こころの旅人

2021/07/05

父のこと【3】

 そろそろ別の記事を、と思っているうちに、元中日・日本ハムの大島康徳さんの訃報が届いた。私たちの少年時代、「燃えよドラゴンズ!’82」で、「5番・大島 よみがえる」と歌われた大島さんの復活は叶わなかった。70歳という若さ,場所や期間は違えど癌との戦い、亡くなる数日前までブログを自分で書き続けた強さ。比べるのもおこがましいかもしれないが、やはり父のことが思い出される。もう1回だけ、父のことを書くことをご容赦いただきたい。



 子供との付き合い方が決して器用でなかった父だが、私が幼い頃、少ない夏休みに必ず家族を旅行に連れて行ってくれたことは印象深い。それは物心ついた頃からずっとそうだった。初めて新幹線に乗せてもらった1981年の神戸ポートピア'81、今は亡き豊島園で遊んだ1982年の東京、「大垣夜行」で運ばれ、開園したばかりの東京ディズニーランドへ行ったその翌年の二度めの東京などはよく覚えている。


 今になって思うのは、これらの家族旅行が、父の綿密な計画に基づいて進められたことである。私は子供心に、「あそこに行きたい、ここに行きたい」と多種多様な要求、場合によっては無理難題を押し付けたが、結果として私たちは旅行のあいだじゅう退屈することなく、また無理にせかされることもなく楽しい時間を過ごした。上野駅でカメラ片手にホームからホームへと飛び回る息子を父はどう見ていたか、今となっては知るすべもないが、子供たちを最大限楽しませてやろう、という気持ちは今更ながら感じる。


 思うに、父は常に自分のペースで歩いているように見えながら、いつも誰かのためにということを考えていたのかもしれない。年を取るにつれてその傾向は強くなったというか、子供たちが独り立ちしたあとはその思いが周囲に向けられたのかもしれない。帰省した時に見る父は、それまでとは変わって明るい雰囲気でよくしゃべる人になった。会社勤めを卒業した後に民生委員を引き受けたと聞いたときは、若き日の父に抱いた印象から、私は驚いたものである。


 父が亡くなって葬儀の打ち合わせの時、喪主になった私は、昨今増えている家族葬ではなく、普通の葬儀をすることにした。それは母が商売を営んでおり、お客様筋に対して失礼に当たらないようにとの思いだったのだが、いざふたを開けてみると、父に世話になった、という人が、私の想像を超えてたくさん参列してくださった。晩年になればなるほどそういう人の数は増えていったようである。葬儀という場面であることを差し引いても、そういう話を聞くことは私にとってとても気分のいいことだった。


 両親は以前から、自分たちが亡くなっても子供たちに残せるものは何もない、けれども子供たちに迷惑をかけないようにしたい、とよく語っていた。それは確かにそのとおりかもしれないが、父は母がこの先暮らしていける家と店を残し、私たちには自分たちで生活していけるだけの経験と「箔」を残してくれた。とある漫画本の中に出て来たセリフの受け売りになるが、親が残した最大の財産は子供であるというような言葉があった。さて、自分は父が胸を張れる財産になりえただろうか。


 闘病期間中、父は体を動かす拍子などに「痛い」という言葉は口にしたが、自身の命をむしばむ病と向き合う中で「つらい」とか「苦しい」ということを言わなかったと母から聞いた。たぶん私には真似のできない強さである。私はこの人の息子で本当に良かったと心から思った。
 四十九日を終えて父を埋葬した墓の中には、遡って5代の先祖たちがいる。その人たちを前に父が後ろめたい思いをせずに済むように、私は父が誇れる息子でありたいという思いを新たにした。父は祖父に遅れることわずか7年あまりで旅立ってしまったが、私はそうなるためにもあと50年は生きてやろうと本気で考えている。



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2021/06/29

父のこと【2】

 私が幼かった頃の父は、いつも忙しくて家にいない人だった。勤め先が名古屋だったため、私が起きるより早く家を出て、私が寝てから帰ってくるような生活を送っていた。月曜日から土曜日までずっとそんな生活だったから、日曜日は寝坊だった。一方、日頃は起こされないと起きない子供は、どういうわけか日曜の朝だけは早く目を覚ます。両親の寝室へちょっかいを掛けに行っては母に怒られるのが常だった。


 私が小学校4年生の時、父は病気を患ったことをきっかけに名古屋の会社勤めを辞め、地元の会社に転職した。それまで見ることの少なかった父の顔を見る時間が増えて、私は少々戸惑ったようである。それはひょっとすると父も同じだったのかもしれない。私は休みの日になるとキャッチボールに駆り出されたが、家の前の細い道路で向かい合う私たちはどこかぎこちなかった。おまけに、野球が得意でない私の投球フォームをくそみそにけなされて、私は正直うんざりな気分だった。 


 接する時間が短い割にはよく叱られた思い出が多く、厳しい、というよりは気難しい印象のあった父だったが、「勉強しろ」というようなことを言われた記憶だけはほとんどない。そこは見事に母と歩調が合っていた。私は中学生の頃から「大学は北海道に行く!」と公言しており、そのためにはそれなりの勉強を重ねなければならなかったのだが、高校では部活にのめり込み、家に帰ったら寝るだけという生活をしていても何も言わなかった。単に面倒くさかったのか、我が子を信じていたのかは定かではない。ただ、「私立だったらひとり暮らしはさせられないぞ」ということを言われた記憶はある。


 その父を私が最後に激しく怒らせたのは、大学の入学試験もひととおり終わった直後の出来事であった。前年の夏に失恋したことで地元から逃げ出したい一心だった私は、両親に無理を言って京都2校、東京2校の大学を滑り止め受験させてもらった。この他に両親のたっての希望で名古屋の大学も1校受験したのだが、最初に合格通知を受けた京都の大学に入学金を突っ込んでもらった。
 センター試験に失敗し、本命の希望がしぼみつつあって多少居直り気味になっていた私は、父の言葉にしたがって地元残留もやむなしと思い始めていた。名古屋の私立大学は「補欠」で連絡待ちとなっていたのだが、私は父に、補欠合格した暁には入学しようと思う、と伝えた。その途端、父の怒りが爆発した。家族全員が見守る前でつかみ合いになった。寺内貫太郎一家のように家の外まで吹っ飛ばされることはなかったが、初めて見る父の剣幕にさすがの私も脅えた。


 父の怒りの理由は、今思えばふたつあったのだろうと思う。自分の決めた進路に対して腰の定まらなかった私への戒め、そして経済的に過大な負担をかけようとしている私への怒りだろう。社会人として一番脂ののった時期に転職せざるを得なかった父の稼ぎはお世辞にもよくなかったと思う。そのことは後に、奨学金を取るために提出が必要だった父の源泉徴収票を見て知ることになる。今の私だって60万円をドブに捨てろと言われれば背筋が凍る。結果、京都の某大学に払った入学金30万円はそのまま流れ、名古屋の某大学から補欠合格の通知が届いたのは、本命の合格通知が届いた日の午後であった。


 合格を一番喜んでくれたのは外ならぬ父であったろうと思う。父と一緒に下宿探しで吹雪の札幌市内を歩き回り、「北斗星」で戻った数日間は、私にとって忘れ得ぬ最大の思い出になった。父は私を4年間飢えさせることなく大学に通わせてくれた。バブル崩壊後の就職氷河期のさなか、今の会社に就職が決まった時、喜んでくれた父の表情の中に一抹の寂しさを私は垣間見た。
 父と顔を合わせるのは年に1~2回、日数にしてほんの10日程度になった。心理的距離がほんの少し近付いた代わりに、物理的距離・時間的距離が遠くなって、差し引きすると私は相変わらず父との距離感をうまくとれずにいたのかもしれない。


 私は30歳で父になった。長男が11歳、次男が8歳の時に単身赴任になり、4年後に再び自宅に戻ってくる経過を経て、父が感じた子供との距離感をいやおうなしに実感することになる。程度の差、環境の差こそあれ、父が通った道を私も追っているのかもしれない。
 来年の春、長男は高校卒業の年を迎える。人生の岐路に立つ息子との葛藤の1年を私はどう過ごすのだろうか。父が亡くなって2か月、私はしばしばそんなことを考える。まだまだ本調子にはほど遠いようである。



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2021/06/14

父のこと【1】

 久しぶりのブログで、正直何を書いたらよいか、というか、何から書いたらよいかかなり迷っていた。
 

 父が肺がんと診断されたのは昨年の8月のことである。
 もともと肺に持病を抱えていた父は、定期的に病院へ検診を受けに行っていたのだが、前回、半年前の検診では見つからなかったものが見つかったこと、それがリンパに入り込んでいて手術による除去が困難であると診断を受けたことは、家族に衝撃を与えた。


 それでも抗がん剤治療により進行を遅らせることができると言われたことから、父は抗がん剤治療を始めた。副作用でかなり苦しみながらも、父はその治療に耐え、10月上旬には退院して通院治療に切り替わった。母の前では相当な文句を垂れたようだが、医師の前では実に従順だったと評判のようで、紆余曲折はあったものの治療はうまく進んでいる印象を受けた。10月中旬、話を聞いてから初めて岐阜に飛んだ時の父は、疲れている様子だったものの普段どおりの様子だった。だが、「普段どおり」の父の姿はそれが最後だった。


 12月中旬、持病が悪さをしたのか、父は肺炎を起こして病院に担ぎ込まれて挿管を受けることになる。「最悪の状況も覚悟してください」と言われて動揺した母からの連絡を受けた私は、急遽翌々日の飛行機で再び岐阜へ飛んだ。新型コロナの第三波が拡大の一途をたどっているさなかでもあり、琴似の病院でPCR検査を受けてからの出発だった。多治見駅で落ち合った母はすっかり憔悴しきっており、ひとりで大丈夫かと不安になったが、病院もコロナの影響で面会者を制限しており、院内には母しか入ることができない。私は駐車場に止めた車の中でひたすら待つしかなかった。


 けれども1時間ほどして戻ってきた母の表情は明るかった。救急で担ぎ込まれた際の医師の処置がよかったことと、本人の気力の問題もあったのだろう、父は奇跡の回復をみせ、すでに自力で食事をとれる状況になっていた。担当医や看護師も驚くほどの回復で、意識の戻った父は翌週の抗がん剤治療のことまで心配していたという。だが、その日以降父は酸素吸入器を離せなくなり、状態が状態だけに抗がん剤治療も停止せざるを得なくなった。万一のことがあっては困るということで、父は年末年始を病院で越すことになった。


 ちょうどその時期は第三波の拡大期で、病院が一切の面会を禁じており、コロナ禍の中、父は家族と会うこともおいしいものを食べることもできず悶々としていたらしい。母は病院と相談して自宅で看護することを選択し、入院で弱った足腰をリハビリで回復させながら退院のタイミングを計っていた。そのさなか、検査で肝臓への転移が発見された。肺に大きな負担を抱える父に治療の方法はなく、ここで「長くて3か月程度」と余命の宣告を受けることになる。


 自宅へ戻った父を母は献身的に看護し、なるべく自力で体を動かせるようにとマッサージをしたりほんの数歩ずつでも歩けるようにと支えた。愛知県に住む妹も仕事の合間を縫って両親のもとを訪れ、コロナの影響で授業がない姪も頻繁に顔を出した。私も2月、3月と続けて4日ほど顔を出し、2月末には嫁、4月頭には坊主たちも岐阜へ飛んだ。コロナ禍のさなかに、と顰蹙を買うかもしれないが、私たちにとってはおそらく残り少ないであろう父との大切な時間だった。


 この頃までは父も、基本ベッドの上でテレビを見ながら過ごすしかなかったが、食欲もあり、自力で体を動かそうとする意識もあった。2月下旬には寝たきり状態で体に激痛が走って数日間入院するなどしたが、意思表示もはっきりできたし、会話も普通に成り立っていた。孫たちとテレビでドラゴンズ戦を観ながら、「京田、あほやなあ」とぼやいていたという。病院へは車椅子に乗って定期的に診察を受けに行ったが、数値の目立った悪化は見られなかった。


 だが、4月16日に私が5度目の帰省をした際は明らかに様子が違っていた。食欲は大幅に衰え、反応も薄くなっていた。73回目の誕生日を迎えた17日の夜、パルスオキシメーターの数値が上がらなくなり、そのうちにエラーで測定できなくなる状態が頻発した。翌朝になると何度試してもエラーのままになり、血圧も測定できなくなった。数値が測定できなくなっては不安が増すばかりである。私と母は相談し、まずは母が病院へ連絡して状況を伝えた。病院からは、「すぐに連れてきてください。救急車で来てもらえればすぐに診察できると思います」とのこと。私たちにはそれ以外の選択肢はなかった。


 12月の「奇跡の生還」を見ていた私たちは、生きようとする父の気力に一縷の望みを繋いでいた。だが翌19日、病院で聞かされたのは、肝臓の状況が急激に悪化しており、あとは日単位である、という非情の宣告であった。私は後ろ髪を引かれる思いで20日の飛行機でいったん札幌へ戻った。父にそういう意識があったかどうかは定かではないが、私が札幌に戻って仕事の整理をつけるための時間を与えてくれたのではないかと、今になればそう思う。


 4月23日11時過ぎ、母から電話。病院から呼び出しがあり、かなり厳しい状態とのこと。血圧が50台まで下がっているという。コロナの影響で飛行機が大幅減便となっている中、私は17時25分のANA便で中部国際空港へ飛び、20時半には姪と一緒に病院の前にいた。面会制限は緩和されていたが指定者のみとなっており、私たちは病院の駐車場で待つしかなかった。正面にある病院の中では、父と母が最期の戦いを続けているはずだった。


 父が息を引き取ったのはちょうど日付が変わる頃だった。苦しむ様子もなく、すうっと消えていくような感じだったと、母から聞いた。私は札幌に移り住んでから30年の間に、父方の曾祖母と祖父母、母方の祖父母と5人を見送って来たが、いろんな状況が重なり誰の最期の時にも間に合わなかった。今回は私が駆け付けるまで父は最後の力を振り絞ってくれていたが、新型コロナウィルスの猛威のために、やはり看取ることはできなかった。唯一の救いは、5月の連休前だったために、比較的長い間、母のそばにいてやることができたことくらいである。


 先日、四十九日の法要と納骨を済ませ、ようやくひと区切りがついたところなのだが、こういう父の姿を文字にして残すことについて抵抗感がないわけではないし、自分の弱っている姿を家族以外に見せたくなかったであろう父にとっても本意ではないかもしれない。私はこれまでに何度か父のことを面白おかしくここに書いてきたが、面倒な病と向かい合いながら、おそらく余命は知らされていなかっただろうけれども生き続けることへの執念を随所で見せた父の姿は、私にとっては尊敬に値するものだった。また、それだけではなく、数多の思い出や、さらには葬儀などでいろんな方々から聞いた話などを通じて、73年という、今の時代としてはあまりに短い一生を駆け抜けた父に対するその思いはひときわ強くなっていくのである。




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2020/11/16

多忙な日々に関する考察

 今年に入ってから妙に忙しい状況が続いている。


 私の今の立場は総務部門の某課のマネジメント職である。日々の不毛な業務の傍ら業務改善や合理化策などを検討するのが仕事なのだが、新型コロナの流行による出勤調整やテレワークの導入、あるいは会社の置かれた状況が、本来ならば2~3年かけてじっくり方向性を検討すべき課題が一気に顕在化してきた。


 元来私は多少忙しくしているくらいの方が体も頭もよく動くらしいので、こうした環境の中でもなにがしかの楽しみを見つけながら動き回っている方が調子がいい。だが正直なところ、このところの状況は前向きに物事に当たるには少々度を越した状況になっている。ガス抜きをしようにもコロナの影響で会食や飲み会は「自制」のお触れが出ている。大好きな乗り鉄旅も大手を振って行ける状況にない。それ以前にその時間が取れていないのが実情である。仕事から帰ってきてPCに向かっても気力が乗らず、ブログも書く気がしない。ストレスはマックスに堆積している。


 それとともに私自身、仕事がなんとなくうまく回っていないなと感じ始めるようになった。人間関係がギスギスしているのは私の性格も相まって今に始まったことではないし、もともと人を動かすのがあまり得意でないこともあるが、それを差し引いても仕事自体のハンドリングが自分の思っているような形になっていない感覚があるのである。どうかすると休日も半分くらいは仕事のことを考えているような状況にもかかわらず、である。


 この週末、そのことについていろいろと考えていたが、ひとつ気付いたことがあった。
 それは、これからしようとしている仕事について、その「最終形」のイメージが自分の中で出来上がっていないのである。
 これは私の性格的なものもあるのだが、何かをしようとするときにその着地点たる「最終形」を思い描いて、そこへ向けてのプロセスを詰めていくのが普段の私である。それゆえに突発的な事態や想定していなかった方向へ向いた時の対応に柔軟性を欠く場面が往々にして出るのだが、今の私にはどうもその作業ができていないということに気付いたのである。


 もちろん、今やろうとしている仕事がこれまで私にとっても未体験のものだということで、なかなかその全体像をつかみにくいという理由もないわけではないのだが、情報収集手段が無数にある中で、少なくとも「こうしたい」とか「こういう形にしたい」というものはあってしかるべきである。これがないということは、私自身にとってもしんどいことであるが、使われる部下にとってもこれほど頼りないことはない。完成写真を見せられないままに2,000ピースのジグソーパズルを作れ、と言われているようなもので、何から手を付けていいかわからないに違いない。


 それ以外の仕事に忙殺されて時間が取れなかった、と言えば言い訳になるが、それを理由にして大事なプロジェクトの方向性を明確に打ち出せず、半ば場当たり的に進めてきたのは完全に私の失敗である。大局的な方向性を見せないままに、当面の作業を直前に部下に下ろして急がせる、という展開は、自分が部下だった時代に最も嫌ってきた上司の対応である。確かに他にも重要な仕事は山積していたが、そのために予定していた打ち合わせを後送りにしたり、十分な準備ができないまま会議に臨んだりということが、間違いなくこのところ増えていた。


 うまく部下を使えない、仕事をうまく振れないということは、結果的に自分の仕事を量を増やすことになる。十分な打ち合わせができないから自分で処理せざるをえなくなり、周囲には「抱え込んでいる」あるいは「独り善がり」という印象を与える。みんなの意見を聴きながら方向性を決めて行く、と言えば聞こえはいいが、要するにこちらが何を目指しているのかが見えなければ議論のしようもないだろう。これまで部下に言い続けてきた「仕事の優先度」を一番決めきれていなかったのは実は自分ではないか、と考えた時、非常に恥ずかしく、また申し訳ない気持ちになる。


 来週以降も仕事は堆積していて忙しい日が続く。けれどもこの週末にいろいろ考えた結果、仲間を動かしながら進めていく仕事に割く時間をじっくり取るべきだという結論に達した。単独で進めている仕事は多少後回しにしてもいい。長い目で見れば、結果的にそれが自分自身を楽にすることにつながるのではないか。幸い、進めているプロジェクトはまだ軌道修正が利く状況にある。


 人員体制やそれに対する課題の振り方など、会社に対して言いたいことがないわけではない。だが、今日的状況を招いているのはそういう外的要因だけではない。自分自身がうまく整理しながら裁いていかなければどんどん悪循環にはまっていく。それは自分のためにも仲間のためにも組織のためにもならない。
 まずはそのあたりを意識しながら来週も頑張ろうと思う。以上、ダダ漏れの独り言、終わり。



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2019/06/18

ブログを書く気力が減退しているここしばらくの私

 最近、とある友人から「最近のあんたのブログは面白くなくなった」と言われた。


 私の場合、ブログは文章を書くための鍛錬だと思っているので、必ずしも周囲の人々を面白がらせようと思って書いているわけではないのだが、直球勝負で何のひねりもなく言われるとさすがに少々へこむ。けれども、このところの文章を自分で読み返してみると、確かに一時期のようなキレがない。このところPCに向かっていても気乗りのしていないことが多い自覚症状もある。


 旭川から札幌へ転勤してきて1年半近くなるが、仕事の方が少なからず多忙になっている。もともと経験のない業務で、1年半が経過しても知らないこと、未経験のことが多く、無知がゆえに振り回される時間は多い。決断までの所要時間も長くなる。
 これに加えて通勤時間が伸びている。行き帰りでおよそ2時間が費やされている。そのうち半分から7割の時間、バスや地下鉄に揺られているのだが、スマホで文章を書くのが得意ではない私にとっては専ら寝るか音楽を聴くか本を読むかの時間である。
 こんな調子で帰宅時間も遅く、PCに向かう時間もままならなくなっている。心身ともに疲労が蓄積しているのか、平日も休日もPCの前に座りはするものの、文章を書く気力が乗ってこない。


 思い返してみると、「文章を書くのは好き」と公言しながら、そもそも私は日記を綴るのが大変苦手だった。その日あった出来事を即席で文章に落とすと、悲しいほど平べったい表現になる。自分が読んでも面白くないから続かない。たいがい1か月も持たずに尻切れトンボとなる。唯一の例外は小学校時代に好きだった女の子とやった交換日記くらいで、どうやら明確な目的意識、悪く言えば下心がなければ続かないことになっているようである。私がブログで滅多にその日の出来事を日記的に書かないのは、このあたりに理由がある。


 そういうわけで、私がブログを書く時には、さまざまな出来事をメモや写真から掘り起こし、熟考しながら文章に起こすことが多い。綴っていて断然楽しいのはもちろん鉄道の話である。けれども、これも昨夏にひと区切りを付けてしまってからはあまりパッとしない。3月以降、大阪や横浜で新しい路線の開業もあるが、訪問のめどはたっていない。過去ネタであれば、四半世紀あまり前の大物が2件ほど、まだ料理されずに残っているが、これはできればもう少し先の楽しみに取っておきたい。そうなると、さて、どうしようか、ということになり、結局最近の私はPCの前でYoutubeを開いてぼんやりと音楽を聴いている。


 このところよく聴くのが、かつてヤマハが主催していた「ポピュラーソングコンテスト」、略して「ポプコン」の曲である。昭和50年代の音楽シーンに燦然と輝くポプコンは、1969年から1986年までの17年間、延べ32回で、あまたの名曲とアーティストを輩出してきた。全般にフォークあるいはニューミュージック系統の曲が多いのだが、この時代の曲にはある種の中毒的なところがあって、一度耳にすると容易に離れてくれない。細かな曲の話は後日に回すとして、ここ数日も私の頭の中で2曲ほどが交互に駆け巡っている。


 ポプコンの聖地と言えば静岡県のつま恋だが、開始当初は三重県の合歓の郷が本選会場だった。この2施設はいずれも当時ヤマハが運営していたリゾート施設である。私もかつて通っていたヤマハ音楽教室の合宿(と称した旅行)と家族旅行で二度、合歓の郷へ行ったことがある。コンサートはもちろん、音楽合宿でもよく利用されていて、ポプコンでグランプリを獲得する前のあみんなんかもここで合宿したと当時の著作に書いてあった。園内ではBGMとしてポプコンから生まれた曲や、ポプコンに縁のある歌手の歌がスピーカーから繰り返し流れており、これも私の脳内にその曲を強く刻み付けた。


 そんなこともあって、私はYoutubeを観ながら、当時音楽少年だった時代の自分を思い出している。そう言えば、7年以上もブログを続けてきて、「音楽の旅人」などというカテゴリーまで用意しながら、そのカテゴリーにはたった1本の記事しかない。講釈を垂れるほど音楽に造詣が深いわけではないけれど、好きな音楽の話や音楽との交わりの話ならそれなりにネタもある。試しにそんな話を書いてみようかな、などと考えているところへ、新潟県で震度6強というニュースが入って来た。1年前の今日は大阪府北部地震が発生した日である。その間には北海道胆振東部地震もあり、大きな地震がどこかで続いている。
 まだ現地の情報は細かくは入ってこないが、一部では停電も発生しているようである。大事に至らないことを祈るばかりである。


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2017/06/04

最近思うこと~「伝わる」ことの難しさ

 私が好んで使う言葉に「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というものがある。江戸時代の肥前国平戸藩主、松浦静山の著した剣術書「剣談」に残された言葉であるが、プロ野球の元監督、野村克也氏が用いているのを聞いて知るところとなった。


 すなわち勝負に負ける際は必然としてどこかにその原因が潜んでいる。また勝つ際にはそうしたミスを犯しながらも外的な要因などで偶然に勝つこともある。道に従えば勇ましさがなくても勝つことができ、道に背けば必ず負ける。勝ち負けを問わずその要因をしっかり分析することが必要であると静山は説いている。


 この言葉は私たち一般的なサラリーマンが仕事をしていくうえでも当てはまる。失敗したときには必ずその原因がどこかにある。その原因を自分の行動の中から探し出し反省することが必要であり、偶発的な事情や他者の言動にその原因を求めてはいけない。私はそういうことだと解釈して、それを実践しようとしてきた。


 実はここ1年ほど、仕事の上で大きなトラブルが相次いでいる。トラブルが起こるということは必然的に原因があるわけだが、その大半は情報伝達の甘さに起因する。
 相手が求める情報を伝達できなかった、あるいは伝えてもそれが正しく伝わっていなかったことにある。その結果、納入した品物に不満が生じる。場合によっては発注のプロセスの中で諍いや行き違いが生じる。「伝える」ことの欠落はもちろん、「伝える」と「伝わる」のギャップが引き起こすトラブルである。


 トラブルの発生原因を私が作り出すことも多いが、私の部下が作ることもある。私が専門としていない分野で発生するトラブルもある。だが管理者である以上私の責任は免れない。事実、トラブル事案を最初からたどっていくと、ある時点において、資料や部下の報告書を注意深く見ていれば発見できたトラブルの「芽」を見つけ、大いに反省することになる。


 そうした「芽」がこの先どう大きくなっていくかを見極め、大きなトラブルに発展する前に対策を練る必要がある。「芽」が成長して大きくなる前に摘み取れるのに越したことはないが、実際に仕事が流れていく中でそこに気付くのは難しい。火種のうちは見過ごし、煙が上がってから気付くことの方が多い。だとすれば、少なくとも煙が上がったのをどれだけ早く察知し、周辺の上司や仲間と共有できるかにかかっている。ここでも情報伝達が大切なポイントになる。


 トラブルに係る情報を的確に伝えるためには、「芽」の発生原因を理解する必要がある。元来私は人と交わるのがあまり得意ではない。すぐに自分の主張が正誤を問わず前面に出る悪い癖がある。若い頃にはそれで上司や仲間を敵に回すことも多かった。
 だが先の松浦静山の言葉に触れて以降、私は自分の非たる部分をできる限り率直に認めたうえで、周囲の人々に助けを乞うことを心掛けてきた。周囲の先輩方は、それに対して知恵や有形無形の力を授けてくださった。持って生まれた頑固な性格ゆえ、どうしても主張したくなる場面もあり、いまだに時として失敗するのだが、それなりに努力してきたつもりではいる。


 「悪い報告ほど迅速に」「トラブルの原因を自分の中に見つける」「相手に『伝わった』ことを確認する」~自分自身が大切にしているこれらの意識を、同時に私は自分の部下にも伝えてきたつもりでいる。けれども残念ながら、問いかけに対する責任逃れの返答や、いわゆる「屁理屈」を聞かされてカチンと来ることもしばしばである。日常の些細なやりとりであればまだしも、時と場合によってはトラブルの発生原因や対策方法をミスリードすることにもつながりかねない。その重大さが理解できない部下に重要な仕事は任せられない。


 だが、よく考えてみれば、これとて私が「伝えている」と思っているだけで、相手はそれを正しい意図で受け取っていないのだとも言える。あるいは、情報を吸い上げる中で、知らず知らずのうちに私が部下たちに責任を転嫁しようとしていることの裏返しなのかもしれない。だとすれば、またそれも私自身に原因のあることなのである。


 「伝える」ということは実に難しく、「伝わる」ということはさらに難しい。だがその欠落が私の仕事の中での「不思議でない負け」の大きな要因になっている。それがここ1年の出来事の中で私があらためて思い知らされたことである。




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2014/06/28

なんかちょっと違うんだよなぁ。

東京都議会でのヤジが世界を巻き込んで大騒ぎになっているようである。

某議員の女性軽視的なヤジがネットを起点として問題提起され、都議会と政党の中途半端な対応とあいまって大きなうねりとなった。発言した議員は謝罪したが、当初発言した事実を隠ぺいしたことで大きな批判を浴び、世間の怒りは収まる気配がない。ウヤムヤのうちに幕引きを図ろうとしている都議会と政党にも批判が集まっている。

私はこうした論調を頭から否定するつもりはない。一連の件の中で、議員の発言内容や議会・政党の体質に問題があることは重々承知している。
けれども、私の中で、「なんかちょっと違うんだよなぁ」という違和感がぬぐえないのである。

私は直近でも同じような感覚を味わったことがある。
それは「STAP細胞」の件をめぐる一連の流れについてであった。

「STAP細胞」という画期的な発見に対し、「その研究過程に不備あるいは不正があったから、この発見はそもそも成立しない」というのが、研究者の意見のようであり、マスコミもこれに添った報道をおこなっている。理研自体も問題をそこに集中させることで、自体の解決を図っているように見えた。

研究者たちがその過程を重要視し、そこに瑕疵があることを糾弾するのは、学者の論理としては分かる。けれども一般人の私にとって最も興味のあるのは、「STAP細胞は本当に存在するかどうか」なのである。ともかく本人立ち会いの下で再現試験をやって、まず存在の有無を確認する。存在しなければ論文は取り下げればよいし、存在するのなら過程の瑕疵を補強することを関係者みんなですればいい。研究者の未熟を突き詰めるのはその後でもいいのではないか。

けれども現実には、「俺が助けてやるからともかくもう一回再現してみようぜ」というような研究者は現れず、ともかく論文を葬り去ることが一番、話はそれからだ、というような論調に振れていった。最近になってようやく再現試験についての報道が増えてきたが、なにやら学者の論理を優先させるような展開に、私は少なからず違和感を覚えていたのである。

今回のヤジ騒動では、世間一般で言われているように、議員の発言内容が女性軽視にあたる発言であること、その発言の事実を隠蔽しようとしたこと、これ以外のヤジの有無を検証せずに議会が幕引きを図ろうとしていることなど、問題のある点は数多い。

だが私がそれ以上に気になることは、そもそも議会という場において「ヤジ」という行為が許されるということそれ自体である。たまたま見ていたテレビで、某県の議員が「議会は戦場だから、そこで意見を戦わせるためにはヤジも必要」という趣旨のコメントを発しているのを見て、私はひどい違和感を覚えた。

人の意見は最後までちゃんと聞きましょう。」←話の腰を折らない。
自分の意見は指名されてから述べましょう。」←自分の意見ばかりを通さない。

これは小学校時代から再三教えられてきたことである。討論における基本である。しかるに議会では、この基礎教育が全く忘れられている。これは都議会に限らない。国会中継でもしばしば同様の場面を見せられる。
テレビの討論番組でも、他人がしゃべっている最中に割り込む、司会者に制止されてもやめない、といった情景はしばしば映し出される。これは放送局の恣意的な構成に問題がある場合も多いが、ともかく「政治家は人の話を聞かない」という印象を与えるのには役立っている。

今回の騒動でも、マスコミ報道はその発言内容やそれを取り巻く環境に話題を集中させているが、もっと根幹に当たる「ヤジ」そのものの是非についても検証されていいのではないか。議会では常識かも知れないが、少なくとも民間の会社での会議においては、秩序を乱す非常識な行為である。そういう根っこの部分、本質的な部分をスルーし、いかにも食いつきのよさそうな部分だけがクローズアップされているような状況。私はそこが気にかかるのである。

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2012/11/05

朋遠方より来たりて思う(3) 組織と熱意

引き続き塾講師のアルバイトの話。

以前にも書いたとおり、私たちの働いた学習塾は、道内ではかなりの大手である。札幌市内に複数の本部を持ち、大学生のアルバイト講師が約100名、それが3科に分かれて所属していた。

これだけのアルバイトが所属する組織を動かしていくためには、その人材を効率的に配置し、効果的に動かしていくことはもちろん重要である。
ただ、それだけでなく、大学生のアルバイトという、所属年限の限られた人員が4年ないし6年で入れ替わっていくなかで、体系的に「教える」技術の伝承を行っていかなければならない。

何を教えなければいけないか」という基幹の部分を指導するのは「専任」と呼ばれる社員講師の責務であるが、「どう教えるか」という、いわゆるスキルの部分に関しては、アルバイト講師相互間での伝承になる。これは、どこの組織にでも見られる形態である。

面白いのは、そのスキルの伝承を行うための仕組みづくりを、会社側が確立させていることである。
詳細を書きすぎると差し障りもあるだろうから漠然とした話になるが、「授業とはこういうものだ」ということを理解させるための研修から、「教えるスタイルはさまざまだ」ということを理解させるための研修をメニューとして用意し、さらには、定期的なミーティングの中で相互に能力を高め合うための時間をつくる。そのためにアルバイト講師をグループ化・階層化して、一種自治的な組織を形成させている

これはある一面では、会社が自前の人材を育成することを放棄しているように見えなくもないが、一方では非正規の人員を器用に使っていくための有効なシステムであったように感じる。
先日飲んだ友人のひとりが、
「人材育成のためのプログラムを会社の中で考えると、自然とあの塾のシステムに行きつくんだよね。してみると、よく練られたシステムなんだよ。」
と言っていたが、確かにそのとおりである。

そういう環境の中で、私たちは知らず知らずのうちに「組織」というものを、他のアルバイトに就いた友人たちよりも強く意識しながらアルバイト生活を送ってきた。
会社に入り、それまでと異なる「組織」の縛りの中で悩む部分もあったけれど、結局仕事や人を動かしていくためには、組織化と体系化がきわめて重要だということを再確認するのに、さほどの時間はかからなかった。自分が部下を持つ立場になった時、どこまで実践できたかはわからないが、少なくともその体験を常に心の片隅に置きながら仕事をしてきた、そのつもりではいる。

もっとも、同じようなシステムが確立していながら、アルバイト講師たちが持つ能力には、個々の差以前に科目間、あるいは本部間でもかなりの差があったように思う。
それはなぜだろう、と考えると、結局最後は、送り手あるいは受け手の「スタンス」に行き着く。そこに存在する課題に対する姿勢、すなわち「熱意」である。
組織が有効に機能するもしないも、伝わるも伝わらないも、結局は「熱意」の問題なのかもしれない。

そういう熱さを持った仲間たちが、今もこうして私の周囲にいてくれるのである。

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2012/11/02

朋遠方より来たりて思う(2) 「伝える」ということ。

アルバイト」という、大学生活の中で行けばごくごく限られた時間を共にした私たちが、こうして20年近くたった今もつながり、時に交わりを求めるというのは、はたから見るとやや不思議な感覚かもしれない。けれども、それにはそれなりの理由がある

私たちがアルバイトをしていたのは、北海道内のとある大手学習塾である。
小学生・中学生を対象とする塾で、多数の教室を抱え、担当科目も細分化されているこの塾の指導力は、専ら現役大学生に依存していた。私たちはここで講師として、4年ないし6年の長い時間を過ごした。

岐阜から出てきて、生活費をわずかな仕送りと奨学金に依存していた私は、不足する生活費を自力で稼ぐ必要に迫られていた。学生食堂のテーブルの上に置かれた「時給2,000円以上」のチラシを見て、私は衝動的に採用試験を受けに行った。

教える」という作業は、自分が思っていた以上に難しいことだった。
私はそれまで、自分に必要な知識が備わっていれば、それを相手に伝えることは全く容易だと錯覚していた。塾講師のバイトは、先輩の先生について「見学」と「実習」を行うところから始まるのだが、正式に採用された後もしばらく、私は「教える」ことの難しさに悩むことになった。

私は曲がりなりにも現役の大学生、それに対して相手はこれから高校受験を控えた中学生である。私が彼らに教える内容は、当然だが中学生の内容である。
ところが、これが意外と伝わらない。頭のいい奴、喋りの上手い奴がいい講師であるとは限らない。

伝えるためのポイントはいくつかある。
そのうちのひとつが、「相手のレベルまで下げる」ことである。
中学生レベルの内容であっても、語り手が大学生の感覚で話していては伝わらない。内容を噛み砕いて、語彙や展開を中学生レベルまで下げて、平易な言葉で話すことで、初めて伝わるのである。

もうひとつのポイントは「姿勢と視線」である。
話をするときは相手の目を見なさい」とは、子供の頃から教えられたことではあるが、これは多人数を相手にして「教える」という作業になった際も非常に有効である。生徒は目が合うことで講師と自分との一体感を安心し、講師は自分の授業に対する生徒の理解度を計ることができる。慣れてくると、話しながら黒板に文字を書きながら体は生徒を向く、という器用な姿勢をとることができるようになる。

それからもうひとつ、「ことばの抑揚」を挙げておきたい。
60分ないし90分の授業の中で伝えるべき内容は多い。けれども、いかに子供の柔軟な脳をもってしても、全てを吸収するのは困難である。
そこで、中でも重要な部分を強調するために、「抑揚」を用いる。手法はさまざまである。強弱であったり、スピードであったり、「間」であったり、とにかくその周囲の言葉とのギャップを際立たせる。これが最も簡単なようで、意外に一番難しい。

で、何故こんな話をダラダラと書くかと言うと、このバイトに関わったメンバーが集まってこうして飲むときの話題として、この「伝える」という作業にまつわる話が必ず出る。そして必ず、「こういう場面で困ったことがない」という話になり、「バイトで得た貴重なスキルである」という結論に達するからである。

一般会社員の場合、多くの人の前に立って何かを伝える、という作業はそれほど頻繁には発生しない。それでも会議や講習会の開催、あるいはプレゼンなどで、多人数の前に立って話をしなければならない場面は多少存在する。

多くの人はこの作業を苦痛だと感じているらしいし、実際人前で上手く話せる人と言うのは数少ない。天才肌で自信家の人に限って、独りよがりな話し方で、全く何を言っているか分からなかったりする。けれども私たちは、こう言う場面で動じることがない。あくまで冷静に、資料を作り込みながら話す内容を組み立て、本番では常に参加者に目配りをしながら話す。表には出さないが、静かに自信をみなぎらせている。

学生時代の「たかがバイト」の中で、私たちはこういうスキルを学んだ。そこに至る過程で、私たちは互いの授業に対して意見を交わし、時にそのスタンスをめぐって激しいバトルを繰り返した。普通のバイトの中にはない一体感の中で私たちは過ごし、その結果として、会社人になっても存在感を現すための武器を得た。

だから今でもこういう関係で飲んで語り合えるのではないか、と思う。

その割に直属の上司に物申し上げるのは苦手だったりするのであるが、それとこれとは別である。



のか?

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2012/10/30

朋遠方より来たりて思う(1) SNSの功績

兵庫に住んでいる大学時代のバイト仲間が、出張で札幌に来ると言うので、何人かに声をかけて飲むことになった。

集まったのは彼と私の他に、旭川に住む同級生、それに札幌市内に住む3期上の先輩の、計4人。夕方5時前から飲み始め、場所を変えて夜10時過ぎまで、話は途切れることなく続いた。

このメンバーが揃って飲むのは、おそらく18~19年ぶりの出来事である。こういう楽しみが増えたのは、ネット社会のひとつの功績である。

大学を卒業してしばらくの間、私たちはそれぞれ、年賀状のやり取りだったり、あるいは近くにいる仲間とは時折遊びにいったりと、関係を保ってきた。それが時間の経過とともにそれぞれの交友関係に変化が現れ、あれほど密に接してきた仲間たちとの関係が少しずつ薄くなっていった。本州の企業に就職した仲間の大半とは、ややあって連絡が取れなくなった。

SNSが普及し始め、職場の後輩が、当時招待制だった「mixi」に私を招待してくれた。それをきっかけに、古い友人や、遠く離れていて会えない仲間との交流が再び始まった。手紙よりも簡便で、電話よりも安価な交流手段である。

「facebook」は、3年前、海外研修中に、語学学校の友人たちに勧められて始めた。本名での登録が求められるのには抵抗があり、しばらくは積極的に活用していなかったのだが、のちに「facebook」が日本で急速に広まると、逆に本名から昔の友人たちをネット上で探すことが容易にできるようになった。

ネット上での匿名性や個人情報の問題は、しばしば話題に上るし、それを理由にSNSの世界に入って来ない人もいる。けれども、使い方を誤らない限りにおいて、非常に有効なツールだと私は思っている。
SNSの世界に入っていくことで、没交渉だった友人との交流が再開し、こうして酒を飲むことができる。Twitterのように、見ず知らずの人間のつぶやきが流れているクールな人間関係もネットの典型のひとつだが、確固とした人間関係と暖かいやりとりを軸にしたこういう付き合いができるのも、またネットの功績のひとつだと感じる。

約20年ぶりに会って話して、感じ取ったことについては次回。

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