いかさま音楽堂【4】さだまさしの世界との出会い
10年間続けた音楽から足を洗った後も、私の音楽への興味が喪失したわけではない。ただ、向かう方向性がもう少し一般的なジャンルへと行っただけのことである。
私の中学生時代はアイドル全盛期の末期に当たる。1985年のオリコンTOP10にはチェッカーズと中森明菜が3曲ずつランクインしている。TOP10には入っていないものの、この年デビューして一世を風靡したのがおニャン子クラブであった。今振り返るとわずか2年半の活動期間だったらしいのだが、集団販売戦略や秋元康による楽曲提供など、現在のAKBグループに通じるものがある。初期メンバーは記憶にあるものの、メンバーの入れ替わりに連れて誰が誰だかわからなくなるところも私にとっては共通項である。
1987年になると光GENJIがデビュー。こちらも同世代の女の子たちには爆発的に人気があった。
さらに私が高校に入学する頃にはバンドブームが到来する。学校祭のバンドでは、BOOWY、TMネットワークあたりのまがいものが入れ代わり立ち代わり登場し、下級生の女の子たちを熱狂させていた。時代が昭和から平成に代わると、土曜の深夜、「平成名物TV」の1コーナーとして、いかすバンド天国、通称「イカ天」の放送が始まり、JITTERIN'JINN、BEGIN、たまなどがここから旅立った。
世間一般の中高生がこうした人々に黄色い声援を送る中、私はひとり、さだまさしの世界に浸っていた。
きっかけは当時TVで放送されていた「花王名人劇場」という日曜夜の番組ではなかったかと思う。週替わりでさまざまな企画を放送し、1980年代初頭には漫才ブームの火付け役ともなったこの番組の企画のひとつが「さだまさしとゆかいな仲間」である。1時間の番組中、歌が数曲、ゲストの演芸が15分ほどで、残りの時間はさだまさしのトークであった。このトークの面白さ、絶妙な間とテンポが、私がこの人に興味を抱いた主たる要因である。
もっとも、私がその先でさだまさしに強く惹かれた理由はそこではない。
いまでこそテレビの露出が増え、トークに象徴される愉快な一面はよく知られるようになったが、当時「さだまさし」と言えば暗い歌手の象徴のように言われていた。これはグレープ時代の「精霊流し」「無縁坂」、ソロ初期の「防人の詩」などの印象が強いせいもあるだろう。だが何百曲とある中でそういう曲はひと握りに過ぎない。明るい曲もおちゃらけた曲もある。
それらも含めて、この人の織り成す詩がとても美しく、またどうしようもなく優しいところが、さだまさしの魅力なのである。その感覚が分からない人に「さだまさし好きのお前は暗い」と言われるのなら、私は一生暗い人間でも構わないと思っている。
この感性は当時の同じ世代の中ではきわめて異質である。周囲が当たり前のようにエレキギターやベースの習得に勤しむ中、私はフォークギターを握りしめてアルペジオの練習に没頭した。音楽の場面においても世の中の流れに乗り切れなかったことが、高校3年生で手に入れた恋を蒸発させる要因のひとつにもなったのであるが、今思えばこれは自分の世界を尊重しすぎた私に責任がある。好きな彼女が「レベッカが好き。PSY'Sが好き」と話してくれているのに「はあ?何それ?やっぱさだまさしでしょ」などと突っぱねていれば呆れられるのも道理である。
こうして恋を散らしたことで、ようやく私はそれ以外の世界にも少しずつ足を踏み込んでいくようになる。だがそういう結果を招いた後でいかにレベッカやPSY'Sの良さを感じたところで、失くしたものが戻ってくるわけではない。私は逃げるように北海道へと去り、彼女はほどなくロックでもフォークでもない、全く別のジャンルの音楽と出会い、今に至るまで音楽の道を歩いていくことになるのだが、それはまた別の機会に。
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