北海道の旅人

2021/11/22

フリーきっぷの残り滓〜あてのない小さな旅

Img_4513  先日、道内某都市へ出張に行った際、「HOKKAIDO LOVE 6日間周遊パス」を利用した。特急を含めたJR北海道の在来線全線が6日間乗り放題で、国の補助を受けて12,000円。出張だけで元は取れているのだが、有効期限は明日、22日まである。どこへ行くあてもないのだが、使わずに流してしまうのもいささか勿体ない。

 

 Img_4475 日付が変わったので昨日になるが、21日、札幌10時ちょうど発の旭川行き特急「ライラック」に乗った。何のあてもない時は,選択肢が多い方向に向かうに限る。この方面であれば、岩見沢から室蘭本線、滝川から根室本線、深川から留萌本線、さらに旭川では3方向の選択肢がある。このうち根室本線、留萌本線方面は、2年前、似たような状況下で乗りに出掛けた記憶がある。いろいろ考えたが、結局最後まで乗り通し、11時28分、3分遅れて旭川駅の4番ホームに到着した。


 旭川からの選択肢は、名寄方面の宗谷本線、上川方面の石北本線、そして富良野線である。どの方向へも比較的接続はよいが、1時間ほど後の稚内行き特急「サロベツ1号」が、観光用車両のキハ261系「はまなす編成」で運転されるという情報を得て、目標を宗谷本線に定めた。


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 離れた6番ホームに、新鋭ローカル気動車、H100系が停まっているのが見えた。11時31分発の名寄行き普通列車だとわかり、衝動的に乗車。ブラックフェイスが近代的な小さな車両である。初登場は2018年、この区間への投入は昨年からだが、乗るのは初めてである。2人用と4人用のボックスシートにロングシートを組み合わせた車内は4割ほどの乗車率である。比較的近郊の利用が多いという予想は外れ、永山、比布など市街地での乗降も少ない。


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 蘭留を出ると塩狩峠にかかる。見た目にも線路の勾配はきつくなるが、キハ40系が激しく唸りながら登った峠道を、馬力・加速度・最高速度いずれも改善された新型気動車は淡々と登っていく。3年前の時刻表と比べると、この列車の旭川-名寄間の所要時間は16分短縮されている。
 ややスピードを落として右に左にカーブを切り、ほどなく下りに差し掛かって塩狩着。線路敷にはうっすらと雪が残っている。車で立ち寄ったことはあるが、列車で途中下車したことはない。いずれ降りてみたいと思うものの、今日も車内からホームを眺めるだけで素通りである。


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 13時14分着の和寒で下車。駅構内を跨ぐ歩道橋を渡って8分ほど歩いたところにある「大勝食堂」へ。ここは20代後半と40代前半の旭川時代、仕事の途中によく立ち寄ったラーメン屋である。魚系のダシの匂いが立ち込める昭和然とした食堂で、経営者は何度か代わっているが、味は健在。20年前は500円でメニューは醤油ラーメンとライスのみだったが、値段が700円に上がった代わりに、塩・味噌もラインナップに加わっている。定番の醤油ラーメンで体を温めて、駅へ戻る。


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 和寒14時04分発の特急「サロベツ1号」は、情報に反してキハ261系の通常編成。2日前の悪天候による運休などでダイヤが変わったらしい。乗ったことのない車両に巡り合えるとなれば、どちらかと言えば郷愁列車派の私とてワクワクする。その機会を逃したとなれば残念である。
 しかも追い打ちをかけるように、名寄での折り返し時間にカツ丼を食べようと思っていた駅前の食堂は、「サロベツ1号」が到着した14時30分から昼休憩で「準備中」の札。和寒でラーメンを食べているから空腹にさいなまれることはないが、旭川を出たあたりから「名寄のカツ丼」が脳内を支配しつつあったので、これまたやるせない気分になる。


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 結局、私は15時48分発の旭川行き特急「サロベツ4号」を待つことなく、14時44分発の快速「なよろ8号」で旭川へ引き返した。行きと同じH100系1両の列車は、車番をよく見ると旭川から乗った普通列車と全く同じ車両だった。旭川からは16時発の「カムイ32号」指定席。このところ「ライラック」に当たることが多かったので、掛け心地のよい「カムイ」の指定席は実に快適だった。ちなみにこの列車、岩見沢から札幌へ向かってのラストスパート中に鹿をはねて緊急停止。札幌着はおよそ30分遅れた17時55分頃であった。



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2021/03/21

30周年記念。【2】

 またまた多忙でブログから離れているうちに、3月も終盤になった。北海道も気温が上昇して雪解けが一気に進んだ。郊外の市街地ではまだ残っている雪も、都心部ではすっかり融けて春の装いである。
 このところ春の訪れが以前より早くなったような気がする。確かに今でも4月5月にとんでもなく雪が降ったりすることはあるけれど、雪解けは今よりもずっと遅かった記憶があるし、4月は桜、という固定観念のあった本州人の私にとって、泥水の混じり合ったシャーベット状の雪が行き交う車を汚し、時に歩道を歩く私たちに向かって豪快に飛んでくるような4月の町はとても衝撃的だった。


 1991年3月、受験からおよそ10日後、思いもよらず合格通知を手にした私は、3月11日の「北斗星1号」で、再び札幌へと向かっていた。入学手続とアパート探しのためである。
 幸運にも直前に入手できたB個室寝台「ソロ」で、車内販売のうなぎ弁当を食べて腹痛を起こし、フラフラになってたどり着いた札幌で入学手続を済ませた私は、アパート探しのために父が合流するまでの2日余りをどう過ごそうかと考えて、旭川経由で網走へと向かった。どこかで「ちょうど網走近辺に流氷が接近している」という話をどこかで耳にしたためであった。


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 夜遅くにたどり着いた釧網本線北浜駅に近い「網走原生花園ユースホステル」に泊まり、翌朝、同室の仲間たちと北浜駅へ向かった。北浜駅は「オホーツク海に一番近い駅」として名高く、駅のホームのすぐ奥は海だった。「接近している」という情報にもかかわらず、風のいたずらで流氷は海岸線から遠く離れて見えなかった。けれども、その後に乗った釧網本線の釧路行き列車の中から、斜里近辺だったろうか、鈍いグレーの空と海の境目に、白い流氷の集団が見えた。流氷とは女心のようなもの、と誰かが言っていたが、今になると実によくわかる


 翌日、千歳空港で父と合流し、大学生協で紹介された3軒のアパートをめぐるうち、吹雪模様になった。おそらく午後6時近かったと思うが、3軒の中から決めた北19条のアパートへ向かう頃にはすでに日は落ちていた。道路にはまだ雪が残り、除雪の行き届かない歩道は車道から数十センチ高くなって、非常に歩きにくかった。そこへ顔面に叩きつけるような吹雪である。私と父は「死ぬ―!」「遭難するー!」と絶叫しながらアパートへ向かって歩いた。地下鉄北18条駅からわずか5分足らずの距離なのだが、とてつもなく長く感じた。


 1991年の2月から3月にかけての1か月間は、私にとってこれまでに経験したことのない全くの異文化への扉を開けた時期になった。もちろん、その種のカルチャーショックは、実際に北海道に住むようになってその後も何度となく襲ってくるけれども、あの時期のことはわりあいに細かなことまで鮮明に覚えている。


 この文章を私は、今日の昼、北18条駅に近い喫茶店で書いた。窓の外は、30年前の3月と異なり道路に雪はほとんどないし、建物の姿もずいぶん変わった。整然と整理された区画の中でどこか雑然としたたたずまいだった北18条駅近辺の雰囲気はずいぶんあか抜けたけれども、何かの折にここへ来るたび、私は30年前の厳しい吹雪の中、上着の襟を立てて前かがみになって父と歩いたことを思い出すのである。



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2021/02/24

30周年記念。【1】

 またまた多忙につき大変ご無沙汰をいたしました。かろうじて元気です。いかさまです。


 2021年2月24日。この日は、私が北海道に初上陸してからちょうど30年の記念すべき日である。


Hokkaido01_2  1991年2月24日、翌日の大学入試を控えた私は、名古屋空港(小牧)から飛行機で千歳空港へ飛んだ。当時の搭乗券の半券は今も手元に残っており、ANA705便、座席は1Gとある。北海道も初めてならば飛行機に乗るのも初めてで、この時私はささやかな遺書を書いて飛行機に乗った。 その遺書はその後何度か再利用されたが、どこかへ行ってしまった。誰かに読まれていたら実に恥ずかしいレベルの内容しか書いていなかった記憶がある。


 当時の記録を紐解くと、13番スポットからバスで移動して搭乗した705便は、9時47分に移動を始め、その10分ほど後に滑走路を猛然と走り出した。背中を押し付けられるような強い力を感じながらふわりと宙に浮くと、地面から伝わる震動はなくなったものの小さくゆらゆらと揺れ、不思議というか気持ち悪いというか、そんな印象を受けたようである。「到着地、千歳空港の天候は曇り、気温は氷点下3度との報告を受けています」という、とんでもない所へ来てしまった感の強い機内放送は今でも覚えている。



199003106 千歳空港着は11時20分。まだ現在の新千歳空港ターミナルが完成する前の小さなターミナルから、長い通路を歩いて千歳空港駅(現・南千歳駅)へ行った。そこから11時54分発のL特急「ライラック13号」で札幌へ向かった。温かみのある781系電車の車内は飛行機からの乗り継ぎ客で混雑しており、座席には観光バスのような補助席まで付いていた。現在のような快速列車による航空アクセス体系はまだ確立しておらず、本線上を走るすべての列車が千歳空港駅に停車し、乗客は運賃+100円の「エアポートきっぷ」で特急列車に乗ることもできた。


 まだ青い旧ビル時代の札幌駅西通り南口から踏み出した記念すべき北海道での第一歩で、私は凍った路面に足を取られてめでたく転倒、華麗な北の大地デビューであった。宿泊は駅近くの札幌ハウスユースホステルだったのだが、ここの入口階段でも私は転倒した。悪いことはまだ続く。受験会場の下見に行った際、翌日の受験票の他に本来持参しなければならないセンター試験の受験票を自宅に忘れたことに気付いた。


 通りがかりの学生に教えてもらった担当部署で、当日申告すれば大丈夫と言われて安心した私は、その後、当時恒例にしていた受験前のゲン担ぎのため、駅前のパチンコ屋へ行き、汽車ポッポDXという台で1時間ほど遊んでドル箱1箱いっぱいにした。ところが景品カウンターへ向かう途中で椅子につまずいた私は2,000発あまりの玉をフロアにぶちまけ、挙句の果てにユースホステルへの曲がり角でみたび滑って転倒し、手のひらから血を流すことになった。


 記録に頼るまでもなく、初めての北海道、初めての札幌のことは鮮烈な印象となって私の脳裏に焼き付いている。あれから30年、旧千歳空港ターミナルも青い札幌駅舎も跡形もなく、L特急も781系電車も姿を消して久しい。「ゴールデンレジャー」から「パーラー時計台」と名を変えたパチンコ店も10年ほど前に閉店した。私にとってはつい最近のことのように感じるのだが、子供たちや昨今の若者にこんな話をしたところで大昔の話と一笑されるに違いない。私たちが人生の大先輩から街頭テレビで見た力道山の空手チョップの話を聞かされるに等しい。



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2018/06/17

シンガポールからのお客様【2】

 前回の続き。


 6月3日の日曜日に我が家にやって来たT君。2週間の滞在を終えて、昨夜、新千歳空港からシンガポールへ帰っていった。


 わずか2週間の滞在は、かなりのハードスケジュールであった。平日10日間のうち3日間は、シンガポール団員単独での視察研修で札幌近郊の観光名所や施設を回るが、残り7日間は、上の坊主と一緒に学校へ通い、一緒に授業を受けた。
 坊主の学校は我が家から少々遠く、通学にはバスと地下鉄、徒歩で1時間10分ほどかかる。7時前には家を出て学校へ行き、帰ってくるのは19時近くなる。T君は普段、学校へは両親の送迎で20分ほどの通学時間だというから、これだけでもかなりの負荷がかかったであろうことは想像に難くない。


 通常学校が休みになる9日の土曜日も、ラーニングセミナーと呼ばれる特別授業があり、上の坊主とT君はふたりで学校へ行って受講していたが、その帰り、大通公園で途中下車して、ちょうど開催中だった「よさこいソーラン祭り」を見物して帰ってきた。札幌名物と言えば言えなくもないが、終日フリーになる日曜日は、できればもっと北海道らしい、あるいは日本らしいところへ案内したいと思うのが、ホスト側としての心情である。


Dscn0045  10日の日曜日、朝9時半頃に家族そろって車で自宅を出発し、国道230号線を南へ走って、喜茂別町との境、中山峠で休憩、名物の「あげいも」を食べる。
 ここから先の予定ははっきり決めていない。天気と気分次第で選択できるように、何パターンかの行程を用意してある。T君が来日して以来、夏日が続いた札幌近郊だったが、金曜日にまとまった雨が降った後急激に気温が下がっていて、野外活動には少々不向きな気候になっていたためである。赤道直下の国の人がしんどい寒さにならないよう配慮しなければならない。


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 この日も最高気温は20度に届くか届かないかというくらいであったが、羊蹄山がくっきりと見える陽気で、比較的風も弱く、気候としては悪くない。喜茂別町あまりに冷え込むようだったら、230号線をそのまま南へ向かい、洞爺湖、登別温泉を回ろうと考えていたのだが、私はT君の意思も確認したうえで、車を喜茂別町から国道276号線を西へ走らせた。京極町のふきだし公園、ニセコ町のニセコ高橋牧場を経由して、倶知安町の「ライオンアドベンチャー」のベースに13時半に着いた。目的はラフティングである。


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 北海道伊達市と千歳氏の境界付近を水源とし、羊蹄山の北側を流れる尻別川は、国内有数の水質を誇る河川で、ビギナー向けのラフティングのメッカである。嫁と子供たちの3人を送り出し、私は地上で写真を撮る。尻別川に架かる橋の上から眺めていると、大量の水を湛えた水面を、ボートがこちらへ向かってきた。大きく手を振ると連中がこちらを見上げた。普段緊張気味のT君の表情も緩んでいる
 2時間ほど後にベースへ戻って来た彼らは、全身びっしょり。この気候の中、あの冷たい水の中へざぶりと飛び込んだようである。


Dscn0103  倶知安町からは国道5号線を北へ向かって、余市町の「柿崎商店」で食事。魚屋の2階が食堂になっており、新鮮な刺身を盛った丼を手頃な値段で堪能できる。サーモンの刺身とイクラの載った「いとこ丼」は1,400円。昔と比べると安さの感動はなくなっているが、それでもコスパは悪くない。T君もおいしそうに食べてくれた。


Dscn0113  さらに国道5号線を走って、小樽運河をちらりと眺めた後、道道1号線の朝里峠を越えて、定山渓の少し札幌寄りにある小金湯温泉湯元小金湯」で体を温めることにする。
 シンガポールのT君は、普段シャワーだけの生活で、私たちの家でも湯船に浸かったことはなく、大丈夫か、と確認の上での温泉体験だったのだが、以前日本に来た際に経験済みだったらしく、まったく抵抗なく脱衣所で裸になり、露天風呂にもしずしずと浸かった。声を出すでもなくのんびりと温まっている姿は、わが兄弟と完全に同化していた


 食べ物についてもそうだったが、こういうところは実に手がかからないというか、およそすべての体験をすんなりと呑み込んでくれる。ただ、非常に言葉少ななところだけは日数を重ねても変わらず、表情で何となく楽しんでるなあ、というのはわかるものの、実のところ本当に楽しかったかどうかの確証が得られないところが多少しんどいところであった。



 つづく。



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2018/04/03

日高晤郎ショーの思い出

 日高晤郎、と言っても、北海道民以外には馴染みが薄いのではないかと思うが、北海道民でこの人を知らないとモグリと言われるレベルの有名人である。市川雷蔵、勝新太郎に師事した俳優として、よりも、北海道で35年にわたって土曜日のラジオの顔であり続けたパーソナリティーとして名高い。その日高晤郎氏が今日、悪性腫瘍のため亡くなった。74歳。


 大阪出身だが40年ほど前からSTVラジオへの出演機会が増え、1983年4月からスタートし、当初3時間の生放送だった「ウィークエンドバラエティ・日高晤郎ショー」は、翌年から8時間、1987年からは9時間の生放送となった。歯に衣着せぬ物言いでいわゆる「アンチ」も多かったようだが、ラジオの聴取率は常に高位安定していたという。


 私が北海道に来たのが1991年で、車の運転をするようになったのが翌年の事である。当時は車にCDとかDVDとかTVなどついていない時代で、FMの電波も入りにくい地方へドライブに行けばAMラジオだけが耳慰めであったから、「日高晤郎ショー」や日曜日夜の「日高塾」などよく聴いた。やんちゃ坊主が大人になり、厳しいが節を曲げない頑固親爺になったような、そんな印象の人だった。


 この日高晤郎氏と私はたった一度だけ、接点を持ったことがある。
 最初の旭川勤務の時だからもう20年近く前の話になるが、当時よく通っていたサンロク街のスナックに晤郎ショーの収録が来ることになった。「SUNカラオケ訪問」というコーナーで、晤郎氏が道内各地のスナックのママと電話でトークをしながら、その店で事前収録されたお客のカラオケを流して採点する、というものであった。1回あたり5人ほどの客が歌い、高評価を受けるとスポンサーの焼酎をプレゼントされることになっていた。私はママに頼まれてそのうちの1人に加わり、「燃えよドラゴンズ!」を熱唱した


 放送日が近くなった頃、私の上司が、
「なあ、日高晤郎は巨人ファンだろう。放っておいたらお前の歌った部分はカットされるんでないか」
と言い始めた。それはもったいないですね、どうしましょう、と話すうちに、この際当日の公開放送に乗り込もう、という話になった。晤郎ショーはSTVのスタジオからの放送だったが、数十人が入れる客席を設けてスタジオ観覧を実施していた。


 当日、コーナーの放送時間の少し前をめがけて上司とSTVへ行き、首尾よくスタジオに入れることになった。偶然なことに、番組の電話受けをしているアルバイトの女の子の一人が私の大学時代の塾の教え子で、スタジオの手前で声を掛けられて話をしているところへ、ちょうどCM中でトイレから帰って来た晤郎氏と鉢合わせになった。


 「Tちゃん(教え子の名前)、そのお客さん、お知り合い?」
と晤郎氏に声を掛けられた彼女が私を紹介し、スタジオ観覧に来た理由を説明すると、晤郎氏は台本を確認しながら、
「ああ、『燃えよドラゴンズ!』の? 俺巨人ファンだよ。気に入らないからカットしようと思ってたんだよ。」と言った。切って捨てるような言葉だったが、目は笑っていた。


 そう言われながらも結局そのコーナーの中で私の歌は放送され、晤郎氏から鐘の連打と、
「下手に歌ってくれりゃあこっちも突っ込みようがあったのに、応援歌をこんなに明るく爽やかに歌いやがって、嫌な野郎だなお前よお」
という最上級の誉め言葉を頂戴した。同行してくれた私の上司は照り焼きハンバーグみたいな顔と評されてややご立腹だったが、プレゼントされた焼酎6本は、後日上司も含めて皆で美味しくいただいた。


 最近は「日高晤郎ショー」を聴く機会もめっきり少なくなっていたのだが、今日、訃報に触れて、私は久々に当時の音源を探し出して聴いてみた。私の張りのある歌声も相当若かったが、畳みかけるような歯切れのよい晤郎氏の喋り口調も若く、私の中での晤郎氏の印象そのままだった。


 晤郎氏が35年近く一度も欠席しなかった生放送を初めて休んだのが今年の2月。手術を経て、1週休んだだけで復帰した後も、自らの体験を笑いに変えていたという。


 ネット上に、3月24日放送の晤郎ショーのエンディング部分がアップされていた。晤郎氏の語り口調は、私の印象とはまったくかけ離れたものだった。声はしわがれて言葉も弱々しく、言葉に詰まって嗚咽を漏らすシーンさえ見られた。
 「来週は35年間より上の晤郎ショー、それをやります」
 自身の病気のことに触れた後でそんな言葉を絞り出したご自身の中には、ひょっとすると何らかの予感というか、覚悟があったのかもしれない。結果的にはこの放送が晤郎氏の最後の声となった。


 北海道を愛し、北海道民に広く愛され、北海道を代表するパーソナリティとして長年君臨した日高晤郎氏。賛否両論はあったかもしれないが、その実績は確かなものである。74歳は今のご時世あまりにも早すぎる。


 謹んでご冥福をお祈りします。



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2017/09/26

かみかわ点描【10】金色の世界

 北海道の水稲作付面積は、新潟県に次ぐ第2位である。10万ヘクタールを超える水田面積のうち、上川地方はおよそ3割を占めている。上川地方のほぼ中心、比布町には北海道立の上川農業試験場があり、水稲の品種開発がおこなわれている。北海道の米のイメージを飛躍的に高めた「きらら397」、そして全国的にも評価の高い良食味米「ゆめぴりか」はここから旅立っていた。


Img_1893  7月から8月にかけての水稲の緑色は、上川盆地の夏を決定的に印象付ける。石川県などで見られる、山間の傾斜地を切り開いた棚田の風景も原日本的で美しいが、広い平地にじゅうたんを敷き詰めたように広がる水田の緑は見ごたえがある。
 旭川市の北東部、東鷹栖地区には、本州でも多く見られるようになった「田んぼアート」が設置され、夏の旭川のちょっとした観光スポットになっている。


Img_2885  そしてこの季節、水田は金色に染め上げられる。玉葱やビートなどの畑では見られない色合いで、収穫直前の麦と比べてもよりコントラストの強い印象を受ける。新米を包んだ穂先は緩やかに頭を下げて収穫を待っている。収穫作業は旭川市近郊では早いところで9月10日前後から始まる。
 本来なら作業のピークを迎えるはずの3連休、日本列島を縦断した台風の影響で北海道も強い雨と風に見舞われたが、幸いなことに大きな被害を受けることもなく、今日現在で収穫作業はおおむね5割ほど進んでいる。


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 収穫された水稲は、殻のついたの状態で乾燥機にかけられ、籾摺りをされて玄米となる。かつては「はさがけ」と言って、収穫の終わった水田で天日干しして水分を下げる様子がいたるところで見られたが、最近ではほとんど目にすることがなくなった。
 乾燥や籾摺りは個々の農家での作業としておこなわれることもあるが、地域のJAが運営する乾燥調製施設でおこなわれることが多い。施設の形態によって籾のまま、または玄米で持ち込まれ、異物や未成熟米、着色した米などを取り除き品質をそろえて出荷される。


 上川、そして北海道の農家が丹精込めて育てた「ゆめぴりか」「ななつぼし」をはじめとした平成29年産の新米、そろそろ全国各地の販売店に並んで、みなさんの食卓に上がるのを待っている頃である。


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2017/05/07

二十間道路の桜並木と日高本線の今

 今年のゴールデンウィークは、最後の2日間、雨と風で若干崩れたものの、総じて良い天気の日が続き、気温も高くなった。札幌や函館を中心に道内南部の桜の名所もほぼほぼ見ごろとなり、花見客でにぎわったところも多いと聞く。


 我が家には花や風景の美しさを愛でるタイプの者は誰ひとり存在しないのであるが、それでも「」と聞くとなぜか鑑賞せねばならん、という気持ちになるらしい。自宅近くのバス通りの桜並木も見頃で大変美しいのだが、せっかくの連休なのだし、少し足を延ばして桜を見たい。とはいえ、水泳教室に通っている子供の練習は連休中も容赦なく組まれており、あまり遠出もできない。


 そこで5月5日、次男坊の水泳練習を午前で切り上げさせて、午後から車でおよそ3時間、新ひだか町静内地区の桜の名所、通称「二十間道路」を訪ねた。
 国道235号線、静内市街地から内陸に向かって8kmほど入ると、北東の方角に向かって伸びる直線道路の両側にエゾヤマザクラを中心とした桜の木が立ち並ぶ。桜並木は約7kmにわたってまっすぐ伸び、本数はおよそ3,000本にもなるとか。名前の由来はこの桜並木の道幅(約36m=20間)である。


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 私は過去にも何度かこの時期に付近を素通りしたことはあるが、ちゃんと眺めに来たのは今回が初めてである。15時過ぎに到着した現地の臨時駐車場には待つほどもなくすんなりと停められた。ここへ来る途中には札幌方面へ戻る車と多くすれ違ったから、日中の人出はもっとすごかっただろうと思う。
 この日の10時に満開宣言が出された桜並木は、私ごときの拙いカメラ技術とポンコツカメラでは伝わらないほどボリュームにあふれ、圧巻である。


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 手前側から5kmほどのところにある「花のトンネル」。写真では少々寂しい感じだが、枝をいっぱいに広げた桜がアーチ状になって迎えてくれる。この時期、一帯では「しずない桜まつり」も開催されており、出店も並んでにぎやかである。
 二十間道路の外側には、日高軽種馬協会の種馬場をはじめ、軽種馬の生産牧場がいくつもあり、緑の牧草地が広がっている。こういう奥行きを持った桜並木は他にないのではないかと思う。札幌の円山公園などのように敷物を広げてジンギスカン、というわけにはいかないが、およそ1時間、行ったり来たりしながら満開の桜を堪能した。


 ところで、「桜まつり」の期間中、会場へは静内駅前から臨時バスが運行されているが、肝心の静内駅へやって来る列車はない。日高本線の鵡川-様似間は、2015年の高波被害と2016年の台風被害の影響で不通が続いている。復旧にかかる費用は86億円、またその後の維持のための地元負担が年間13億円に達すると試算されている。


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 被害の様子は、並行する国道235号線からも断片的に眺めることが出来る。清畠―厚賀間では、海岸線の近くを走っていた線路が押し流されて大きく歪み、路盤が崩れて枕木とレールが浮き上がっている。そのまま放置されたレールは錆が浮いており、このままではおそらく使い物にならないだろうと思う。


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 豊郷―清畠間に架かっていた慶能舞川橋梁は、押し寄せた土砂交じりの水に流されたと思われ、鉄橋が川岸でぶっつりと途切れている。流された鉄橋はひっくり返った状態で現地に置かれており、原型がどうだったかもわからない。国道から見える状況だけを見ても、復旧は困難だろうと容易に推察できる。JR北海道は昨年12月、鵡川―様似間の復旧断念を地元自治体に伝達し、バス転換に向けた協議に入った。華やかな桜の陰に隠れた、もうひとつの事実である。



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2016/10/16

おにぎりギネス記録 後日談

 前回のブログで書いた、同時におにぎりをたくさんの人数で握るギネス記録。当初の想定を上回る1,300人近くが集まり、1,273人の記録を打ち立てて大いに盛り上がった。わが坊主も、チャレンジが開始するまでのセレモニーの間は相当退屈していたようだが、ギネス記録達成の一翼を担い、おまけに抽選会で商品までいただいて、かなりご満悦だった様子である。
 「三連休で一番楽しかったのは?」の問いにもこのイベントを挙げ、プールもお風呂もお父さん渾身のカレーライスも吹き飛んだ観がある。

 さて、前回の記事で、この記録への挑戦は、直近で11月の桑名市でおこなわれると書いたが、実際には今日、鳥取市の美保南小学校でもおこなわれた。この情報を私は把握しておらず、誤報のような形になってしまったことはお詫び申し上げる。
 ともかく、今日の挑戦で、旭川市で先週達成した1,273人の記録は大幅に塗り替えられ、1,436人の新記録が達成された。失格者はわずか14人、これは文句なしの大記録である。11月の桑名にとってはさらにハードルが上がることになる。

 こうして旭川はわずか1週間の天下に終わった。先週のイベント当日交付されたギネスの認定証は、まだ記録の人数などが入っていない仮のものであったらしい。人数の入った正式の認定証は後日届くとのことで、おそらくまだ届いていないのではないかと思われる。
 この認定証自体は記録更新ではく奪されるわけではなく、その時の記録として手元に残ることになるらしい。けれども記録が更新されてから認定証が届けば、受け取る側も気づかずに渋柿を食ったような気分になるのではないかと思う。福島県湯川村の皆さんの気持ちがいまさらながらわかる。

 この挑戦の記録は、わずか数週間でおよそ600人が上乗せされたわけだが、おそらく今後も当分は際限なく更新されていくのではないかと思う。みんなでひとつのことを成し遂げる、そのことに意義があると言えなくもないが、どうせなら記録もこの手に欲しいと考えるのがふつうである。
 その一方で、このために会場を設営したり必要なコメや資材を用意する手数も膨大なもので、ギネス認定員や補助の弁護士を呼ぶためには少なからぬ費用もかかると聞く。これもある種の経済効果だと言えなくもないが、結局ギネス記録を管理するギネス・ワールド・レコード社だけがウハウハのような気もしなくない。
  この際、万人単位での記録をバーンとつくって、当分静かにさせてみるのもどうか。例えば、日本シリーズの球場とか嵐のコンサート会場とか。そんなことをふと考えた。記録が破られたから、と、悔しまぎれで言っているわけでは決してないのだが。




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2016/10/11

秋の三連休~坊主の襲来 episode2

 10月から少々天気がご機嫌を損ねている旭川。10月8日から10日にかけても雨が降り続く3連休となった。気温もぐんと下がり、今日10日はこの秋初めて最高気温が9.7度と10度を下回った雪虫が舞うのを見たという同僚もおり、北海道はわずかな秋を駆け抜けて冬の足音が近づいてきている。


 この三連休初日、前回の長男坊に引き続いて、次男坊が旭川に現れた
 以前にも書いたがわが次男坊はチキンハートである。JR・高速バスはおろか地下鉄にもひとりで乗ったことがない。体を動かすのは大好きだが、危ないことはしない。遊園地へ行っても絶叫系のマシンには興味を示さない。その割に家では俺様状態である。要するに君子ではないが危うきに近寄らないタイプである。

 兄貴が旭川でたいそう楽しい思いをして帰ったその後ですら、彼は自分もそうしたいという意思を全く示さなかった。嫁が札幌駅前バスターミナルまで送って行ってバスに乗せ、私が終点の旭川ターミナルへ引き取りに行けばいいのだから話は楽であるが、そもそも彼はそれすら拒んでいた。
 それがどういう風の吹き回しか、自ら旭川へ行きたいと言い出した。もう小学校4年生なのだから、そのくらいの冒険心があってくれた方がお父さんとしては安心できる。

 8日土曜日の昼過ぎに旭川に到着した坊主と、まずは駅前のショッピングセンターで夕食の買い物。それからアパートへ帰り、兄貴の時と同様、お父さん特製のカレーライスをふるまう。相当な具沢山にすることと市販のルーを2種類混ぜることくらいしか工夫はないが、これはこれでなかなか好評である。

 翌9日は、午前中お勉強の対応をした後、雨の中列車に乗って、お父さん行きつけの市民プールへ。一緒に泳ぐのは久しぶりだったが、日頃から選手コースで泳ぎを鍛えている坊主はさすがに速い。大会では強敵の前に歯が立たないが、ホリデースイマーのお父さんなど全く相手にしてもらえない。あっという間に差が開く。
 いったんアパートへ戻って、これも兄貴と一緒に行った大型銭湯へ。1時間ほど出たり入ったりしながらのんびりと過ごす。
Img_2373  そして今日、これも兄貴の時と同じ「すがわら」で塩ラーメンの昼食のあと、「道の駅あさひかわ」に向かった。ここにある地場産業振興センターで開催された、上川地方のJAによる「秋の大収穫祭」のイベントとしておこなわれた、同時におにぎりをたくさんの人数でにぎってギネス記録に挑戦する企画に参加するためである。

 世の中にはいろいろなギネス記録があるものだが、私は今回まで、この挑戦はこれまでにもけっこういろいろなところでおこなわれていることを知らなかった。
 イベント企画時点での記録は、7月17日に秋田県能代市で認定された858個。実は前日の9日にも、福島県湯川村で挑戦が行われ、1,041人が参加した。そのうち、形が崩れた、あるいは具がはみ出したなどの理由で失格となった65個を除く976個がギネス記録として認定されたばかりである。

Img_2385  参加者募集の段階で記録挑戦に必要な人数が集まるかどうか危ぶまれるシーンもあり、加えて前日に記録が大幅に伸びるなど懸念もあったようだが、この日集まった参加者はした人数は合計1,292人。用意されたお米は上川産の「ゆめぴりか」。周囲の助けを借りず、みな独力でおにぎりを握る。制限時間は5分、型崩れしたり具の梅干しが見えてはいけないルールだそうである。おそらく初めてのおにぎり体験であろう坊主も、神妙に握り、どうやら皆さんの足を引っ張らない程度の作品が出来上がる。

Img_2394  5分経過後、立会いのギネス公式の認定員や証人が1個1個出来栄えをチェック。結果、失格となった19個を除き、合計1,273個でギネス記録達成となった。三日天下どころか一日天下になってしまった湯川村の皆さんには大変申し訳ないが、その記録を297個上回る文句なしの記録である。

 ちなみにこの挑戦、直近では11月3日に三重県桑名市で企画されているそう。目標は、「くわな」にちなんで987個と報じられているが、企画段階より最高記録が400個以上増えており、987個では記録更新とならない。桑名市でも1,200人以上を集める計画だというが、さてどうなるか、非常に興味深い。

 認定証の授与が華々しくおこなわれる中、私たちはそそくさと会場を後にした。明日から普通どおり学校に行く坊主をバスに乗せねばならないからである。ギリギリ飛び乗ったバスは17時発。19時過ぎに「札幌に着いたよ~」と坊主から電話がかかってきた。
 行きのバス車中に傘を忘れるなど抜けたところも見せたが、小3で地下鉄・バスに初めてひとりで乗った際に循環バスの車中で居眠りして1周した兄貴とは、互角と言えないまでもいい戦いをした、と評価してやらねばなるまい。



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2016/09/01

豪雨の爪痕【その2】

 旭川から美瑛、富良野にかけての一帯が台風と前線の影響によって豪雨に見舞われた衝撃もさめやらぬ8月30日、北海道は台風10号の通過による豪雨に見舞われた。
 被災された方々に心からお見舞いを申し上げたい。


 今度は北海道への上陸こそ回避されたが、強い勢力を保ったまま岩手県大船渡市に上陸、北海道の十勝地方・上川地方南部に多量の降水をもたらした。
 私の職場の営業エリアに当たる南富良野町。30日の午後から強くなった雨の影響で、31日の未明、空知川が決壊、市街地へ大量の川水が流れ込んで冠水した。

 気象庁の統計情報によると、南富良野町の降水量は、30日の日計で168mm。31日のデータは午前3時40分を最後に記録されていない。計測そのものができなかったのか、データ転送できなかったものかは定かでないが、相当の豪雨だったのは間違いない。降り始めからの雨量は500mmを超えたとの報道もある。事実だとすれば南富良野町における8月降水量は900mm以上に達している。平年の6倍近い量で、年間降水量の9割に相当する。


 各地で道路が崩落して南富良野町は一時陸の孤島となった。今日現在一部が仮復旧しており、ようやく被害の状況も見え始めている。ニュースでも頻繁に映し出されているのでご覧になった方も多いだろうと思う。

 周辺の自治体同様、南富良野町も農業が基幹産業となっている。なかでも人参馬鈴薯の作付が多いが、市街地付近をはじめかなり広い範囲にわたって畑が冠水しており、収穫への影響は避けられない。収穫した農産物を選別、あるいは加工して出荷する施設も浸水被害を受けており、稼働再開までには時間がかかりそうである。同様に豪雨の被害を受けた十勝地方を含めて、農業被害の全容はまだつかみ切れていないという。


 交通機関への影響も続いている。
 南富良野町から新得町、清水町、芽室町にかけて、冠水あるいは崩落などの影響により、国道38号線をはじめ多くの道路が通行止となっている。そのなかで、いち早く復旧した道東自動車道は、一部区間を無料開放して物流ルートの確保が図られている。

 一方、鉄道は無残な状態である。根室本線での橋梁や路盤の流出により、札幌と釧路・帯広を結ぶ特急「スーパーおおぞら」「スーパーとかち」の運転再開のめどはたっていない。23日の台風9号による豪雨で不通となった石北本線の「オホーツク」と合わせ、JR北海道は向こう1か月以上の運休を発表している。
 前回も触れたように、鉄道は単位輸送量やその効率において道路を圧倒しているが、こうした状況が続けば、相対的に鉄道の地位が低下し、ただでさえ厳しい経営が続くJR北海道への逆風になりかねない。廃止路線に関する報道もちらほらと出始めた中、こちらも心配である。



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