父のこと【3】
そろそろ別の記事を、と思っているうちに、元中日・日本ハムの大島康徳さんの訃報が届いた。私たちの少年時代、「燃えよドラゴンズ!’82」で、「5番・大島 よみがえる」と歌われた大島さんの復活は叶わなかった。70歳という若さ,場所や期間は違えど癌との戦い、亡くなる数日前までブログを自分で書き続けた強さ。比べるのもおこがましいかもしれないが、やはり父のことが思い出される。もう1回だけ、父のことを書くことをご容赦いただきたい。
子供との付き合い方が決して器用でなかった父だが、私が幼い頃、少ない夏休みに必ず家族を旅行に連れて行ってくれたことは印象深い。それは物心ついた頃からずっとそうだった。初めて新幹線に乗せてもらった1981年の神戸ポートピア'81、今は亡き豊島園で遊んだ1982年の東京、「大垣夜行」で運ばれ、開園したばかりの東京ディズニーランドへ行ったその翌年の二度めの東京などはよく覚えている。
今になって思うのは、これらの家族旅行が、父の綿密な計画に基づいて進められたことである。私は子供心に、「あそこに行きたい、ここに行きたい」と多種多様な要求、場合によっては無理難題を押し付けたが、結果として私たちは旅行のあいだじゅう退屈することなく、また無理にせかされることもなく楽しい時間を過ごした。上野駅でカメラ片手にホームからホームへと飛び回る息子を父はどう見ていたか、今となっては知るすべもないが、子供たちを最大限楽しませてやろう、という気持ちは今更ながら感じる。
思うに、父は常に自分のペースで歩いているように見えながら、いつも誰かのためにということを考えていたのかもしれない。年を取るにつれてその傾向は強くなったというか、子供たちが独り立ちしたあとはその思いが周囲に向けられたのかもしれない。帰省した時に見る父は、それまでとは変わって明るい雰囲気でよくしゃべる人になった。会社勤めを卒業した後に民生委員を引き受けたと聞いたときは、若き日の父に抱いた印象から、私は驚いたものである。
父が亡くなって葬儀の打ち合わせの時、喪主になった私は、昨今増えている家族葬ではなく、普通の葬儀をすることにした。それは母が商売を営んでおり、お客様筋に対して失礼に当たらないようにとの思いだったのだが、いざふたを開けてみると、父に世話になった、という人が、私の想像を超えてたくさん参列してくださった。晩年になればなるほどそういう人の数は増えていったようである。葬儀という場面であることを差し引いても、そういう話を聞くことは私にとってとても気分のいいことだった。
両親は以前から、自分たちが亡くなっても子供たちに残せるものは何もない、けれども子供たちに迷惑をかけないようにしたい、とよく語っていた。それは確かにそのとおりかもしれないが、父は母がこの先暮らしていける家と店を残し、私たちには自分たちで生活していけるだけの経験と「箔」を残してくれた。とある漫画本の中に出て来たセリフの受け売りになるが、親が残した最大の財産は子供であるというような言葉があった。さて、自分は父が胸を張れる財産になりえただろうか。
闘病期間中、父は体を動かす拍子などに「痛い」という言葉は口にしたが、自身の命をむしばむ病と向き合う中で「つらい」とか「苦しい」ということを言わなかったと母から聞いた。たぶん私には真似のできない強さである。私はこの人の息子で本当に良かったと心から思った。
四十九日を終えて父を埋葬した墓の中には、遡って5代の先祖たちがいる。その人たちを前に父が後ろめたい思いをせずに済むように、私は父が誇れる息子でありたいという思いを新たにした。父は祖父に遅れることわずか7年あまりで旅立ってしまったが、私はそうなるためにもあと50年は生きてやろうと本気で考えている。
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