鉄道150年の肖像【2-1】50/150 乗り損ねた列車 (1) 20系ブルートレイン
鉄道車両の寿命は現在では30年~40年が一般的である。国鉄時代からの車両がまだまだ元気に活躍しているところもないわけではないが、ここ5年くらいで急速に数を減らしてきたように思う。
先日北海道の特急「北斗」から引退したキハ281系ディーゼルカーが、試作車登場からちょうど30年である。印象的なデザインのあの車両が登場したのはついこの間のことのように感じるが、実は北海道に特急列車が登場した1961年からの歴史のほぼ半分はキハ281系をはじめとするJR世代の車両がつくっている。こういうところで思った以上に長く生きてきたことを実感させられる。
つまり私が物心ついた頃に走っていた車両はその大半がすでに鬼籍に入っており、「列車」単位で見ても世の中や鉄道の役割の変化によって使命を終えたものも多い。私が鉄道趣味に目覚めた10歳前後から、写真や映像の中で憧れ続けながらついに乗る機会が訪れなかった車両や列車もたくさんある。そういった点で私が「乗り損ねた」列車や車両について、いくつか書いておくことにする。
1970年代後半、当時の小学生たちの間で一時ブームを巻き起こしたのが「ブルートレイン」である。写真を撮るために深夜まで駅のホームに出入りする小学生の姿が物議をかもしたこともある。当時新幹線と並ぶ国鉄のエース格であったことは疑いの余地はない。
私も何度も利用したことがあるが、それらはすべてJRになってからのことであり、国鉄時代に乗車することはかなわなかった。車両形式もいくつかある中で、とりわけ強い憧れを抱かせたのは、以前に触れた151系電車と同じ1958年に寝台特急「あさかぜ」でデビューした20系客車である。
それまでの夜行列車は、1両単位で運用可能な「雑客車」と呼ばれる車両の寄せ集め編成だった。20系客車は編成単位で塗装や規格をそろえ、ディーゼルエンジンを積んだ電源車から編成全体に電源を供給する「固定編成」で製造され、深いブルーに細い白帯を3本巻いた統一感の高い編成は実に美しかった。ことに、東京寄り最後部の車端は、丸みを帯びた体に大きな曲面ガラス2枚を持つ印象的なデザインで、半分は乗客が自由に立つことのできる展望スペースだった。平成の時代には当たり前になった1人用個室寝台を初めて設け、編成全体の完全冷房化を実現するなど、「走るホテル」とも呼ばれた。
私が鉄道に目覚めた頃、すでに寝台特急用の車両は70cm幅・二段寝台の14系・24系客車が主流になっており、52cm幅・三段寝台の20系客車は、東京-大阪間「銀河」などの急行列車への格下げ運用が中心となっていた。編成をバラされ、改造を受けて他形式の客車と混結する仲間もいた。客室の設備は確かに時代遅れになりつつあったけれども、国鉄暗黒期に生まれた無表情な14系・24系客車の「顔」と、高度成長期に生まれた20系客車の美しさは全く比較にならない。個人的には、寝台列車でしか味わえない「三段寝台」への興味もあった。
1980年の上野-青森(奥羽本線経由)「あけぼの」を最後に特急での運用を終えた20系客車は、1986年には急行を含む定期列車から姿を消した。私がひとり旅に出られるようになったのが1988年からなので、物理的に間に合わなかったことになる。
1998年までにすべての車両が廃車となったが、一部の車両は解体をまぬがれて各地で保存された。中には公園やリゾート施設などで「列車ホテル」になったものもあるが、現在はすべて閉鎖された。不定期で車内を公開している車両はあるが、常時車内へ入れる保存車としては、京都鉄道博物館にある食堂車「ナシ20形」くらいではないかと思う。
令和の時代の今、当時の20系客車の設備や旅客ニーズを考えると、「走るホテル」というよりは「走るビジネスホテル」の方が的を射ているような気がする。その使命を唯一受け継ぎ存在するのが「サンライズ出雲・瀬戸」ということになるのだろう。「TRAIN SUITE 四季島」「TWILIGHT EXPRESS瑞風」なども寝台列車だが、あちらは「走る滞在型リゾートホテル」であって、中の下の生活に日々追われる私などには用のない世界であり、憧れよりもむしろやっかみの気持ちの方が強い。
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