歴史探偵・半藤一利氏、逝く

 ノンフィクション作家の半藤一利氏が先週、90歳で亡くなった。


 Arashi016_3 Photo 4166605941 
 半藤氏の著作については、当ブログでも何度か取り上げている。

 ・本棚:「日本のいちばん長い日」 半藤一利
 ・本棚:「日本のいちばん長い日」と「時刻表昭和史」~戦後71年の日

 私が半藤氏の著作に触れたのは、おおもとを辿ると田中角栄という人物に興味を抱いたところから始まっている。そこから過去へ向かって歴代の内閣総理大臣についての著作を読み進めていく中で、終戦時の内閣総理大臣である鈴木貫太郎を描いた「聖断」に出会ったのが最初である。太平洋戦争の敗色が濃厚な中、なおも徹底抗戦の構えを見せる軍部に対し、昭和天皇の意思あるところ、終戦へと導いた鈴木首相の生きざまを描いたこの本をきっかけに、私は半藤氏の作品を多数手に取ることになった。


 中でもブログで再三取り上げた、8月14日から15日までの24時間の軍部そして政府の動きを時系列で描いた「日本のいちばん長い日」、それから1963年に当時の戦争にかかわった人物を多数集めて開催された座談会をまとめた「日本のいちばん暑い夏」の2冊は、綿密な取材に裏打ちされた力作であり、今も折に触れて手に取る、私の昭和史のバイブルである。


 半藤氏の著作はいずれも、複雑にして混迷する当時の歴史を、わかりやすい言葉でかみ砕いて書かれている。難しいことを難しいまま記述するのは易しいが、中学生、高校生が読んでも理解できるレベルまで落とし込んで書くのは難しい。半藤氏は昭和史を取り上げたテレビ番組にしばしば出演しているが、ユーモアを交えながら易しい言葉で語る座談の盟主でもあった。半藤氏の代表作のひとつでもある「昭和史」は、語り下ろしの体裁で書かれているが、これを読むとそのことがはっきりとわかる。


 1930年(昭和5年)生まれで、終戦時中学生だった半藤氏は、その後文芸春秋社に入社し、坂口安吾や伊藤正徳らの担当を経て昭和史の素地を学んだ。著作から感じられる思想はどちらかというと護憲派だが、むしろ多様な人々からの積極的な取材を通じて歴史の事実を的確に考証し、偏見のない目で書かれていたという印象を受ける。自ら「歴史探偵」、あるいは「昭和史探偵」と称していた半藤氏の文章からは、昭和史に対する深い造詣と、なんとも言えない愛情のようなものが伝わってくる。


 「比較的新しい過去」として、小中学校の歴史では深く掘り下げられることもなく、どちらかというと終盤に授業時間が足りなくなって一気に端折られる感のあった昭和史だが、戦後75年が過ぎて、実際に戦争を体験した人々が年々世を去っていくに連れ、歴史として学ぶことの重要性は増していると思う。半藤氏が亡くなったことで、その重さを後世に残してくれる人がまた減ってしまったことは、時の流れとは言え非常に残念に思う。


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチッとな。

にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ 鉄道コム

| | | コメント (0)

2016/08/15

本棚:「日本のいちばん長い日」と「時刻表昭和史」~戦後71年の日

 一度引いたのどの痛みが再びぶり返し、声こそちゃんとでるもののなかなか咳が取れない今日この頃。40度近い猛暑になる故郷の岐阜へこの時期帰省しなくなって久しい。盆休みが短い職場の特性もあり、私はこの3日間を札幌の自宅で過ごした。

 冬休みが長い代わりに夏休みの短い北海道、上の坊主の中学校は16日から学校が始まり、しかも初日に研究発表がある。しかるに一昨日私が札幌に帰った時、奴の研究はほぼ手つかずで残っていた。アリとキリギリスで言うと典型的なキリギリス人間である坊主によって、気温は高いがいい風が吹いている札幌の自宅にあって、私の脳内だけは猛暑日になる勢いであった。


 さて、私は昭和政治史が大好きで、その類いの本を読む機会が大変多いのだが、毎年この時期になると、手元にある2冊の本を必ず読み返している。この2冊については過去にも書いたが、あらためて書き記しておく。


■「日本のいちばん長い日」(半藤一利)

Arashi016_3 自らを「昭和史探偵」と称するノンフィクション作家、半藤一利の代表的な作品である。
 この作品は1945年7月27日から始まる。ポツダム宣言が出されたこの日から、さまざまな葛藤や対立を経て、最終的には昭和天皇の聖断により無条件降伏が決定されるまでが、プロローグに簡潔にまとめられている。

 私たちはこれまで学校の授業の中で、無条件降伏は国民に粛々と受け入れられたように教えられてきた。しかし現実には、陸軍を中心とした若手将校が、降伏を阻止するためにさまざまな行動を起こしていた。
 この本の本編では、8月14日から15日までの24時間で、玉音放送へとこぎつけるまでの政府の動きはもちろん、刻々と悪化する戦況の下でなお戦争継続を模索した陸軍内部で、誰が何を考え、どのように行動したのかが、時系列で生々しく描かれている力作である。
 
 昭和天皇の意思、政府の決定をも覆す計画が水面下で進められていたことは驚くべきことであり、このことだけでも軍部の思考の異常性を量るには十分である。同時に、一連の戦争のなかで、ただ軍の命令に従い多くの人々が命を落としていったことを思うといたたまれない気持ちになる。

 この作品は、1967年とかなり早い段階に映画化されていたが、戦後70年となる2015年に再び映画化された。昨日テレビで放映されていたのでご覧になった方もいるだろう。1967年版もDVDで観ることができるので比較してみるのも面白いと思う。


■「時刻表昭和史」(宮脇俊三)

Arashi057 鉄道作家の中でも歴史と文学に造詣が深い宮脇俊三の作品。ご自身は最も愛着のある作品でありながら「案に反して売れなかった」などと自虐気味だが、私は氏の作品の中でも指折りの名作だと思っている。
 1933年の渋谷駅前の風景から始まるこの本は、基本的に戦前・戦中の鉄道紀行文であるが、一般市民の側から見た当時の世相を非常に色濃く映している。

 私の手元にある本は「増補版」の肩書が付いており、1948年4月の第18章(東北本線103列車)が最終章となっているが、私が最初に手に取った角川選書版(1980年発行)で最終章となっている第13章「米坂線109列車」の印象が非常に強い。
 俊三青年は米坂線今泉駅前で父とともに終戦の玉音放送を聞いた。その直後に普段と変わらず列車はやって来た。
時は止っていたが汽車は走っていた。
という一文などが、その時の状況を短く、しかも正確に語っているように感じられる。


Pc305300 Pc305301
 2010年の年末、私はごく短時間だが今泉駅に降り立ち、駅前広場に立った。終戦当時の状況はわからないが、古びた小さな駅舎の前の広場は狭かった。この駅前にラジオが置かれ、宮脇親子や近所の人々が呆然と頭を垂れる姿をしっかり想像するにはあまりに短い滞在時間であった。


 世界情勢が目まぐるしく変化する中で、戦後70年の節目の年に、国の防衛政策は大きな転換点を迎えた。国の形を大きく変えていくであろう問題について、国民全体を巻き込んだ議論をおこなわず、しっかりした説明もなされないままに法案は採決された。
 改正内容の是非についてはともかく、合意形成の手順を端折ったその姿勢に、時代がひとつ戻ったような感覚を抱くのは私だけだろうか。


※過去記事
 本棚:「日本のいちばん長い日」 半藤一利(2012.8.16)
 本棚:「増補版 時刻表昭和史」 宮脇俊三(2013.2.26)


ランキング参加中です。みなさまの「クリック」が明日への糧になります。よろしかったら、ポチっとな

ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ にほんブログ村 本ブログへ 鉄道コム

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/08/16

本棚:「東條英機 歴史の証言」渡部昇一

終戦から69年を経ると、太平洋戦争を身近なこととして体験してきた人々は徐々に少なくなっていく。今日の戦没者追悼式典にも、およそ5,000人の遺族が参加したそうだが、そのうち戦没者の配偶者は19名と、ここ20年で100分の1に減少したという。戦没者の父母の参加は平成23年以降ない。
志願兵として戦争を経験した私の祖父も今年の正月に世を去り、身近に戦争体験者はいなくなった。

この祖父に戦争の話をしっかりと聞いておかなかったことは心残りである。外見的に老いの兆候は見られたが、話し言葉や頭の回転はしっかりしており、まだ時間はある、と先延ばしにしておいたのがまずかった。亡くなる直前まで自ら歩き、畑仕事をしていた祖父は、大晦日に体の不調を訴えて元日に入院、その2日後の1月3日にあっさりと世を去った。
終戦時20歳ということは、かなり自分自身の考え方に基づいて周囲を見られたはずの年頃であり、おそらくいろいろな思いを抱いて1945年8月15日を迎えたと思われる。その生の体験・言葉を聞く機会は永遠に失われた。

そうした後悔の念と、もともと近現代史に興味があることから、この時期、太平洋戦争にまつわる本を読むことが多く、そのたびにいろいろなことを考えさせられる。
歴史というのは面白いもので、事実はひとつしかないはずなのだが、その背景や原因、その結果としての影響を突き詰めていくと答えがまとまらなくなる。何が正で何が悪だったのか、についても置かれた立場や視点によって答えは全く異なるし、南京大虐殺のようにそもそも事実自体に正しい答えが導き出されていないというような例がみられる。
そうしたなかで、歴史を少しでも冷静に、客観的に見つめるためには、日頃とまったく違った視点から書かれた本にも触れなければならない、というのが私の考えである。

Img_1298 この本は、極東国際軍事裁判における東條英機元首相の宣誓供述書の内容をもとに著者が解説を加えたものである。
一般的な感覚として、東條英機は太平洋戦争開戦時の首相であり、日本を戦争に導いた指導者の中でも最も「悪いやつ」として紹介されることが多い。
けれどもこの本は、東條英機を徹底的に擁護する立場から書かれている。中には論理の飛躍もあるように感じるけれども、当時の歴史背景や彼の置かれた立場、そもそも太平洋戦争に至った経緯などを考えると、納得できる部分も少なくない。

戦争指導者を片面的な視点から「善玉・悪玉」に明確に分類して判断するのはたやすい。戦争という悲しい事態に国を導いていった東條英機は指導者としての責任は免れないと私も思うが、それをもって東條を「悪玉」と一刀両断にすることが果たして正しいのか、ということを考えさせられた。

喧嘩の原因は双方の言い分を聞かないとはっきりしない。多くの指導者が、ある人は終戦直後に自決という形で、またある人は一生涯口をつぐみ続けることによって、その内心をさらけ出さず、戦争から69年の間に次々と世を去っていった。結果、わからないことだらけである。
ただひとつ、はっきりしていることがあるとすれば、多くの研究者が様々な視点から検証しながら未だに答えが見えていない難しい問題について、私ごときが答えを出せるわけがない、というそのことだけである。


ランキング参加中です。よろしかったらポチっとな
ブログランキング・にほんブログ村へ  にほんブログ村 本ブログへ

| | | コメント (3) | トラックバック (0)

2013/08/15

本棚:「米内光政」「山本五十六」「井上成美」

Img_0813
阿川弘之氏と言えば、私たちのような鉄道文学好きは、内田百閒の衣鉢を継ぐ「南蛮阿房列車」の、ピリリと辛いユーモアの効いた洒脱な文章を思い出す。エッセイスト・作家で、「ビートたけしのTVタックル」でもお馴染みの阿川佐和子さんはご令嬢で、彼女のエッセイの中に時折登場する頑固なお父さん、という印象をお持ちの方も多いかもしれない。

広島県出身で海軍軍人。出征中に家族が被爆した経験を持つ阿川氏は、戦後、志賀直哉に師事し、「春の城」で読売文学賞を受賞、以来太平洋戦争を題材とした小説を数多く残してきた。
山本五十六」(1965年)、「米内光政」(1978年)、「井上成美」(1986年)は、太平洋戦争をめぐり「海軍左派」と呼ばれた3軍人の生涯を記した、伝記小説3部作である。私の興味の対象である「鉄道旅行」と「昭和史」が、阿川弘之という作家を通じて結びついたご縁の本である。

ポツダム宣言を受けて、無条件降伏を受け入れるか否かをめぐり、8月10日に最高戦争指導会議(御前会議)が開かれている。この中で、徹底抗戦を唱えた阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長に対し、東郷外相、平沼枢密院議長、米内海相が無条件降伏受入を主張して討議は平行線となった。最終的には鈴木首相が昭和天皇の裁決を仰ぎ、いわゆる「聖断」によって降伏が決定した。この話は、昨年の今時期ご紹介した「聖断~昭和天皇と鈴木貫太郎」の中に詳しい。

この時を含め、2度の海軍大臣と1度の総理大臣を務めた米内光政。1度目の米内海相のもとで次官を務めたのち連合艦隊司令長官へ転出、皮肉にも真珠湾攻撃の総司令塔となり、最後はブーゲンビル島上空に散った山本五十六。1度目の米内海相のもとで軍務局長、2度目の海相を次官として支えながら、終戦を目前にして不可解な人事で次官の座を追われた井上成美。「海軍左派トリオ」と呼ばれた彼らは、一貫して米英との交戦に反対し続けた少数派であった。
8月10日の御前会議において、軍人の中で戦争終結を主張したのは米内ひとりである。この意味合いは大きい。米内がいなければ、戦争は継続し、本土決戦が行われていた可能性もある。

もっとも、彼らが終戦工作にあたって積極的な役割を果たしたことに対しては、懐疑的な意見も多い。極端な意見では、「米内・山本・井上は米英に日本を売った『売国奴』」という論調のものもある。
けれども、この本を読むと、彼ら3人が、日本が太平洋戦争へと突き進む中で何を考え、どう動こうとしていたのかが、さまざまな人物への取材を通じ、阿川氏の淡々とした、重い中にも軽快な文章となって浮き彫りになってくる。

阿川氏自身が海軍軍人であったためか、全体を通じて、海軍に対して好意的に描かれている。陸軍サイドの視点から見れば気に入らない部分も多かろうが、歴史に対する評価や見方はさまざまであるから、その1類型と考えればいい。別な文献を通じてさまざまな見方、考え方に接し、知識や理解を補強すればいいだけのことである。むしろこの本は、歴史とは直接に関係のない、女性たちをめぐるやり取りなども出てきて、小説としても楽しむことができる。

和平派、あるいは親米英派と呼ばれる人たちが中核から次々と外されていった陸軍に対し、海軍においては、内部的に決して主流派だったと思えない米内・井上が、戦前から終戦へと向かう十数年の間、随所で重要な地位にあり、終戦を迎える局面で海軍、もしくは国そのもののキャスティングボードを握るポジションにいたということは史実として理解しておくべきだろうと思う。

終戦から68年の日に。


【追記】
米内光政は非常に読書家だった人で、特にその読書術については、私の大いに同感するところである。過去のブログで一度取り上げているので、よろしければ是非目を通してみていただきたい。

いかさま流読書法


ランキング参加中です。よろしかったらポチっとな
ブログランキング・にほんブログ村へ  にほんブログ村 本ブログへ

| | | コメント (4) | トラックバック (0)

2012/07/20

本棚:「運命の人」山崎豊子

Dscn0784久々に本の話。ドラマの放映も終わって今更、ではあるが、図書館で4冊まとめて借りることができたので、一気に読んでみた。

山崎豊子の長編小説の特徴は、「事実に基づいて再構築されたフィクション」という体裁をとる作品が多いことにある。本作は、沖縄返還に伴う機密情報(日米間における費用負担の密約)を、新聞記者が野党国会議員に漏洩した事件がモデルである。

この事件は「外務省機密漏洩事件」あるいは「西山事件」と呼ばれている。
アメリカでは秘密指定の解かれた公文書から密約の存在が裏付けられているが、日本の政権は事件以降一貫して密約の存在を否定していた。しかし民主党政権の誕生により再調査が進められ、密約の存在が改めて明るみに出たことは記憶に新しい。

さて、小説の方はと言うと、これも山崎豊子作品に共通することではあるが、非常に綿密な取材や膨大な資料から組み上げられたことが伝わってくる。特に後段、沖縄の人々の口から語られる戦争体験などは、きっちりとした取材やインタビューを行わなければ構築できない。山崎豊子の小説全般の面白さは、ここにある。

この小説の中で、山崎豊子は主人公と外務省事務官の間の関係がどのようなものであったかについて深く言及しなかった。「フィクション」としての小説であれば、いかようにもドロドロした人間関係を描写し、小説に彩りを添える方法はあったはずなのだが、あえてその部分は小説の骨格からは外されている。
「フィクション」と言いながらも、事実関係が確認できない部分については触れていない。また、モデルとなる人物や会社が容易に特定できるような構造になっている。こうしたところに、山崎豊子の本来の意図が見え隠れするように、私は感じる。

一方、本小説の主人公の「モデル」であるとされる毎日新聞の元記者は、原作中の記述に事実と異なる点が多いと憤っているという。その内容に詳しく触れた文献は見つからないので何ともコメントしづらい。
また、ドラマの方も私は見ていないので何とも言えないが、原作からより脚色された、主人公の盟友であるライバル新聞社の敏腕記者のキャラクター設定に、その人物のモデルとされている某巨大新聞社の会長が怒り狂っているという。

小説としては非常に面白い。「外務省機密漏洩事件」の概略をつかむうえでも非常に勉強になる一冊である。
けれども、真実をとらえるためには、ノンフィクションとして発行された別の作品で知識の補強をしていく必要がありそうだ。

よろしかったら、ポチッとな。
   ↓

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/06/19

本棚:歴史劇画「大宰相」全10巻 さいとうたかを

Img_0160このところ偉そうに「本棚」などと称して読書家ぶってはいるが、私の読む本のジャンルは非常に狭い。
実のところ私は、純文学よりは推理小説、小説よりはノンフィクションを好んで読む。その中でも大好物は「日本現代政治史」である。

ことの発端は「田中角栄」という人物への興味である。
バブル景気が崩壊して日本中が不況に喘いでいた2000年前後、政治が迷走を続ける中にあって、「田中角栄待望論」をしばしば耳にした。

田中内閣の誕生は1972年7月。私が生まれる前月のことである。よってこの人のことは正直よく知らなかった。田中眞紀子の親父で、ロッキード事件で有罪判決を受けた元首相で、竹下登に派閥を乗っ取られて脳梗塞になった人、というレベルである。

そういう人がなぜ、その時代に求められたのだろう、という疑問から手に取ったのが、「歴史劇画・大宰相」の第5巻である。近年、「自民党総裁」とタイトルを変えてコンビニ本でも発売されているので、目にした方もいらっしゃるはずである。

断っておくが、これは漫画である。「ゴルゴ13」のさいとうたかをが描いたもので、登場人物の絵には妙なリアリティがあり、時代の裏で繰り広げられた政争がダイナミックに描かれている。
田中角栄へのアプローチとして購入した1冊だったが、自然に1冊では飽き足らなくなり、間をおかずに10冊すべてが私の本棚に並んだ。原作は戸川猪佐武の「小説・吉田学校」。今も折に触れて読み返す、私の現代政治史のバイブルである。

1巻から10巻までの解説は、田中角栄元秘書の早坂茂三が書いている。このためか、全体的な流れも田中擁護の視点から描かれ、彼の対立軸であった福田赳夫に対してはやや批判的に描かれているきらいはあるが、この本をきっかけにさまざまな文献を漁り、自分なりにバランス良く知識を吸収してきたつもりではある。

ここから始まった私の近代政治史の旅は、10年余りかけて時代をゆっくりとさかのぼり、今ようやく昭和初期までたどり着いている。先般のブログの米内光政の話も、この流れの中で得た知見である。その辺の話は、「左だ」とか「右だ」とか、いらん批判を受けないように勉強したうえで、いずれ書いてみたいと思う。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)