いかさまトラブラー

2014/05/02

いかさまトラブラー【10】珍トラブル編(4)

今度は他人のトラブルを救った話。

5年前の海外研修期間中の出来事である。
週末にかけてイタリアのミラノに滞在した私は、フリーの日曜日、「ユーロスター・イタリア」に乗ること2時間、芸術の街、フィレンツェへと出掛けた。

Pa253589 行き止まり式のフィレンツェ・SMN駅のコンコースを歩いていると、
すみません…」と声を掛けられた。日本語である。こんなところで日本人に声を掛けられるとは思っていなかったので、大いに驚くと、20代半ばの女性が立っており、「携帯電話の充電器をお持ちではないですか」と問われた。あいにく充電器はミラノのホテルに置いたままで、持ち歩いてはいない。

話を聞くと、彼女(Sさん)は、イタリアへの飛行機の中で知り合ったYさんという女子大生と意気投合し、フィレンツェ観光を共にする約束をした。ところが、携帯電話万能の世の中で、待ち合わせの場所をしっかり決めていなかった。いざ連絡を取ろうとすると、携帯電話のバッテリーは空になっている。電話番号は電源の入らない携帯電話のメモリの中である。番号が分からないから公衆電話から掛けることもできない。

Sさんが悲しげに見つめる携帯電話をよく見ると、機種こそ違うが同じメーカーの製品である。ひょっとして、と思い、裏蓋を開いてみると、バッテリーの型式は見事に一緒。そこで私のバッテリーを外してTさんの携帯電話に装着、無事に電源の入った電話からYさんに電話をかけることができた。

他人がこうしたトラブルに遭遇していると何とかしてあげたいと思うのが人の常だと思う。私自身、幾多のトラブルを必ず誰かに助けられて乗り切ってきた。まして場所は海外、他に頼れる人もなく、言葉も不便で心細かろうと思えば猶更である。おまけに相手は若い女性である。

Pa253654Sさんの話を聞くと、とにかく手当たり次第に日本人に声をかけようと思ったという。その最初のひとりが同じメーカーの携帯電話の持ち主だった私。これは彼女にとって幸運この上ない出来事である。
かくしてSさんとYさんは無事対面を果たすことができ、救世主となった私は、若い女性2人と1日、フィレンツェ観光を楽しむことができた。私にとっても幸運この上ない出来事であった。

後日談だが、この話は「いかさまトラブラー【6】」へとつながる。すなわち、このとき教えてもらった彼女たちの連絡先は、例の失くしたメモ帳に書き付けてあった。現地で撮った写真を送ることもできず、彼女たちとの縁はこれで途切れてしまったかにみえた。

けれども世の中便利になったものである。ここ数年ほど、Facebookを検索しているうちに彼女たちの所在を知ることとなり、昨年東京へ行った際、4年ぶりの再会を果たすことができた。看護師のSさんは結婚し、女子大生だったYさんはネイルアーティストとして働いている。私は相変わらず組織の底辺でもがき続けている。思い出すだけでも目尻が下がる楽しい思い出話は、最終電車まで続いた

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2014/04/29

いかさまトラブラー【9】珍トラブル編(3)

生まれつき十分な方向感覚が備わっているらしく、私はこれまでに旅先で道に迷う、という経験が非常に少ない。地図を持っていればもちろんだが、何となく自分が歩いている方向を理解し、数十分にわたって徘徊した後も駅へしっかり戻ることができる。これは旅人としては非常にありがたい感覚である。

ところがこんな私でも道に迷ってパニックになることがあった。

5年前、フランスは花の都、私が大切な手帳をなくしたパリである。

パリの市街地図を見ると気付くことだが、パリの市内には「ロータリー」と呼ばれる変形交差点が多い。代表的なものは凱旋門を囲むロータリーだが、公園、あるいは小さな広場を囲んで円状の一方通行道路があり、そこから放射状に何本もの道路が広がっていく。一般的な交差点も、単純な十字路でなく、たくさんの道路が複雑に交わっているものが多い。これらの道路がロータリーあるいは交差点同士を結んでいて、さながら蜘蛛の巣のような複雑な道路模様を呈する。

それぞれの道路は、微妙な角度で外へ向かっているから、歩むべき道を1本間違えると、角度でいえば30度ないし60度、間違った方向へ進んでいくことになる。それが数回繰り返されると、あらぬ場所にたどり着いてしまったりするから具合が悪い。

パリ最後の夜、私はルーヴル美術館に近いホテルを出て、北西へ向かって20分ほど歩き、オペラ座に近い大型百貨店へ土産物の物色に出掛けた。その帰り道、私は迷子になった
景色も行きとはどうも違うような気がするが、何しろ異国の風景のこと、私の脳内では十把ひとからげで、自信を持って間違っていると言える域には達していない。

30分歩いても見覚えのあるホテルが見えてこないことで、私は迷ったという事実をようやく確信した。けれどもそれがどこなのか皆目見当がつかない。人通りも少ない。今ここで後ろから肩を叩かれたら、そのままショック死しそうなほど、私は心細くなってきた。

「M」と書かれたメトロの入口が見えてきた。少しだけほっとする。けれども、日本の地下鉄と違って、入口に駅名を書いた看板が出ていないから、ここが何線の何駅なのかまったくわからない。
とにかく地下に降りると、地元の人らしきおばさんがちょうど改札を出てくるところだった。とりあえず英語で「ここはどこですか?」と話しかけてみるが、何?というような反応である。フランスの人は英語を解さない人が多いと聞いていたが、そういうひとりなのかもしれない。けれども私は必死である。今自分がいる場所を理解しないことには、ホテルに帰ることもできない。

必死の身振りも交えて、自分のいる場所がわからないということを猛烈にアピールする。ほどなくおばさんは、
「Poisonniere.」とボソッと呟くと、逃げるようにして地上への階段を駆け上がっていった。

Photoあらためて地図で確認すると、ポワソニエール駅はメトロ7号線上の駅で、私が先ほどいたオペラ座周辺からは地下鉄でおよそ3駅北東に位置している。すぐ隣はパリ東駅で、ずいぶんと間違った方向へ頑張って歩いてしまったものである。これも、出発点のロータリーで目指すべき道を1本、間違えてしまったことが原因らしい。私はポワソニエール駅からメトロに乗り、パリ東駅・シャトレ駅へと戻った。ちょうど三角形の3辺を時計回りにぐるりと一周する形になった。

恥ずかしい話だが、この後私は、シャトレ駅近くにある大型地下ショッピングモールにあるスターバックスでコーヒーを買った後再び迷子になり、最短で5分ほどで帰れるホテルまで、約20分周辺を徘徊することになった。舌を火傷するほど熱いコーヒーは、へとへとになってホテルの部屋に帰り着く頃にはぬるま湯状態になっていた。



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2014/04/22

いかさまトラブラー【8】珍トラブル編(2)

宿にまつわる軽いトラブルをひとつ。

職務質問と同じく、日本一周旅行の際の出来事。
この旅については、切符を手配する関係から、出発前に大枠の骨格だけを決めておき、あとは現地で気の向くままに乗り進む、という、アバウト感の強い旅行であった。時間はあるが金のない学生らしい旅ではある。

当日午後、行程の進捗状況を見極めながら、その日の宿泊地を決める。スマホや携帯電話のない当時、頼りは全国版の時刻表やホテルガイドで、その中から安い宿を探しては、夕方、公衆電話で予約を入れていた。よって、行ってみたら毛虫が這っていそうな和室の商人宿だったり、バスなしのホテルで併設の銭湯で入浴するように言われ、休館日のため薄暗くだだっ広い風呂にたったひとりで入ったなど、今ならば想定しにくいような出来事が起こったりする。

Bingoochiai広島駅から夕方の芸備線急行列車「たいしゃく」で、終点の備後落合駅へ向かった。
備後落合は芸備線と木次線、ローカル線とはいえ2本の路線の分岐点であり、急行列車の始終着駅でもある。かつて読んだ旅行記には駅前の旅館に泊まったという記述もあり、私は余裕綽々で列車に揺られ続けた。

広島出発時はほぼ満席に近かった2両編成の「たいしゃく」は、途中の三次でゴッソリと客を降ろしてしまうと閑散とした雰囲気になり、備後西城では私以外の乗客がすべて下車、たったひとりで終点の備後落合へ運ばれた。この辺りから私は少しずつ心細い気分になった。

備後落合の駅は無人。終点まで乗務した運転士と車掌はホームからそのまま駅併設の宿舎へと消えていき、真っ暗な駅前には私だけが残された。見ると上空からはちらちらと雪が舞っている。
私は備え付けの電話帳を頼りに、旅行記にもあった駅前の旅館に電話する。と、
「すみません、うちはもう廃業しておりまして…」と残念な声が受話器に響く。

それから電話帳を見ながら、駅周辺と思われる宿に片っ端から電話するが、つながらなかったり、呼び出しても出なかったりがほとんど。5軒目だったかでは、
あんた泊めろって? 何言ってんの?」ガチャン、と切られる。まさか間違えたわけではないと思うが、恐ろしくて二度目の電話をする勇気はない。

駅周辺の宿は全滅、この寒風吹きすさぶ駅で夜明かしかと、私は泣きそうな気分になりながら範囲を広げて宿の物色を続ける。そうして確か10軒目だったかで、
「もう時間が遅いですから素泊まりですけれども、それでもよろしければ」
女神の声。宿泊料も聞かずに予約を入れた。

備後落合駅からは遠いのでタクシーを利用するようにとのことだが、駅前を少し下ったところにある「道後タクシー」の看板を掲げた車庫は真っ暗。御用の際は、と電話番号を記した紙が一枚貼ってあるだけである。電話をしてみると、隣町の小奴可から回送するので10分ほど待ってくれ、とのことである。

ようやく到着したタクシーに乗り込み、雪の降る中を走ること10分、宿泊を受けてくれた「比婆山温泉 熊の湯」へ。翌朝も木次線の始発に間に合うように迎えに来てもらえるようお願いしておいた。夕食もとっておらず、腹が減っているが、この際泊めてもらえるだけでありがたい。小さな風呂だったが温泉の湯は気持ちよく、近くの工事のために長期逗留しているというおじさんと、のぼせるくらいまで語った。

当時で宿泊料は5,000円、その他に備後落合駅からのタクシー料金が往復で4,000円弱かかり、大きな投資についた。それでも中国山地の山中で凍死寸前の目に遭うことを考えれば、決して法外な投資ではなかったと、今でも思う。



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2014/04/03

いかさまトラブラー【7】珍トラブル編(1)

久しぶりに鉄道旅行のネタを。


以前に「寝過ごし」「忘れ物」を題材に、旅先におけるトラブルをいくつか紹介した。
 ⇒「いかさまトラブラー」
これに「乗り遅れ」を加えれば、旅先のトラブル三冠達成となるのだが、幸い、これまでの旅の中で、自己責任による「乗り遅れ」の記憶はほとんどない。

だが、結果として旅そのものに支障をきたしたわけではないけれども、道中起こったトラブルというのは他にもいくつかある。

前にも書いた1995年の日本一周旅行の時の話である。

まだ九州新幹線が影も形もない頃、博多から西鹿児島(現在の鹿児島中央)行きの夜行特急「ドリームつばめ」に乗り、深夜2時25分着の八代で下車した。
私はここから人吉方面へ向かう肥薩線の始発列車に乗る予定にしていた。発車は6時01分で、3時間半あまりある。ホテルに泊まるほどの時間も金もなく、私は待ち時間を駅の駅の待合室で過ごすつもりであった。

ところが、「ドリームつばめ」が出てしまうと、非情にも駅の待合室は施錠され、私たちは外へ追い出された。かつては夜行列車の停車駅など、ほぼ一晩中待合室は解放されていたものだが、ホームレス対策などの理由により閉鎖するところが増えつつあったようである。

時は2月、九州とはいえ外気温はおそらくひとケタである。私は暖を求めて駅前の通りを歩き、国道3号線に出た。右手数百mのところに「リンガーハット」の看板が光っている。営業時間は4時まで(※現在は2時まで)と中途半端だが、少なくとも1時間ほどは時間をつぶすことができる。私は店に入って、特段うまいとも思わないちゃんぽんを腹に流し込んで、体を暖めた。

やがて閉店の時間となり、のろのろと私は席を立った。店を出ると近くにセブンイレブンがあり、そこへ入ってみたが、品定めや立ち読みでそうそう時間を潰せるものではない。4時半過ぎ、私は諦めて八代駅に戻った。駅前のベンチに座っていると、せっかく暖まった体が少しずつ冷えていくのがわかる。

駅前のロータリーにパトカーが入ってきて止まった。何かあったのかと見ていると、パトカーを降りた警察官ふたりがつかつかと私の方へ歩み寄ってきた
ちょっといいかい?ボク」警察官のひとりが話しかける。人生初めての職務質問体験である。
「どこから来たの?」-札幌です。「名前は?」-○○です。
家出じゃないよね?」-違います。

断っておくがこのとき私は22歳である。元来薄いが無精ひげも生えている。その私を捕まえて家出少年と疑うとは何事か。おまけによくよく思い出すと「ボク」などと呼ばれている。私はむっとしたが、公権力に逆らってみたところで得られるものは何もない。私は、警察官が無線で家出人照会するのを黙って見ていた。

Yatsushiro当然のことながら該当の家出人は見つからず、私は無罪放免となった。ふと横を見ると、隣のベンチで同じく体を丸めていた中年のサラリーマン氏が、頭を掻きながら同様に職務質問を受けている。こちらは「家出中年」扱いである。同じく無罪放免されたサラリーマン氏は福岡県庁の職員で、自宅最寄りの羽犬塚で下車するつもりが寝過ごし、八代まで連れて来られてしまったとのこと。始発列車で引き返すという氏は、「もし近くに来たら寄りなさい」と連絡先を教えてくれたが、行程の関係でお伺いすることができなかったのが残念である。

私にとって人生初の職務質問体験は、幸いこの程度のことで済んだのだが、後ろ暗いところがないとわかっていてもあまりいい気分がしないのが普通である。それ以来、いかに貧乏旅行であっても、屋外で一夜を過ごすようなことは絶対しないよう気を付けている



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2013/06/02

いかさまトラブラー【6】忘れ物・失くし物編(4)

最後に「忘れ物」というよりは「失くし物」の話をひとつ。

Pb074197舞台は海外、4年前、2009年の会社の海外研修でのことである。
ロンドンからパリまで「ユーロスター」で移動し、終着のパリ北駅で、現地在住の大学時代の後輩、S君と合流した。翌日のオフの過ごし方を打ち合わせるために駅構内のカフェに入った。そこで手帳がないことに気付いた

手帳といっても、出発前にダイソーで買ったメモ帳レベルのものだが、これまで50日に渡る旅で得た情報や、現地で知り合った一部の友人の連絡先も書き溜めてある。不注意と言うより他はなく、弁解の余地はない。私自身にとっても、旅の記憶はまだ鮮明に残っているからいいが、せっかく出会えた仲間たちと連絡が取れなくなるのはつらい

今回は日頃と違って「置き忘れた」意識は全くなく、「落とした」可能性が高い。かといって道端で落とせばさすがに気付くだろうし、荷物を出し入れ、あるいは上げ下ろししているときに落としたものと推定し、前後の行動から、紛失場所はロンドンのホテル、ホテル近くのバーバリーショップ、「ユーロスター」の車内のいずれかであると踏んだ。ただし、上着のポケットに入れて持ち歩いていた、という状況から、どこかで掏られた可能性も否定はできない。

まだホームに停まっていた「ユーロスター」に戻ろうとするが、ホーム入口の改札で止められる。国際列車である「ユーロスター」の車内に戻るには、「出国手続き」が必要なのだと言う。駅員に指示されて向かった出札窓口で事情を話すと、
「ユーロスターの忘れ物は、遺失物取扱所に届けられる。場所はパリ北駅か、セント・パンクラス駅の遺失物取扱所になる。」
と言い、連絡先を教えてくれた。

私たちはひとまずルーブル美術館に近いホテルに入り、そこからバーバリーショップと宿泊したホテルに電話する。しかし、どちらの答えも「それらしい遺失物はない」とのこと。
鉄道の遺失物取扱所については、電話での問い合わせは受け付けないとのことで、セントパンクラス駅へは、詳細を記したメールを送信して朗報を待つ。

パリ北駅の方へは、2日後の夕方、取引先訪問の帰路に訪ねた。
遺失物取扱所は広い駅構内の地下、やや奥まったところにあり、人通りも少なく薄暗い。カウンターには黒人の男性が二人。通常の状態だったら絶対に近づかない空間である。
白い眼でこちらをギロリと睨む黒人係員に英語で話しかけるが、こちらが下手なのか向こうが理解しないのか、通じている気配がない。ボディランゲージに、イラストまで駆使したところで、ようやく奥へ入りゴソゴソ探していたが、ほどなく戻ってきて「ノン」と一言。もう一度よく探せ、と言いかけて、四つの白い眼球に射すくめられたような気分になり、退散する。

ホテルに帰ってPCを開くと、セントパンクラス駅から丁重なメールが届いていた。
「お尋ねの品物は見つからなかった。もし見つかれば、すぐに連絡する」
私はどっと疲れを感じた。

結局、この手帳は見つかることなく今に至るのだが、この一件は私にいくつかの教訓をもたらした。
そのうちのひとつは、「大切な物の定位置は守る」ということである。
上着のポケットに入れていた手帳だが、本来の定位置はセカンドバッグのポケットであった。たまたまホテル出発前に、頼まれた買い物をすませるために、品番をメモした手帳を上着に移して出掛けたのだが、これをホテルに帰ってすぐ定位置に戻しておけば、この騒ぎには至らなかった。少なくとも、紛失場所はもっと絞り込むことができた。

そしてもうひとつ。
これまで何度も書いてきたとおり、私は英語が苦手である。研修を経ていくらか上達した感はあるが、ロンドンへ入ってキングス・イングリッシュとなり、ホテルのフロントのおばちゃんの早口など、聞き取れないが故にチェックインに10分近くを要するなど、いくらか自信を喪失しつつあった。
けれども、私はこの失くし物を捜索するために2か所へ電話をし、必死のやり取りで手帳の行方を探った。面と向かってならともかく、相手の表情も動きも見えない電話である。それでも私の英語はなんとか伝わったし、相手の早口も思った以上にスムースに聞き取ることができた。
学んだことの最後にして最大のひとつ、それは「必要に迫られると英語力はアップする」ということである。「火事場の馬鹿力」、まさにそのとおりである。

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2013/05/30

いかさまトラブラー【5】忘れ物・失くし物編(3)

もうあとふたつほど忘れ物の話を。

マフラーを危うく失くしかけた1995年の日本一周旅行では、もうひとつ忘れ物についての苦い記憶がある。

Aidu_2出発からわずか2日目のことである。
前日、小樽港から新日本海フェリー「フェリーしらかば」に乗り、早朝5時に新潟港に到着。そこから磐越西線の普通列車を津川で乗り継ぎ、喜多方で下車した。

喜多方と言えばラーメンである。朝10時過ぎという早い時間だが、せっかくだから食べておきたい。私は、立ち寄った郵便局で、駅から遠くなく、それなりにおいしいラーメン屋はないか、と尋ねてみた。

局員が教えてくれた、駅から徒歩2分ほどの店で喜多方ラーメンを堪能し、食べ終わって時計を見ると11時少し前。喜多方から乗る予定の郡山行き快速「ばんだい8号」の発車は11時03分。私は慌てて立ち上がり、お金を払って店を飛び出した。
せっかく食べたばかりのラーメンをもどしそうな気分になりながら私は駅への道を全力疾走した。

「ばんだい8号」に飛び乗って一息つき、列車内の写真でも撮っておこうかとバッグを漁ったところで、私はカメラを先刻のラーメン屋に忘れてきたことに気がついた。

カメラ自体は3年ほど前に買った安物のコンパクトカメラであるが、すでにこの2日間で何枚かの写真を収めている。そのカメラがなくなるのは痛い。おまけにこの先28日間、1枚も写真を撮れないという事態が生じる。今ならばスマホや携帯電話のカメラで事足りるが、世はデジカメどころかフィルムカメラ時代である。カメラの要らない「写ルンです」がすでにヒット商品となっていたが、単品のフィルムに比べれば価格も高いし、画質もいまひとつの印象があった。

私は喜多方までカメラを取りに戻ることに決めた。問題は列車の時刻である。
「ばんだい8号」は、喜多方~会津若松間唯一の停車駅、塩川を過ぎており、予定どおり11時19分着の会津若松までいくほかはない。予定ではこの先、会津若松12時47分発の只見線列車で新潟県の小出へ抜け、長岡から急行「きたぐに」に乗車する予定になっている。只見線の列車本数は非常に少なく、この列車を逃すと、小出方面へ直通できる列車は16時20分までない。この列車でも「きたぐに」には乗り継げるが、できれば明るいうちに只見線には乗っておきたい。

時刻表を繰ると、喜多方11時56分発の列車に乗れれば、只見線の発車までに会津若松へ戻ってくることはできる。けれども会津若松から喜多方へ向かう列車がない

私は、会津若松駅前の公衆電話からラーメン屋に電話をし、カメラが無事保護されていることを確認すると、駅前に停まっているタクシーに乗り込んだ。運転手に事情を話すと、
「ふうん、けっこう料金かかるけどいいのかい? それに56分に間に合う保証もない。もし駄目だったら、帰りもタクシーしかないね。」
と言ってメーターを倒した。喜多方までは約20km、与えられた時間は約25分である。万一私が喜多方からの列車に乗り損ねると、私は帰路もタクシーを使わざるを得ない。彼はそれを狙っているのかもしれない。そう思うと私は急に不安な気持ちになり、財布の中身をしっかりと確かめた。

しかし彼は善意の人だった。道が空いていたせいもあり、片側1車線の道路を、乗っているこちらが不安になるほど飛ばす。タクシーは11時52分、件のラーメン屋の前に無事横付けされた。運賃は4,960円。これははっきり覚えている。
ラーメン屋でカメラを引き取り、つい30分ほど前に走った駅前通を再び全力疾走した私は、ドアが閉まる寸前の普通列車に転がり込んだ。

忘れ物で予定を狂わせる失態をたった2日目で犯し、当時の私にとっては大金だった5千円近くの金を浪費した。浮かれているとか気が緩んでいると言われても仕方がない状況である。虚しさと、真冬にもかかわらず全身から汗を噴出させながら、私は深く反省し、この先、同じ轍を踏まないことを固く誓ったのである。

にもかかわらず私はこのたった20日後、今度はカメラよりもっと大切なものを忘れることになるのである。この忘れ物癖、何とかならないものかと、私は都度反省しながらも、改善されることのないまま、今日に至っている。

このシリーズ、あと1回だけ、続く。

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2013/05/26

いかさまトラブラー【4】忘れ物・失くし物編(2)

「衣類」といえば、もうひとつ忘れられない忘れ物の話がある。

Chubu30日をかけて日本一周をした1995年冬の卒業旅行中の話である。
旅も終盤に差しかかった2月17日、私は新大阪から東京行きの「ひかり40号」に乗った。暖房のよく効いた車内で私は1時間ほどくつろぎ、名古屋で下車して中央本線の中津川行き電車に乗り継いだ。旅の予定はこのまま長野方面へ向かうことになっていたが、私は途中で下車して実家へ立ち寄り、翌日1日をまるまる休養に充てた。

英気を養って19日、私は再び中央本線の下り電車で旅を再開し、中津川で松本行きの電車に乗り継いだ。ところが、暖房の効きがよくない車内で、私は首筋を撫で、大変なものを忘れたことに気がついた。

それはマフラーである。それもただのマフラーではない。私の大好きだった人が、前年のクリスマスプレゼントにとくれた、手編みのマフラーである。それを失くした。彼女は逆切れ気味に私のことをなじるような人ではないが、たった3か月でせっかくのマフラーが消失したと知れば、大いに悲しむに違いない。その後の私たちの関係にも少なからず影響を与えそうである。

私は少し冷静になって、忘れた場所を必死で思い出した。実家を出るときにはしつこいくらいに忘れ物の確認をしたから、実家ではない。その前の中央線の電車に乗ったときは、身に着けたものを一切外していないから、それもない。

だとすれば忘れたのは「ひかり40号」の車内である。
新大阪から新幹線に乗るときには、確かにマフラーは首に巻いていた。けれども、暖房の効いた車内で、私は上着を脱いで膝に掛け、マフラーは窓枠の横のフックに掛けた。おそらく、下車する時に私はよく確認しないで、マフラーをそのままにしてきてしまったものと考えた。

そうなるとマフラーは、東京駅で保管されている可能性が高い。
もちろん、いつぞやの水着事件のように誰かが持ち去らないとも限らないが、ブツはマフラーである。私にとっては唯一無二の品物ではあるが、高級品ではなく編み目の不揃いな手づくり品である。鞄に入っていたわけでもない。だとすれば、金目当ての窃盗変質者の趣味の対象になる可能性はきわめて低い。

東京駅には忘れ物承り所があって、東京駅着の列車内の遺失物はそこに集められ、1週間保管された後警察に引き渡される、という話を聞いたことがある。私はその可能性に賭けて、予定どおり旅を続けることにした。中津川から塩尻、小淵沢、小諸、上田と電車を乗り継いでその日は別所温泉に泊まり、翌日、小諸から大宮、新宿とまわって東京駅へ向かった。

忘れ物承り所は東京駅外れの高架下にあった。私はそこでマフラーの特徴と、忘れたと思われる場所を説明した。
以前にも書いたが、私は旅行に出るたびに細かなメモを残す習性がある。この時も私は、乗った列車名どころか、自分が座っていた号車・座席番号まで克明にメモを取っていた。
胸を張って座席番号まで申告した私を、係員はびっくりしたような表情で眺めた後、「少々お待ちください」と言って奥の保管庫へ向かっていった。

私は待っている間も、これが不発に終わったらどうしようか、と心配する気持ちと、間違いなく見つかるはずだ、という自分への言い聞かせがないまぜになり、ふわふわとした気分であった。ものの数分の待ち時間がひどく長い時間に感じられた。
係員が奥から見覚えのあるマフラーを手に現れたとき、私は不覚にも熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

それから身分証明書を提示し、簡単な手続きをして、愛しのマフラーは3日ぶりに私の手元に戻ってきた。ことほどさように、忘れ物はその気になって探せば見つかることも多い。
現在、列車内での忘れ物については、JR各社などでは「遺失物管理システム」に登録され、テレフォンサービスで遺失物の有無や保管場所を確認することも可能になっている。

こうして私は、マフラーをつくってくれた人を大いに悲しませることなくこの危機を乗り切ったのであるが、この半年ほどのち、蜜月関係はもろくも崩れ、今度は私が大いに悲しむことになる。が、それはまた別の話である。

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2013/05/22

いかさまトラブラー【3】忘れ物・失くし物編 (1)

寝過ごしもさることながら、忘れ物に関する苦い記憶も数多い。

Kasa特に傘などは、子供の頃以来、バス・列車に限らずどれほど忘れたかわからない。忘れれば大体において回収不可能となる。家では母の雷が落ちる。経済的損失もチリと山の関係である。けれども、元来すべてにおいて忘れっぽい私は、またしばらく経つと忘れる。

その結果導き出された結論は、「原則として傘は持たない」であった。幸いわが家はバス停から100m弱の場所にあるし、駅から会社へは大半を地下通路経由でたどり着くことができる。持っていても、よほどの降り方でない限り使わない。

JR東日本広報によると、電車内での忘れ物で一番多いのは衣類だそうである。傘だとばかり思っていた私は非常に意外な気がした。
衣類といっても幅広いが、帽子手袋などの小物が多いらしい。そうしたものを総合すると「衣類」がトップに来るのだという。傘は衣類に次ぐ第2位で、年間で30万本が忘れられているのだとか。単一品目としては相変わらずトップを走っているのは間違いない。

衣類」といえば、少々変わった「衣類」を電車内に置き忘れたことがある。
高校2年の頃ではなかったかと思う。私は、体育の水泳の授業に使う水着一式を網棚に置いたまま電車を降りてしまった。改札を抜けた直後に気付いたのだが、すでに電車は名古屋へ向けて走り去った後である。

この日は水泳の「逆飛び込み」のテストが行われることになっていた。そのテストに合格しない者は、夏休みに補習が行われるという。

私は体育全般が嫌いなのだが、とりわけ水泳はきらいである。なかでも逆飛び込みは最も苦手な部類に属する。いつもヒキガエルのような無様な体勢で水に落ちていく。ちょっと頑張って体を伸ばせば水面に腹を叩きつけてイモリのような状態になる。頭から水に飛び込んでいく奴の気が知れないとさえ思っていた。

そんな日に限って私は水着を電車に忘れた。テストを受けたくない、もしくはそんなつまらない補習で貴重な夏休みをつぶしたくない、という深層心理が自然とそうさせたのかもしれないが、少なくとも本人は意識的に忘れたわけではない。第一、テストを受けられなかったら解決するとは限らない。「受験できない」=合格しない、なのだから、結局補習に借り出される可能性もあるからである。

私はその日の体育の授業を、デリケートな女性よろしく、プールサイドに体操座りして過ごした。テストは粛々と行われ、受験すらしなかった私はその後、ひやひやしながら補習のお呼びがかからないことを祈り続けた。

結局、逆飛び込みの補習にお呼びはかからなかった。
もっとも、補習にお呼びがかかったところで、私はそれを受けることはできなかった。電車内に置き忘れた水着一式はその後結局発見されなかったのである。
あんなものを誰かが持ち去ったところで何の足しにもならないと思うが、ともかく水着は二度と手元に戻ることはなく、そのまま行方知れずとなった。次年度はプール改修工事のために水泳の授業は行われず、結局私は逆飛び込みができないまま高校生活を終えることになった。

この話は、子供たちには内緒である。
忘れ物の話もさることながら、まだ小学1年生の下の坊主はともかく、幼稚園の頃から水泳を習いに通い、4泳法をそれなりにマスターした上の坊主に知られたら、馬鹿にされるに決まっているからである。

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2013/05/19

いかさまトラブラー【2】寝過ごし編(2)

前回のブログで書いた九州旅行以来、私は自戒の念を込めて、時計もしくは携帯電話でのアラームを極力持ち歩き、不安な時にはそれをセットして下車に備えるようになった。それ以来、旅先で寝過ごすことはめったになくなったが、それでも昨年の関西旅行の際のように、ふとした油断でやらかしてしまうことは間々発生する。

また、緊張感のあるはずの日常生活でも、寝過ごし体験は少なからず存在する。
不思議なもので、何事によらず「あと少しでゴール」という段になると、それまでの緊張が一気に緩和へ向かう傾向がある。このあたり、私が周囲から「詰めが甘い」と言われる所以でもあるが、ともかく、自分が下車する駅の直前までの意識ははっきりしており、あとひと駅、というところから急速に夢の世界へ堕ちていき、気がつくと寝過ごし、というパターンが多い。

旭川に住んでいた頃、札幌から最終またはその1本前の特急で旭川へ帰る、ということが何度かあった。札幌から30分間隔で運転されていた旭川行き特急の最終は21時。そのあと、22時台・23時台は、稚内行き「利尻」、網走行き「オホーツク9号」という夜行列車であった。

日付まではっきり覚えてはいないが、まだ私が独身だったことや、当時のダイヤ構成から考えて、1999年のことだと思う。その時も札幌で所要があり、会食の後、札幌発23時05分の最終特急「オホーツク9号」に乗った。基本的に酒が不得手な私は、この日も酒量を控えてソフトドリンクで会食に付き合い、ほぼしらふの状態であった。それでも1日をフルに活動した疲れはある。私は、寝るまいぞ、寝るまいぞと自分に言い聞かせながら、およそ1時間30分の行程を過ごした。

Touma深川を過ぎ、何本ものトンネルをくぐって、旭川のふたつ手前、伊納駅の駅名標が窓の外を通過して行った。ここまでははっきりと覚えている。
ところが次に気がついたとき、列車は小さな高架駅をゆっくりと通過するところだった。「旭川四条」と駅名が読めた。旭川の次の駅である。

私は、ああ、やってしまった、と猛省したがもう遅い。ここから旭川へ引き返す方法は、次の停車駅、当麻で下車して自力で戻るか、上川で札幌行きの「オホーツク10号」を捕まえて戻る「夜行返し」しかない。これだと旭川に帰り着くのは明け方4時になる。

私は車掌に事情を話して当麻で下車した。他に下車客もない小さな無人駅だが、市街地にたまたまいたタクシーを拾って旭川まで戻った。5,000円以上かかったような記憶がある。札幌-旭川間の特急往復割引きっぷの値段を超える料金を払って2時過ぎに家に帰ったが、わずかな時間にもかかわらず列車の中で眠ってしまったのと、「やらかした」という反省の気持ちから、部屋に帰ってもほとんど眠れなかった。

昼間の特急「オホーツク」は、当時から旭川を出ると48.6km先の上川までノンストップであるが、この夜行「オホーツク9・10号」は、急行列車だった時代の名残で、唯一当麻に停車する特急であった。旭川-当麻間は17.6kmである。
また、仮に乗った列車が稚内行きの「利尻」であれば、旭川の次の停車駅は36.3km先の和寒。タクシーで戻ろうという発想には、おそらくならなかったに違いない。「オホーツク9号」だったのが不幸中の幸いであった、とも言える。

時は流れ、2006年3月のダイヤ改正で、「オホーツク9・10号」は、「利尻」とともに多客期のみ運転の臨時列車となり、2年後の2008年には列車そのものが廃止となってしまった。札幌発22時台・23時台には、旭川行き「スーパーホワイトアロー」(現「スーパーカムイ」)が増発された。旭川住民にとっては寝過ごしの心配はなくなり、電車化で到着時刻も繰り上がって便利になったが、私はふたつの意味で複雑な気分だった。
ひとつは愛すべき夜行列車が廃止の憂き目に遭ったこと。そしてもうひとつは、その時私は転勤によってすでに岩見沢市民となっており、特急で札幌から帰る限りにおいては寝過ごしのリスクは解消されていなかったことである。

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2013/05/15

いかさまトラブラー【1】寝過ごし編

日常生活でもそうだが、ことに旅には大小さまざまのトラブルがつきものである。
後になって振り返れば、そのときのトラブルは、旅のインパクトとして強く印象に残っている。他の方のブログや旅行記などを見ていても、トラブルに巻き込まれたシーンは読んでいて正直なところ面白い。だが、遭遇したその瞬間は誰しも青ざめているはずである

トラブルといっても、飛行機や列車の遅れ、あるいはストライキ、事故などといった不可抗力に近いものもあれば、寝過ごし、忘れ物、乗り遅れなどといった「身から出た錆」に相当するものまで幅広い。

私自身の経験を振り返ってみると、不思議というか幸運というか、これまでに生死にかかわったり、あるいは後の行程に重大な支障を及ぼすようなトラブルに見舞われた記憶はほとんどない。そのときはそのときでかなり肝を冷やしたり呆然としたりするのだが、結果何とかなっている、というものばかりである。が、小さいものを積み上げればそれなりにいろんな場面には遭遇している。

以前にも書いたが、私は、高校2年から3年の春休みにかけての九州旅行で、寝過ごし3連打を記録したことがある。
 ⇒「寝過ごし考」

その旅は、ありあまる体力を過信し、全14泊中地上泊はわずか6泊、残り8泊はすべて夜行列車での車中泊という強行軍であった。金がなかったせいもあるし、当時の九州には「かいもん」「日南」という、九州を南北に縦断する便利な夜行急行列車が運転されていたゆえでもある。「ワイド周遊券」では、特急・急行の自由席を追加料金なしで利用することができた。

今は亡き東京発の寝台特急「はやぶさ」のB寝台個室で一夜を過ごした翌日、私は熊本から人吉、志布志経由で宮崎へ入り、上り夜行急行「日南」の客となった。グリーン車に相当する深いリクライニングシートで熟睡した私は、翌日、折尾で下車する予定がすっかり寝入ってしまい、博多駅で車掌に肩を叩かれて目を覚ました

それでも懲りない私は、その夜、博多から下り夜行急行「かいもん」で深夜の熊本に下車、駅前の食堂で夜食をかき込んだ後、上りかいもん」で久留米へ引き返した。「夜行返し」という手法で、上り・下りの夜行列車を組み合わせて宿代を浮かす、という、当時の「」の若者たちに愛用されていた手段である。ただし、当然ながら疲労の蓄積は著しく、寝過ごしのリスクと背中合わせになる。まして私はこれで夜行3連泊目であった。

私は幸い寝過ごすこともなく久留米で下車し、早朝の久大本線大分行きの列車に乗り継いだのだが、おそらくそこで気が緩んだのであろう、下車予定の夜明を見事にスルーし、5駅先の天ヶ瀬停車中に目を覚まし、慌しく下車した。幸い、待つほどもなく久留米行きの列車がやってきたが、夜明から乗り継ぐ予定だった日田彦山線小倉行きの列車には間に合わない。私は日田駅近くの喫茶店で朝食をとりながら、崩れた乗りつぶしプランを再構築するために、時刻表と格闘することになった。

その結果、日田から田川後藤寺へ行き、そこで後藤寺線の列車に乗り換えて新飯塚へ往復、田川後藤寺から再び日田彦山線で小倉を目指す、というプランを整えた。
意気揚々と列車に乗り込んだ私は、満足いくプランが出来上がったことで慢心していたのであろう、列車が田川後藤寺をはるかに過ぎて小倉の手前に達するまで、私の意識は完全に遠のいていた

1わずか2日間で3度の寝過ごしなど、完全に緊張が緩んでいると思われても仕方がないが、出発当日に東京で舞い上がって夜更かしし、翌日の「はやぶさ」では興奮のあまり何度も目を覚まし、九州へ入っては初めて見る景色に目が釘付けとなれば、いかに若くて体力に自信があろうが陥落するのは時間の問題である。むしろよくぞ3日4日ももった、と今となれば思う。
今もし、当時の行程が再現可能だったとしたら、3泊目の「夜行返し」を諦めて、久留米あたりのホテルにもぐり込んでいるだろう。仮に気合を入れて「かいもん」に乗ったとしても、熊本どころかはるばる鹿児島まで連れて行かれた自信がある

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