いかさまさんの平成史

2019/04/30

いかさまさんの平成史 平成20年~平成23年

 平成16年頃から中国の経済成長を主因として上昇基調にあった原油価格が急騰したのが平成20年である。年明けに70ドル/バレル前後だったニューヨーク原油先物市場における原油価格(WTI先物価格)は、7月11日に147ドル/バレルの史上最高値を記録した。
 これに呼応して市中のガソリン価格も上昇、レギュラーガソリンは8月に全国平均で182円に達した。平成19年の参議院選挙で大勝した民主党は、ガソリンに課されている暫定税率の措置延長に反対した。法案は衆議院で可決されたものの参議院で否決され、3月末をもっていったん失効し、衆議院での再可決で5月から復活したことも、ガソリン価格の乱高下に拍車をかけた。


 ところが9月、いわゆる「リーマン・ショック」により、原油価格は年末には40ドル/バレルを割り込むレベルまで暴落した。前年一時18,000円台まで回復した日経平均価格も下落が加速、翌年3月には7,000円割れ目前まで下がった。そうした中で平成21年8月の衆議院選挙がおこなわれる。前回、「郵政選挙」で圧倒的多数を得た自民党は目も当てられない大敗を喫し、15年ぶりに下野、政権は民主党に移り、鳩山由紀夫内閣が誕生した。


 だが好調なスタートを切った鳩山内閣は、事業仕分けの不調や普天間基地移設問題などでほどなく迷走を始め、首相や小沢一郎幹事長の献金問題などもあり、わずか9か月で総辞職。菅直人内閣で迎えた参議院選挙で民主党は敗北、ふたたび国会はねじれ状態に突入する。そして野田佳彦内閣で迎えた平成22年の衆議院選挙で、今度は民主党が惨敗を喫し、政権は再び自民党に戻る。第二次安倍内閣が組閣され、良くも悪くも政権はようやく安定して現在に至っている。その後の民主党の状況はご承知のとおりである。


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 このような状況の中、私は以前にもここで長々と書き連ねたとおり、平成20年、21年と続けて海外研修に出る幸運に恵まれた。特に平成21年の2か月間にわたるアメリカ・ヨーロッパでの単独研修は印象的だった。
 この研修は新型インフルエンザの流行で出発が1か月遅れた。9月13日、成田からニューヨークへ向かったJAL機内では、そのJALの経営危機問題のニュースが流された。そして9月16日、鳩山内閣発足のニュースを、私はボストン郊外のホームステイ先で、インターネットを通じて見ることになった。円高が進行して90円/ドル前後だったため、かなり余裕のある生活を送ることができた2か月間でもあった。

 ⇒ 2009年世界の旅 (いかさまトラベラー:世界の旅人

 この研修の年の2月、私は人事異動で6年間過ごした岩見沢から10年ぶりに札幌へ戻り、新築した自宅に収まった。11月に研修から戻ってきてひと息つくのもつかの間、翌平成22年の2月には部署異動と、変化に次ぐ変化が訪れた時期になった。
 鉄道趣味の方は、海外研修などのバタバタもあり、若干クールダウン気味に推移したものの、この間に鉄道乗車記録のデータベース化などを地道に進め、比較的仕事に余裕があった平成23年から乗りつぶしに向けた意欲を燃やしていくことになる。それから先はほぼ年1回のペースで旅に出かけることになっていった。

 ⇒ 2011年夏 九州・四国・中国乗りつぶしの旅

 だが鉄道の世界では、平成21年3月、寝台特急「富士・はやぶさ」の廃止により、昭和33年以来50年にわたる東京駅発着の「ブルートレイン」の歴史に終止符が打たれ、若い頃世話になった「大垣夜行」の後身、快速「ムーンライトながら」も臨時列車化された。東北・北海道方面や、四国・山陰地方に向けて夜行列車はまだ多少残っていたものの、歴史ある列車が退場を余儀なくされたことで、夜行列車時代は終焉を迎えたといっても過言ではないように思う。



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 その一方で平成22年12月には東北新幹線・八戸-新青森が延長開業し、翌平成23年3月には九州新幹線・博多-新八代が開業、ついに青森県から鹿児島県までが新幹線によってつながることになった。
 しかしこの記念すべき出来事の前日、3月11日、東北地方を震度7の巨大地震と未曽有の津波が襲う。東日本大震災の発生と、これに連なる福島第一原発事故で大きな被害を受けた地域は、今なお復興途上にある。平成最後の10年間は、地震、豪雨と多発する災害との闘いであったようにも思う。


 さて、最後は駆け足になってしまったが、なんとか平成23年までたどり着いた。この翌年、平成24年2月に、私はこのブログを開設している。平成24年以降の私の平成史はブログで振り返ることでご容赦いただくことにしたい。非常に手前勝手のように思われるが、平成回顧は平成のうちに終わらないとどうにもおさまりが悪い気がして仕方がない。 
 私が青春を駆け抜けた平成は間もなく終わる。次の時代は、私の子供たちが青春を駆けていく。その時代は子供たちにどんな楽しい思い出と、しょっぱいネタを提供してくれるのか、非常に楽しみである。
 次の時代、令和はあと数時間でやってくる。


※平成20年の鉄道新規乗車実績    447.3km(通算 20,895.2km)
※平成21年の鉄道新規乗車実績    185.8km(通算 21,081.0km)
※平成22年の鉄道新規乗車実績   1,287.0km(通算 22,368.0km)
※平成23年の鉄道新規乗車実績   1,386.5km(通算 23,754.5km)


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2019/04/28

いかさまさんの平成史 平成18年~平成19年

 平成18年、5年間にわたった小泉内閣が余裕を残して退陣した後、日本の政治は混迷期に入る。戦後最年少で第一次内閣を組閣した安倍首相は、翌年、閣僚が次々と不祥事を起こして辞任する事態の中、参議院選挙敗北の結果を受けて退陣、跡を継いだ福田内閣も1年で投げ出し、以後、平成24年に第二次安倍内閣が登場するまで、1年ごとに内閣が変わる危機的事態に突入した。


 そんな中、平成18年の日本は、スポーツで印象的な出来事が相次いだ。トリノオリンピックで「イナバウアー」の荒川静香が金メダルを獲得。夏の甲子園では、3連覇を目指した駒大苫小牧高校が早稲田実業と引き分け再試合の死闘を演じた。結果は早実に軍配が上がり、駒大苫小牧の3連覇は成らなかったが、駒大苫小牧のエース・田中将大はその年のドラフトで楽天イーグルスに入団、7年後の平成25年、24勝0敗という驚異的な成績を残して楽天球団史上初の優勝の原動力となる。かたや早実のエース、「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹は、早大経由で北海道日本ハムファイターズに入団したものの、一軍と二軍の間をさまよい続けている。


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 その年の日本シリーズは、北海道移転後初の優勝となった日本ハムと、2年ぶりにセリーグを制した中日との戦いとなった。ドラゴンズの日本シリーズを札幌で観られるという興奮に打ち震えた私は、ネットオークションで倍の値段を払って第3戦から第5戦までの3試合すべてに通った。だがこの3連戦でドラゴンズの得点はわずか2点、しかもそのうちの1点は、第3戦1回表。岩見沢から仕事終了後に駆けつけた私はそのシーンに間に合わなかった。3歳になった上の坊主とふたりで出掛けた第5戦、私たちはライトスタンドのビジター応援席で、日本ハムの胴上げを見せられることになる。帰り道で、坊主に「パパまけちゃったね。げんきだしなよ」と慰められたのを覚えている。
 日本シリーズはその翌年、平成19年も同じ組み合わせでおこなわれた。私はこの年も第6戦・第7戦のチケットを用意して待ち構えていたが、ドラゴンズが札幌へ戻ってくることはなかった。第5戦のナゴヤドームで、山井-岩瀬のパーフェクトリレーで53年ぶりの日本一を決めたからである。


 平成18年当時、私の勤務するブランチのボスは、私が平成7年に入社した時の教育担当課長だった人である。その人の趣味が鉄道乗りつぶしだと知ったのは、10年ぶりに岩見沢でお会いした後のことだったのだが、履歴書に「趣味:鉄道」と書いた私のことをご記憶だったようで、時々私の席にふらりと現れては、「先週どこどこへ行ってきた」とか「この間〇〇線に乗って来た」という話をした。
 元来が負けず嫌いの私は、そういう話を聞くと黙っていられなくなる。鎮火目前の燃料に再び火が付いた。職場では6月に配属になったばかりの新人を抱え、また自宅では3年ぶりに腹が大きくなった嫁を抱えてはいるが、もう止まらない。


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 ひとしきり文句を言う嫁を説得し、12月中旬の金曜日、私は飛行機で東京へ飛び、4日間をかけて、京都、天橋立、姫路、大阪、倉敷、岩国、宇部と辿り、火曜日の飛行機で福岡から札幌へ帰ってきた。4泊4日の純粋な乗りつぶし旅は、大学卒業の時の旅行以来になる。この年、私の鉄道新規乗車記録は久々に1,000kmを超え、通算乗車距離もついに20,000kmを超えた。
 けれども、翌年1月に下の坊主が生まれ、2月には鉄道好きのボスも異動で岩見沢を去ったこともあり、岐阜県多治見市が40.9度の猛暑を記録した一方で、私の鉄道熱は平熱やや下までみたび下がることになる。


 こうした状況もあって、実際に私が鉄道全線完乗を達成するまでにはさらに12年の月日を要することになるわけだが、理由は他にもある。
 これまではちょっと出掛ければ新規乗車距離がぐんぐん伸びたのだが、主な幹線をおおむね乗り終わったこの時期になると、未乗路線に乗るためにすでに乗車済みの区間を往ったり来たりする頻度が高くなった。また、この時期まだ鉄道路線のデータベースの整備ができておらず、後になってから取りこぼしと呼べるような未乗区間がボロボロと出てきたこともある。
 つまり乗車実績が伸びるにしたがって、乗りつぶしの効率はだんだんと悪くなっていくわけで、平成18年の乗りつぶし旅は、その後やって来る壮大な散財の序章に過ぎなかったことがのちになって実感されるようになってくるのである。


【過去記事】
12月と鉄道  2006年12月の旅 その1 その2 その3 その4


※平成18年の鉄道新規乗車実績 1,007.0km(通算 20,325.0km)
※平成19年の鉄道新規乗車実績  122.9km(通算 20,447.9km)


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2019/04/25

いかさまさんの平成史 平成15年~平成17年

 このところ公私ともにバタバタと忙しい日が続いており、なかなかブログを更新する暇もなかった。平成の終わりに当たって私自身の平成史を振り返り、懐かしみながら記事を書こうと思っていたのだが、気が付けば令和時代の到来まであと1週間を切っている
 とはいえ、ここまで書いてきたものが尻切れトンボになるのも心が痛むので、もう少し、自分振り返りの旅を続けようと思う。


 バブル絶頂期の平成元年に38,915円を記録した日経平均株価が7,607円と底を打った平成15年(2003年)は、私にとって何度目かの人生の大きな転機になる年となった。2月に4年間を過ごした旭川から岩見沢へ転勤となり、7月には待望の長男が私と同じ顔で生まれてきた。仕事はきわめて順調で、私はこの年からしばらく、仕事と家族(子供)を中心に充実した、悪く言えば振り回される生活を送ることになる。こういう状況の中で、鉄道乗りつぶしの方は、平成15年に仕事で九州・関西へ行った際、未乗だった山陽新幹線・三原-博多間373.8kmに乗ったのが唯一の大物で、相変わらずお休みに近い状況が続いた。


 一方でこの3年間は、鉄道にとって大きな出来事が重なった年であった。平成15年10月1日、東海道新幹線品川駅が開業、東海道新幹線はこれまでの「ひかり」から「のぞみ」中心のダイヤに大幅変更された。品川に「のぞみ」全列車が停車するようになるのはこの5年後だが、品川、新横浜への停車拡大により首都圏西部から新幹線へのアクセスが飛躍的に向上することになった。
 翌平成16年3月13日には九州新幹線・新八代-鹿児島中央間が開業。在来線の線形が悪い区間の先行開業は、既存の新幹線と接続しない異例の形で、博多-新八代間の開業を待つことになる。


 華やかな出来事が続いたJR各社に大きな衝撃の走る事故が、平成17年4月25日、発生する。JR西日本・福知山線脱線事故である。この事故については以前にも書いたので詳細は省くが、成長と技術革新、スピードアップの裏側で大切なものを置き忘れてきたことに気付かされた瞬間でもあった。JR西日本では在来線ダイヤの見直しが行われ、ホームページのトップには今も福知山線事故に関する記述が残っている。こうした事故の発生を目の当たりにしながら、この6年後、JR北海道で鉄道の安全性が否定されかねない事故が続発し、今日的状況を招いていることも、これまでに何度も書いてきた。


 政治的には平成13年に旋風を巻き起こして誕生した小泉純一郎内閣が長期政権となり、平成17年にはかねてからの持論であった郵政民営化法案を参議院で否決された小泉首相が衆議院を解散する、いわゆる「郵政解散」がおこなわれた。私の住む岩見沢の選挙区でも、自民党の現職が造反して刺客を送り込まれ、分裂選挙となった。その結果、民主党前職が漁夫の利を得て余裕の当選、比例単独一位とされた刺客は小選挙区では最低の得票だったものの比例復活で難なく当選し、自民党の公認を失った前職は健闘空しく当選ならなかった。全国的には自民・公明の連立与党が300議席以上を獲得して政権を盤石の体制にしている。


 盤石と言えば、2004年に発足した中日ドラゴンズの落合博満監督体制も、その後8年間、リーグ優勝4回、日本一1回、8年間すべてでAクラスという盤石な体制を築いた。就任1年目、「現有戦力の底上げだけで優勝を目指す」と公言してそれを実行した「有言実行」の行動力、業界(政界)内ではどちらかというと一匹狼の印象が強く「変人」的評価を受けていた落合博満と小泉純一郎はどこか相通ずるところがある。この年、プロ野球界は近鉄とオリックスの合併に端を発するプロ野球界再編問題から前代未聞のストライキに突入し、結果、楽天が新規参入で2リーグ12球団体制の維持が図られることになった。今シーズンの楽天イーグルスはここまで好調な戦績を残しているが、参入初年度97敗という記録的な敗戦数となったことを思うと非常に感慨深い。そう言えばその年の楽天の監督、田尾安志も中日の中核選手だったなあ、と、ふと思い出す。



※平成15年の鉄道新規乗車実績  379.3km(通算 19,212.0km)
※平成16年の鉄道新規乗車実績   26.0km(通算 19,238.0km)
※平成17年の鉄道新規乗車実績   80.0km(通算 19,318.0km)


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2019/04/15

いかさまさんの平成史 平成13年~平成14年

 先頃、北広島市への本拠地移転を発表した北海道日本ハムファイターズ。2023年には新球場を建設して札幌を去ることになる予定だが、ファイターズが2004年以来本拠地球場として使用してきた札幌ドームがオープンしたのが、21世紀最初の年、2001年(平成13年)のことである。
 プロ野球公式戦のこけら落としは、6月26日の巨人対中日戦であり、この試合、1回表に1番打者の福留孝介(背番号1)が投手メイの第1球をライトスタンドに叩き込んだ。札幌ドーム公式戦第1号となったこの打球の落下点付近には今も記念のプレートが取り付けられている。
 この年の7月にはオールスターゲームも開催された。運よくチケットが当選した私たち夫婦は、旭川から観戦に出掛けた。昔のナゴヤ球場に慣れ親しんだ私にとって、広く、大きな天井に包まれたドーム球場は驚きの環境だったが、練習中から西武・カブレラがその天井に直撃弾をぶち当てて、私たちの驚きを倍増させた。


 その札幌ドームを含め、日本国内10会場でサッカー日韓W杯が開催されたのが2002年(平成14年)。札幌ドームでは予選リーグのみ3試合の開催だったが、アルゼンチン対イングランドという屈指の好カードも組まれた。サッカーに全く縁も興味もない私は、この試合を観戦するために東京からやって来た高校時代の同級生と飲むために旭川から札幌へ出た。その夜の札幌市内には夜が更けるまでサッカーファンの姿が絶えず、いつもに増して不夜城の様相を呈していた。


Pa042924  平成13年に最も世界を震撼させた出来事と言えば、ニューヨーク同時多発テロをおいて他にない。私はそのニュースを旭川の社宅の部屋のテレビで観ていた。最初に私が眼にした映像は、高層階から激しく煙を噴き上げる2本のビルの姿だった。NHKの現地レポーターの中継が続く中、飛行機らしき小さな物体がビルに接近していき、ビル陰に消えたかと思うと、ちょうどそのあたりから新しい煙が上がった。やった、と私は直感したが、ビルを背後に喋り続けるレポーターはそのことに気付かない。もどかしい思いは今も覚えている。
 これが4機の飛行機による同時多発テロであると分かったのは後日の話である。この事件はのちのイラク戦争の契機となった。そして私は事件から8年後、更地となったWTC跡地を訪れることになる。


Jrh7891  鉄道の世界では、2002年12月、東北新幹線が八戸まで伸び、盛岡-八戸間の東北本線が並行在来線としてJR東日本から切り離されて第三セクター化された。東北新幹線接続の対北海道連絡は、それまでの特急「はつかり」・快速「海峡」のペアに代わって、八戸-函館間の特急「スーパー白鳥」が担うことになった。2001年に廃止となった大阪-青森間特急「白鳥」の愛称が所を変えて復活する一方、「はつかり」や「はくつる」など東北本線筋の伝統ある愛称が消えたことで、全国津々浦々をネットした国鉄の印象は次第に薄まっていく。
 私の鉄道熱はと言うと、平成13年こそ新規乗車区間は札幌市営地下鉄東豊線の延長部のみだったものの、翌年は仕事で千葉方面を訪問した際に銚子の先まで足を伸ばすなど、7年ぶりに100kmを超えた。だが、まだ本格的に乗りつぶしを再開する状況にはなっていない。


 こうした中にあって、私の21世紀を迎えての生活は順風満帆であった。家に帰れば誰かがいるという生活を久しぶりに味わい、やはりいいものだなあ、と喜びをかみしめる一方、子供がいないこともあって時々嫁が札幌に帰るため、一人の時間も堪能できた。仕事も順調で、人事異動で私を育ててくれた上司は平成13年、14年に続けて札幌へと去っていったが、後任で来た上司も私の覚醒に一定の評価を与えてくれたらしく、こまごましたことをあまり言わず、のびのびと仕事をさせてくれた。取引先にもかわいがってもらい、旭川という街は私の中で札幌に次いで大きな印象を残す街になった。嫁のお腹の中に、北海道でただ一人、私の血を引く生命が宿ったと知らされたのは、その年の秋も深まった頃のことである。


※平成13年の鉄道新規乗車実績     5.5km(通算 18,618.2km)
※平成14年の鉄道新規乗車実績  214.5km(通算 18,832.7km)


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2019/04/12

いかさまさんの平成史 平成11年~平成12年

 先日、2024年に紙幣のデザインが一新されることが発表された。渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎とはまた渋い人選だなあ、などと思っているのだが、そうした中で唯一蚊帳の外に置かれたのが二千円紙幣である。沖縄で積極的に流通している以外はめっきり見かけなくなり、流通量もさることながら傷みも少ないとして、今回刷新が見送られた。
 この二千円紙幣登場の年が、「ミレニアム」と呼ばれた2000年、平成12年である。九州・沖縄サミットの開催とともに、小渕恵三首相の肝煎りで登場したものだが、ご当人はその年の春、小沢一郎率いる自由党の連立離脱騒動のさなか脳梗塞に倒れ、サミットも二千円紙幣も見ることなくこの世を去った。


 小渕首相の緊急事態に登板したのが、森喜朗首相である。どちらかと言うと筋肉で物を考えるタイプらしいこの方は、就任早々から失言を連発、後継指名の不透明さもあって支持率をじわじわと落とす。これを見て反旗を翻したのが、加藤紘一、山崎拓らである。小泉純一郎を含めて「YKKトリオ」と呼ばれた彼らは、野党を巻き込んで森首相に三行半を突きつけようと画策するが、戦い下手の公家集団と揶揄された加藤率いる宏池会は政権側に切り崩された。頼みの綱の小泉は森に殉じて動かず、「加藤の乱」と呼ばれたクーデターは失敗、YKKは壊れたファスナーとなる。派閥の分裂を招いた加藤は自民党内で急速に力を失い、加勢しなかった小泉は翌年、首相の座を射止める。加藤を泣きながら制止した谷垣禎一は、10年後、自民党下野というまさかの事態下で総裁となるが首相にはなれず、自転車で転倒して政界引退を余儀なくされる。まさに政界一寸先は闇である。


 私は、11月20日に起こったこの一部始終を、クアラルンプールのホテルのテレビで観ていた
 墜落寸前の低空飛行に追い込まれていた私に転機が訪れたのは、平成11年の2月である。この年の定期異動で私は札幌を離れ、旭川で勤務することになった。時を同じくして札幌から旭川に異動になった上司が引っ張ってくれたらしい。「お前の異動はバクチだ。化けるかボケるかどっちかだ」と部長に言われて腐り気味だった私に「俺は化けると思ったんで連れて来た」とその上司は言ってくれた。
 人間現金なもので、そう言われて発奮しないわけにいかない。自由に自分を動かして背後からフォローしてくれる上司の下で、私はのびのびと仕事に取り組んだ。年末には2年半付き合った彼女との結婚も決まり、翌年、その新婚旅行先がマレーシアそしてシンガポールだった。加藤の乱の数日後、私たちはシンガポールのホテルでいかさまの乱ならぬ大喧嘩をかますことになるのだが、まあよくある話である。


 下降の一途をたどっていた私の人生のバイオリズムは、20世紀の終わりを目前にようやく上昇カーブを描きはじめた。しかし、氷点下目前まで迫っていた鉄道への熱が上昇するにはもう少し時間がかかる。上野-札幌間に新型寝台特急「カシオペア」がデビューしたのは1999年7月。その一方で九州方面への寝台特急は、同じ年に走り始めた700系「のぞみ」の影響もあってますます縮小が進む。1999年12月のダイヤ改正で「さくら」と「はやぶさ」が東京-鳥栖間併結運転となり、翌年には関西・九州間の寝台特急も大分行き「彗星」と長崎行き「あかつき」が併結運転となった。子供の頃憧れの対象だったブルートレインの退潮も、アチチアチチと燃えていた私には思いを巡らせる余裕もなかった。平成12年に私が新たに乗車した鉄道路線は0km。昭和62年からの32年間で唯一この年だけである。


※平成11年の鉄道新規乗車実績  78.4km(通算 18,612.7km)
※平成12年の鉄道新規乗車実績       0km(通算 18,612.7km)


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2019/04/10

いかさまさんの平成史 平成9~10年

 今年予定されている大きな出来事と言えば、新天皇陛下即位ももちろんだが、10月の消費税率引き上げがある。前回、5%から8%に引き上げられた際も、会社では仕入・売上・費用支出をめぐって何かと面倒くさい状況になったのだが、今回は軽減税率やポイント還元など、前回に輪をかけて複雑な状況になっており、すでに社内でもその対応がバタバタになっている。
 平成元年4月1日に3%でスタートした消費税は、まさに平成を象徴する税制と言っても過言ではないと思うが、その税率が最初に引き上げられたのは平成9年(1997年)であった。行政改革を急務とする橋本龍太郎内閣によるこの施策は、山一證券北海道拓殖銀行をはじめとする大手金融の経営破綻などに向かう経済状況を見誤ったともいえるタイミングでの実施となり、不景気の長期化をもたらすことになる。


 世相的にも神戸連続児童殺傷事件(いわゆる「酒鬼薔薇事件」)、東電OL殺人事件など陰湿かつ凄惨な事件が続いたが、一方では、大阪ドーム・ナゴヤドームの完成、サッカーワールドカップへの日本代表初出場決定など、明るい話題もあった。フランス大会の本戦は翌1998年。長野冬季オリンピックもその年の2月である。


 私はと言えば就職3~4年目、仕事も覚えて少しずつ脂がのっていく時期にあたるはずだが、一向に上昇気流に乗る気配はなかった。飲み会の席で上司と一触即発の状況になり、先輩の制止で大事には至らなかったが、それがなければおそらく私は会社から完全にフェイドアウトしていたであろうと思われる。扱いづらいどころかもはや危険分子レベル、「凡人・軍人・変人」の三要素を備えた要注意人物となった。「入社後3年で君たちの将来は決まる」という、採用当時の教育担当課長の言葉を借りれば、底辺まっしぐらの会社人生は決定したも同然であった。
 それでも会社を辞めなかった理由は単なるプライドだったろう。そもそも就職氷河期にあってこの手の人間を雇ってくれるようなまっとうな企業などないことは、今になってみればよくわかる。そういう意味ではこのくだらないプライドが結果的に私を救ったと言えなくもない。


 ともかく、すべてに対して意欲を喪失していた私は、鉄道に対する熱意も冷え切っていた。秋田新幹線、北越急行ほくほく線、北陸新幹線(長野行新幹線)などの開業、キハ283系「スーパーおおぞら」・秋田新幹線E3系「こまち」・JR西日本500系「のぞみ」、「サンライズエクスプレス」のデビューなど、明るい大きな出来事が目白押しだった1997年から1998年だったが、悶々とした状況下にありながらいっこうに乗り歩き熱が上がることもなかった。


 秋田新幹線・ほくほく線開業と「スーパーおおぞら」「こまち」「500系のぞみ」のデビューは1997年3月22日の出来事だったが、そんな一大イベントの日に私は何をしていたかというと、当時気になっていた女性をスキーに誘い、その夜お付き合いを申し込んでいた。これだけでもこの当時私の鉄道に対する熱の低さがお分かりいただけると思う。
 低空飛行期にそっちだけは熱心だったのか、などと言われるかもしれないが、地獄に垂らされた蜘蛛の糸にすがらない手はない。私はこの時糸を垂らしてきた相手と、今なお生活を共にしている


※平成 9年の鉄道新規乗車実績  60.2km(通算 18,470.2km)
※平成10年の鉄道新規乗車実績  64.1km(通算 18,534.3km)


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2019/03/07

いかさまさんの平成史 平成8年

 平成8年(1996年)は、年明け早々、村山富市首相の辞意表明と記録的な豪雪で幕を開けた。
 正月休みの長い私の会社は、8日の月曜日が仕事始めだったのだが、新年会終わりで遅めの帰宅となった独身寮の前にはすでに膝のあたりまで雪が積もっていた。
 明朝、積雪はさらに増え、除雪もままならない道路にはバスもタクシーも通らない。雪に半分埋もれながら30分以上歩いてたどり着いた手稲駅から、大幅なダイヤの乱れで東京並みの殺人ラッシュとなった電車に乗り、いつもの倍以上の時間をかけてようやく会社にたどり着いた。
 8日昼から9日昼の24時間で、札幌中心部では66cmの雪が一気に降った。84cmの降雪となった小樽市は、その後およそ3日にわたって国道も鉄道も通行止めで「陸の孤島」となった。


 そのようにインパクトの強い幕開けとなった平成8年だが、私の情緒はこれまでの人生の中でも最低と言っていいレベルの低空飛行を続けた。会社の雰囲気になじめず変人扱いをされ、それでカチンときて余計なことを言うものだから、ますます上司から疎ましがられた。金をもらっている以上仕事をしなければならんという使命感はまだ持ち合わせていたのだが、孤立感の深まる中で私の動きは空回りを続け、次第に意欲を喪失していく。


 こんな調子だから素敵な女性との縁に恵まれることも夢のまた夢である。同じ会社の別フロアに私の好みのタイプばっちりの可愛らしい女性がおり、幾度となくモーションをかけてみたのだが、相手は頭の回転も速く愛嬌もある優秀な女子、こちらは地面すれすれをもがくように飛び続けるダメ社員でいかんともしがたい。しかも学生時代からお付き合いしている方がいるとなればもはや戦わずして勝負の趨勢は判明する。公私にわたって実にチョベリバな1年であった。


 鉄道に目をやると、初めてのひとり旅以来幾度となくお世話になった、東海道本線の普通夜行列車、通称「大垣夜行」が、3月、特急型車両に置き換えられ、指定制の快速「ムーンライトながら」に衣替えした。車両のグレードアップは喜ばしい半面、私自身も初めてのひとり旅以来幾度となく利用した、直角座席の夜行列車は過去帳入りとなった。
 置き換え後、一度だけ東京発の下りを利用したことがあったが、「大垣夜行」時代と比べてはるかに快適なはずの車内で私はあまり眠ることはできず、むしろ落ち着かない気分だったことを覚えている。


 「ムーンライトながら」は、その後、全国的な夜行列車退潮の流れの中で、2009年に臨時列車化された。運転日数は年々減少し、現在は学校休みの時期を中心に年間数十日程度運転されるのみとなっている。


※平成8年の鉄道新規乗車実績 68.5km(通算18,410.0km)

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2019/02/21

いかさまさんの平成史 平成7年

 1995年、平成7年の思い出を書こうとして、私はパソコンの前でこれまでになくブルーな気分に陥っていた。紆余曲折を経てなんとか就職戦線を乗り切り、社会人生活をスタートさせた記念すべき年なのだが、この年の出来事を思い出すと私は切ない気分がとまらなくなる


 その理由のひとつは、この年が普通の人々の普通の生活を奪い去る、大きな出来事が続けて起きた年だったことにある。
 1月17日5時46分、明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の地震が、兵庫県を中心に甚大な被害をもたらした。阪神・淡路大震災である。
 早朝の大災害に、遠く離れた北海道の私は全く気づいておらず、宝塚出身のバイト仲間からの代講依頼の電話で知ることになった。初めて見る大都市直撃の災害映像に言葉を失ったのは私だけではないと思う。のちに発生した東日本大震災の時もそうだったが、時を追うごとに死者の数が増えていく一方で、行方不明者の数も同じように増えていったのも衝撃的だった。 最終的に6,434人の命が奪われている。


 その約2か月後、3月20日には、ラッシュアワーの東京都心を走る地下鉄車内で神経ガスのサリンが撒かれ、13人が死亡、6,000人以上が被害を受ける地下鉄サリン事件が発生した。事件はのちにオウム真理教によるものと断定され、教祖はじめ首謀者と実行犯計10人が死刑判決を受け、昨年7月に2回に分けて執行されたのは記憶に新しい。一般市民が多数犠牲となった災害や事件の発生は、バブル崩壊後の出口の見えない低迷期の日本にひときわ暗い影を落とした。


 もうひとつは私自身の出来事である。
 すったもんだがあってしばらく会えなかった彼女とは、おおっぴらにはできないものの、前の年の暮れから再び、人目を忍びながら会うようになっていた。就職後の勤務地は確定しておらず、お互い遠距離恋愛も覚悟していたのであるが、入社後2か月の研修を経て命じられた勤務地は札幌だった。それを一番喜んでくれたのは、ほかならぬ彼女である。


 だが、社会人となった私と学生である彼女との関係は、札幌での勤務が始まった頃から少しずつ歯車が狂い始めた。結果的に燃えるような恋はちょうど2年経ったところで公衆電話の受話器越しに散り、彼女が残したDreams Come Trueのカセットを擦り切れるほど聴き返しながら、沈没船のモンキーボーイのような生活をその後ながらく送ることになる。
 就職後も北海道に残ることを望んだ理由のひとつを失い、すっかりやさぐれた私は、「ああ言えば上祐」と揶揄された減らず口も手伝い、会社でも面倒な新人扱いとなった。


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 切ない思い出が多い中で、数少ない心安らぐ思い出は、大学卒業を目前にして出掛けた「卒業旅行」である。
 小樽からのフェリーで新潟へ、寄り道をしながら日本海側をたどって九州へ入り1週間ほど滞在、別府からフェリーで初めての四国に渡ってここでも1週間を過ごした。岡山から広島、内陸を通って姫路へ抜け、阪大生の友人の勧めもあって、震災から1か月で傷痕が生々しく残る神戸の情景を目に焼き付けた。岐阜の実家から長野、東京、山形、秋田を経て北海道へ戻る、30日間の長い旅だった。


 久々に燃え上がった鉄道熱は、乗車距離を一気に押し上げ、進捗率は一気に半分を超え、60%も突破した。新たに乗車した鉄道の距離が過去31年の中で最も長い年となったが、この年以後、就職で時間的制約が増えたこともあり、鉄道熱は一気に覚めて低体温期に突入する。


 1995年、良くも悪くも大きな節目の年であったことだけは間違いない。  



※平成7年の鉄道新規乗車実績 4,609.4km(通算18,341.5km)

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2019/02/18

いかさまさんの平成史 平成6年

 このところの人手不足で、大学新卒生の就職活動は完全売り手市場が続いている。大手企業は早い段階から学生を囲い込み、優秀な人材の確保に余念がないようである。
 実際に今の就活を体験していないからわからないが、バブル絶頂期の就職活動もたいがいひどかった。私たちの2~3期先輩は、内定とともに露骨な囲い込みを受け、温泉でドンチャン騒ぎをしたとか海外旅行に連れていかれたなどといった話も聞いた。内定辞退などと告げようものならコーヒーを引っかけられた、という嘘か本当か分からないような話もあった。


 バブル崩壊とともに就職戦線は一転買い手市場となり、私たちは厳しい就活を迫られた。まだインターネットやスマートフォンなど影も形もない時代、私たちは次々と届く就職情報誌をもとにひたすら資料請求はがきを書いて送った。1993年の暮れから1994年の初めにかけてはこういう状況だった。
 こちらは必死なのだが相手にはそれは伝わっておらず、学校名や居住地域で振り落とされることなどザラであったようである。現に具体的な会社名は言わないが、大阪より西のJR某社など、何度ハガキを送ってもなしのつぶてであった。


 この状況であちらこちらの会社を受験することもかなわず、交通費も無駄にはできなかったから、いきおい就職活動は北海道と名古屋に軸足を置くことになった。これまた具体的な会社名は伏せるが、札幌とか名古屋とかのJR某社がひそかに私の第一志望だったものの、あえなく撃沈となった。ようやく内定付近までたどり着いた会社は、現在私が勤める会社と、北海道に本拠を持つ都市銀行だけであった。
 この銀行がバブル期の融資姿勢を原因として経営破綻するのは、このわずか4年後の話である。すんでのところで命拾いしたともいえるわけだが、その後この会社から何人かが私の会社に移ってきて一緒に働き、その優秀さに舌を巻くことになる。


 その就職活動中、数回にわたって私は名古屋へ飛んだのだが、当時の名古屋空港に着陸する際、いつも滑走路の右端に黒く焦げた鉄の塊を見て胸が痛んだ。
 1994年4月26日、名古屋空港で台湾からの中華航空140便が着陸に失敗して墜落、264人が死亡し、生存者わずか7名という事故が起こった。日本国内では、1985年の日航123便事故に次ぐ犠牲者を出した事故である。ちなみにこの5日後、前回書いたアイルトン・セナが事故死している。


 就職活動のせいもあって、この年は比較的鉄道に乗る機会が多く、東京や仙台などへも列車で出掛けたりしたため、久々に新規の乗車距離は増えた。一方で、北海道内では、国鉄再建法の廃止対象から漏れたローカル線の廃止が始まり、函館本線の名無し支線、通称「上砂川線」(砂川-上砂川、7.3km)が消えた。線路の付け替えなどを別にすると、私が乗車済みの路線の中で初めて廃止となった路線である。


 寝台特急の整理はさらに進み、12月のダイヤ改正で「みずほ」が廃止、ブルートレインの始祖である東京-博多間「あさかぜ」(1・4号)が臨時列車に格下げされた。
 航空機は別格としても、新幹線「のぞみ」が5時間あまりで結ぶ東京-博多間に、15時間以上を要する寝台特急のビジネス需要はほとんどなく、オフシーズンの平日はどの列車も閑散としていたという。定期列車としての「あさかぜ」は、東京-下関間の旧2・3号に残ったが、昭和後期の国鉄を代表する列車だった博多「あさかぜ」の終焉は、オールドファンに少なからずショックを与えた。


 こうして七転八倒しながらなんとか就職活動を乗り越え、ちょうど内定通知の前後の時期に至り、すったもんだがあって彼女に数か月間会えない時期があった。恋愛には何かとトラブルがつきものではあるが、今思い返してもこれはなかなかヘビーな状況であった。詳細は差し控えるが、私の浮気とかそういう類ではない。そんな甲斐性があれば10代後半から20代初頭にかけてこれほどまでに干からびた青春など送ってはいない。



※平成6年の鉄道乗車実績 664.8km(通算13,732.1km)


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2019/02/15

いかさまさんの平成史 平成5年

 先頃、今年4月の北海道知事選挙に、石川知裕元衆議院議員が立候補を表明した。この人が、小沢一郎議員の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反に関して有罪判決を受けていたことが物議をかもしているが、こうした疑惑の渦中にありながら隠然とした影響力を持ち続けた政治家の代表格が田中角栄である。
 ロッキード事件で逮捕され、有罪判決を受けた後も、キングメーカーとして中曽根内閣まですべての内閣に睨みを利かせた。1986年に脳梗塞で倒れた後は、田中派生である竹下登がこれを受け継ぎ、2001年に小泉内閣が登場するまですべての内閣に深くかかわってきた。


 この田中角栄直系が敵味方に分かれて激しい権力闘争を演じた結果、自民党が分裂、衆議院選挙で過半数割れして下野し、いわゆる「55年体制」が崩壊したのが1993年、平成5年である。この時首相に就任した細川護熙、幹事長として辣腕を振るう小沢一郎、いずれも田中直系である。細川内閣の成立を見届けるようにこの年の年末、田中角栄は亡くなるが、のちに細川・小沢いずれも「カネ」の問題でつまずき、自民党は社会党との連立という奇策を弄してわずか1年で与党に復帰することになる。


 5月に天皇に即位される現皇太子殿下がご成婚され、全国的な凶作でコメ不足が深刻化し、行きつけの食堂のご飯大盛りが廃止となり、時にタイ米が混ざるようになった1993年。この年の秋、大学3年生の私は両親の知人のつてでF-1日本グランプリのチケットを入手し、予選から決勝まで鈴鹿サーキットで観戦した。アイルトン・セナが優勝したのだが、結果的にこれが日本でのラストランとなった。翌年、セナはイモラでのサンマリノGPにおいて壮絶な激突死を遂げる。


 同じ秋、私はやや3年間干上がっていた状況を脱し、新たな青春を見つけて久々に舞い上がった日々を送ることになる。おっとりとした彼女は私にとって癒しの存在であり、付き合っている間、一度も大きな声を出して喧嘩した記憶がない。
 中古で買った赤いファミリアで彼女を家の前まで送り、ブレーキランプを5回点滅させようとして車をエンストさせたり、森田童子の「ぼくたちの失敗」を聴きながら自分は失敗しないぞと言い聞かせたりしながら、別の世界に来たかのように充実した日々を送っていた。新加勢大周ならぬ新いかさまの誕生であった。


 一方、鉄道の世界はというと、前年デビューした東海道新幹線「のぞみ」が大増発されて博多に乗り入れる一方、東京-九州間の寝台特急の食堂車が営業を中止し、暮れには特急「ゆうづる」、急行「八甲田」「津軽」といった伝統の列車が廃止、あるいは臨時列車化されて表舞台から姿を消した。
 国鉄分割民営化の際、JRグループ一体となって守るとしていた長距離列車の運転は、押し寄せる不況の波と輸送構造の変化の前に、安楽死の序章が始まりつつあった。私たちが馴染み、憧れてきた列車のこうした状況を横目に見ながら、私の興味が鉄道よりも恋愛に向かうのは、至極あたりまえのことであった。


※平成4年の鉄道新規乗車実績 16.9km(通算13,067.3km)

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